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ノアの小窓から

日々の思いを祈りとともに語りたい

松山福音センター・万代栄嗣師の投稿から

2019年03月07日 | 聖書


 
  

  記事の内容です。

●作家の五木寛之氏が、ある週刊誌のコラムに書いておられたのですが…。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて、“今様(いまよう)”という大衆歌謡が大流行していたのだとか。そのいくつかを紹介しておられる中に、次のようなものが。
“はかなきこの世を過ぐすとて 海山稼ぐとせしほどに 万の仏に疎まれて 後生我身をいかにせん”。📖
●あてのないこの世を何とか生き抜くためにと、怖いもの知らずに殺生や盗み、嘘、偽りなどありとあらゆるものに手を染めて来たものの、とうとう周囲のあらゆる神仏にも見放されて、地獄に真っ逆さま間違いなしのこの命、一体、これからどうすれば良いのか…といった意味でしょう。😔

●注目したいのは、この今様に込められた当時の庶民の心情に、罪責観や良心の呵責といった感覚が、心の底辺にあったのだろうということ。無学な庶民であっても、また、生き抜くためには残虐な場面を通り抜けなくてはならないような過酷さがあっても、善悪や罪意識がしっかりと心に植え付けられていた…ということ。当時の人々は、本当に地獄には堕ちたくなかったのです。それが、この後、救済を求める人々への鎌倉新仏教の隆盛に繋がって行きます。⁉️

ポストモダンの多様性への異様なこだわりが、何をしても、どういう生き方をしようと、それが権利だ、自由だ、尊重すべきものだ…と際限なく拡大されつつあります。明らかに、罪意識が薄弱になり、今までは悔い改めるべき罪とされていたものが、むしろ、尊重され拍手喝采を受けるべき特殊な個性とされつつあります。誰もが、自分は正義だと主張しています。同時に、悪・罪・罰の対局として描かれているキリストの愛・福音が、どんどん薄っぺらくなり、何をやっても理解され、受け入れてもらえる過保護な親の愛のようなものにすり替えられ、安易に受け取られつつあります。✝️

キリストの福音によるリバイバルを、心から求めています。しかし、説教者である身としては…適切な罪意識さえ持てなくなった現代人の心に、どうすればキリストの愛が響くのか、大いに考えさせられています。
🙁




クリスマスの前に

2018年12月04日 | 聖書

  フェイスブックからのシェアです。

  イエス・キリストが
  処女に宿り、世に来られた理由を
  ギュッと圧縮して、美しい映像で語っています。

  6分間だけ、お時間をいただけますように!



      











聖書通読エッセイから――死刑廃止運動に触れる

2018年11月07日 | 聖書

 「ノアの小窓から」とは別に、SeeSaaブログで、聖書通読エッセイを書いてきました。
 2010年8月から始めました。原則、毎日書くと決めきつい日も多かったのですが、書いてきました。
 今年3月で、旧約聖書の通読エッセイを終えました。
 いまは、新約聖書マルコの福音書の5章をたどっています。

 記事の数が、現在2900を超えています。時折読み返し、誤植や言葉の訂正,大き な勘違いがないか調べています。
 
 箴言は、旧約聖書の20番目に置かれた書物です。一種のことわざ集ですが、聖書の中では、詩編などとともに「諸書」に分類されています。
 これもまた、神さまの目を思い起こして読むことで、意味深くなっていると教えられます。
 とはいえ、私の文章はあくまで、エッセイです、自分の身に引き寄せて考え、書いています。

 再録させていただきましたので、お読みいただければ感謝です。 
                              
 

      ◎ ● ◎ ●


2016年03月18日

Coffee Break箴言・85  捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(箴言24章10節~12節)


 楽屋をお見せするようですが申し訳ないのですが、のっけから言い訳です。一度、ワードで記事を書いてコピーし、ブログに出すのです。ところが、ついさっき、何を間違ったのか、コピーしたつもりが書いた記事が全部消えてしまいました。そのあと処理も間違ったらしくて、いっさい残っていません。
 気落ちしましたが、書きなおすことにします。



 もしあなたが苦難の日に気落ちしたら、
 あなたの力は弱い。(箴言24章10節)


★★★★★

 捕えられて殺されようとする者を救い出し、
 虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(11節)


 かつて、少しだけ「死刑廃止運動」に関わっていたことがあります。これは、じつは非常に難しい社会運動なのです。なぜなら、日本では、今でも死刑廃止に反対する世論の方が多いのです。個人的にも、何の関係もない善良な市民に対する非道な殺人事件などを見ると、とうぜん加害者を憎む気持ちはもつのです。

 社会運動としては、例えば、「災害の被害者を助けよう」という世論に反対する人はいません。障害者や高齢者、さまざまな病気を持っている人、ひとり親家庭や親のない子供たちも、助けられるべきです。福祉は、充実する方が良いに決まっています。
 ところが、死刑になる人を助けようという意見には、かなり強い拒絶反応を示す人は多いのです。
 それゆえ、私たちはデモ行進をする前に、「完全に秩序ある行進をすること」「たとえ、道行く人からからかわれたり、挑発的行為を受けたりしても応じないこと」などを、確認しなければなりませんでした。
 そこには、弁護士や人権活動家の人たち、宗教家、国会議員などもいたので、実際には、私のような一介の市民が、誰かと論争になるようなことはありえませんでした。

 それに、「何故死刑がいけないのか」といった問は、とてもシリアスな議論が必要で、大声を上げて論争するにそぐわない問題です。

 たとえば、「殺人を否定する国家が、人を殺しても良いのか」と言う意見。
「死刑廃止は世界の趨勢である。死刑を廃止または停止している国は、死刑存置国より圧倒的に多い」

 ウィキピデア
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E6%AD%BB%E5%88%91%E5%88%B6%E5%BA%A6%E3%81%AE%E7%8F%BE%E7%8A%B6

 アムネスティインターナショナル
http://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/statistics.html


 たとえば、「神さまがお造りになったかけがえのない人間を『更生の見込みなし』などというのは、おかしい」
 また、どんな人間の行為も「酌量の余地がない」などとは言えない。
 たとえば、「冤罪の可能性」。これについては、「たとえ、九十九人の真犯人を逃しても、一人の冤罪者を出してはいけない」と、冤罪問題を扱っているルポライターは言うのです。


★★★★★ 


 人間は、だれでも「良いことをしたい」気持があると思います。ですが、出来るなら、良いことのために「災難や苦難」にあったり、犠牲を払ったりしたくないとも思います。
 ですから、ブームのように人が集まる社会運動がたくさんあります。
 同時に、日の当たらないところで苦しんでいる人、見捨てられている人も、たくさんいるのでしょう。
 私自身、人のためになにかの活動をしているとは言えません。せめて、神様の声を聞きたいと思って、毎日聖書を読んでいますが、それも、どうでしょう。


 助けがそこに来ているのに沈んでしまう人も悲惨ですが、助けを呼び求めているのに、知らぬ顔をして人が通り過ぎる、そんな目に遭っている人がいるかもしれません。自分はちょっと心を配れば助けられる人を、黙殺しているかもしれないのです。
 神様に次のように言われているのはたぶん、私自身でもあるのでしょう。


 もしあなたが、
「私たちはそのことを知らなかった。」と言っても、
 人の心を評価する方は、
 それを見抜いておられないだろうか。
 あなたのたましいを見守る方は、
 それを知らないだろうか。
 この方は
 おのおの、人の行ないに応じて報いないだろうか。(12節)



 ただ、悔い改めるしかありません。

 









ハロウィンのち十一月

2018年11月01日 | 聖書
    久しぶりに妹宅に行ってきました。千葉県は隣の県ですが、いざ出かけるとなると、
    三時間を見ていなければなりません。乗り換えは四回です。

    日課で聖書通読エッセイを書いているので、めったに出かけません。聖書とパソコンを
    持ち歩くのは大変だし、たのしいおしゃべりができる時間には、
    すぐに楽しい方に流されてしまう安易な性格ですから、結局書けません。
    実際、おしゃべりのし通しでした。妹のつれあいがちょうど一泊留守のところだったから
    よけい、スの姉妹に戻ってしまいました。

    三年前、十三歳で死んだ柴犬の後に飼われた「二代目くん」にも会いました。
    男前だけれど、ちょっととがった性質らしく、なつきそうでなつかないのです。
    犬あつかいには自信があるので(?)、前の犬の要領で、じゃれあっていると
    (あちらが)腹を立ててかみついたので、私が「痛い!!」と大声を上げ、
    「痛いじゃないの!」と叱ったら、以後、上目づかいに様子を見るようになりました。
    お互い垣根を作って、つかず離れずの関係というのが、せいぜいでした。
    
    でも、妹と犬と二人と一匹で散歩に出て、里山の空気を満喫してきました。

    お天気も良かったし、刈り入れの後の稲がまた伸びていて、ぱらぱらと実りも見えました。
    大きなすずめの群れが、いっせいに、刈り穂の中から飛び立って思わず見とれました。、
    これぞ、伝統的な大和絵の風景!!!
        ★★
   

    帰りの電車の中で、ハロウィンの仮装らしい集団にあいました。
    七~八人の若い男女で、ペラペラの着ぐるみを着て、とてもはしゃいでいました。
    ここ数日の、渋谷のはじけぶりが報道されていたけれど、その加勢に行くのかなと・・・。
    もっとも、同じ年ごろなら、自分も、参加したかもしれません。

    あのころは、お祭り騒ぎは楽しかったし、ボーカンシャより、参加者になりたい方だった。
    いまは、はっきり言って、もう体力がない!!!

    
    


    今朝の、FBからの記事を転載させてください、

    OMFは、宣教団体です。
    1865年、イギリス人の宣教師・ハドソン・テーラーによって中国内陸伝道教会として設立されました。
           

    さとうも最初、OMFの宣教師ピーター・ヤング師から聖書の学びに入り、その後、洗礼も授けていただきました、
    この記事は、ハロウィンに集まる人々にトラクト(キリスト教伝道文書)を渡して伝道したことが、記されています。







私は感謝します!

2018年10月10日 | 聖書
   
 フェイスブックで、シェアさせていただいた記事です。
 旧約聖書の詩篇の一部ですが、すばらしい言葉です。絵もすてきです。





  ここにある言葉をふくむ前後を、お読みください。


    主よ。あなたは私を探り、
    私を知っておられます。        (詩篇139・1節)
    あなたこそは私のすわるのも、
    立つのも知っておられ、
    私の思いを遠くから読み取られます。  (2節)
    あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、
    私の道をことごとく知っておられます。 (3節)
    ことばが私の舌にのぼる前に、
    なんと主よ。
    あなたはそれをことごとく知っておられます。(4節)
    あなたは前からうしろから私を取り囲み、
    御手を私の前に置かれました。       (5節)
    その様な知識は私にとって
    あまりにも不思議、
    あまりにも高くて、及びもつきません。   (6節)

    私はあなたの御霊から離れて、どこへ行けましょう。
    私はあなたの御前を離れて、どこへのがれましょう。(7節)
    たとい、私が天に上っても、そこにあなたはおられ、
    私がよみに床を設けても、
    そこにあなたはおられます。(8節)
    私が暁の翼をかって、海の果てに住んでも、    (9節)
    そこでも、あなたの御手が私を導き、
    あなたの右の手が私を捕えます。         (10節)
    たとい私が
    「おお、やみよ。私をおおえ。
    私の回りの光よ。夜となれ」と言っても、     (11節)
    あなたにとっては、闇も暗くなく
    夜は、昼のように明るいのです。
    暗やみも光も同じことです。            (12節)

    それはあなたが私の内臓を造り、
    母の胎のうちで私を組み立てられたからです。    (13節)

    私は感謝します。
    あなたは私に奇しいことをなさって、
    恐ろしいほどです。
    私のたましいは、それをよく知っています。     (14節)


    私がひそかに造られ、地の深いところで仕組まれたとき、
    私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。   (15節)
    あなたの目は胎児の私を見られ、
    あなたの書物にすべてが書きしるされました。
    私のために作られた日々が、
    しかも、その一日もないうちに。          (16)