感謝のいけにえを神にささげよ。
あなたの誓いをいと高き方に果たせ。(詩編50篇14節)
苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
わたしはあなたを助け出そう。
あなたはわたしをあがめよう。(15節)」
ずいぶん前に、CGNTVで、ある牧師さんの証しを見ました。お父さんの救いを話しておられたのですが、その時に、この詩編50篇15節をとり上げられていました。
牧師さんのお父さんは外国航路の貨物船の船長だったそうです。お父さんは、息子がクリスチャンになったことがずっと気に入りませんでした。牧師さんは何とか理解してもらおうと努力したのですがうまくいきません。
ある時、牧師さんはお父さんの航海を港に見送りました。旅のはなむけに聖書を持って行きました。
「お父さん。もし、困ったことが起きたらここを見て下さい」と、15節をマークして詩編50篇にしおりを挟んでおきました。お父さんは一応受け取りましたが、もとより感謝もしません。怒った様子で船出して行きました。ところが、船が目的地ニューヨークを目前にして、突然エンジンが止まって航行できなくなりました。荷物を積んでいる商船にとって、到着が遅れるのは大変な事態だそうです。積荷にはお金がかかっていますから、遅れるとそれだけ船会社は損害を被るのです。何日も船長と乗組員は、何とか故障個所を見つけて船を動かそうとしましたが、どうにもなりません。本国の会社からは「まだか。どうした!」と毎日矢のように催促がきます。
困り果てた船長は、その時、息子がくれた聖書を思い出したのです。ワラにもすがる思いで聖書を開くと、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と書いてありました。そこで、船長は聖書を抱いて「神さま。助けて下さい」と一心に祈りました。
しばらくすると、機関士がやってきて叫びました。「船長。エンジンが動き出しました」
この瞬間、牧師さんのお父さんは回心したのです。その後の人生をずっと熱心なクリスチャンで送られたそうです。
奇蹟を見てさえ、偶然の一致だと言う人がいるかもしれません。しかし、ほんとうに切羽詰まったときに救われるかどうか、まず、
「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と神ご自身が、仰せになっているのです。
そうすれば、「わたしはあなたを助け出そう」。
奇蹟的な救いを経験したのち、「あなたはわたしをあがめよう」。
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私達、新約(聖書)時代の民は、イエス様がトマスに言われたことば、「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネの福音書20章29節)を生きています。
もちろん、同時に、今も神様は、私たちのためにたくさんの奇蹟を現わして下さっていると、さとうは信じています。神様ご自身、私たち人間がみんな、神様の力を体験することを望んでいらっしゃるのではないでしょうか。
恵みは、何でもない毎日にも、数えきれないほどあるのです。今朝の晴れあがった空も恵みでしょう。きょう一日の食べ物が十分にあることだって、考えてみたら奇蹟です。
感謝してもしきれないほどの恵みがあり、救いがあると思わされるのです。
ところが、素直に恵みに感謝できない人がいると、神は言われるのです。
しかし、悪者に対して神は言われる。
「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、
わたしの契約を口にのせるとは。(16節)
おまえは戒めを憎み、
わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。(17節)
おまえは盗人に会うと、これとくみし、
姦通する者と親しくする。(18節)
おまえの口は悪を放ち、
おまえの舌は欺きを仕組んでいる。(19節)
おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、
おのれの母の子をそしる。(20節)
こういうことをおまえはしてきたが、
わたしは黙っていた。
わたしがおまえと等しい者だと
おまえは、思っていたのだ。
わたしはおまえを責める。
おまえの目の前でこれを並べ立てる。(21節)
神を忘れる者よ。
さあ、このことをよくわきまえよ。
さもないと、わたしはおまえを引き裂き、
救い出す者もいなくなろう。(22節)
健康で豊かな生活のなかにいて、それが当然だと思うようになると、より刺激的な楽しみを求めるようになります。私たちの回りにある娯楽が、スリリングだけれど、退廃的な世界に私たちを誘い込んでいるのは事実です。純真な子供でも、テレビやネットを見て「姦淫や盗みや悪意あるゴシップの快楽」を覚えるのです。
どうやら、このような状況は、現代だけのものではなく、詩編が歌われる時代にも、人は、そのような罪を犯していたのでしょう。
さとうまさこの聖書通読エッセイCoffee Break(http://joshuacanan.seesaa.net/)(2015年6月24日分)から、再録しました。
CGNTV 福音宣教のためのTV局、ネットで見ることができます。