年末のこの時期で一番記憶に残っているのは、父が暮れの31日に臨終の宣告を受けたこと。
まだ還暦過ぎであったし、健康だった。12月26日の朝に倒れ、救急車で運ばれた。50年以上も昔のことなので、医療は今のようではなかった。CTもMRIもない時代、お医者様は一通り診察しておられたけれど、手の施しようがなさそうだった。
後頭部のどこか――小脳か延髄のあたりがダメージを受けているらしいとのことで、点滴と尿の導管がつけられた。病気などに縁がない家だったので、家族は、ただ目をみはるばかりだった。
父の兄弟や母の親族も一応見舞に来て、帰った。「なんで●●雄さんが・・」と、だれもが驚くばかり。叔父だけが「兄さん。なんで・・こんなことになって・・」と体に取りすがって半泣きで叫んだ。叔父は隣県に住んでいたし、母から父の兄弟仲はあまり良くないと聞いていたので衝撃だった。
「大学病院の先生をご存じでしたら、転院してください」と言われた。すぐ近くに県立の医大病院(当時)があった。しかし、暮れの押し詰まった時期で、いざとなったら、知り合いも、伝手もない。父ひとりに依存していたのだから、父が倒れたら母などおろおろするばかり。それでも、「あと三日くらいでしょう」と言われたのに、大みそかを迎えた。
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31日になって明らかに呼吸が荒くなり、血圧が下がって来た。なぜか、その時(数分か、数十分か)、私だけが父の枕元にいた。半開きの目は充血していた。私は、やっと、呼びかけることができた。
「おとうさん!」(おとうちゃん!かもしれない)と、何回か。すると、父のまぶたが上がった。充血した目から霧が晴れるように赤いもやのようなものが消失していき、瞳が現れた。父は私を見た。「まさこか」と言った。倒れて以来初めての言葉だった。
その時、母と兄と弟妹達、家族が戻って来た。「意識が戻ったわ。今、まさこかって、はっきりと」
でも、振り返ると、父は、ベッドの上で荒い呼吸を続けていた。目は元のまま、昏睡状態の人だった。
お医者様が一度だけ心臓のあたりに注射をして、消えかけた心拍がいくらか持ち直した。30分ほどして、それも終わりだった。「ご臨終です」と、先生は言われた。午後11時59分だった。きっかりと大晦日の最後の最後だった。
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暮れになると、翌年の夢やいろんな思い出や、新たな希望にちょっと胸が弾むのですが、でも、この瞬間にも、病床にある人がおり、別れがあり、涙や叫びがあるのだということは、その時まで、本当には知らなかったように思う。すぐに家のバンに乗せて遺体を家に運び帰った。
近所の方々がすでに待機していて、お寺さんも時を置かず見えて、「枕経」をあげてくださった。 続いて、近所の女性たちが長い長い「ご詠歌」。誰が、布団を敷き、だれが枕元に線香台を用意したいたのかわからない。元旦の朝は、人の出入りが多くて、あちこち開け放っているので寒かった記憶だけが残っている。
たくさんのお悔やみを聞いた。何と答えたのか、まったく覚えていない。
正月二日が葬儀だった。
私は、一応成人した娘として、遺族らしくしていたかもしれないが、実感がなかった。父がいなくなったことが信じられなかった。