ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

伝道者の書25 人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。(伝道者の書11章2節~10節)

2020年05月31日 | 聖書
 あなたの受る分を七人か八人に分けておけ。
 地上でどんなわざわいが起こるかあなたは知らないのだから。(伝道者の書11章2節)

 これは、「あなたのパンを水の上に投げよ。ずっとのちの日になって、あなたはそれを見出す」のつぎに置かれています。とすれば、この1節2節は投資を意味していると言うのもうなずけます。リスクの分散ですね。ソロモンの豊かさは偶然ではなく、海上貿易と外交で築いたものでした。その意味では、彼は冷静な投資家でもあったのです。
 
 雲が雨で満ちると、それは地上に降り注ぐ。
 木が南風や北風で倒されると、
 その木は倒れた場所にそのままにある。(3節)

 商売をする人は世の中の森羅万象のルールを「知っている」必要があります。平穏な日ばかりではなく、雨や風があるのです。風水害を防ぐために事前に防備をするのは当然です。災害が起ったら後片づけも当然です。そうしたコストを事前に計算できなければ、商売はできません。

 風を警戒している人は種を蒔かない。
 雲を見ている者は刈り入れをしない。(4節)

 リスクが怖くて手をこまねいている人を、伝道者は突き放しています。
 あれこれ理屈をつけて、家の中から空模様を見て、安全に生きようとする人が、ソロモンの時代にもいたのですね。

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 あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。そのように、あなたは いっさいを行なわれる神のみわざを知らない。(5節)


 今では、赤ん坊が受胎して生まれてくるまでのメカニズムは解明されています。子宮の中の赤ん坊を見ることもできます。DNA鑑定のおかげで、父親を正確に特定することもできます。子どもを作る時期も、計画に従えば、だいたいそのようになるのです。しかし、赤ん坊がどういう資質や外見をもって生まれて来るかは、神様の主権が決めることなのです。「トビがタカを産まない場合」も、「カエルの子はカエル」であったとしても、私たちは、授かった子供を誠実に育てるだけです。

 天気予報も大変正確です。衛星写真で、気象状況が一目でわかるようになっています。台風やサイクロンやエルニーニョのこともわかっています。それでも、予測のつかない異常気象があり、洪水や津波や熱波や竜巻で多くの人が死にます。
 地震のメカニズムは分かっていても、地震そのものを防ぐことはできません。
 しかし、勇気のある人、勤勉で研究熱心な人たちが果敢に戦って、多くの困難を克服してきたのです。
 だから、伝道者は、勤勉を勧めるのでしょう。 

 朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。二つとも同じようにうまくいくかもわからない。(6節)

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 光は快い。太陽を見ることは目のために良い。(7節)
 人は長年生きて、ずっと楽しむがよい。だが、やみの日も数多くあることを忘れてはならない。すべて起こることはみな、むなしい。(8節)
 若い男よ。若いうちに楽しめ。若い日にあなたの心を喜ばせよ。あなたの心のおもむくまま、あなたの目の望むままに歩め。しかし、これらすべての事において、あなたは神のさばきを受けることを知っておけ。(9節)

 楽しみや快楽を喜べる時代は、限りがあります。老いて来ると、思う存分飲み食いをしたくでもその能力がなくなります。だから、楽しいことができる間に楽しめと言われているのです。
 

 だから、あなたの心から悲しみを除き、あなたの肉体から痛みを取り去れ。若さも、青春も、むなしいからだ。(10節)

 どの道、「若さも青春も空しい」のだからと言う伝道者の言葉は、やはり虚無的ですね。








伝道者の書24 あなたのパンを水の上に投げよ。(伝道者の書11章1節)

2020年05月30日 | 聖書
 あなたのパンを水の上に投げよ。ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。(伝道者の書11章1節)

 
 これは意味を深く詮索しないで、ただこのまま飲み込んで、栄養になりそうなことばです。とても印象的で、一度聞いたら忘れられない。それは、このことばが、そのまま絵となって記憶されるからかもしれません。
 大きな(または小さな)流れがあって、そのたもとで旅人が弁当を食べている。あるいは家族でピクニックをしている。小鳥や魚の姿を見れば、人はパンを一切れ投げてみようと思わないでしょうか。有り余っているからではなく、足りなくても、少しを、自然の中の何かに返したい気がするのです。すぐに鳥が来て咥えて飛び去ってくれればいいですが、流れに乗ってパンは遠ざかり、やがて消えてしまうこともあります。そんなとき、私などは、何か「無駄をした」と思いそうです。
 ところが、後日、ほんとうにひもじいときに、思いがけず、目の前にパンが流れてくるかもしれないのです。
 
 これは、あまりにも幼稚な絵解きかも知れません。でも、私たちが、目に見える損得関係や貸借関係だけで生きていないのは事実です。自分に与えられた多くの物が、自分で「稼いだ」物ではないと気づかされます。また、自分が支出するお金や労力、気遣いが、どこへ消えたかわからないこともたくさんあります。寄付や献金だけでなく、何げなく行った善行、親切、努力は、一見その量は計れません。ケチで計算高い人、見える利益しか追求しない人の方がずっと報いられているように見えることもあります。
 それでも、「そう見えるだけで」、思いがけないときに、「かつて、自分が投げたパンを見出す」と信じられるのは、うれしいことです。

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 「あなたのパンを水の上に投げよ・・・」は、元々は、投資を勧めた格言だという解説があります。貿易で儲けるためには、多くの商品を仕入れて船で運ばなければなりません。それを売り、その金で別のものを仕入れ、戻って来てまた売り、儲けるのです。古来、貿易は儲かったのでしょう。世界中の大国は貿易を奨励していました。しかし、船で遠くに商品を運ぶのは大変なリスクです。後に利益を見出すという希望で、投資するのです。

 また、漁師はたくさんの魚を取るために、撒き餌をします。「エビで鯛を釣る」わけです。これも投資です。

 元野村証券の社員でフランクフルト支社でも営業マンであった高橋秀則牧師の著書「お金と信仰」(地引網出版)にも、投資と信仰についての示唆的な見解が見られます。一読をお勧めしたい良書です。

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 しかし、私たち信仰者には、みことばを、このような投資の勧めと見るのは、何かそぐわない感じがします。
 それで、伝道の種蒔きを示唆していると考えるのです。新約聖書では「種蒔きのたとえ」として語られています。(マタイの福音書13章3節~9節) 「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩篇126篇5節)も、伝道の勧めとして解説されることがあります。

 これについて、興味深いお証しが榎本保郎牧師の「旧約聖書一日一章」(主婦の友社)というエッセイ集に載っています。

 師が同志社大学神学部の学生だった時、牧師のお伴で葵祭(あおいまつり)で賑わう京都の町に出て、路傍伝道をしたというのです。しかし、伝道の声に足を止める人もまったくいなくて、子供たちが、「アーメン・ソーメン・ヒヤソーメン」とからかうだけだった。榎本師は悔しくて、子供を睨みつけて帰って来たとか。教会に帰り着くと、牧師が「感謝の祈りをしましょう」と言ったので、また腹が立った。
 ところが、二十年ほどして、牧師になっている師のもとに、神学部の新卒生が派遣されてきた。そのとき、二十年前にこんなことがあったと話した。すると、その新卒生は、「その時、アーメン、ソーメン、ヒヤソーメンといったのは僕です」と言ったという。
 榎本師は、この体験を、「あなたのパンを水の上に投げよ」の実例として上げておられるのです。


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 捨てがたい解説がありましたので、ご紹介します。空知栄光キリスト教会の銘形秀則師の「牧師の書斎」は、聖書をすべて原語――ギリシャ語、ヘブル語に当たって読み解こうとするまじめな研究です。師はその膨大な成果を無料でHPに公開しておられます。興味のある方は直接サイトをご覧になって、解説全部をご覧ください。

牧師の書斎

##伝道者の書11章1節の「あなたのパンを水の上に投げよ」という命令も、神のご計画とみこころ、御旨、目的に実現させることにかかわる事柄です。「投げよ」に代わる適訳が見つかりませんが、一応「向けよ」としておきます。11章1節は、まさに私たちの永遠の必要(糧、パン)を、水の上に羽ばたいている神の霊に向かってより頼めという命令だとすれば、「ずっと後の日になってあなたはそれ(糧・必要)を見い出す」ようになるという約束なのです。しかもそれは、神のご計画のカイロス(神の最善の時)において、神の絶妙なタイミングによって実現すると信じます。

http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%81%82%E3%81%AA%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%83%91%E3%83%B3%E3%82%92%E6%B0%B4%E3%81%AE%E4%B8%8A%E3%81%AB%E6%8A%95%E3%81%92%E3%82%88






伝道者の書23 わざわいなことよ。あなたの王が子どもであって、あなたの首長たちが朝から食事をする国は。(伝道者の書10章16節~20節)

2020年05月29日 | 聖書
 聖書は、人々が権威にしたがうことを勧めています。「支配の構造も権力も、神様が人に与えて下さったもの」との視点に立っているからです。

 イスラエルの歴史の中でも、北イスラエルは、つねに王が殺されて別の王朝に政権が移っています。北イスラエル王国自体は、神が預言者を通じて、ソロモンの能吏であったヤロブアムにイスラエル十部族をお与えになって始まった王朝でした。しかし、ヤロブアムは、民が(南王国の首都である)エルサレム神殿に礼拝に上ることに危機感を覚え、領内に金の子牛を造って礼拝させました。これは偶像礼拝ですから、神のみこころを損なうものでした。神は、ただちに預言者を派遣して警告しますが、地上の権力に執着するヤロブアムは、すでに堕落していました。
 以降、北イスラエルは謀反が繰り返されて、王家がいろんな家に移って行きました。最終的には、BC722年、アッシリアに滅ぼされ、民は捕囚に連れ去られました。

 南ユダ王朝の王たちも、間違いを犯す者が後を絶たなかったのですが、辛うじて、ダビデ、ソロモンのユダ王朝を保ちました。しかし、こちらも、BC586年、バビロンに滅ぼされ、以後、イスラエルの民は捕囚民として、広く中東域に散らされてしまいます。

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 神様から権威と地位をいただいた者は、責任も果たさなければなりません。とはいえ、どのような政権も、神からの負託にこたえることができないのは、歴史に見るとおりです。

 わざわいなことよ。あなたの王が子どもであって、あなたの首長たちが朝から食事をする国は。(伝道者の書10章16節)
 幸いなことよ。あなたの王が貴族の出であって、あなたの首長たちが、酔うためではなく、力をつけるために、定まった時に、食事をする国は。(17節)

 たしかに、子供(成熟しきれない者)が、上に立っていれば災難です。支配者が朝から宴会をしていては国は乱れます。

 「貴族の出」の意味は、高い地位にふさわしい教育と訓練を受ける機会があったということでしょう。今日でも、一般的に学歴が人を測る基準になっているのは、学びは、人をふさわしく整えると信じられているからではないでしょうか。

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 なまけていると天井が落ち、手をこまねいていると雨漏りがする。(18節)
 食事をするのは笑うため。ぶどう酒は人生を楽しませる。金銭はすべての必要に応じる。(19節)

 地位が上でも下でも、「勤勉であれ」というのが聖書の命じるところです。楽園では、アダムもエバものんびりと園の管理をしていればよかったのです。けれども、楽園の外は、「顔に汗を流して糧を得なければならない」(創世記3章19節)世界なのです。
 苦しんで得た糧には、けれども、報いがあります。おいしいものを食べる時、自然に笑顔になります。少しのお酒も楽しいものです。お金で多くのものが買えるのも事実です。

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 王をのろおうと、ひそかに思ってはならない。寝室でも富む者をのろってはならない。なぜなら、空の鳥がその声を持ち運び、翼のあるものがそのことを告げるからだ。(20節)

 日本でも「壁に耳あり、障子に目あり」と言います。誰が聞いているかもしれないから、不要に陰口や批判をしてはならないと戒められています。けれども、ここで伝道者が戒めているのは、壁の向こうや障子の陰で立ち聞きしている人間のことではありません。人間も含めて、もっと大きな力、目に見えない存在のことです。
 私たちは、因果がかならずしもはっきりしない出来事に囲まれています。身に余る祝福に巡り合うこともあり、身に覚えのない非難を受けることもあるのです。

 伝道者が終始私たちに語っていることは、「神を恐れよ」だと、覚えるのです。(伝道者の書12章13節)







伝道者の書22 死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。(伝道者の書10章1節~15節)

2020年05月28日 | 聖書
 死んだはえは、調合した香油を臭くし、発酵させる。少しの愚かさは、知恵や栄誉よりも重い。(伝道者の書10章1節)

 これは、説明なしに納得できる言葉です。ハエは小さな昆虫にすぎませんが、スープの中に落ちていたらだれでもそのスープを捨てます。まして香油が臭くなっては売りものになりません。同じようにわずかな愚かさで、せっかくの知恵や栄誉も台なしになるというのです。
 
 知恵ある者の心は右に向き、愚かな者の心は左に向く。(2節)

 〈右〉は力とか幸運を意味し、〈左〉は不幸とか災害を意味する。(新実用聖書注解・いのちのことば社P910)

 愚か者が道を行くとき、思慮に欠けている。自分が愚かであることを、みなに知らせる。(3節)

 この「道」は人生を意味しているそうですが、「はい」とうなずくしかありません。ただ、逃れる方法はあります。聖書では知恵は神を恐れることから来るのです。反対に、愚かさは、神を恐れないところからもたらされるのです。人間が考える「頭の良さ」のことではないと思えば、愚かな選択は避けることができると考えられます。

 支配者があなたに向かって立腹しても、あなたはその場を離れてはならない。冷静は大きな罪を犯さないようにするから。(4節)

 対立や衝突があるとき、だれでも「いたたまれなく」なります。対等な人間関係でも、緊張が頂点に達しているような時に、「席を蹴って」出て行くのは、ますます人を怒らせます。まして、相手が王である場合は、許しがあるまでその場にいなければならないというのです。実際の対立以上に王を怒らせないためです。

 しかし、ソロモンは、王(権力者)に絶対的正義があるとは言っていません。権力者が犯す過ちは、悪の中でも最悪なのです。それは、彼をその位置に据えられた神を冒涜することだからです。

 私は、日の下に一つの悪があるのを見た。それは権力者の犯す過失のようなものである。(5節)
 愚か者が非常に高い位につけられ、富む者が低い席に着けられている。(6節)
 私は奴隷たちが馬に乗り、君主たちが奴隷のように地を歩くのを見た。(7節)

 こんなことは、珍しいことではありませんね。高い地位にあり、権力があるはずの人の愚かさは、テレビニュースなどでもしょっちゅう見る時代です。東京都知事が公費を私的に流用した疑惑を問われて、きちんとした釈明ができません。大会社の最高位にある人が、自社製品の不正が明るみに出て記者会見する時も、おろおろと言い訳しています。「責任者」である意味がよくわからないようです。
 そのような出来事が明るみに出なければ、彼はどこへ行っても敬意をもって処遇され、さぞ立派に見えた人だったでしょうに、と思わされます。

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 穴を掘る者はそれに落ち込み、石垣をくずす者は蛇にかまれる。(8節)
 石を切り出す者は石で傷つき、木を割る者は木で危険にさらされる。(9節)
 もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。しかし知恵は人を成功させるのに益になる。(10節)
 もし蛇がまじないにかからずにかみつくなら、それは蛇使いに何の益にもならない。(11節)

 たしかに、穴を掘るリスク、石垣をくずすときの不測の事態に備えるのは、知恵です。その意味では、人はだれでもずいぶんたくさんの知恵を蓄えて来たのです。それが、文明と呼ばれるものではないでしょうか。
 斧のようは刃物を扱うこと、蛇や猛獣を扱うことにも知恵が必要です。

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 知恵ある者が口にすることばは優しく、愚かな者のくちびるはその身を滅ぼす。(12)
 彼が口にすることばの始まりは、愚かなこと、彼の口の終わりは、みじめな狂気。(13節)
 愚か者はよくしゃべる。人はこれから起こることを知らない。これから後に起こることをだれが告げることができよう。(14節)

 しかし、知恵が本当に必要なのは、言葉を出すときかもしれません。知恵ある者の言葉は「優しい」のです。それに対して、愚か者は、言葉で身を滅ぼすと戒められています。

 愚かな者の労苦は、おのれを疲れさせる。彼は町に行く道さえ知らない。(15節)

 たしかに、おしゃべりの後、疲労感と自己嫌悪に陥るときがありますね。





伝道者の書21 競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、(伝道者の書9章9節~18節)

2020年05月27日 | 聖書


 日の下であなたに与えられたむなしい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむがよい。それが、生きている間に、日の下であなたがする労苦によるあなたの受ける分である。(伝道者の書9章9節)
 あなたの手もとにあるなすべきことはみな、自分の力でしなさい。あなたが行こうとしているよみには、働きも企ても知識も知恵もないからだ。(10節)

 ソロモンがまだ、永遠のいのちや死後の世界を知らなかったとしても、彼を責めることはできないと思います。彼も神から選ばれ、祝福された王でしたから、主は彼に現れておられます。(Ⅰ列王記3章5節、同11章9節~14節)
 かつて、神から「あなたに何を与えよう。願え」(Ⅰ列王記3章5節)と言われたイスラエルの指導者は、いたでしょうか。

 多くの有力な王子がいた中で、ソロモンに王冠が授けられたのは、世的には彼の母バテ・シェバの政略が大きかったでしょう。(Ⅰ列王記1章2章)けれども、どれほどたくらんでも、神が彼の側におられなければ、王権は彼の手に来なかったでしょう。
 主のひとかたならぬ愛顧を受けて、ソロモンはイスラエルの全盛時代の王として、生きることができました。権力、勢力、領土、富貴、女性など、目に見えるものだけでなく、知恵の王としての名声もかつてないものでした。

 日本史のなかでは、たとえば藤原道長を比肩させることができるでしょうか。「望月の欠けたることもなしと思えば」と詠んだ道長の物語は、そもそも、世俗の歴史観で書かれていますが、ソロモンもすべてが思い通りになるような隆盛の中で、ふと、同じような思いにとらわれることもあったのではないでしょうか。
 多くの外国人の妻をめとり、さらに彼女たちの拝む神のために、「エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた」(Ⅰ列王記11章7節)のです。
 ダビデ王なら絶対にしそうもないこのような行いをしたとき、すでに、彼は、イスラエルの王は神のしもべである事実を忘れていたのかもしれません。

 神を恐れていない彼の目は、当然、虚無的になったでしょう。

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 私は再び、日の下を見たが、競走は足の早い人のものではなく、戦いは勇士のものではなく、またパンは知恵ある人のものではなく、また富は悟りのある人のものではなく、愛顧は知識のある人のものではないことがわかった。すべての人が時と機会に出会うからだ。(11節)
 しかも、人は自分の時を知らない。悪い網にかかった魚のように、わなにかかった鳥のように、人の子らもまた、わざわいの時が突然彼らを襲うと、それにかかってしまう。(12節)

 神を見ない人にとって、この世の不公平や災難は、神に噛みつきたくなるような出来事です。多くの人は、自分の人生をまじめに計算して努力しています。しかし、思いがけない出来事で予定が外れるのです。オリンピックでメダルを取る人はたしかにいますが、同じように素質をもち夢をもち、努力をしたおびただしい人が、斃(たお)れたのだというのも事実です。道の途中に多くの網や罠が仕掛けれていて、それらにかからないほうが難しいのです。

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 私はまた、日の下で知恵についてこのようなことを見た。それは私にとって大きなことであった。(13節)
わずかな人々が住む小さな町があった。そこに大王が攻めて来て、これを包囲し、これに対して大きなとりでを築いた。(14節)
 ところが、その町に、貧しいひとりの知恵ある者がいて、自分の知恵を用いてその町を解放した。しかし、だれもこの貧しい人を記憶しなかった。(15節)
 私は言う。「知恵は力にまさる。しかし貧しい者の知恵はさげすまれ、彼の言うことも聞かれない。」(16節)

 この部分は、「一将功成(いっしょうこうな)って万骨枯る」という言葉を思い出させます。一人の将軍が功績を表すとき、その下で働いた多くの部下がいたはずです。知恵があり度胸があり、なによりも忠誠心のために命を惜しまなかった「小さな者たち」がいたのです。
 しかし、功績は大将のものとなるのです。

  知恵ある者の静かなことばは、
  愚かな者の間の支配者の叫びよりは、
  よく聞かれる。(17節)
  知恵は武器にまさり、
  ひとりの罪人は多くの良いことを打ちこわす。(19節)

 ソロモンは、そのような無名の知恵者を認めます。それでこそ、「知恵の王」ソロモンの面目でしょう。






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