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ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

伝道者の書4、私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。(伝道者の書2章10節~2章26節)

2020年05月08日 | 聖書
 私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。(伝道者の書2章10節)
 しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてが空しいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。(11節)

 「心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした」王が、それでも、労苦を振りかえって「なんと、すべてがむなしいことよ」と言っています。「何一つ益になるものはない」と断言するのです。国や社会のために働いた多くの人たちはみな、こんなふうに思うものなのでしょうか。たとえば、会社を十倍大きくした実業家は、それを「何一つ益になるものはない」と振り返るでしょうか。

 私は振り返って、知恵と、狂気と、愚かさとを見た。いったい、王の跡を継ぐ者も、すでになされた事をするのにすぎないではないか。(12節)

 伝道者の目は醒めきっています。大事業も何一つ益にならないだけでなく、そのあとを継ぐ者も、やはり益になることはできないとでも言うようです。

 私は見た。光がやみにまさっているように、知恵は愚かさにまさっていることを。(13節)
 知恵ある者は、その頭に目があるが、愚かな者はやみの中を歩く。しかし、みな、同じ結末に行き着くことを私は知った。(14節)

 それでも、彼は知恵が愚かさにまさっていると自分を慰めています。すると、もっと深刻な結論に行きつくのです。

 私は心の中で言った。「私も愚かな者と同じ結末に行き着くのなら、それでは私の知恵は私に何の益になろうか。」私は心の中で語った。「これもまたむなしい。」と。(15節)
 事実、知恵ある者も愚かな者も、いつまでも記憶されることはない。日がたつと、いっさいは忘れられてしまう。知恵ある者も愚かな者とともに死んでいなくなる。(16節)

 多くの物を建設した知恵ある者も、愚かな者と同じように死んでいくのです。努力した人も怠け者も、多くの人につくした人も悪人も同じように滅びてしまうのです。これはたしかに、志を持って前向きに生きている者にとって、最大の不条理です。

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 私は生きていることを憎んだ。日の下で行なわれるわざは、私にとってはわざわいだ。すべては空しく、風を追うようなものだから。(17節)
 私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。後継者のために残さなければならないからである。(18節)
 後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。(19節)

 さらに大きな不条理は、愚かな者が偉大な業績を引き継ぐのを、だれも止めることができないことです。知恵ある王であっても後継者の息子の真価はわからないのです。

 私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。(20節)
 どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。(21節)
 実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。(22節)
 その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。(23節)

 妃とそばめ合わせて千人もいたソロモンには、たくさんの王子がいたことでしょう。後継者争いも熾烈だったに違いありません。宮廷生活は王の好意を得るため、バカげた闘争が繰り広げられていて、英明なソロモンをうんざりさせることも多かったのではないでしょうか。

 ソロモンの後を継いだ、レハブアムが愚かだったことは、彼が王位を継いだ後、たちまちイスラエルを分裂させてしまったいきさつを見るだけでよくわかります。(Ⅰ列王記12章) それは単に国を分裂させたという事実にとどまりません。「主(しゅ=神)」の選びの民イスラエル」12部族の内の十部族が、イスラエルの神からはなれ、偶像礼拝をするという大きな迷走の中に入ってしまったのです。(同13章)
 ソロモンが、すべてを見通していたかどうかはわかりませんが、たしかに予感はあったかもしれません。

 人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、何も良いことがない。これもまた、神の御手によることがわかった。(24節)
 実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。(25節)
 なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、たくわえる仕事を与えられる。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。(26節)

 伝道者の、この無力感、虚無感は、神の御心にかなって全盛期の王になったゆえに、「民から集め、たくわえた」王の叫びです。読む者も改めて嘆息するようなことばです。





伝道者の書3、笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。(伝道者の書1章18節~2章10節)

2020年05月08日 | 聖書
 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、
 知識を増す者は悲しみを増す。(伝道者の書1章18節)


 私個人は、「知恵が多くなれば悩みも多くなり…」と言うほどの知恵や知識とは無縁だと思いますが、小さな知恵や知識の断片でも、「手の中の燠火(おきび)」のように、扱いに困ることがあります。

 昨日も、以前同じ仕事場だった三人組で食事をしました。他愛ない生活の話が多い中で、いつもAさんがこだわって持ちだす話があります。それは、原子力発電のことです。原子力発電が危険であり、人類の未来を全世界的に損なうというのが、Aさんの主張です。
 Aさんの主張に反対しているわけではありませんが、その主張が展開する地球の未来像などがあまりにSFじみているし、それがどこからの情報なのかもわからないので、残りのふたりはただ、苦笑いするしかありません。
 議論を始めるにはみんな準備不足で、場所も時もあまり適切ではないわけです。わずかな手持ちの知識で反論し合ったりすれば、互いに尖り合って気まずくなるだけです。
 
 もともとは、原子力のような先端エネルギーの発見がなく、それを使っての技術が生まれなければ、難しい問題は起きなかったわけです。火薬が発明されて大量殺人兵器が生まれたように、インターネットが生まれて新たな情報戦や様々な人権侵害が起ったように、知識や知恵は、それを追求した人に復讐するような面があるのではないでしょうか。
 
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 私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。(伝道者の書2章1節)
 笑いか。ばからしいことだ。快楽か。それがいったい何になろう。(2節)
 私は心の中で、私の心は知恵によって導かれているが、からだはぶどう酒で元気づけようと考えた。人の子が短い一生の間、天の下でする事について、何が良いかを見るまでは、愚かさを身につけていようと考えた。(3節)

 高度な知的社会の日本ですが、私たちはいつも「快楽」から呼びかけられています。
 必需品の「衣食住」から、教養娯楽、エンターテイメント、テーマパーク。観光地とその設備。家にいるしかない者にはテレビが娯楽を提供してくれます。
 バラエティ番組の多くが、いつもいつも笑っているのに気が付きます。面白くて笑っているというより、笑いで構成された「劇」だと言っても過言ではありません。もちろん、笑いの中には「快楽」をほのめかせています。タレントのスキャンダルや、女性の性が笑いのネタになっています。そのような番組を見る人は、ビールや酒のコマーシャルに触発されて、「飲んでいる」かもしれません。ソロモンが、今私たちのこの光景を見たなら、「3千年昔と、人の本質は何にも変わっていない」と思うことでしょう。

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 残念ながら、ソロモンの時代は、すべての庶民に、毎夜エンターテイメントを観て馬鹿笑いできるような「快楽」が提供されていたとは思えません。
 快楽の大きな条件に、富があります。権力も必要です。

 私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、(4節)
 庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。
 木の茂った森を潤すために池も造った。
 私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。(7節)
 
 ソロモンにとって、美しい庭園もおいしい果樹が獲れる菜園も森林浴をする森も池も、自分専用のものでした。彼のグルメ志向を満たすために、牛や羊を飼い、料理をする人たちもみな、彼の奴隷でした。

 私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。(8節)

 美しい女性たちも必要なら、いくらでも自分のものとすることができました。ソロモンが得た快楽と、今日の私たちの快楽の決定的な差は、ソロモンの快楽はすべて、彼だけのもので、彼のためだけに手作りされたもので、まさに注文製品だったことです。
 彼は自分がどんなにぜいたくな快楽のなかにいるか、わかっていたことでしょう。
 そのこと自体を、彼自身肯定しているのです。

 私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。(9節)
 私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。(10節)




「伝道者の書」は、旧約聖書の17番目に置かれた書物です。聖書の中では「知恵文学」に分類されています。
 ソロモンは、古代イスラエル王朝(BC1044年~BC586年)の三代目の王でした。
 ミケランジェロの彫刻、投石のポーズで知られる「ダビデ王」の子です。イスラエル王国全盛期を治め、贅沢で洗練された生き方を楽しんだだけでなく、政治、軍事、知識、宮廷生活など、あらゆる面で最高を味わいつくしたと言われています。
 彼の生涯は、同じ聖書の「サムエル記」「列王記」に記されています。また、同じ知恵文学の「箴言」「雅歌」の著者だと伝えられています。
 ここに掲載したエッセイは、さとうまさこが、SeeSaaブログに、2016年4月19日から約一か月間連載したエッセイの再録です。










聖書通読エッセイ「伝道者の書」2

2020年05月06日 | 聖書
伝道者の書2、空の空。(伝道者の書1章10節~18節)



 「空の空」にある「空」とは、元来「息」とか「水蒸気」を意味する語で、比喩的に用いて、「すぐ消えてしまうもの」「実体のないもの」、さらには「信頼するに足りないもの」の意味(新実用聖書注解)

 「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。(伝道者の書1章10節)
 先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。(11節)
 伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。(12節)
 私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。(13節)
 私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。(14節)

 「伝道者の書」は、いわゆる「聖書読み」でない人たちが読んでも、訴えるところがあると言われています。「なんとすべてがむなしいことよ。」は、福音の指し示すメッセージとは対極にあるように見えます。福音は、「私たちの人生は、死で終わるものではない」と示しているのです。
 自分もまた神様によって、神様のご計画の内に造られたものであるとの希望、たとえ死んでも生きる(ヨハネの福音書11章25節)存在なのだと確信が持てる時、「空しさ」を思うことはなくなるのではないでしょうか。

 聖書に、「伝道者の書」が収録されていること、その著者が、ダビデの子イスラエル王国の王ソロモンだと推定されていることに、驚きを覚える方も多いと思います。
 まして、ソロモンです。エジプトから救い出されて、神と契約を結んでいただいたイスラエルの民の国は、ダビデにおいて完成し、ソロモンの時代に盤石になったように見えるのです。
 ところが、じっさいには、神がイスラエル民族に課された「神の救いの器としての民」は、ソロモンの時代を頂点にして、迷走して行ったのです。

 古代イスラエル王国はソロモンの死後、南朝ユダ王国と北朝イスラエル王国に分裂してしまいます。国が分裂する原因は、ソロモンの奢侈な生活、多くの妻が持ち込んだ偶像礼拝、神の御心に反した軍備増強、過重な課税や労役などで同胞イスラエル人を痛めつけていたことなどが、挙げられています。
 しかし、むしろ、それらの結果として咲いた華麗な宮廷生活の中で、王が「空の空」と言わなければならなかったことこそ、原因かもしれません。

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 曲がっているものを、まっすぐにはできない。
 なくなっているものを、数えることはできない。(15節)

 私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」(16節)
 私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。(17節)


 「富ですべてを買うことはできない」とわかるためには、逆に想像もできない富を持つことかもしれません。知恵も、ほんとうに知恵や知識をぎりぎりまで極めた人だけが、その限界を「知る」らしいと、学者の方々のコメントを見ていて思うことがあります。
 以前、最高裁判所の判事だった方が、「心残りだった判決がありますか」との質問を受けて、「ないとは言えません」と答えておられたのをテレビで見ました。裁判の決着がつかないとき、けっきょく最高裁まで争われるわけですから、責任は重いのです。
 裁量権を与えられ、法律の知識やその運用の仕方を熟知していて、限界を覚える方がいるのです。
 たしかに次のような、言葉もその通りであろうと思うのです。
 
 実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、
 知識を増す者は悲しみを増す。(18節)




 「伝道者の書」は、さとうがSeesaaブログで書き続けている聖書通読エッセイの中のひとつです。2013年8月から約一か月にわたって連載しました。旧約聖書39巻のなかでは「知恵文学」に分類されています。
 ダビデ王、その子ソロモン王が君臨したイスラエル王国はBC1044年ころ、初代の王サウルが即位して始まりました。それ以前のイスラエルは、神政政治国家であり、王はいませんでした。
 BC1004年ダビデが都をエルサレムに定めて統一王朝を立て、その子ソロモンの時代が全盛期でしたが、ソロモンの死後、国は南北に分裂します。
 BC722年北イスラエル王国の首都サマリアがアッシリアによって陥落させられ、民はアッシリア捕囚に連れ去られ、世界中に散らされました。
 BC586年、バビロンによって南ユダ王国の首都エルサレムが陥落し、民はバビロン捕囚で連れ去られ、これにより、イスラエル王国は壊滅しました。

 さとうまさこ「聖書通読エッセイ」は、2010年からSeeSaaブログに、3500回ほど、連載を続けているもので、現在新約聖書の「ローマ人への手紙」に入っています。よろしければ、訪問してくださいますように。
 よろしくお願い申し上げます。

                              さとうまさこ


聖書通読エッセイより、「伝道者の書」を振り返る。

2020年05月06日 | 聖書
伝道者の書1空の空。伝道者は言う。(伝道者の書1章1節~14節)


 伝道者の書の著者は、ダビデの子ソロモンです。ソロモンは、イスラエル王国の歴史を通じて、もっとも隆盛な王でした。
 彼の時代、国力は充実し、彼はその勢力を広げ、貿易や外交力を駆使して、空前の繁栄を国にもたらしました。(Ⅰ列王記4章21節~34節)何と言ってもソロモンは、第一神殿を建てた王でした。(Ⅰ列王記5章~9章)新しい事業を次々と展開し、手にした黄金で王宮を建て、軍備を増強しました。また「妃7百人、側女3百人」と言われる多数の妻をもちました。
 彼はまた、高い徳と知恵をもった英明な王としても知られました。その洗練された宮廷は、シェバの女王を驚かせ(同10章1節~13節)、その知恵で裁いた難事件は、聖書にも記されています。(Ⅰ列王記3章16節~28節)生きている間に3千の箴言を書き,詩歌に通じ、あらゆる学問にも通じていたと言われています。

 「伝道者の書」は、華麗で隆盛な権力者として生きた一人の王によって書かれたのです。このことは、書物のことばに重い真実を加えていると、思います。


 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。(伝道者の書1章1節)
  空の空。伝道者は言う。
  空の空。すべては空。(2節)
  日の下で、どんなに労苦しても、
  それが人に何の益になろう。(3節)

 「労苦することが何の益になろう」という嘆息は、とても虚無的ですが、多くの人の共感を呼ばないでしょうか。長い人生においては、だれでも何度か「いったい自分のやっていることに、何の益があるというのだ。空しい」と、感じることがあるでしょう。とくに、貧しかったり、下積み続きだったりすると、人生に意味などあるのだろうかと思えてしまいます。けれども、伝道者は、貧しい下積みの庶民ではありません。ですから、ここにある「労苦」はたんに、額に汗を流して働いているような、社会的物質的に報われないような労苦ではないのです。それだけに、意味が深いと思います。

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 一つの時代は去り、次の時代が来る。
 しかし地はいつまでも変わらない。(4節)
 日は上り、日は沈み、
 またもとの上る所に帰って行く。(5節)
 風は南に吹き、巡って北に吹く。
 巡り巡って風は吹く
 しかし、その巡る道に風は帰る。(6節)
 川はみな海に流れ込むが、
 海は満ちることがない。
 川は流れ込む所に、また流れる。(7節)


 「生々流転(せいせいるてん)」と言いますし、「歴史は繰り返す」などとも言います。前者は自然現象の表現であり、後者は人の営みに対するものでしょうか。
 大きな視点で見ると、目に見える世界が「ある法則で繰り返されている」のを、だれでも「知って」いるのです。
 多くの学者を抱え、世界を観察し、当時の最高の知性を得ていたソロモンは、もとより、「繰り返す」世界を見据えていたのでしょう。
 その結果、彼は次のように、結論するのです。

  すべての事はものうい。
  人は語ることさえできない。
  目は見て飽きることもなく、
  耳は聞いて満ち足りることもない。(8節)
  昔あったものは、これからもあり、
  昔起こったことは、これからも起こる。
  日の下には新しいものは一つもない。(9節)

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 私たちが生きている、「日単位」の世界では、毎日、胸を痛めるような事件が起こります。胸躍るすてきなニュースももちろん、あります。

 ここ最近は、地震のニュースでもちきりです。家が倒壊し、地滑りが起り、道路が破壊され、多くの人が亡くなり、震度4以上の余震が数日間に80数回もあったなどと聞くと、恐ろしさに胸が痛みます。
 ところが、日本では古来大地震が繰り返されてきたのです。私たちが現に生きている過去五十年間にもたくさんの地震がありました。そして、地震学者のコメントを聞く限り、それらは防げない災難で、これからも起こり得るのです。
 科学が進歩し、マスコミが発達し、ネットを自由に駆使できる時代の私たちは、ある意味ソロモンのように大きな情報を握っているかもしれません。
 だからこそ、ソロモンのつぎの言葉に、共感できる気がすると思います。

 「これを見よ。これは新しい。」と言われるものがあっても、それは、私たちよりはるか先の時代に、すでにあったものだ。(10節)
 先にあったことは記憶に残っていない。これから後に起こることも、それから後の時代の人々には記憶されないであろう。
 伝道者である私は、エルサレムでイスラエルの王であった。(12節)
 私は、天の下で行なわれるいっさいの事について、知恵を用いて、一心に尋ね、探り出そうとした。これは、人の子らが労苦するようにと神が与えたつらい仕事だ。(13節)
 私は、日の下で行なわれたすべてのわざを見たが、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。(14節)





 「伝道者の書」は、さとうがもう一つのブログで書き続けている聖書通読エッセイのひとつとして、2013年8月から約一か月にわたって連載したエッセイです。旧約聖書39巻のなかでは「知恵文学」に分類されています。「神の人類救いのご計画」がテーマとなっている聖書の中では、むしろ異色な趣のある書物ですが、この時期に読み返してみたいと思い、ここに再録させていただきます。
 さとうまさこ「聖書通読エッセイ」は、2010年からSeeSaaブログに、3500回ほど、連載を続けているもので、現在新約聖書の「ローマ人への手紙」に入っています。よろしければ、訪問してくださいますように。
 よろしくお願い申し上げます。

                              
さとうまさこ



箴言 陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす(箴言17章22節~28節)

2020年03月28日 | 聖書
 陽気な心は健康を良くし、
 陰気な心は骨を枯らす。(箴言17章22節~28節)


 これ、全くこの通りですね。NHKの「今日の健康」の標語にしてもらいたいくらいです。

 聖書の神様は因果応報や現生利益(ご利益)の神ではありませんから、聖書のなかには、世俗的な価値観からは、理解に苦しむ様な物語もあります。
 モーセ五書に見るモーセの死一つをとっても、なんだか得心できないと思わせられるわけです。
 せっかく、四十年もイスラエルの民を率いて荒野をさまよい、ヨルダン川の手前まで来て、あと一歩でカナンに入れる、その時になって、神は、モーセにカナンに入れない、ひとりでネボ山に登って死ぬようにお命じになるのです。つまり、「最後のおいしい成果」は後継者のヨシュアに譲りなさいと言われているのです。モーセは神のご命令どうり一人山の中に入って死に、その結果、墓もどこにあるのかわからない、となるのです。

 小さな功績でもたたえてもらいたい、メダルや褒賞をもらいたい。死んだときには盛大な葬儀で送られ、りっぱな墓を残し、出来ればモニュメントの一つも建ててもらいたいと、願う人は多いのです。

 もちろん、キリスト者にとっては、この世の墓やメダルは問題ではありませんと、言いたいところです。モーセの最後はすばらしいのです。(もちろん、神様に大きく用いられた彼の全生涯が!)

 対して、箴言は、もう少しわかりやすいのです。神の価値に則って生きることが、同時に、人間的な価値にもつながるように書かれています。

 ★ ★ ★

 悪者は人のふところからわいろを受け、
 さばきの道を曲げる。(23節)

 またしても、賄賂です。よほど賄賂が横行していたのでしょうか。上司やお世話になった方への贈り物そのものは、今日でもあることです。それで、さばきが曲げられるとしたら、その上司は「悪者」なのです。

 悟りのある者はその顔を知恵に向け、
 愚かな者は目を地の果てに注ぐ。(24節)

 愚かな子はその父の憂い、
 これを産んだ母の痛みである。(25節)

 正しい人に罰金を科し、
 高貴な人をその正しさのゆえにむち打つのは、
 どちらもよくない。(26節)

 正しい人=悟りのある者=高貴な人、愚かな者=愚かな子と、またしても対比が続きます。正しさを打つのは、ただの愚か者より、もっと悪いのですね。

 しかし、神様ご自身が「正しい人はいない」と仰せのように、つい、愚か者になってしまう弱い人間は、どうしたらいいのでしょう。
 それが次の答えです。

 自分のことばを控える者は知識に富む者。
 心の冷静な人は英知のある者。(27節)

 愚か者でも、
 黙っていれば、知恵のある者と思われ、
 そのくちびるを閉じていれば、
 悟りのある者と思われる。(28節)

 「はい。仰せのとおりです。」と思わず頭を垂れてしまいます。



 もう一つのseesaaブログの連載投稿「聖書通読エッセイ・箴言」から転載しました。