ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

癒しについて

2016年11月30日 | 聖書



GOOから、一年前の記事が送られてきたので、再録させてください。
  癒しの問題は、私たち「病む可能性がある者」にとって、人生の大きな課題です。

  何故、人は病気になるのか。もっといえば、なぜ老い、死んでいくのか。
  生まれ、成長する祝福と同じように、生き物のサイクルとしてセットされているこの「運命」を
  ただ、うろたえて嘆く限り、癒しという言葉に飛びつくのではないでしょうか。
  
                                              
 一年前の記事

      心霊術で病気を治すといって、糖尿病の子どもの治療を引き受け
      インスリンの投与をやめさせ、医師からも遠ざけたので、結果的に子供は亡くなったという
      痛ましい話がニュースになりました。

      このような、呪術師?、心霊術師? 祈祷師?ともつかない人がいるのは、
      私も知らないわけではありません。
      しかし、このような人たちの手を借りなくても、
      奇蹟のようないやしは、誰でも(普通の人でも)、一度や二度経験することがあるかもしれません。

      私自身について告白しますと、何度か、はっきりとした「癒し」を体験しています。
      それは実に、一瞬で、変化が確かで、自分でも「信じられないほどの」奇蹟でしたが、
      それについてこういうブログで具体的に書くのは、信仰について誤解を招くので割愛します。

      ただ、自分が祈って、癒しが起こったからと言って、自分にいやしの力があるなどとは、
      夢にも思いません。いやしてくださったのは神です。
      
      もちろん、祈っても聞いてもらえないこともあって、インフルエンザで寝込むこともあり、
      食中毒で「参った」こともあります。
      何故、祈りが聞き届けられるときと、そうでないときがあるのかはわかりません。
      私たちはただ、神のなさることに対して謙遜にならなければならないと、学ぶのです。


                

      
      重い病状が奇跡のように引いたときは、
      神さまが、憐れんで下さって聞いてくださったのだと思い、そういう時は、いつにもまして
      神様をほめたたえます。
      自分の祈りが聞いていただけたからと言って、他の人に
      「癒してあげよう」などと申し出ることは、ありません。

      健全なキリスト者であれば、
      牧師であっても、ベテランの信徒であっても、「私が癒してあげましょう」などとは、
      絶対に言わないはずです。
      医術を使わず癒すことができるのは神さまだけであって、
      人間にはできないと「知って」いるからです。
      もちろん、頼まれれば、例えば
      教会の中で、また友人や知人に対して「祈って差し上げる」ことはありますが、
      それは、「とりなしの祈り」といって、願い求めている人とともに祈ることなのです。
 
      「自分には、いやす力がある」となどという人は、まずインチキではないでしょうか。


      新約聖書には、イエス・キリストによるいやしの話が目白押しです。
      けれども、聖書的には、これは、ふしぎではありません。

      「イエスは神」だからです。

      イエスの弟子たちが、イエスから権能を授けられて、「癒しを行う」場面がありますが、
      それに対して、イエスは、
      「あなたがたは、ただで受けたのだから、ただで与えなさい」と命じておられます。

      神がなさったことで、「儲ける」のは、禁じられているわけです。

      まして、教祖(人間)を、神であるかのように見上げるのは、神の御心に反することです。

      オ●ム事件などもそうでしたが、いかがわしい宗教にひっかかるのは、
      本物の宗教を知らないことも、大きいと思います。


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                 ★★ 
        

      私自身は、もちろん、
      病気や体についても、神さまが一番よくご存じだと信じています。

      私のからだを、CTやMRIよりも、見通しておられるのが、神様です。
      私たちは、どんなにがんばっても、
      神様がごらんになるようには、物を見ることはできないのです。

      じっさいには、資格のある誠実で熱心なお医者様が、一番私たちのからだを熟知して下さるのです。
      治療を依頼できるのも、お医者様です。

      ただ、どれほどすばらしいお医者様でも、全能でないのは、
      お医者様ご自身が,一番よく知っておられるのと思うのです。

      人としての最善を尽くしながら、
      人の力の超えたところを、神に願い、
      祈るのが、人としての正しい在り方だと考えるのです。

      




         何事も思い煩わないで、あらゆる場合に感謝と願いをもってささげる
         祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
         そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
         あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
                             (新約聖書・ピリピ人への手紙4章6節7節)







      
      

感謝祭

2016年11月28日 | 季節の味



      11月の第四日曜日は、感謝祭です。

      七面鳥を食べる日です。

      由来はアメリカ大陸開拓の物語にあるようです。

      感謝祭のそもそもの起源は1621年、イギリスからアメリカに移住したピルグリムたちが
      アメリカでの初めての収穫を神に感謝し、
      冬を越す知恵を授けてくれたネイティブアメリカンを招待して
      祝宴を催したことに由来しているそうです。


      当時、野生の七面鳥は、アメリカ大陸の多く生息していて、
      移民やネイティブアメリカンの食卓をにぎわしていました。
      そのため一時は絶滅の危機に瀕し、その後、保護や飼育で数を増やしました。

      MCCでは、感謝祭の日に、七面鳥を調達して、楽しみます。
 


     
  

      

     



                     


    この夕べ、バイリンガル礼拝で「感謝祭」のメッセージをくださったPaul先生



  しっかり押さえてや。力が入ってるから

    骨付き豚のハムをつくってきた下さった方!!豪快です。
       女性たちの笑顔がはじける夜でした。


                     

             この七面鳥は、ローストになった七面鳥の生前の姿ではありません!



      

アドベント

2016年11月26日 | 聖書



      教会暦では、明日からアドベントです。
      待降節ともいい、イエス・キリストのご誕生を思いながらクリスマスを待つ期間です。

            

      きょうは、クリスマスに備えて、有志で教会の飾りつけをしました。

      飾りつけのリーダーは大学生の姉妹です。毎年新しいデザインを考えてくれます。

      用意されたオーナメントを一つ一つ取り付けていくのは、胸躍る瞬間です。




        


   



       エントランスの飾りつけは、男性の働きです。

       華やかなデコレーションが、多くのお客様を教会へ招いてくださるよう

       お祈りしています!



                  











MCCふれあいコンサート

2016年11月24日 | 日記




         町田クリスチャンセンターで、ふれあいコンサートがありました。
          これは、毎年、勤労感謝の日に教会で催されるイベントです。           



          町田クリスチャンセンターの歌姫S姉妹

   
         

             ことしは、プロの若手演奏家3人が友情出演して下さいました。


            
             お客様は大満足!!!


       司会はいつもは劇演出をされるY兄弟                                 教会のピアニストY姉妹です。


               
                    出演者全員で、フィナーレのごあいさつ。 





       





     


  

聖書に見る美貌17  ヤコブの二人の妻2

2016年11月17日 | 聖書





      ヤコブの物語には、多くの聖書読者が釈然としない思いをするのです。
      とくに、クリスチャンはそうです。

      四人の妻(二人はそばめだとしても)から12人の息子を得て、大家族を立てたなんて、
      現代の価値観からは、そぐわない気がするのです。
      大家族自体は、喜ばしいことかもしれませんが、
      4回の結婚離婚も許せないのに、あろうことか妻4人が同居でなんて、
      大富豪トランプさんでも、そこまではできません。

      ひとりの男と複数の妻の家庭というのが、当時の社会ではあり得たのだからという以外にありません。
      聖書は、はじめ、それが書かれた時代とその社会の習慣や枠組みや人々を使って、
      その時代を生きた人々に与えられたのです。

      聖書で、一夫多妻や様々な不公平や理不尽を容認されているように見えるのは、
      神が、そのように生きるしかない人間に歩み寄られたと説明されています。

          

      しかし、ヤコブの多妻(四人の妻)についてなら、ヤコブのために弁護できます。

      ヤコブは、最初から美しいラケルとだけの結婚を望んでいたのです。
      レアを迎えなければならなかったのは、おじラバンの奸計によるのです。


      ヤコブのラケルに対する愛は、終生変わることがありませんでした。
      後に、ヤコブは一族を率いて、ハランから故郷エフラテに戻るのですが、
      ラケルは、旅の途中、難産のために死ぬのです。

      そのとき生まれたのが、ラケルの二番目の息子ベニヤミンでした。
      不妊の女ラケルは、ヤコブにヨセフとベニヤミンを残したのです。

      ヤコブがヨセフを特別扱いにして愛したのは、ラケルへの思いを引きずっていたためです。
      美貌のラケルの血を引いたヨセフは、美貌で、そのために
      兄弟から憎まれ、女難にあいます。
      しかし、兄たちによってヨセフがエジプトに売り飛ばされ、
      その地で、出世したことが、飢饉のときにイスラエルの一族を救ったのですから、

      それも、神様の計らいだったといえなくありません。


      後に、イスラエル初代の王サウルは、ベニヤミン族の出身でした。
      サウルがやはり「美しい男」だったことも、思い起こされるのです。

      ヤコブの長い長い物語は、創世記の後半を占めていますが、(創世記25章~50章)
      とても面白いので、ぜひ、お読みになってください。