ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

YESとNO

2017年01月31日 | 聖書


フェイスブックの記事から、シェアさせていただきました。


朴 龍洙



「YESとNOを見分けることができる人は、成熟した人!」

 YESとNOを見分けることができる人は成熟した人であると言える。「YES」と言いながら、「NO」と言う時、その人は裏切り者である。また「NO」を「YES」だと言い、「YES」を「NO」だと言う人は偽善者である。「YESとNO」を同時に言う人は二重人格者である。また「YESとNO」を拒否する人は機会主義者である。私たちは「YESとNO」を見分けられる人でなければならない。
 ドイツの格言に「心のない許諾よりは、友情に満ちた拒絶が良い」という言葉がある。時には自分自身が断らなければならないことが必ず起きる。その時、私たちは友情に満ちた拒絶をしなければならない。

 数年前に国際結婚を希望していた男女より相談を受けたことがある。その時、二人の国際結婚に対して友情に満ちたNOを言った。彼らのことを愛し大事に思っていたからNOと言えたのである。それから何ヶ月後彼らから結婚をするという連絡があった。何と、結婚に反対していたにも関わらず、彼らは私を結婚式の二次会の司会を頼んだのである。
 その時は喜んで司会の大事な役を務めながら二人を心から祝福した。友情に満ちたNOであったにも関わらず不思議な祝福を味わったのである。彼らは今も幸せな夫婦として暮らしている。ハレルヤ!



   朴 龍洙牧師は、現在アメリカで献身しておられます。
 







映画「沈黙」より  背教、棄教

2017年01月28日 | 聖書

                      

       今回気がついたのですが、「踏絵」は、信者をあぶりだすというより、
       信者の背教を促しているんですね。

       大切なものを足蹴にしたという素朴な、しかし、深い罪悪感の中で彼らが信仰の貞節を放棄したと、
       本人にも、周りの人間にも思わせる。

       ぎゃくに、踏絵が、棄教の分水嶺となるなら、
       どのような脅しや死を目前にしてさえ踏まない者もいたわけです。

       私自身は、初めにも言いましたが、踏絵の中に神様がいらっしゃるとは思わないですし
       聖書にも、そのようなことは書かれていないのです。

       映画の中で、パードレ・ロドリゴがロザリオの玉をばらして、人々に与えながら、、
       「人々は形のあるものを欲しがる」とつぶやいていましたが、
       このような人間の心理が、彼には「間違いである」ことはわかっていたのです。

       でも、あれほど孤立した状態で信仰を守っていくために、人々が「形あるものを」求めるのを、
       彼は、「聖書的でない」と杓子定規に「いさめることなど」できなかったのかなと思っています。


                              
          

       まあ、もともと踏絵に意味がないなら、踏み絵による棄教も意味がないと思うのです。
       そもそもあれほど強制的に死をちらつかせて取り締まれば、
       多くの人は、降参するでしょう。

       自分はとにかく、家族や一族までが殺されるのを見て、揺らがない人などいないでしょう。
       
       つまり、踏絵を踏ませることはできるでしょう。
       しかし、棄教を強制することなどだれにもできないのではないでしょうか。

       キリストが十字架刑で死ぬのは、AD30年の出来事です。
       それから300年ほど、キリスト教徒は迫害を受け続けたのです。
       それらは、踏み絵よりはるかに、苛烈な方法が実行されていました。

       キリスト教が、ローマ帝国で「公認された」のはAD313年と言われています。

       たしかに、踏絵で、表向き棄教させることはできるかもしれません。
       活動を封じ込めることもできるでしょう。

       人の圧力では、信仰の灯を踏みつぶすことはできないのです。
       


        からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。
        そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい 
                                               (マタイの福音書10章28節)







       

       
       

       


映画「沈黙」――神は何故沈黙されているのか。

2017年01月25日 | 聖書



                                


     この映画のポイントとなる言葉は、まず、「踏絵」
     もう一つは「沈黙」にシフトされているように見えます。


        


     信者が、信仰のゆえに大変な苦難に逢っている時に、
     「どうして神は答えて下さらないのか」
     「どうして私を(彼らを)救い出して下さらないのか」と叫びたくなるのはしぜんです。

      無神論を自認している人でも、「困ったときの神頼み」をしたいのです。
     「神がいるなら、
      こんな理不尽、残酷、悲しみを与えないでほしい」と言い出すのです。

     まして、映画の中で、迫害されている人たちはキリシタンです。
     小さな「踏絵」を踏むことさえ恐れている一所懸命の信者で

     弾圧下に生きているので、彼らは隠れて信仰を続けています。

     隠れているからといって、爆弾を作っているとか、テロを計画しているのでもありません。
     そもそもが、食べるのがやっとで、社会的なアクションなどおこしようもない人たちです。

     その彼らの無残な殺され方を見ていると、
    「神は何故沈黙しておられるのか」と思うのは当然です。

         ★★

     けれども、映画の中で、神は答えておられるのですね。
     宣教師ドロリゴに対して、イエスが踏絵のレリーフに重なって現れ、言われます。

     「わたしを踏みなさい。わたしがお前の痛みを担おう」
     これは、キリストについて聞いたこともない人から見ると「幻覚」のように思えるでしょうか。

     しかし、キリストに救われた人なら、キリストが痛みを担ってくださることを思い出すでしょう。
     キリストが十字架を担って死んでくださった痛みに思いを馳せるのです。
     キリストが、自分のたくさんの罪(痛み)を担って死んでくださったゆえに、
     自分が救われた時の、あの平安を思い出すのです。


     神様は、踏み絵を踏まれたがゆえに「痛い」と感じられるのではありません。
     踏絵を踏むことに痛みを覚える、その「私たちの痛み」を担ってくださるのです。
     棄教した――主を裏切ってしまったという「えも言われぬ痛み」を
     「引き受けて下さる」のです。


         ★★

     この映画は、キリスト教をまったく知らない方に、多くの問いを投げかけ、
     同時に、キリストに救われ、日々、信仰によって生きている人にも、
     もちろん、
     問いを、投げかけ、
     同時に、もし、答を捜すなら、ちゃんと映画の中で、答が用意されています。

     それぞれが、さらに発展した問いを作りだし、それに答えることもできる仕掛けがあります。
  




                                      



           
    
    
     
     



     

中澤卓也「青いダイヤモンド」

2017年01月18日 | 歌う


      友人の親戚の方が、歌謡界デビューしました!

      柔らかい癖のない声は、いやし系です。

      イケメンさんで、
      手足が長くて、
      これからが楽しみですね。



    中澤卓也「青いダイヤモンド」


    応援よろしくお願いします!!!

             


         たくさんの花束をもらえるような歌手になれますように、お祈りしています。










映画「沈黙」が呼び覚ますもの――ネットからのシェア

2017年01月17日 | 聖書


     日本バプテスト連盟花小金井キリスト教会
         藤井秀一牧師のフェイスブックへの投稿です。




    「沈黙」が上映されるので、改めて背教について考えてみた。

     信仰を捨てるというのは、可能なのだろうか。

             
                 (写真はさとうが、入れたものです)


     たとえば、あなたの親を、親と信じるのをやめよと言われて、

      親の顔を書いた絵を踏んだからと言って、

       自分が親から生まれたことを、信じなくなれるものなのだろうか。

     信じていないふりしかできないんじゃないかな。

     親から生まれたという事実は、踏み絵をふもうが、

    「あなたなんか親じゃない」と口で言ってみようが、変わりようがないのだから。

    同様に

    天の親に愛されて、この地上に生まれてきたという事実は

    生まれてきた側の人間が、何をしようとも、否定しようのない神の出来事なのだから、

    それを人間の側から、捨てるとか、捨てさせるという行為は、

    原理的に不可能なんじゃないかな。