ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

人生の海の嵐に

2020年07月11日 | 歌う

 

プロ野球観戦をしている方々の映像を見て、若い日に雨の中で観戦したのを 思いだしました。

降雨コールドも、五回裏の勝利を確かめて帰るときは、楽しかった!

コロナのない時代で、びしょぬれの人たちばかりがひしめき合って、電車に乗っているのも、いやではなかった。

たしかにあの頃も、豪雨災害もあって、着の身着のまま避難所に行ったこともあったのですが。

いまは、得体のしれない病気と、豪雨が掛け算になっている日々。

 

              祈りつつ――

           

 

人生の海の嵐に

 

         「ダビデとバテシェバ」の続きは、数日の間に掲載します。               

                           

 

 

 

 

 


主われを愛す/竹下静 栃尾教会チャペルコンサート

2020年07月05日 | 歌う

 

 

主われを愛す/竹下静 栃尾教会チャペルコンサート20160903

 

 ゴスペルシンガー・竹下静さんは、市川にある聖望キリスト教会の会員です。

美しい歌声を、ぜひお聴きください。

賛美歌「主 われを愛す」は、世界で広く愛されている賛美歌です。

ここでは、栃尾教会でのコンサートをお届けします。

 

 
賛美歌461番 「主われを愛す」

Jesus loves me! This I know, 
For the Bible tells me so. 
Little ones to Him belong; 
They are weak, but He is strong. 
Chorus:
Yes, Jesus loves me! Yes, Jesus loves me! 
Yes, Jesus loves me! The Bible tells me so. 


主われを愛す 主は強ければ
われ弱くとも 恐れはあらじ
(くりかえし) わが主イェス わが主イェス
わが主イェス われを愛す
わが罪のため さかえをすてて
天(あめ)よりくだり 十字架につけり
みくにの門(かど)を ひらきてわれを
招きまたえり いさみて昇らん
わが君(きみ)イェスよ われをきよめて
よきはたらきを なさしめたまえ

 

途中、唱歌「シャボン玉飛んだ」が挿入されているのは、作曲家・中山晋平が、この賛美歌から、「シャボン玉飛んだ」の曲想を得たのではないかと推測されているためです。

 

 

 

 


「ダビデ・バテシェバ」事件とは

2020年07月04日 | 聖書

 


 ダビデの不倫事件は、多くのことを私たちに考えさせます。およそ、ここからだけでも万の著述が生まれるのではないかと思います。
 
 不倫事件は、それ自体、スキャンダラスなドラマです。関わる人間たちの間で戦場のように戦いが起こり、犠牲者が出るドラマです。無名の市民の間で起きても、関係する人たちを傷つけます。殺人事件まで絡むと、ただではすみません。


 しかし、それが許される世界があり、時代があったのも事実です。一夫多妻が制度として容認されているか、不法を行う側が強くて、有無を言わせぬ力(権力、財力)がある場合、例えば、大奥を構えている将軍は不倫を咎められるでしょうか。彼にとって正妻以外に妻をたくさん持つことは、合法的なのです。自分の勢力や財力を強化するために結婚相手を選び、家系を繋げるために結婚を利用するのも当たり前のことであったのです。

 大きな権力を持つ男が、女性一人を手に入れるのは、国境線の問題で争って兵を動かすよりよほど楽なことではなかったでしょうか。

 ダビデは王なのですから、どうしてもバテ・シェバが欲しければ、ウリヤに離婚させることはできなかったでしょうか。かつて、ダビデは、元の妻ミカルを、再婚していた夫パルティエルから、強引に取り戻したのです。三人目の妻アビガイルとの結婚も、律法に照らして完全に正しかったかどうかわかりません。

 

 男女の問題は、とても危ういものです。性は、非常に個人的な衝動と熱情が絡んでいます。当事者だけを隔絶した世界に誘い込む、目のくらむような欲望と道連れなのです。同時に、その私的な世界は、人間の社会的関係の中にあるのです。

 性的関係を結ぶのは簡単ですが、どんな人にも家族がいます。社会的立場があります。子どもが生まれれば、新しく大きな社会関係が広がります。

 

★★

 

 ダビデは、バテ・シェバが水浴びをしているところを見たとき、すぐにも彼女と寝たくなったのです。その時、すでに彼女を人妻だとわかっていたのですから、律法違反であることもわかっていたでしょう。バテ・シェバが妊娠せず、そのまま一度限りの関係で終わっていたら秘密の火遊びで済んだかもしれません。それでも、神の目からご覧になったら罪であり、神はそのことをお忘れにならないでしょう。

 バテ・シェバの妊娠は、すでに神の罰であったとも言えます。サタンがダビデを試していたとも見えます。ダビデは自ら招いた問題で、サタンに試みられているのです。

「さあ、この問題をどう処理しますか! お手並み拝見だね」

 

★★

 

 「『あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行おう。』」(第Ⅱサムエル記12章12節)
 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごして下さった。あなたは死なない。(12節)
 しかし、あなたはこのことによって、主の敵におおいに侮りの心を起こさせたので、あなたに生まれる子は必ず死ぬ。」(14節)

 

 このくだりは、ダビデの真摯な悔い改めとして評価されています。ダビデは、預言者ナタンに罪を指摘され即座に悔い改めたというわけです。
 事実、そのとおりであったのでしょう。ナタンは、神がダビデの罪を見過ごしてくださったと答えるのです。ダビデは死を免れ、不倫の子が死ぬのです。私個人の考えですが、これは、ダビデの受ける罰の代わりとしては、大いに軽いように思えるのです。ダビデにはすでに多くの子どもがいますし、バテ・シェバは妻ではないからです。

 では、神の罰は甘かったのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。

 

 主は、ダビデに、ダビデのしたことは、主の敵にイスラエルの神への侮りを起こさせたと言うのです。これほど、激しい非難の言葉はあるでしょうか。

 事実、ダビデは、その後の人生で、自分の犯した罪を償わせられています。

 それは注意深く覆われた書き方ですが。

 

 

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記331 「ダビデとバテ・シェバ」事件(第Ⅱサムエル記12章12節~14節)より再録. 

 


ダビデとバテシェバ④ 預言者ナタンの警告

2020年07月03日 | 聖書

 

 

 主がナタンをダビデのところに遣わされたので、彼はダビデのところに来て言った。「ある町にふたりの人がいました。ひとりは富んでいる人、ひとりは貧しい人でした。(第Ⅱサムエル記12章1節)
 富んでいる人には、非常に多くの羊と牛の群れがいますが、(2節)
 貧しい人は、自分で買ってきて育てた一頭の小さな雌の子羊のほかは、何も持っていませんでした。子羊は彼とその子どもたちといっしょに暮し、彼と同じ食物を食べ、同じ杯から飲み、彼のふところでやすみ、まるで彼の娘のようでした。(3節)
 あるとき、富んでいる人のところに一人の旅人が来ました。彼は自分のところに来た旅人のために自分の羊や牛の群れから取って調理するのを惜しみ、貧しい人の雌の子羊を取り上げて、自分のところに来た人のために調理しました。」(4節)
 すると、ダビデは、その男に対して激しい怒りを燃やし、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死刑だ。(5節)
 その男は、あわれみの心もなく、そんなことをしたのだから、その雌の子羊を四倍にして償わなければならない。」(6節)
 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。イスラエルの神、主はこう仰せられる。『わたしはあなたに油をそそいで、イスラエルの王とし、サウルの手からあなたを救い出した。(7節)
 さらに、あなたの主人の家を与え、あなたの主人の妻たちをあなたのふところに渡し、イスラエルとユダの家も与えた。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。(8節)
 それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか。あなたはヘテ人ウリヤを剣で打ち、その妻を自分の妻にした。あなたが彼をアモン人の剣で切り殺したのだ。(9節)
 いまや剣は、いつまでもあなたの家から離れない。あなたがわたしをさげすみ、ヘテ人ウリヤの妻を取り、自分の妻にしたからである。』(10節)
 主はこう仰せられる。『聞け。わたしはあなたの家の中から、あなたの上にわざわいを引き起こす。あなたの妻たちをあなたの目の前で取り上げ、あなたの友に与えよう。その人は、白昼公然と、あなたの妻たちと寝るようになる。(11節)
 あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行おう。』」(12節)

 


★★

 

 ナタンはダビデお抱えの預言者です。すでに、ダビデの神殿建設の願いについて、主の御言葉を取り継いでいます。(第Ⅱサムエル記7章)
 王の重要な決断や行為について、神の御心を伝えるのですから、時に王にとって耳の痛いことも告げなければなりません。

 
 ウリヤがダビデの計略通り戦場で戦死して、ダビデはバテ・シェバを妻として迎えました。ふたりの間にできた「問題の子ども」も生まれ、事件は一段落したかのように見えました。

 そこに、ナタンはやって来るのです。

 

 それにしても、このナタンの預言は何と容赦のないものでしょう。貧しい人と金持ちの例話は、子どもでもわかるような図式的な話です。もちろん、ダビデは不正を行う金持ちを怒りました。
 そこでナタンは言うのです。「あなたがその男です。」
 そのあとに続くナタンのことばは激しく、とても王と家臣の関係では出てくるような内容ではありません。預言者であり、王の助言者であってもしょせん、王の家臣なのです。強大な世俗の権力者である王をいさめるのは、命がけでした。

 

★★

 

 ナタンは、まず、主がダビデに非常に多くのものを与えられた事実を思い出させました。イスラエルとユダの王権、サウル家の者たち、サウルの妻たちの中にも、ダビデのそばめとなった者がいたのでしょう。でなくても、ダビデにはすでに多くの妻がいて、そばめもいました。女性に不自由していたのではないのです。
 神様は仰せになります。「それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。」 神は、「女性が欲しいのならいくらでも与えた」とさえ言われるのです。

 そして、ヘテ人ウリヤの血の責任をダビデに知らせ、ダビデの家では、剣と剣が争うことになる。ダビデの妻たちは白昼公然と、ダビデの友――最も信頼する者によって凌辱されると宣告するのです。

 

 あなたは隠れて、それをしたが、わたしはイスラエル全部の前で、太陽の前で、このことを行おう。(12節)

 

 神からの、このような宣告を恐れない者がいるでしょうか。もちろん、ダビデも震え上がったのです。

 事実この預言の通りの出来事が、ダビデの身に起こりました。このあと、ダビデの家庭には、忌まわしい事件が次々と起きてきます。

 その中で、ダビデがもっとも愛していた息子アブシャロムが謀反を起こし、ダビデのそばめたちを、白昼堂々と凌辱するのです。

 

 

 預言者とは、神の言葉を預かって語る者のことです。予見者や代言者の意味もありますが、幅広く人間(王)の行いを警告するために召された人と、考えられています。

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記330 預言者ナタンの警告(第Ⅱサムエル記12章1節~12節)より再録しました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ダビデとバテシェバ③ 神に背く者

2020年07月02日 | 聖書

 


 「ウリヤを激戦の真っ正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ。」
 ダビデ王からこのような手紙を受け取ったダビデ軍の将軍ヨアブ(最高司令官、ダビデの甥)は、ただちに王の命令を実行に移しました。

 

 ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者がいると知っていた場所に、ウリヤを配置した。(第Ⅱサムエル記11章16節)
 その町の者が出て来てヨアブと戦ったとき、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦士した。(17節)
 そこでヨアブは、使いを送って戦いの一部始終をダビデに報告する時、(18節)
 使者に命じて言った。「戦いの一部始終を王に報告し終わったとき、(19節)
 もし王が怒りを発して、おまえに『なぜ、あなたがたはそんなに町に近づいて戦ったのか。城壁の上から彼らが射かけて来るのを知らなかったのか。(20節)
 エルベシェテの子アビメレクを打ち殺したのはだれであったか。一人の女が城壁の上からひき臼の上石を投げつけて、テベツで彼を殺したのではなかったか。なぜ、そんなに城壁に近づいたのか』と言われたら、『あなたの家来ヘテ人ウリヤも死にました』と言いなさい。(21節)
 こうして使者は出かけ、ダビデのところに来て、ヨアブの伝言をすべて伝えた。(22節)

 

 聖書は寡黙な書物だと、ある牧師が書いていました。そうだと思います。たとえば、このヨアブはダビデの忠実な家来ですが、聖書の行間を読むと、なかなかの策士です。
 彼は、サウル家の将軍アブネルを暗殺しています。アブネルはサウル王やヨナタン(サウルの王子)亡き後のサウル陣営の柱でした。サウル家は、王が死んでもまだ、北イスラエル十部族を従えていました。

 アブネルは、サウルの遺児イシュ・ボシェテを立てて何とか、サウル王朝を維持していたのですか、愚かなイシュ・ボシェテに見切りをつけたため、ダビデ王朝の傘下に入り全イスラエルを統一王国とするという案をもってダビデを訪れたのです。和睦は成立するのですが、その帰途、ヨアブに呼び戻され、抱擁の一瞬のすきを突かれて、殺されるのです。(Ⅱサムエル記3章)


 この時、その理由をヨアブは、弟アサエルのかたき討ちだとしています。しかし、ヨアブとアブネルはもともと対立していました。

 アブネルがダビデ陣営に来て用いられたら、ヨアブのライバルになったことは確実でした。

 アブネルが葬られたことで、サウル王朝は事実上崩壊するのですが、ヨアブはその将来を安泰にしたのです。

 

★★

 

 ヨアブは、ダビデの手紙の意図を呑み込んだでしょう。そして、平時なら兵士を配置しない敵の最も強い場所に、ウリヤとダビデの家来を行かせるのです。城壁のそばは、射かけられた矢が届く危険な場所です。さらに近づけば、城壁の上から物を投げ落とされる恐れもあります。
 例話として出されているアビメレクの話は、士師記にあります。(士師記9章53節) 有名な大士師ギデオンにまつわる逸話の最後の部分です。アビメレクはギデオンの七十人の息子のひとりでしたが、ほかの兄弟全部を殺害し(末子のヨタムがただ一人逃げ延びています。)、ギデオンの跡を継ごうとしました。しかし、神の選びも人望もないアビメレクは、たちまち同胞を敵に回し、悲惨な最期を遂げるのです。

 

 ヨアブがわざわざイスラエルの歴史から前例を出しているのは、自分の任務に対する忠実さ、周到さを伝えているのでしょう。ウリヤは忠実な戦士ですから、上官の命令なら、たとえ死ぬとわかっても止まって戦ったのです。

 

 ダビデは使者に言った。「あなたはヨアブにこう言わなければならない。『このことで心配するな。剣はこちらの者も、あちらの者も滅ぼすものだ。あなたは町をいっそう激しく攻撃して、それを全滅せよ。』あなたは、彼を力づけなさい。」(25節)
 ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のためにいたみ悲しんだ。(26節)
 喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり、男の子を産んだ。 しかし、ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった。(27節)

 

 25節のダビデのことば、26節のバテシェバの様子。ともに、聖書記者の皮肉を読み取ることができます。「ダビデの行ったことは主のみこころをそこなった」とのことばで、読者はようやく納得できるでしょうか。
 それでも、私たちは思うのです。「なぜ? なぜ、あのダビデが!?」

 ダビデは、神から、その家の末に、救い主がお生まれになるという栄誉を与えられた王です。

 神から、「人はうわべを見るが、主はこころを見る」と言われて、イスラエルの王として抜擢されたのです。

 

 

 

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記・ルツ記・サムエル記329 神に背くもの(第Ⅱサムエル記11章16節~27節、詩編14篇1節~3節) より再録しました。