ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

自殺サイト

2017年10月30日 | 



    自殺サイトにアクセスしていた女性が、
    ネットで知り合った男に連れ出され、殺されたらしいというニュース。
    今でも、自殺サイトなんかがあるのかと、ちょっと驚いている。

        

    2010年の夏、
    私は開設したばかりのSeeSaaブログに、何篇かの小説を出した。
    その短篇の一つが、自殺サイトに集団自殺を志願した女性の物語だった。(世界はだれのもの)
    サイトで知り合ったリーダーと約束を交わし、志願者が集まるために、ある夜、ある駅まで行く。
    しかし、そこには、来るはずの他の志願者二人は来ず、リーダーと名乗る男と二人だけになったとき、
    彼女は、ふと、その夜、
    高校時代の友人の部屋での小さなクリスマスイブ・パーティに、招かれていたのを思い出した。
    友人の顔が浮かんできて、ちょっと葛藤しているとき、当の友人が、電話をかけてくる。
    車でピックアップするので、最寄り駅に来るようにとの誘いだった。
    瞬間、彼女は、我に帰り、改札を駆け抜け、プラットホームへ上がる。
    飛び乗った電車は、終電だった。彼女は、一瞬に、死の淵から生還したのだった。

 
    ネタバレしてしまったように見えるでしょうが、私が、これで書きたかったのは、もちろん、
    自殺願望に至るひとりの若い女性の、底知れない孤独な内面でした。けれど、
    同時に、サイトで「見知らぬ自殺願望者と出会う」あやうさに、
    何か言わないではおれなかったのだと、思います。
    2000年ごろから、集団自殺のニュースが、時おり報じられていたころでした。


        ★ ★ ★★★


    道を歩いていて、たまたま顔が会った人から、「いっしょに死んでくれませんか」と言われて、
    「いいわ」と応じる人は、まず、いないのではないでしょうか。
    ぎゃくもあるでしょうか。道でたまたま目があったからと、「私の命を取ってください」
    なんて言えっこないでしょう。そんなことをしたら、
    今はやりのことばどおり、「ドン引き」されることでしょう。
    コミックや純文学なら、あるいは、「いいわ」と答えるところから、話が始まるかもしれない。
    でも、それで、そのまま死んでしまったら、話は終わってしまう。
    むしろ、素敵なストーリィが展開されていく。それゆえ、
    読者は、そこに夢と可能性を見出し、
    想像力に引かれる架空の話の中で、「生きよう」と思う。思わせるような希望をみるために、
    コミックや映画や小説があるのでしょう!と、思うのです。

      

    ネットの中には、確かに、たくさんの夢や希望があるように見えます。
    仕事を見つける人もいるし、恋人を見つける人も、未来の配偶者を見つける人もいる。
    資格を取ることもできるし、知らない世界の情報を知ることもできるでしょう。

    欲しい物がいろいろと売られていて、
    自分を売ったり、自分の持ち物を売ったりもできる。

    わざわざお店に行って服を買ったり、毎日スーパーに食料を買いに行くこともない。
    地球の裏側の町の様子も、あらかじめ調べてから旅行に行ける、

    手術を受ける前には担当医の説明と、ほかの医者の説明を比べることもできる。
    たしかに、無料で、心の問題の相談に乗ってくれるサイトもある。
    でも、でも、

    道を歩いていて「たまたま出会った知らない人」に、「渡してはいけないもの」を、
    まして会ったこともない人に、「一番大切なもの――命」を
    預けるのはやめましょう。

    人は、何もしなくても、やがて、死んでいく。
    確実に、死んでいくのですから。    




     ◎さとうまさこの小説のサイトは、今は閉じています。小説は2016年12月、電子書籍になり、
      現在、アマゾンから販売されています。
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先生によるイジメ

2017年10月28日 | 思い出



     「先生によるイジメで子どもが死んだ」などと聞くと、胸が痛みます。
     先生にいじめられたことのない人でも、
     「そういえば」と、一つや二つ、先生との嫌なできごとを思い出すのではないでしょうか。

     先生も人間ですから、いつも「りっぱな保護者、教育者」の顔ではありえません。
     先生も人間ですから、
     ロボットのように、いつも同じパフォーマンスをするようにこころをセットすることもできません。
     
     何より、先生が「教える」相手は、やわらかい未熟な人間たちです。
     こちらも、いつも 機嫌よく、素直によく言うことを聞き、
     日々「すくすくと成長する」テレビドラマの中の子どものようにはいきません。
     自由に歩き回る足があるし、自由に飛翔するこころがあるのです。
     肉体は弱く、すぐにのどが渇いたり、お腹が空いたり、疲れたり、ドキドキしたり、
     胃が痛くなったりするのです。

     しかも、この両者を結びつけているのは、偶然の出会いに過ぎません。
     ある教師は、ある学校である時、偶然にAくんを教えることになるのです。
     ある子供は、ある時、ある学校に行き、偶然にB先生に、教えてもらうことになるのです。

     親と子どもも、ある意味偶然に「出会っている」のですが、
     親は、原則、赤ん坊の時からA君の面倒を見ています。
     ある意味、その関係は、「死が二人を分かつまで」続くのです。その関係は、
     もちろん、結婚より、宿命的です。
     たとえ、親に捨てられた子でも、「自分の親は、どんな人か。どこにいるのだろう」と思うでしょう。

     事実、子どものいない人はいても、親のいない子供はいないのです。

      ★★

     一生涯、関わり続ける、死んだあとでも関係性が残る親子関係に比べれば、
     学校における教師と子供の出会いは、ほんの短い期間です。
     よい思い出のある先生なら、末永く便りをやり取りしたり、年賀状を送ったりするでしょうが、
     卒業と同時に、「別れて、ヤレヤレ!!」の関係もあるはずです。

     その短い期間、その関係もある意味で、選べるのに、その間に、
     「死を選ぶ」ような出来事が起きてしまうのは、本当に、悲しいですね。


★ ★

     高校時代に亡くなったクラスメートについては、今でも、思い出すと自責の念にかられます、
     先生が、ホームルームの50分を全部使って、彼女を責めていた間、
     彼女が、激しく泣きじゃくっているのに、その非難と嘲笑とが混じった攻撃を緩めなかった間、

     すべての生徒が、なかばうつむいて、先生の「お説教」を聞いていたとき、
     どうして、手を上げて、「先生、もう十分ではないですか」と、言えなかったのだろう。

     その日、彼女は、選択科目の習字の時間後に、朱を入れられた半紙を丸めてゴミ箱に捨てていた、
     授業後、習字の先生がゴミ箱にそれを見つけて、私たちの担任に報告したというわけだった。
     「先生に手を入れてもらった物を捨てるとは、何事ですか。」と、言うのが説教の始まりだった。

     それから、延々と、私たちの「学びの姿勢」が咎められたのだった。
     時代が時代であったし、生徒は、先生の基準に達しなければいけないと、みんな思っていたし、
     達しないこともわかっていたので、
     さらに、その女性教師が、しばしば、だれかを標的に「つるし上げる」人だったので、
     その背後には、学校の権威や、
     その学校に在籍しているだけでも喜ばなければと思わせられる社会通念があって、
     まあ、なんとか無事、卒業しようと事なかれな気分が支配していた。
     先生の、基準に達しない自分が悪いんだ・・・!

      ★★

     それにしても、
     どうして、矛先が、自分でないことに安どするように、
     ただ、鉛筆でノートに小さな花を、描き続けていたのだろう。
     ほかの人はとにかく、
     私は、同じ中学校から行ったのだから、少しは彼女と親しく
     彼女が、中学時代とは別人のようにふさぎ込むようになっていて、
     何かの拍子に、「自分はダメだ。自分は価値がない」と書いていたのを知っていたのに。

     その次の日曜日の朝、彼女は、居住している町からはるかにはなれた、●●線の踏切で、
     電車にはねられて即死した。
     事故だと片づけられ、だれも、それに異を唱える人はいなかった。
     お葬式は、今日のような雨の日で、寒くなりはじめたころだった。
     ほとんど全校生徒と、すべての教職員が参列した。



          
     



チョコを食べて、肩たたき合おう

2017年10月24日 | 食べ物



    衆議院議員選挙が終わりました。

    結果に、得たりと笑っている人、泣いている人、歯ぎしりしている人、
    にわか評論家さん、高みの見物さん、遠くの火事の見物人さん、
    いまだ、他人ごとではない火事場にいる人、
    なにはともあれ、戦いに参加して下さったたくさんの人たち、

    とてもじゃないけれど、政治家なんかできそうもない、
    政治運動のはしっこにも加われそうもないオタクな私など、
    熱いたたかいを終えた方々に、
    こころから、「ご苦労様。お疲れ様」と言いたいです。

    選挙制度が、この国の選挙制度が理想の選挙の形かどうか知りませんが、
    ともあれ、選挙があるから、政治家は国民の方を向くときもあるし、
    国の風通しもそこそこだし、ほんとは雲の上の人たちが、あたまも下げてくれるし、
    熱い握手もしてくれる。顏と顔を合せて、質問にも答えてくれる。

    

    終わったとたん、急にバッシングする側に回っている人たちがいるけど、

    戦った人たちに、
    せめて、三日でも、
    水を飲む時間を上げられないものかしら、

    と思うのは私だけでしょうか。
    サッカーだって、ただ、ジョギングしただけだって、
    いっしょに走った人と肩をたたき合って、
    いっしょに腰を下ろして水を飲むでしょう。
    候補者になった方と、運動員さんと、
    とくに、負けた方々を、
    せめて、三日でも休ませてあげませんか。

    そういえば、みなさんが戦っている間に、また、
    おいしいチョコが、新発売されていましたよ。




  


    

    

        

「日の名残り」カズオ・イシグロ

2017年10月23日 | 



      アマゾンで電子書籍になっていて、クリック一つで買える手軽さに食指が動いた。
      イギリス在住の日本人(国籍は知らないですが)が、英語で書いた小説なんて
      私には、単純に「すごい!」と思う。

      30年ほど前、イギリス行の飛行機で隣り合わせた日本人の女の子(17.8歳?)が
      分厚いペーパーバックを読んでいて、
      「英語の方が、日本語より少し楽なんです」とこちらを驚かせた。
      たぶん、親の仕事の関係で、幼い時からイギリスに住んでいたのだと思う。
      それにしても・・・です。

      読むより書くのは、より大変だし、小説のような「芸術性の高い」文は、
      日本語だって「スキル」がいる。

       ★★★★★


      イギリス人男性の一人称で語られる話には、とくに、読者を引っ張っていこうとするような
      作為的なストーリーはない。
      語り手であり、主人公である男は、
      イギリス名門貴族の屋敷で、父親の代から執事として仕えていたという「稀有な職業人」である。
      いま、人気のことばを使えば、「プロフェッショナル」です。
      プロフェッショナルと言われるほどの人は、彼(彼女)でなければ知り得ない「世界」をもっている。
      それは、たんなる知識や情報とも異なる、生きざまとしか言いようのない世界でしょう。

      一流の体操選手の映像を、どれほどたくさんみても、その演技が作られる過程をテキストで学んでも、
      けっして、彼の真似ができないように、それに生涯をささげてきた画家や役者から、どれほど
      絵を習ったり、演技をつけてもらっても、同じものは作れないように、
      「時間」に、いのちを練り込んで得た成果が、「プロフェッショナル」かなと思うのです。


      名門のお屋敷で、国でも有力な大貴族に仕え、おおぜいの召使いの上に立って
      完全な執事を目指してきたスチーブンス。
      彼が、主人から休暇をもらって、
      むかし、同じ屋敷で女中頭だった女性に会いに行くというだけのストーリーです。

      彼女への淡い恋心や、かつて彼が仕えたダーリントン卿や
      客として訪問してきた貴族や政治家の思い出が織り込まれていますが、それらは、
      ある意味、第二次大戦をはさんだ時代の、「特ダネ」だと言えますが、

      この小説の世界は、歴史を再現することでもなければ、
      この執事が生きた特殊な世界を語ることでもないようです。
      ゆったりとたゆたう大海原の波立ちの奥にある、熟成され、きらめく、ふしぎな空間とでも
      呼ぶような、超一流の執事の「品格」が描かれているのです。

      このような執事は、この時代の、この家からしか生まれなかったでしょうという意味で、
      彼は、歴史の貴重なあかしとして、切り取られています。

      ノーベル賞に選ばれたのは、やはり、それが非常に稀有な香りをはなっていたからかもしれないと、
      思わず、うなってしまいました。

      
     
 
      

      、

主の御目はどこにでもあり

2017年10月21日 | 聖書





       主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている。 (旧約聖書、箴言15章3)



             多くの日本人にとって、すっと入ってくる言葉ではないでしょうか。

           日本には、むかしから「お天道さまが見ている」という言葉があります。
           「だれの目がなくても、神様が見ているんだよ」
           と解説してくれたおばあちゃんがいました。
           そのような言葉は、子供の心にこた(堪)えたものです。
           子供だって、小さな嘘をつく必要が、けっこうありますからね。

           太陽が神と同義だったのか、太陽以上に偉大なものを見出せなかったのか、と
           純朴に正直な人たちを責めるのは、酷かと思います。

           たしかに、太陽は数えきれないいのちの元だと思えるのです。

           しかし、その太陽さえも、お造りになった方(創造主)がいるということに、
           人が気がついたのは、やはり、すごいことです。

           お日様なら、夜はその目をごまかせそうですが、夜も昼も、物陰も心の中も、
           見通す方がいる、
           そのような方こそまことの神であると言うことに、だれが異議を唱えることができるでしょう。






             
                      ぶどうは美しくて、おいしくて、そのうえ・・・、遊ばせてくれます。感謝!