ぶつぶつ地蔵

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記憶に残る2月14日

2013-02-16 14:48:56 | 奈良
「2月14日に思い出す 奈良の素敵な物語」と題された講演を聞きに行ってきました。
2月14日に。

タイトルに惹かれて聴きに行ったのではなく、講師に惹かれて聴きに行ったのであります。
ハイ。ワタクシ、西山先生の大ファンでございます。
もーもーもー。大好きという形容詞以外ありません(←バカ)

さて、西山先生のお話はどんなお話だったのか。
笑い満載の魅力あふれる講演をオイラの文章力では再現できませんが、ちょろっとご紹介。



奈良といえば、大仏さん。
奈良公園の鹿とセットで東大寺の大仏さんを思い浮かべるでしょう。
時は遡り、奈良は天平の時代。ひとつの勅が発せられた。

「大仏を作ろう」

この大仏建立の発願をされたのは聖武天皇である。

聖武天皇とはどんなお方か。
お父さんは文武天皇で、お父さん方のおじいちゃんは草壁皇子。ひいおばあちゃんは持統天皇で、ひいおじいちゃんは天武天皇である。
お母さんは藤原宮子で、お母さん方のおじいちゃんは藤原不比等。
こんな家系の天皇様です。

神仏をよく信仰し、24歳で天皇即位した後、社寺の清浄を命じています。
聖君であれば国は豊かで犯罪がないと信じておられ、受刑者の刑の軽減(やり直す機会を与える)や豊作の時には税の免除なども行ったとか。
27歳の時に皇子を授かり、大変喜んだ帝は生まれてすぐの皇子を皇太子にします。
順風満帆な帝の前に落ちてきた暗雲は、某王(皇太子)の死。
皇太子の死を境に、3年ほどまとまった雨が降らず飢饉が国を襲います。更に追い討ちをかけるかのように大地震が起き、天然痘が流行ります。

「責めは我一人に有り」
帝は、すべての原因は自分にあるとしたのです。

某王没後9年。国に降りかかる禍いを払うべく勅を発せられる。
737年3月3日 国ごとに釈迦仏の像 1体  脇侍菩薩 2躯を造り、兼ねて大般若経一部(600巻)を写さしめよ
同11月3日 畿内と七道の諸の神社を造らしむ

大般若経とは、仏教で非常に重要なお経で、明治時代まで禍いを祓うことができると信じられてきたお経さんです。
そして同じ年に神社も綺麗にせよとおっしゃってるんですね。

そして・・・
741年2月14日 国分寺国分尼寺建立の勅を発布。
中国の、690年則天武后 大雲寺。707年中宗 龍興寺。738年玄宗 開元寺という、日本で言うところの国分寺建立を手本としたとされます。

ここに一つ目の2月14日の物語があるのですね。

国分寺の正式名称は、金光明四天王護国之寺。国のお寺ですから僧侶は国家公務員のようなものです。金光明最勝王経を読み、四天王に禍の消滅を祈ります。
国分尼寺は、法華滅罪之寺といい、法華経を読みます。国家の滅罪を祈り、禍いが起きないように懺悔(さんげ)するのです。
国分寺・国分尼寺はそう言った役割を担ったお寺だったんですね。

国分寺・国分尼寺の勅を発する一年前。
帝は河内国の知識寺を訪れ、そこで盧遮那仏と出会い大仏建立の決意をします。
知識とは多くの力の集合を意味するそうで、知識寺の盧遮那仏もまた、その土地の多くの人の力で作られた大仏だった。

聖武天皇が31歳の時に写された「鏡中釈霊実集」の中に「盧遮那仏」の文字があるので、遅くとも31歳の時には盧遮那仏という言葉をご存知であったことがわかるとのこと。

大仏建立に当たり、聖武天皇はいいます。
「すべての動物 すべての植物が ともに栄える世の中をつくりたい」
そして更にいいます。
「大きな力で造るな。たくさんの富で造るな。」
ではどんな作り方を望まれたのか。
「1本の草を持ってきた人にも ひとにぎりの土を持ってきた人にも 手伝ってもらおう」
帝の心は「何を造るのかではなく、どうやって造るのか」という知識にあったのです。
知識の集まりを目的としていた大仏建立事業は、752年4月9日 大仏開眼という結果を残します。
260万人の人が結縁して造られたとのこと。


時は下り慶応四年。
旧幕府軍に勝利した明治新政府は、天皇を中心とした国家をつくろとします。
天皇家の正当性を強固にするために神仏分離を行います。
その内容は神社に対し、神社に僧侶がいることを廃し、神様を仏教用語で読んではいけない、また、仏像を神社に祀ってはいけないというものだった。

奈良時代に取り入れられた仏教。その性格の近さから日本人は神と仏を融合します。
僧形の神様の像とか、仏を守る神様だとか。いっそ神様やめちゃう神様とか。
時代が下ると、キリスト教のマリア様が融合され、マリア観音などが信仰されます。これはマリア様と観音様が似ているからなんですね。
そうして日本では、神仏習合が長い年月なされたわけです。
これを分離することが、明治政府の狙いです。
だって、神様は天皇家の祖先なわけだから、他のものに寄り添ったり変わったりすると不味いんですね

なのでこの決まりごとは、神社に対してのみ発令されたのです。
お寺はどっちでもいいよ、的な。

これは廃仏毀釈と混同してはいけません。
廃仏毀釈は、お寺やお坊さんに不満をもった民間によって起こった暴動を指すのです。国の政策ではないんですね。

将軍から天皇を中心とした国家とすることは、お寺から神社へと流行りが移る・・・という風潮になります。
その時、先を見越した興福寺のお坊さんは、みんな揃って嘆願書を出します。
「春日さんへ移りマース」って。
それが受理されて、興福寺のお坊さんはみんな春日さんの神主さんになったんだそうです。
なぜすんなり受理されたのか・・・この経緯をザックリ説明すると、興福寺も春日さんもどっちも藤原家に縁があるってことだそうです。(次男三男が興福寺・春日さんに入るというもの)
無住となった興福寺を、西大寺と唐招提寺が管理するも、広大な興福寺を管理しきれず。。。一部の建物が官庁の扱うところとなり、後に廃寺になります。
これを憂えたのは町の人。
どうにかでいないかと考えたのが、興福寺の境内を公園として運営することだったのです。
明治13年2月14日 奈良公園誕生
二つ目の2月14日です。
県民の民意によって興福寺の境内は、ほとんどの建物が壊されることなく守られたのであります。(廃仏毀釈の場合、暴動なので壊されちゃいます)

その後興福寺は復興されるわけですが、その時公園の境界を興福寺の境内だけでなく大きく全体を取り入れたので、奈良公園は日本で唯一1300年の歴史を包み込んだ公園として今日も愛される形となりました。

奈良公園には3つの顔があるそうで、県立都市公園として指定されている場所(春日山、花山など)、名勝としての場所(東大寺など)、漠然とした場所(春日大社、奈良博など)と分けられるそうです。

西山先生はおっしゃいます。
2月14日を思うとき、奈良公園の歴史を思う。
それは公園ができてから今日までの歴史と、公園ができるまでの歴史。
この二つの物語を併せ持つ公園は他にないと。
聖武天皇の知識の場所が今も受け継がれている、そんな場所が奈良公園なのかもしれません。










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