ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

詩篇50篇14節15節「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」

2017年09月30日 | 聖書




 感謝のいけにえを神にささげよ。
 あなたの誓いをいと高き方に果たせ。(詩編50篇14節)
 苦難の日にはわたしを呼び求めよ。
 わたしはあなたを助け出そう。
 あなたはわたしをあがめよう。(15節)」


 ずいぶん前に、CGNTVで、ある牧師さんの証しを見ました。お父さんの救いを話しておられたのですが、その時に、この詩編50篇15節をとり上げられていました。
 牧師さんのお父さんは外国航路の貨物船の船長だったそうです。お父さんは、息子がクリスチャンになったことがずっと気に入りませんでした。牧師さんは何とか理解してもらおうと努力したのですがうまくいきません。

 ある時、牧師さんはお父さんの航海を港に見送りました。旅のはなむけに聖書を持って行きました。
 「お父さん。もし、困ったことが起きたらここを見て下さい」と、15節をマークして詩編50篇にしおりを挟んでおきました。お父さんは一応受け取りましたが、もとより感謝もしません。怒った様子で船出して行きました。ところが、船が目的地ニューヨークを目前にして、突然エンジンが止まって航行できなくなりました。荷物を積んでいる商船にとって、到着が遅れるのは大変な事態だそうです。積荷にはお金がかかっていますから、遅れるとそれだけ船会社は損害を被るのです。何日も船長と乗組員は、何とか故障個所を見つけて船を動かそうとしましたが、どうにもなりません。本国の会社からは「まだか。どうした!」と毎日矢のように催促がきます。

 困り果てた船長は、その時、息子がくれた聖書を思い出したのです。ワラにもすがる思いで聖書を開くと、「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と書いてありました。そこで、船長は聖書を抱いて「神さま。助けて下さい」と一心に祈りました。
 しばらくすると、機関士がやってきて叫びました。「船長。エンジンが動き出しました」
 この瞬間、牧師さんのお父さんは回心したのです。その後の人生をずっと熱心なクリスチャンで送られたそうです。

 奇蹟を見てさえ、偶然の一致だと言う人がいるかもしれません。しかし、ほんとうに切羽詰まったときに救われるかどうか、まず、

 「苦難の日にはわたしを呼び求めよ」と神ご自身が、仰せになっているのです。
 そうすれば、「わたしはあなたを助け出そう」
 奇蹟的な救いを経験したのち、「あなたはわたしをあがめよう」



★★★★★


 私達、新約(聖書)時代の民は、イエス様がトマスに言われたことば、「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネの福音書20章29節)を生きています。
 もちろん、同時に、今も神様は、私たちのためにたくさんの奇蹟を現わして下さっていると、さとうは信じています。神様ご自身、私たち人間がみんな、神様の力を体験することを望んでいらっしゃるのではないでしょうか。
 恵みは、何でもない毎日にも、数えきれないほどあるのです。今朝の晴れあがった空も恵みでしょう。きょう一日の食べ物が十分にあることだって、考えてみたら奇蹟です。
 感謝してもしきれないほどの恵みがあり、救いがあると思わされるのです。
 ところが、素直に恵みに感謝できない人がいると、神は言われるのです。

 
 しかし、悪者に対して神は言われる。
 「何事か。おまえがわたしのおきてを語り、
 わたしの契約を口にのせるとは。(16節)
 おまえは戒めを憎み、
 わたしのことばを自分のうしろに投げ捨てた。(17節)
 おまえは盗人に会うと、これとくみし、
 姦通する者と親しくする。(18節)
 おまえの口は悪を放ち、
 おまえの舌は欺きを仕組んでいる。(19節)
 おまえは座して、おのれの兄弟の悪口を言い、
 おのれの母の子をそしる。(20節)
 こういうことをおまえはしてきたが、
 わたしは黙っていた。
 わたしがおまえと等しい者だと
 おまえは、思っていたのだ。
 わたしはおまえを責める。
 おまえの目の前でこれを並べ立てる。(21節)
 神を忘れる者よ。
 さあ、このことをよくわきまえよ。
 さもないと、わたしはおまえを引き裂き、
 救い出す者もいなくなろう。(22節)



 健康で豊かな生活のなかにいて、それが当然だと思うようになると、より刺激的な楽しみを求めるようになります。私たちの回りにある娯楽が、スリリングだけれど、退廃的な世界に私たちを誘い込んでいるのは事実です。純真な子供でも、テレビやネットを見て「姦淫や盗みや悪意あるゴシップの快楽」を覚えるのです。
 どうやら、このような状況は、現代だけのものではなく、詩編が歌われる時代にも、人は、そのような罪を犯していたのでしょう。




 さとうまさこの聖書通読エッセイCoffee Break(http://joshuacanan.seesaa.net/)(2015年6月24日分)から、再録しました。
  CGNTV 福音宣教のためのTV局、ネットで見ることができます。







詩篇23篇

2017年09月29日 | 聖書



        主は私の羊飼い。
        私は、乏しいことがありません。

        主は私を緑の牧場に伏させ、
        いこいの水のほとりに伴われます。

        主は私のたましいを生き返らせ、
        御名のために、私を義の道に導かれます。

        たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、
        私はわざわいを恐れません。
        あなたが私とともにおられますから。
        あなたのむちとあなたの杖、
        それが私の慰めです。

        私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、
        私の頭に油をそそいでくださいます。
        私の杯(さかずき)は、あふれています。

        まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと
        恵みとが、私を追って来るでしょう。
        私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
                         (詩編23篇1節~6節)







     

     



最上の業

2017年09月25日 | 





         最上の業

    この世の最上の業は何?
    楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、
    しゃべりたいけれども黙り、失望しそうな時に希望し、
    従順に平静に、おのれの十字架を担う。
    若者が元気一杯で歩むのを見ても、ねたまず、
    人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
    弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。
    老いの重荷は、神の賜物。古びた心にこれで最後の磨きをかける。


    誠の故郷に行くために己をこの世につなぐ鎖を
    少しずつ外してゆくのはまことにえらい仕事。
    こうして、何もできなくなればそれを謙虚に承諾するのだ。
    神は最後に、一番よい仕事を残して下さる。それは祈りだ。
    手は何も出来ないけれども最後まで合掌できる
    愛するすべての人の上に神の恵みを求めるために。
    すべてを成し終えたら臨終の床に、神の声を聞くだろう
    『来たれ我が友よ。我汝を見捨てじ。』と。
              「人生の秋」(ヘルマン・ホルベルス著)より







ゆるゆる2

2017年09月23日 | 見る



    人間が年を取るのだということを、一番最初に意識したのは2・3歳のころの気がします。

    ある日、私は母に尋ねました。
    「おばあちゃんが、年を取るとどうなるの」
    母は答えました。
    「赤ちゃんにかえるのよ」

    ああ、そうか。と私は思い、同時に、頭の中に一つの絵が浮かびました。
    それは、赤ちゃんから、子どもになって、「お兄さん、お姉さん」、若いお父さん、お母さん、
    大きな子供がいるおじさん、おばさん。それから、おばあさんおじいさん。
    それらの人たちが、花輪のようになっていて、
    その、おじいさんおばあさんが、だんだん赤ちゃんになって行って、
    それから、赤ちゃんがまた、大きくなって子どもになる、そんな図でした。

    私の家には、その頃、祖父や祖母はいませんでしたし、(のちに同居するのですが)
    じつは、お年寄りが家で亡くなるのを見たことがなかったのです。
    
    ただ、どんなに幼くても、年齢によって見かけが違うことはわかります。
    当時は、着る物や態度は、世代によって、かなり厳格に異なっていました。

    でも、年を取って赤ちゃんになって、
    もう一度、生きなおすなんて素敵だと感じたものです。
    
    さて、もう少し大きくなった頃、
    母が近所の主婦とおしゃべりしていました。
    「この頃、おじいちゃんが無理ばっかり言いはるの(関西弁で「おっしゃるの」の意味)」
    「そう。年を取ると、だんだん赤ちゃんにかえっていくのよ」

    そのとき、「ああ、そういうことか」と私は納得しました。三世代同居があたりまえで、
    お年寄りの最後は、圧倒的に家庭で、お嫁さんか奥さんが看取った時代ですから、
    介護の苦労が世間話のように、よく語られていたのです。

         

    老いて「赤ちゃんにかえっていく」状態を、今日では、「認知症」と言います。
    少し前。までは、「痴呆症」とか、「ボケ」とか、「恍惚の人」とかいうのもありました。
    同じことを呼ぶにも、言い方でずいぶん印象が変わると思われませんか。

    たしかに、「赤ちゃんにかえっていく」のも、すんなり受けいれられませんが、
    「認知症」は、全く否定的な響きです。

    たとえ、からだが少しぐらい弱ってきても、何かの病気があっても、頭だけはしっかりとしていて、
    「認知機能だけは」若い時と同じでいて、
    判断力と記憶力がたしかなら、「人格がある」みたいな感じですね。
    人格があるなら、尊厳に値するし、人間はそもそも尊厳に値する存在なのだから、
    断固、認知症は退けなければならない。

    そのための、生活スタイルは? 運動は? 薬は? そのための栄養は?
    という観点から、毎日毎日語られた「敬老週間」

    でも、でも、でも、

    お肉を食べるといいとか、青魚だとか、ヨーグルトがいいとか、一日三食の正しい食事とか、
    体重と血圧の管理とか、
    
    「赤ちゃんにかえっていく人」に、たくさんの管理メニューを用意して、なんだか、
    「赤ちゃんにかえらせてもらえない」お年寄りって、幸福なのかなあと思ってしまうのです。

    赤ちゃんは、最初、無条件の愛に包まれて世話を受けています。
    人間も、どんどん年を取って行ったなら、
    気おくれなく老いることができて、あれこれ言われず、
    無条件に愛ある世話を受けて死にたいのではないかしら。

    もっとも、これが、むずかしいですね。何しろ、超高齢化社会では、
    赤ちゃんがとても多くなることは事実で、

    孫の孫の孫まで、高齢者になったら、

    だれが、お母さんお嫁さんか、わからないかもしれないから。
    


    




生命力と運

2017年09月21日 | 思い出


    きのうのブログの続きです。

    100歳ほども長生きの方を
    食べ物だけで、その秘訣を見る、そのゆるゆるぶりを、ちょっと笑ってしまいました。
    食べ物はもちろん大切だけどね・・・。
    まあ、あの方たちが、私もしょっちゅう食べている「平凡な食材」だったと聞いて
    ホッとしている人は多いのではないでしょうか。

      

    でも、やっぱり生命力と運だよねえと、思うのです。

    食事など選んでいられなかった時代、身近にお医者さんがいなかった時代には、
    なんと言っても、「丈夫に生まれつくこと」が一番だったような。
    丈夫に生まれついても、戦争に取られるような時代だったし、戦場で、
    あたら若いいのちを失うことも多く、いのちを担保に働く男たちは、必然的に
    女性より短命だったかとも思うのです。

     

    遠縁のヨシさんを思い出しました。
    50年前に80歳半ばだったので、もちろん、もう生きてはおられないでしょう。


生命力と運の強い人と、みんなに言われていました。
    いつもうわさになっていたけれど、私が実際にお会いしたのは一度だけです。

    彼女は、9人の子持ちでした。3人の娘を連れ子して、3人の息子がいる人に嫁いだのです。
    なぜ再婚をしたのか。今のように、不倫、再婚ではなかったでしょう。
    男も女もつれあいを失くす確率は、今よりずっと大きかったのです。

    再婚して、3人の子どもが生まれたので、9人の子持ちとなったのです。

    彼女の住んでいたのは、小豆島です。
    雨の少ない、段々畑の地で、彼女は来る日も来る日も農作業をし、
    9人の子と夫と舅姑の世話をしていました。、
    どれくらいの規模の農家だったかはわかりませんが、彼女は大変な働き者で、

    子ども9人に汚れたものを着せていたことがない、本人も場面に応じて、
    マメに着替えをし、いつも身綺麗なお嫁さんだったとか。
(洗濯機のない時代です!)
    まだ、村うちでは、義務教育だけで学校をやめさせる家庭が多かった時、
    男の子にも、女の子にも、
    女学校、中学校(今の高校)へ行かせ、

    その働きぶりで、村(?)から表彰をされたこともあると聞きました。

       

    その日、私の母が、なぜか私をつれて、ヨシさんの娘の家を訪ねていたのです。ヨシさんの娘のひとりが
    私の叔父の奥さんだったのです。
    叔父の奥さんになった人はすでに亡くなっていましたが、親戚づきあいはあったのでしょう。

    母が用事を足している間、ヨシさんと私は二人だけになったのです。
    彼女は、骨格のしっかりした美人おばあちゃん(と、私には見えたのです)で、
    気さくな笑顔に、私は親しみを感じていました。

    私は、「大家族だったそうで、大変でしたね」とか何とか、申し上げました。

    「ええ。それはもう。で、私は、いろいろやりましたよ。」
    とヨシさんは答えました。
    「子供全員に仕事をあてて、やらせるの。それはそれは、仕事が多かったからね。
    学校に行く前にすること、家の手伝いですること、野良で手伝うこと、
    そりゃたくさんありましたからね。」


    「私はね、竹を9本、筒に切って、土間にかけておくの。それぞれに、子どもの名を書いて、
    担当の手伝いができていたら、一銭を入れてあげるの。」

    毎日、そうして、子どもたちにご褒美を上げたのよ」

    そっか~。と私は合理的思考のおばあ様を見つめました。

    「そうよね。そうしてくれれば、あたしだってもう少し家の手伝いをできるかも」
    と、思ったかどうかは覚えていないのですが、
    いわゆる「継子(ままこ)」のいる複雑な家族関係の中で、
    それをとても上手に、切り盛りしていたという彼女の秘密を聞いたと思いました。

       

    私は、丈夫で、たくましく働き者で、合理的思考の、ヨシさんのようなおばあちゃんに、
    なれそうもありませんが、

    50年後、のちの世代の人に、
    「そういえば、あのおばあさん・・・」と自分の語ったこと→生きざまを、
    だれかに思い出させる力も、
    はたして、私にはあるかしらと思うのです。

    ヨシさんのような人こそ、本当の長生きをしているのではないかしら。
    でも、それって、生命力がなくては無理!と
    言い訳しているのです。