朝寝のカプ

ネコは夜行性
そのため朝は食事の後
すぐに眠くなる
人間と同じか

仙台育英、決勝で敗れ、夏は終わる

2015-08-21 05:18:33 | 日記

 試合終了後宿舎でのインタビュー。
やはり選手、監督は硬い表情、準優勝と言っても二番手はどう見ても二番手。
佐々木監督の表情にも疲れが見える。
高校野球は、プロ野球と違って、監督の指示は伝令によって伝えられ、
その回数も制限されている。
高校生の自主性に任せるということなのだろうか。
まあ、暑い夏は終わった。世の中の気温も落ち着きを見せ秋の気配漂う。

 さて、今日は三題話と洒落込もう。
仙台育英敗れて秋が来るは冒頭の話だったが、
朝ドラの「まれ」も昨日、収録が終わった。
結構、連ドラは連日連夜シビアな収録スケジュールで、
この撮影管理は並大抵なものではない。
特に、売れっ子のタレントが加わっている場合は、
出演のスケジュール管理は想像を絶する。
「まれ」の場合は、例えば大泉洋のようなタレント。
コマーシャルに民放にと多岐にわたる時間管理が必要になる。
まあ、よく体力が続くものだと思う。
スケジュールに寸分の暇はないのではと想像に難くない。

 そして、最高気温だ。
8月は16日は27.5度、17日は25.1度、18日は33度、
19日の気温は30.7度、20日は26.9度と
かつての気温に比べると落ち着きを見せていることだ。

しかし過去の気温のベスト30を見てみると、今年は2位に8月5日が36.6度、
5位に8月6日が36.1度、21位に35.3度、
22位は8月4日で35.2度、25位に7月27日が入り、35、1度が入っている。
その意味では今年は本当に暑い夏だった。
地球が暖まっていることが
記録の上でも実感できる年ということが出来るだろう
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36個0を並べた名勝負

2015-08-20 05:35:41 | 日記
 あなたは1969年8月18日と19日どこで何をしていましたか。
この日にちですぐ「あのこと」を思い出す人は、
よほど記憶のしっかりした人か、あるいは、高校野球好きの人か。
第51回の全国高校野球の決勝戦のことです。
愛媛代表の松山商業と北奥羽代表の三沢高校とが対戦。
初日は延長18回で0:0となり、大会規定で引き分け再試合となった。
その時に詠まれたのが、タイトルの「36個0を並べた名勝負」だった。

この試合の延長15回裏、カウント1-3からの5球目は
誤審ではないかとの声が試合中からあった。
松山商の監督と球審が同じ明治大学の野球部の先輩後輩の間柄であることが
主な理由とされた。真偽はいまだわからないが、
この球を打者が打っていれば展開は変わったかもしれない。
歴史にもしはないのだが・・・

翌日、疲労の目立つピッチャー太田は
初回に2点本塁打を打たれ、これが響き、
結局4:2で敗れるという経過をたどる。
高校野球の歴史に今でも残る名勝負だった。
再試合のゲームにもう一つ川柳がある
半分に分けれぬものか優勝旗
さて、今日午後、仙台育英は東海大相模と決勝で対戦する。
雌雄やいかに、初の東北勢の優勝シーンが見られるか。
熱戦を期待する。
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天保の大飢饉

2015-08-19 05:34:52 | 日記
遠藤日人の句碑から江戸の飢饉の実態を
少し、調べてみた。
江戸四大飢饉というものがある。
大学の受験勉強的に並べてみると

① 寛永の大飢饉 寛永19年(1642年)~寛永20年(1643年)
 全国的な大雨や洪水、干ばつ、霜、虫の害が原因といわれる
 主に東日本の日本海側の被害が大

② 享保の大飢饉 享保17年(1732年)
 西日本各地、冷夏と虫害

③ 天明の大飢饉 天明2年(1782年)~天明7年(1787年)
 全国的だが特に東北地方の被害大
 浅間山、アイスランドの火山等の噴火による冷害

④ 天保の大飢饉 天保4年(1833年)~天保10年(1839年)
 東北地方、大雨、洪水、それに伴う冷夏、稲刈りの時期に雪が降ったという

日人(あつじん)が生きた時代は
丁度、天保の大飢饉の時代に当たる。
ちなみに日人は1757年生まれ、1836年に亡くなっている。

天保4年は全国平均3~7分作で、
同5年~6年も全国的に不作で3~4分作
となり、この時期米価が高騰、餓死者が続出、
各地に一揆、打ちこわしが発生した。
天保8年(1837年)には大塩平八郎の乱も起きている。

江戸幕府体制も危機に瀕し、
後の天保の改革への道に進まざるを得なかった。
これらの時代、米沢藩では藩主自ら
ひえ粥を啜るような節制政策で
藩内に一人の餓死者も出さなかったという。
天災の陰に人の災いあり。
日人の生きた時代は風流の地、宮城野を
大根畑にしてしまうという時代だったのだ。

       宮城野を大根植えてへらしけり

ようやく、句の意味が分かってきた。生活感に根差した句だったのだ。
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稀に見る「まれ」の面白さ

2015-08-18 10:05:40 | 日記
連続テレビ小説「まれ」8月も半ば過ぎになり、
徹の家出、まれのケーキ店の開店と目まぐるしく進行している。
半年、どうストーリーを組み立てるかは中々難しいものだと想像する。

この後は、ケーキ店開店やまれにとっての
人生の転機となる大きな出来事が突発するようだ。
時折、こんなことを考える。
脚本家は視聴者の反応を見ながら、
ストーリー展開を考えているのではないかと。

半分は当たっていて、半分は外れているかもしれない。
最終到達地点を決めて、
周囲の様子を見て展開を決める手法は現代にはありがちだ。
連日視聴率トップを走る「まれ」、
このところの朝ドラの好調ぶりを見ると見る側の反応も
ひょっとして反映されているのではないかと思う時がある。

それにしてもどう展開するか。
楽しみだ・・・

ところで机の引き出しを整理していたら
古い絵葉書が出てきた

かつての朝ドラのPR葉書だ

並べてみて、ぱちりと写真に撮ってみた。

皆さんはどんな思い出がありますか?
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遠藤日人のこと

2015-08-17 05:09:10 | 日記
榴岡公園やその近辺には、遠藤日人(あつじん)の句碑がある。
日人は桃生郡寺崎村の生まれで、江戸後期の俳人、仙台藩士である。
77歳まで生き、天保7年(1836年)没している。

昨日、冒頭に日人の句の写真を載せたが、
この俳句は中々、洒脱な感じがする。

「宮城野を大根植えてへらしけり」生活のためだろうか、
風雅とでもいえる歌に数多く読まれた宮城野の地を
大根畑にしてしまうという生活感のにじみ出る詩。
確かにこの時代、天保の飢饉があり、庶民は食べ物の確保に苦労した。
江戸、三大飢饉の一つで、1835年から1837年あたりが
まさに、食糧難の時代だった。
その中での俳句作りということになる。

日人のもう一つの句碑は、榴岡天満宮の境内にある。

「道ばかり歩いてもどる枯野かな」これは芭蕉の影響を濃く受けたような句で、
何やら哲学的でさえある。
何冊か著作をあらわし、どっしりとこの宮城野の地に根差しているような日人。

いずれじっくりとその人となりを探求してみたい。
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