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ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

人の心は・・ 2016年02月24日の聖書通読エッセイより

2020年03月07日 | 聖書

        人の心は病苦をも忍ぶ。
        しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(箴言18章14節)

 ほんとうに、深くうなずいてしまいます。
 たくさんの方々が、病院で深刻な病と闘っています。人間は不治の病であっても、なんとか、治療して元気になりたいと願うのです。
 生きようと思うかぎり、大きな傷痕の残る手術も、副作用の強い抗がん剤や、つらいリハビリにも、立ち向かえます。
 しかし、心がひしがれた瞬間、人間は耐えきれなくて、折れてしまうのではないでしょうか。


           ★★


 だからといって、「打ちひしがれた人」に「元気を出しなさい」と励ますのはどうでしょうか。
 「心を前向きにシフトして」「いつもポジティヴに」なんて、言ってもらっても、どうしようもないと叫ぶ声もあるでしょう。
 箴言がこの言葉を載せているのは、心のひしがれた人を励ますためでも、そこから脱出する方法を、てっとり早く教えるためではなく、シンプルに、だれでも、
 人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか、となり得ると、宣告しているだけだと思います。
 人間はつい、はっきりした治療法を欲しいと思うのですが、
 聖書は、容赦なく、問題を問題として投げかけています。
 たとえば、次のことばはどうでしょう。

 貧しい者は自分の兄弟たちみなから憎まれる。
 彼の友人が彼から遠ざかるのは、なおさらのこと。(箴言19章7節) 


           ★★


 赤裸な人間の心を、ポンと提示されて、
 「これはひどい! 少なくとも私は違う!」とは、
 だれも言い切れませんね。
 自分にも思い当たる弱さや闇。明らかに神の基準ではない「尺度」があって、それでこそ利巧で、かしこいと、思いたいのです。

 ちなみに、箴言の前置きは次のようになっています。
  イスラエルの王、ダビデの子、ソロモンの箴言。

        これは、知恵と訓戒とを学び、
        悟りのことばを理解するためであり、
        正義と公義と公正と、
        思慮ある訓戒を体得するためであり、
        わきまえのない者に分別を与え、
        若い者に知識と思慮を得させるためである。
        知恵のある者はこれを聞いて理解を深め、
        悟りのある者は指導を得る。      (箴言1章1節~5節)



🌸箴言は、聖書の20番めに置かれた書物です。聖書の中では「知恵文学」に分類されています。
 ソロモンは、ダビデ王の子、古代イスラエル王国最盛期の王。
 いつも周辺国から侵略されていた弱小国イスラエルは、ダビデ、ソロモンの時代(BC1011年頃~BC930年)に最大の領土と栄華を誇りました。知恵と英知により政治。商業、貿易、軍事面すべてにおいて順風満帆に運んだ時代、その中心地であるエルサレムの宮殿には、多くの国々から朝貢があったことが聖書に記されています。
 ソロモンの秘宝伝説やシェバの女王伝説として、映画にもなっているので、話題満載の人物ですが、
 さとうは、日本人としては、藤原道長のイメージが(その隆盛と幸運において)、ソロモンと重なるような気がします。

    





 

毎日の日課――聖書通読エッセイ

2019年07月07日 | 聖書
2019年04月26日

 もう一つのブログSeeSaaに毎日投稿している通読エッセイです。すこし長いですが。お読みいただければ感謝です。


 タイトル
Coffee Break新約聖書通読エッセイ 381  「おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。(ルカの福音書12章1節~7節)


 そうこうしている間に、おびただしい数の群衆が集まって来て、互いに足を踏み合うほどになった。イエスはまず弟子たちに対して、話し出された。「パリサイ人のパン種に気をつけなさい。それは彼らの偽善のことです。(ルカの福音書12章1節)

 自分の立場が「聖い」とか「正しい」とか「りっぱだ」と思う時は、要注意ですね。自覚的に、「聖くなろう」「正しくいよう」「りっぱにふるまおう」とするのは、悪い事ではないはずですが、そのような心構えと、行動の偽善との間には、気をつけていないと、一歩の開きもないことが多いのです。

 半世紀も前ほどになりますが、学校の先生の仕事は、「聖職」と言われました。一方で、「教師もまた労働者」だという考え方も現れ、組合運動や政治運動が盛んになったころがありました。先生は時間給では測れない貴い仕事をしているのだから、「労働運動」をするのはけしからんという意見があり、先生がスキャンダルを起こすと、「聖職者のくせに」とも言われました。
 これらは、結局、「学校の先生とは、かくあるべき」とのイメージが前提になっているのです。

 「かくあるべき」といわれる役割に、偽善はつきものです。もちろん、霊的使命に仕える僧侶や神官や牧師も、そのようなイメージをもたれ、実際にも、そのように身を律して「聖潔に」暮らしている方も多かったと思います。
 しかし、外見を繕うことと、内面の聖潔はまた別です。世俗的な儀式や約束事が固定化してしまうと、技術的に「聖潔」を演じるのはさほど難しいことではなくなります。

 パリサイ人や律法学者たち(ユダヤ教の指導者、専門家)が、イエス様から厳しく非難されるのは、彼らの偽善が、もはや定型化していたからでしょう。



 おおいかぶされているもので、現されないものはなく、隠されているもので、知られずに済むものはありません。(2節)
 ですから、あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます。(3節)


 どのように巧みな偽善も、神の目からは、丸見えです。そればかりではなく、そのような偽善を、神は、かならずあばいてくださるのです。

 同時に、私たちそれぞれ小さな者がささやく「ひそひそ話」も、かならず明るみに出てしまうのです。声高なうわさ話となって、巷間に広がるのです。
 つまり、神様の前では、何も隠されようがないのです。



 そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺してもあとはそれ以上何もできない人間たちをおそれてはいけません。(4節)
 恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込まれる権威をもっている方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい。(5節)


 「からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たち」とは、私たち人間ぜんぶのことです。
 もちろん、からだを殺されることは、この世にある人間にとって恐ろしいのです。イエスは、それを承知の上で、死後のゲヘナ(地獄)を持ち出しているのです。
 イエスが宣べ伝えている「神の国(天国)」では、当然、「いのちは。死で終わるものではない」のです。死んだ者は、いったん黄泉に送られ、そこで眠りに尽きます。やがて、この地上が作り変えられます。最後の審判があり、その時、罪びとと判決を受けた人は、ゲヘナに投げ込まれるのです。これこそ、本当の「死」です。これこそ、恐れるべきものだと聖書は語ります。

 でも、審判者は全知全能の神ですから、誤審はあり得ません。正しく生きた人は、ゲヘナを恐れることはないのです。

 五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません。(6節)
 それどころか、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。恐れることはありません。あなたがたはたくさんの雀よりもすぐれた者です。(7節)


 また、神は、現在の私たちの状態も、すべて把握しておられるのです。
 私たちの髪の毛の数まで、ご存知なのです。神の毛は、毎日のように抜け落ち、また生えています。そのような刻々と移り変わる髪の毛の数を、地上の70億人分すべてを数えることができる方だと聞くと、心から畏(おそ)れを覚えます。
 同時に、神は愛の神です。雀のようなとりたてて貴重でない鳥でさえ、ちゃんと覚えておられるのです。







ひしがれた心

2019年06月25日 | 聖書



        人の心は病苦をも忍ぶ。
        しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(箴言18章14節)




               



 深くうなずいてしまいます。
 たくさんの方々が、病院で深刻な病と闘っています。人間は不治の病であっても、なんとか、治療して元気になりたいと願うのです。
 生きようと思うかぎり、大きな傷痕の残る手術も、副作用の強い抗がん剤やつらいリハビリにも、立ち向かえます。
 しかし、心がひしがれた瞬間、人間は耐えきれなくて、折れてしまうのではないでしょうか。
           


            箴言は旧約聖書の20番目に置かれた書物です。
            ことわざ、警句、人生の知恵を語っています。






イースターをよろこぶ

2019年04月23日 | 聖書

 一昨日はイースターでした。
 十字架に付けられ死んで墓に葬られたイエスが、よみがえられた日です。生き返りではなく、よみがえり――復活です。これは聖書に記された事実です。
 はたしてイエス・キリストは本当によみがえったのか。よみがえりとはどういう意味なのかを問う議論が、イースターのたびに、ある人々の間で繰り返されているように思います。

 しかし、イエス・キリストを信じる私たちは、イースターをお祝いします。イースターエッグを作ったり、イースター食事会を楽しんだりします。イエス様の復活に心から感謝して、喜ぶからです。
              
                          

 復活を喜ぶ理由は、なんといっても、今も、「イエスは生きておられる」からです。あの十字架刑の日に、イエスが死んでしまって墓に葬られたままの方であったらどうでしょう。
 私たちは、イエスのその遺徳をたたえるだけです。そのご生涯を追い、その言動を一所懸命唱えて、なんとか、あたかも生きておられるように、イエスのお姿を固定しようと躍起になるでしょう。世俗の世界では、よくあることですが、その生涯を装飾するため、まさに、新たな「神話」が作られるかもしれません。自分こそイエスだと名乗るような者が出てくる可能性もあります。

 死で終わる物語は、人の心にさまざまな葛藤を生み出します。このときとばかりに、サタンが働くのです。
 自分の一生を、ある期間だけで終わりたくない、死にたくないというのは、私たち人間の本能でしょう。でも、どうして、そのような本能が組み込まれているのでしょうか。

 時々であっても、生涯のうちに、このような問いにとらわれたことがない人など、いないのではないでしょうか。




 
 二〇一〇年八月に、聖書通読エッセイを始めてからきょうまで、私は何度、創世記の始めに戻って読んだかわかりません。
 創世記の始まりは、たかだか半世紀余り世に存在している私には想像を超えた次元の話で、文字通り雲をつかむような世界です。ところが、読み進むにつれて、やっぱり戻ってみるのです。
 神が、楽園に置かれた最初の人間アダムとエバ、その人たちの顔かたちや暮らしぶりを尋ねたいのではありません。

 彼らも、たしかに、「息をしていた者」であり、「食物を必要としていた者」です。どうやら裸だったようですが、それは、彼らがターザンのように、素朴で、文明からはなれた原始林にいたからではありません。服を着たいのに買うお金がなかったとか、ブティックがなかったとか、寒さに震えていたというわけではありません。楽園は、完全に快適に温度も湿度も調節された世界で、彼らは、何かを身にまとうという必要さえ感じなかっただけのようです。

 夫婦二人だけですから、ふたりのセックスはほかの人間の目に触れるのでもなく、したがって、裸である事実に「目が開かれる」必要がなく、ただ、しぜんに愛し合っていたのでしょう。
 悪魔がそそのかすまでは、彼らには、禁止されている木の実が、「目にうるわしく、おいしそう」であることさえも、気がつかなかったのです。
 
 楽園には、「知恵の木」と並んで、「いのちの木」があって、いつでも取って食べることができました。ですから、そこで、人間は(ふたりは)永遠に生きるはずだったのです。

 私たちは、「永遠に生きるのが当たり前である者」として造られたのです。楽園にいさえすれば、つまり、神の守りの中にいれば、永遠に生きることができるはずだったのです。
 神のご命令に背いて、楽園を追放されたとき、私たちは、死ぬ者となったのです。


 
 
 死を受け入れるのが、正しい事実認識だと考えて、なんとか達観しようとしている人は、過去に大ぜいいました。達観できなくても、せめて、生を謳歌しようとすることは、「善」だと考えられました。楽しく前向きに有意義に謳歌できないなら、刹那だけでも楽しもうというのは大変歓迎されました。

 名や財産や子を残すことも、いのちの延長だと受け取られ、そのために人生を費やすのは、正しいことだと考えるのも、説得力があります。


 それでも、それでも、それでも・・・やっぱり、「生きたい!!」と望み、健康に気を付け、老いても正気を保とうといろいろ試しているのに、やっぱり、確実に老いていく自分の外見や意識を見るのです。そして、うなだれるのです。

 それは、当然なのだと、思うのです。
 私たちは、もともと、楽園にいて永遠に生きるように造られたのです。死は、私たちが造られた目的から見ても、理不尽な現象だと、聖書は教えています。

 私たちが、復活を喜ぶのは、ごくごく自然な本能なのではないでしょうか。



    さとうのもう一つのブログ「新約聖書通読エッセイ」から再録しました。
              http://genisis-a.seesaa.net/





 

祈りの部屋①

2019年04月02日 | 聖書



 年を取り、もう、神様にささげるものが、何もなくなってしまいました。
 
 そこで、自分の部屋を「祈りの部屋」にしました。
 自分が終日、ここで祈るのです。

 もちろん、祈りたい方々と集まって祈れる場所にしました。

 狭くて小さなところです。
 しかし、神様は世界中のあらゆるところに遍在しておられるかたですから、
 この粗末な部屋にも臨在してくださって、祈りにこたえてくださるというのが、

 聖書の神様を信じるキリスト者の希望です。

 でも、聖書を知らない、イエスなど信じないと言われる方も、入っていけないのではありません。それは、教会と同じです。

 聖書の神様は、私たちすべての人間をお造りになったお方です。
 まだ神さまを知らない方も、神様はあなたを存知なのです。


     


 人は祈る存在だと言われます。
 祈らないではおれない存在です。それはやっぱり、私たちを作ってくださった神様に、お話したり、お願いしたくなるように、造られているからです。
 儀礼的に、若いカップルに、「これからの結婚生活のさいわいをお祈りいたします」と書くときでさえ、
 大きな前途を、自分の理性を超えた方にお願いしたいと思っているのではないでしょうか。

 むずかしいことを、あれこれ考える必要があるでしょうか。
 神様の前に、静まって祈れるように、
 この小さな空間を、神様におささげしたいのです。

 私には、神様にささげるものは、何もありませんが、
 神様は、人との会話(お祈り)を、何よりもお喜びになるということですから。

 ただ、無駄話を聞いていただくだけかもしれませんが、
 どんな話も、いやな顔一つされずに聞いてくださる方をお迎えできるこの部屋は、

 じつは、とても、大きくて豪華な部屋なんです。
 設営費は、ほとんどかかりませんよ!