ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

急逝

2019年07月11日 | 日記


 教会の兄弟(クリスチャンは同じ信仰を持つ男性を兄弟、女性を姉妹と呼ぶ)が亡くなって、二週間がたった。

 朝、倒れて、救急車で運ばれたが、蘇生することはなかった。70歳になったばかりだった。

 心臓にステントを入れているということだったけれど、とても活動的で、疲れたように見えることはなかった。何でもよくできる人だった。ジーパン姿で金槌をふるいクリスマスの舞台を作っているときも、キッチンで大きな鍋にカレーを作っているときも、小粋なベスト姿でマジックを披露するときも、蝶ネクタイで結婚式の司会をするときも、明るい笑顔のその姿は、ダンディで、「絵になって」いた。

 もともと役者、演出家だった彼は、聖書劇のミニストリーに使命を燃やしていた。教会では、毎月最初の日曜日、聖書を題材にした短いスキットを上演していた。
 芝居について、パフォーマンスの世界全般から、具体的な舞台の演出、役者の演技の付け方まで、実によく知っていた。
 けっして、威張らず、誇らず、押し付けずの演出家だった。にわか脚本家のさとうに対しても、ときに「脚本家はどうお考えですか」などと、意見を問われるので、そのたびに、しどもどする私だった。
 十年を超えるその活動は、実を結び始めていた。素人劇が、見ごたえのある聖書の「世界」を浮かび上がらせるようになっていた。

 「いつか、本格的な舞台で、二時間枠くらいの劇を上演できればいいですね」というのは、無責任な私で、彼は決して大きな目標を夢見るような言動はしなかった。
 
    

 棺の中の彼は、ほほ笑んでいた。式全部が終わって、花を手向けるため彼の近くに歩み寄る人たちの前で、すっと目を開きそうだった。
 「ああ、終わった? なかなか良かったよ。ごくろうさん」と言いそうであった。

 でも、棺のふたは覆われ、彼は運ばれていった。

 泣いている人がたくさんいて、それをリアルだと認めないではいられなかった。
 次の日曜日の礼拝の日も、涙なみだだった。
 彼が支えていた彼のご家族6人はもちろん、彼に支えられていた教会が、号泣しているかのようだった。

 合掌!










毎日の日課――聖書通読エッセイ

2019年07月07日 | 聖書
2019年04月26日

 もう一つのブログSeeSaaに毎日投稿している通読エッセイです。すこし長いですが。お読みいただければ感謝です。


 タイトル
Coffee Break新約聖書通読エッセイ 381  「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。(ルカの福音書12章1節~7節)


 そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話し出された。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。(ルカの福音書12章1節)

 自分の立場が「聖い」とか「正しい」とか「りっぱだ」と思う時は、要注意ですね。自覚的に、「聖くなろう」「正しくいよう」「りっぱにふるまおう」とするのは、悪い事ではないはずですが、そのような心構えと、行動の偽善との間には、気をつけていないと、一歩の開きもないことが多いのです。

 半世紀も前ほどになりますが、学校の先生の仕事は、「聖職」と言われました。一方で、「教師もまた労働者」だという考え方も現れ、組合運動や政治運動が盛んになったころがありました。先生は時間給では測れない貴い仕事をしているのだから、「労働運動」をするのはけしからんという意見があり、先生がスキャンダルを起こすと、「聖職者のくせに」とも言われました。
 これらは、結局、「学校の先生とは、かくあるべき」とのイメージが前提になっているのです。

 「かくあるべき」といわれる役割に、偽善はつきものです。もちろん、霊的使命に仕える僧侶や神官や牧師も、そのようなイメージをもたれ、実際にも、そのように身を律して「聖潔に」暮らしている方も多かったと思います。
 しかし、外見を繕うことと、内面の聖潔はまた別です。世俗的な儀式や約束事が固定化してしまうと、技術的に「聖潔」を演じるのはさほど難しいことではなくなります。

 パリサイ人や律法学者たち(ユダヤ教の指導者、専門家)が、イエス様から厳しく非難されるのは、彼らの偽善が、もはや定型化していたからでしょう。



 おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。(2節)
 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(3節)


 どのように巧みな偽善も、神の目からは、丸見えです。そればかりではなく、そのような偽善を、神は、かならずあばいてくださるのです。

 同時に、私たちそれぞれ小さな者がささやく「ひそひそ話」も、かならず明るみに出てしまうのです。声高なうわさ話となって、巷間に広がるのです。
 つまり、神様の前では、何も隠されようがないのです。



 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺してもあとはそれ以上何もできない人間たちをおそれてはいけません。(4節)
 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込まれる権威をもっている方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(5節)


 「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たち」とは、私たち人間ぜんぶのことです。
 もちろん、からだを殺されることは、この世にある人間にとって恐ろしいのです。イエスは、それを承知の上で、死後のゲヘナ(地獄)を持ち出しているのです。
 イエスが宣べ伝えている「神の国(天国)」では、当然、「いのちは。死で終わるものではない」のです。死んだ者は、いったん黄泉に送られ、そこで眠りに尽きます。やがて、この地上が作り変えられます。最後の審判があり、その時、罪びとと判決を受けた人は、ゲヘナに投げ込まれるのです。これこそ、本当の「死」です。これこそ、恐れるべきものだと聖書は語ります。

 でも、審判者は全知全能の神ですから、誤審はあり得ません。正しく生きた人は、ゲヘナを恐れることはないのです。

 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。(6節)
 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたはたくさんの雀よりもすぐれた者です。(7節)


 また、神は、現在の私たちの状態も、すべて把握しておられるのです。
 私たちの髪の毛の数まで、ご存知なのです。神の毛は、毎日のように抜け落ち、また生えています。そのような刻々と移り変わる髪の毛の数を、地上の70億人分すべてを数えることができる方だと聞くと、心から畏(おそ)れを覚えます。
 同時に、神は愛の神です。雀のようなとりたてて貴重でない鳥でさえ、ちゃんと覚えておられるのです。