ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

サムソンの最期

2021年06月01日 | 聖書

 いよいよ最終回です。創世記からマラキ書まで2700回ほど続いた別のブログ記事(Coffee Break旧約聖書通読エッセイシリーズ)の一部だったので、読みにくかったかもしれません。お付き合いくださってありがとうございました。よろしければ、Coffee Break旧約聖書シリーズも覗いてみてくださいませ。

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記132 サムソンの最期(士師記16章22節~31節)


 サムソンがペリシテ人に捕えられたのは、デリラの「おねだり」に屈したからです。サムソンの「女性に弱い性格」は、すでに前例(14章12節~18節)がありますが、サムソンは失敗から学んでいなかったのです。

 サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸び始めた。(士師記16章22節)
 さて、ペリシテ人の領主たちは自分たちの神ダゴンに盛大ないけにえをささげて楽しもうと集まり、そして言った。「私たちの神は、私たちの敵サムソンを、私たちの手に渡してくださった。」(23節)
 民はサムソンを見たとき、自分たちの神をほめたたえて言った。「私たちの神は、私たちの敵を、この国を荒らし、私たち大ぜいを殺した者を、私たちの手に渡して下さった。」(24節)
 彼らは心が陽気になったとき、「サムソンを呼んで来い、私たちのために見せものにしよう」と言って、サムソンを牢から呼び出した。彼は彼らの前で戯れた。彼らがサムソンを柱の間に立たせたとき、(25節)
 サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」(26節)

 ダゴンは、当時たくさんあった偶像神のひとつでした。古代セム人の間で広く信仰されていた穀物神で、ペリシテ人もカナンに入植後これを受け入れた(実用聖書注解・いのちのことば社)ものです。

 ペリシテ人は彼らの憎い敵、サムソンを捕えて有頂天になり、自分たちの神・ダゴンの下に集まり、お祭りさわぎを始めたました。そこにサムソンを連れて来させたのは、まさに見せもの、笑いものにするためです。彼は彼らの前で戯れたは、ちょっと注意を要する箇所ではないでしょうか。事実は、ペリシテ人が目の見えないサムソンをからかってその前で戯れたのでしょう。けれども、サムソンも相手のからかいに乗ったふりをしたのに違いありません。すでに、心の中で、期するものをもっていたのです。

 サムソンは自分の手を堅く握っている若者に言った。「私の手を放して、この宮をささえている柱にさわらせ、それに寄りかからせてくれ。」(26節)
 宮は男や女でいっぱいであった。ペリシテ人の領主たちもみなそこにいた。屋上にも約三千人の男女がいて、サムソンが演技するのを見ていた。(27節)
 サムソンは主に呼ばわって言った。「神、主よ。どうぞ、私を御心に留めて下さい。ああ、神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めて下さい、私の二つの目のために、もう一度ペリシテ人に復讐したいのです。」(28節)
 そして、サムソンは、宮をささえている二本の柱を、一本は右の手に、一本は左の手にかかえ、それに寄りかかった。(29節)
 そしてサムソンは、「ペリシテ人といっしょに死のう」と言って、力を込めて、それを引いた。すると、宮は、その中にいた領主たちと民全体との上に落ちた。こうしてサムソンが死ぬときに殺した者は、彼が生きている間に殺した者よりも多かった。(30節)

 壮絶な死です。自分の命運をさとったサムソンは、自分のいのちを犠牲に、最後の働きをしようとしたのです。そして、主(=神)に呼ばわると、主が力を着せて下さったのです。柱を外された神殿はくずれ落ち、そこにいたすべての人が一瞬にして死んだのです。
 この光景を、私はくまなく解説することはできません。小説にするなら、デテールのためにいろいろ調べなければいけないでしょう。すでに、「サムソンとデリラ」は映画にもなっているので、参考になるかもしれません。
 この話のリアリティは、天井を支える二本の柱がある建物ですが、このような構造の神殿はペリシテ人のテル・カシーレの発掘から、知られている(実用聖書注解・いのちのことば社)そうです。

★★★★★

 私は一信徒に過ぎませんし、この文章はエッセイですので、教訓じみたことは書かないよう気を付けています。
 けれども、サムソンのこの最期は、私たち普通の人間のすがたをも引き写しているように思われます。神の御心にかなう生活の中で――懸命に生きている場合、その生きざまは、おおむね御心にかなっているでしょう――神が力を着せて下さっていると物事がうまく運び、すると、誘惑が来て、しかも、私たちは誘惑に弱いのです。 
 サムソンは、デリラの誘惑に負けて、彼の力の秘密をを明かしてしまったとき、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言ったのです。彼は主が自分から去られたことを知らなかったのです。なんという悲劇でしょう。

 サムソンの最期の叫びに、主は答えて下さいました。
 
 旧約聖書19番目「詩篇」には、つぎのような詩があります。

   主は、あわれみ深く、情け深い。
   怒るのにおそく、恵み豊かである。(詩編103篇8節)
   主は、絶えず争ってはおられない。
   いつまでも、怒ってはおられない。(9節)
   私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、
   私たちの咎にしたがって
   私たちに報いることもない。(10節) 


 
 

サムソンの敗北

2021年05月31日 | 聖書

 サムソンはとうとうデリラの誘惑に負けて、自分の怪力が決して剃られたことのない髪の毛にあることを明かしてしまいます。

 その結果、ペリシテ人に捕らえられてしまい、目をくりぬかれて牢に入れられます。しかし、無力になったサムソンにもう一度チャンスがやってきました。

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記131 臼をひくサムソン(士師記16章16節~22節)


 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。(士師記16章16節)
 それで、ついにサムソンは。自分の心をみな彼女に明かして言った。「私の頭には、かみそりが当てられたことがない。私は母の胎内にいるときから。神へのナジル人であるからだ。もし私の髪の毛がそり落とされたら、私の力は私から去り、私は弱くなり、普通の人のようになろう。」(17節)

 とうとうサムソンは彼の力のみなもとがどこにあるか、デリラに明かしてしまいました。髪の毛を剃り落すことは、ナジル人であることをやめることです。神様との特別な関係を断ってしまうことです。デリラは、すぐにペリシテ人の領主たちに連絡し、ペリシテ人の領主たちは、今度は約束の銀をたずさえてやってきました。

 彼女は自分のひざの上でサムソンを眠らせ、一人の人を呼んで、彼の髪の毛七ふさをそり落とさせ、彼を苦しめ始めた。彼の力は彼を去っていた。(19節)
 彼女が、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言ったとき、サムソンは眠りからさめて、「今度も前のように出て行って、からだをひとゆすりしてやろう」と言った。彼は主が自分から去られたことを知らなかった。(20節)
 そこで、ペリシテ人は彼をつかまえて。その目をえぐり出し、彼をガザへ引き立てて行って、青銅の足かせをかけて、彼をつないだ。こうしてサムソンは牢の中で臼をひいていた。(21節)

 神の力が離れてしまったサムソンは、あっけなくペリシテ人に捕まってしまいました。目をくりぬかれ、青銅の足かせをつけられ、ペリシテ人の本拠・ガザに引き立てられ、そこで、臼を挽かされることになるのです。
 ここで、臼と書かれているのは、私たちが見る餅臼でもなければ、手で上ぶたをまわして米や麦を引いた小さな石臼でもありません。のちに水車を動力とすることになる、大がかりなロータリーカーンといわれるものです。臼の部分から引き棒が水平に伸びていて、それを人が押し歩きながら回す、または、ろばや牛に引かせるのです。
 このような粉ひき場は、屋根があり薄暗く、仕事は単調で、それでいて力仕事だったでしょう。ぐるぐる歩いて回っていればいいので、目をくりぬかれても出来たわけです。
 
 ペリシテ人は、サムソンを殺すこともできたのに、あえてこのような「刑罰」を与えたのです。これは、彼が見せしめであり、さらし者にされているのを意味します。腕力があり豪放だったスーパーマンを、このように臼の奴隷にすることで、笑いものにしたのです。それが、最大の報復になると知って、行っているのです。
 これは、単純に命を奪うより、よほど残酷な刑罰です。歴史的には、しかし、このような残酷な刑罰は、国を問わず、時代を問わず、いくらでも行われてきたのです。もちろん、「残酷な刑罰」は、今は国連条約で禁止されています。

★★★

 サムソンは、どのような思いで、黙々と臼をひいていたでしょう。「ほぞをかむ」「後悔する」「反省する」などと言う言葉では、とうてい届かない絶望と悔悟の中に突き落とされたに違いありません。豪放磊落、傍若無人にふるまっても、どのような無茶も押し通すことができる。自分の腕力を持って解決できるとの思い込みを、根底からひっくり返されたに違いありません。

 サムソンは、絶望のどん底で、ようやく、心底自分が生まれる前からのナジル人であったこと、それゆえ、神がただならぬ力を自分に与えておられたのだと気がつきました。神にお詫びし(悔い改め)、ナジル人としての誓願をし直し、祈ったのです。

 サムソンの頭の毛はそり落とされてから、また伸びた。(22節)

 
 頭にかみそりを当ててはならないという神の戒めに違反したサムソンでしたが、神は、心から主(しゅ=神)に叫ぶサムソンを憐れんで下さいました。
 髪の毛が伸びてきたサムソンに、神からの力が戻って来たのです。



 


悪女デリラ

2021年05月29日 | 聖書

 十戒などと同じように、「サムソン」も1950年ごろ二度ハリウッドで映画化されています。物語のメリハリがはっきりしていて、なおかつ主人公サムソンのキャラが豪快で大衆受けするからでしょう。ポパイやスーパーマンのような力持ちの話は、洋の東西を問わず一定の需要がありますね。尋常ならざる力は、人々の憧れなんでしょうね。

 しかし、当時の欧米人は今より聖書を読んでいたでしょうし、サムソンの物語は人気があったと思われます。サムソンの力は、神から力を着せられるナジル人としての現われです。それは神のご命令通り、決して頭に剃刀を当てることのない頭髪からくるものでした。

 

Coffee Breakヨシュア記・士師記130 デリラの誘惑(士師記16章6節~16節)



 じつは、デリラがどういう女だったのかは、書かれていません。遊女か、いわゆるふつうの若い娘なのか、人妻なのか。どのような容姿で、どれほど美しかったか、男を夢中にさせる手練手管はどのようなものだったのか。ただ、その名前「デリラ」は、「浮気な、恋をもてあそぶ」の意味(新実用聖書注解・いのちのことば社)だそうです。

 「あなたの強い力はどこにあるの。教えて」と寝物語に訊ねられても、さすがのサムソンも、正直に応じたのではありません。

 サムソンは彼女に言った。「もし彼らが、まだ干されていない新しい七本の弦(つる)で私を縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」(士師記16章7節)
 そこで、ペリシテ人の領主たちは、干されていない七本の新しい弦を彼女のところに持ってきたので、彼女はそれでサムソンを縛り上げた。(8節)
 彼女は、奥の部屋に待ち伏せしている者をおいていた。そこで彼女は、「サムソン。ペリシテ人があなたをおそってきます」と言った。しかし、サムソンはちょうど麻くずの糸が火に触れて切れるように、弓の弦を断ち切った。こうして、彼の力の元は知られなかった。(9節)

 この弦(つる)は、弓の絃に使われた麻です。弓に使われるくらいですから、当時としては最強の糸でした。
 サムソンが戯言(ざれごと)を言ったのを知って、デリラは怒ります。

「まあ、あなたは私をだまして、うそをつきました。さあ、今度はどうしたらあなたを縛れるか、教えてください。」(10節)
 すると、サムソンは彼女に言った。「もし、彼らが仕事に使ったことのない新しい綱で、私をしっかり縛るなら、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」(11節)
 そこで、デリラは新しい綱を取って、それで彼を縛り、「サムソン。ペリシテ人があなたを襲ってきます」と言った。奥の部屋には待ち伏せしている者がいた。しかし、サムソンはその綱を糸のように腕から切り落とした。(12節)

 二度までうそをつかれたデリラは、もちろん、サムソンをなじります。なにしろ、大金が懸かっているのです。怒ったふりをして、誘惑を重ねるのです。それでも、サムソンは嘘をつきます。

「もしあなたが機(はた)の縦糸といっしょに私の髪の毛七ふさを織り込み、機のおさで突き刺しておけば、私は弱くなり、並みの人のようになろう。」(13節)

 機織り機は、いまでは古民具博物館にでも行かないと目にすることはありませんが、明治時代頃までの農家では、機織り機で布を織るのは女の仕事でした。外国でも布を織るのは女の仕事で、どこの家でも機織り機やそれに類した機具があったのでしょう。つい先ごろまで、女性がミシンや裁縫箱を必需品としていたのと同じです。デリラのような女でも、機織り機をもっていたのかもしれません。
 私は機織りの経験はありませんが、実演を見たことがあります。機織り機は、初めに縦糸を張って、そこへ横糸を差し込んでいきます。その時に横糸を詰めるのに使うのが「おさ」です。サムソンは彼の髪の毛七ふさを、縦糸を張った機の横糸として織り込んで、おさで止めておけばよいと伝えたのです。

 彼が深く眠っているとき、デリラは彼の髪の毛七ふさを取って、機の縦糸といっしょに織り込み、それを機のおさで突き刺し、彼に言った。「サムソン。ペリシテ人が彼を襲ってきます」すると、サムソンは眠りからさめて、機のおさと機の縦糸を引き抜いた。(14節)
 そこで、彼女はサムソンに言った。「あなたの心は私を離れているのに、どうして、あなたは『おまえを愛する』と言えるのでしょう。あなたはこれで三回も私をだまして、あなたの強い力がどこにあるのかを教えてくださいませんでした。」(15節)
 こうして、毎日彼女が同じことを言って、しきりにせがみ、責め立てたので、彼は死ぬほどつらかった。(16節)

 熱くなりやすいサムソン。女好きのサムソンにしては、三回もうそを言い通すのは、かなりの意志力でした。サムソンにしても、デリラの下心はわかっていたのでしょう。自分が神から聖別されたナジル人だという自覚もあった?
 けれども、その危険な場所から立ち上がって、帰ることができませんでした。
 彼は、デリラのところに居座っています。デリラにほれ込んでしまったのです。




 
 

サムソンとデリラ

2021年05月28日 | 聖書

 

いよいよサムソンの前に、あざとい女デリラが現れます。

サムソンの豪放さと怪力ぶりが、神のご計画だったことがわかる終局になります。

Coffee Break旧約聖書通読エッセイ  ヨシュア記、士師記129 サムソンとデリラ

 

 サムソンの物語は、聖書を「神のことば」だと教えられて読み始めた純真な読者を驚かせるかもしれません。私たちの良識ある(と思っている)常識に、突き刺さって来るからです。偶像礼拝の異邦人がイスラエルを圧迫して苦しめているからといって、神は、サムソンのような乱暴者を用いられなくてもよさそうなものを。いったいイスラエルには、道理を説いて、敵と知的に渡り合えるようなリーダーはいなかったのか。平和的交渉で国境を線引きし、平和共存のための協定を結べるような政治家は! わざわざ神が霊を送られるなら、凡庸な人間をも、「神のように」愛と知恵で満たして下さるべきではないのか。

 神がいるかいないかの論争になると、結局、このように神さまに「噛みつく」人が少なくありません。悪いのは、自分ではなくて、他人である、環境である、災害である、そのような悪を放置している神である。どこに神がいるのか、というわけです。
 私たちの常識に挑戦してくるのは、じつは、サムソンの物語が最初ではありません。旧約聖書の第一ページを読んだとき、すでに、だれもが感じることなのです。

 「神がエデンの園の中央に、食べてはいけない木の実のなる木をわざわざ植えていたのはひどい」というコメントを、どこかのサイトで読んだことがあります。これは、「ひっかけ問題」だというわけです。
カインのアベル殺しも、神様がカインとアベルのささげ物に平等に目を止めなかったからだ。大洪水でいっせいに地上の人間を滅ぼすなんて論外。さらに、ノアとその一家だけを救うなんて依怙贔屓(えこひいき)。どうして、天に届く塔を立てようと挑戦することが悪いのか。と、際限がありません。それでも、聖書にむしゃぶりついていくことができるでしょうか。相手は神様なのです。聖書が語りかけてくるメッセージは、勝ち負けのある論争ではないのです。

 ★★★★★

 サムソンは、イスラエルを二十年間治めた士師でした。必要な場所では、神の霊が下って人間わざとは思えない働きをするサムソンを、敵も恐れ、それゆえ、平和が保たれたのです。イスラエルの人々が、彼に従ったのは当然でした。
 しかし、力でねじ伏せる関係に、しょせん、真の信頼はありません。

 イエス様も、「剣を取る者は、みな剣で滅びます」(新約聖書マタイの福音書26章52節)と言われました。
 ペリシテ人は、サムソンがペリシテ人にしたことを忘れていませんでした。いつか仕返しをしてやろうと、機会を狙っていたのです。

 サムソンはガザへ行ったときそこでひとりの遊女を見つけ、彼女のところに入った。(士師記16章1節)
 このとき、「サムソンがここにやって来た」と、ガザの人々に告げる者があったので、彼らはサムソンを取り囲み、町の門で一晩中、彼を待ち伏せた。そして、「明け方まで待ち、彼を殺そう」と言いながら、一晩中、鳴りをひそめていた。(2節)
 しかし、サムソンは真夜中まで寝て、真夜中に起き上がり、町の門のとびらと、二本の門柱をつかんで、かんぬきごと引き抜き、それを肩にかついで、ヘブロンに面する山の頂へ運んで行った。(3節)

 この場面もまた、解説なしに笑えるところです。アニメ映画に向いているような場面です。
 門を門柱ごと引き抜いて肩に背負って山に登り、その頂上に捨てたのです。門の大きさがどれくらいであっても、すごい力です。ペリシテ人は、ただあっけにとられたことでしょう。
 そこで、危険を察知して、いち早く帰るのがふつうの人間ですが、サムソンは違いました。その夜は、ソレクの谷に行って、デリラという名の女と寝たのです。

 そのニュースを耳にしたペリシテ人の領主たちは、デリラに使いを送って言いました。「サムソンの強い力がどこにあるのか、サムソンを口説き落として、聞き出してくれないか」。
 どんな人間にもかならず、泣き所があるはずだから、それを知らせてくれ。それで、ペリシテ人たちがサムソンを縛り上げることができたら、デリラにお礼として銀千百枚を渡す、と言うのです。
 デリラは銀千百枚に心を動かされました。当時、イスラエルの祭祀儀礼に携わることになっていたエリート・レビ人の年収が銀十枚だった(新実用聖書注解・いのちのことば社)のですから、どれほどの高額だったか想像がつきます。
 
 デリラは、怪力の秘密を聞き出そうと、執拗にサムソンに迫ります。
「あなたの強い力はどこにあるのですか。どうか、私に教えてください。」

 ちなみにデリラとは、「浮気な、恋をもてあそぶ」の意味です。

 

 


サムソン――救国の英雄

2021年05月26日 | 聖書

 サムソンは聖書中もっとも人気のある人物の一人です。型破りで豪放なキャラで俗受けするのですが、実際は悲惨な物語を生きました。国が外国(ペリシテ人)に抑圧され、迷走している時代でしたから、神様は彼を生まれる前からサムソンを聖別され、用いられました。

 

 Coffee Breakヨシュア記・士師記128 救国の英雄(士師記15章7節~20節)


 自分の妻がほかの男の妻になっていたことに腹を立てたサムソンは、ジャッカルを使ってペリシテ人の土地の刈り取りを終え束ねておいた麦、まだ刈り取る前の麦畑、それにオリーブ畑に至るまでを、燃やしてしまいました。そのうえ、妻とその父の家に火をつけて殺したペリシテ人たちを「激しく打ち」復讐しました。さながら、竜巻の襲来のような乱暴な足跡を残していくサムソンに、ペリシテ人も激怒しました。手に手に武器を持って攻め上ってきたのです。
 驚いたのはユダの人々です。彼らの支配者であるペリシテ人と戦うことなど、最初からあきらめているので、彼らはペリシテ人に訊ねます。
 
「なぜ、あなたがたは、私たちを攻めに上って来たのか。」彼らは言った。「われわれはサムソンを縛って、彼がわれわれにしたように、彼にもしてやるために上ってきたのだ。」(士師記15章10節)

 ユダの人々は、騒ぎの張本人であるサムソンを捕えてペリシテ人に渡すことにしました。三千人もの人数で、サムソンが隠れているエタムの岩の裂け目にやってきます。
 
 彼らはサムソンに言った。「私たちはあなたを縛って、ペリシテ人の手に渡すために下ってきたのだ。」サムソンは彼らに言った。「あなたがたは私に撃ちかからないと誓いなさい。」(12節)
 すると、彼らはサムソンに言った。「決してしない。ただあなたをしっかり縛って、彼らの手に渡すだけだ。私たちは決してあなたを殺さない。」こうして、彼らは二本の新しい綱で彼を縛り、その岩から彼を引き上げた。(13節)

 サムソンは自ら進んで捕えられたのです。暴力沙汰になると、剛腕の自分が同胞を傷つけてしまうことを懸念したのです。(新実用聖書注解・いのちのことば社)
 
★★★★★

 捕えられたサムソンを見たペリシテ人は、叫び声をあげて彼に近づいてきました。なぶり殺しにしてやろうと言うわけでしょう。新しい綱二本でぐるぐる巻きにされているのですから、サムソンも絶体絶命です。

 その時、主の霊が激しく彼に下り、彼の腕にかかっていた綱は火のついた亜麻糸のようになって、そのなわめが手から溶け落ちた。(14節)のです。
 サムソンは、生新しいろばのあご骨を見つけ、手を差し伸べて、それを取り、それで千人を打ち殺した。(15節)

 アニメや歴史物の映画などでは、腕力のあるヒーローが一人で千人を倒すような荒唐無稽なスペクタル場面が、観客をわくわくさせます。この聖書箇所は、場面状況も視覚的で生々しく、まるでエンタテイメントのシナリオのようです。
 サムソンは、気を良くして歌います。

   「ろばのあご骨で、
   山と積み上げた。
   ろばのあご骨で、千人を打ち殺した。」(16節)

 ろばと山は、ヘブル語で同じオン(ハモール)なので、ここはごろ合わせになっているそうです。(新実用聖書注解) ごろ合わせの歌が出てくるほど、サムソンには余裕があったのです。
 ところが、敵はあとからあとから押し寄せます。サムソンはのどの渇きを覚え、さすがにエネルギーが切れそうになって、主に叫びました。

「あなたは、しもべの手で、この大きな救いを与えられました。しかし、今、私はのどが渇いて死にそうで、無割礼の者どもの手に落ちようとしています。」(18節)
 すると、神はレヒにあるくぼんだ所を裂かれ、そこから水が出た。サムソンは水を飲んで元気を回復して生き返った。それゆえ、その名は、エン・ハコレと呼ばれた。それは今日もレヒにある。(19節)
 こうして、サムソンはペリシテ人の時代に二十年間、イスラエルをさばいた。(20節)

 ろばのあご骨のような「武器」で、千人を倒すとは痛快です。同じような話が士師記3章31節にあります。エフデのあとに士師となったシャムガルが、牛の突き棒でペリシテ人を六百人を打ったと記されています。
 サムソンやシャムガルは、今日でいえば、超一流のフットボール選手、超一流のレスリング選手、最高段位の剣道選手を合わせたような、強力で俊敏な体力体格をもっていたのは間違いなさそうです。しかし、大きな戦いで、手近にあるろばの骨や突き棒を使わなければならなかったところに、当時のイスラエルの弱さが見えます。
 聖書では、イスラエルは神が選んで育成されている「神の民」の国ですから、つい最強のイメージを描きたくなるのですが、じつは、とても弱小国だというのがわかります。
 それから、二十年間イスラエルを治めたサムソンは、救国の英雄でした。