Cafe Bridge 粉闘記

bridgetの日記の続編です。
カフェオープンからの日々のできごとや思ったことをつれづれなるままに。。。

良寛の見舞いの一文

2017-12-16 | 日記
昨日の告白(!)を読んだ方や、今日いらしてくださってお話した方々から、温かいお言葉や励ましのお言葉、お花をいただきまして、ありがとうございました。

先日、ある詩を教えていただいて、とても心に響いたので、ご紹介しようと思いましたが、それはまた別の機会にして、そこから派生して見つけたものをご紹介します。最初に教えていただいた詩というのが、実際には別の作者がいるのですが、なぜか良寛さんの作として伝わりました。なんとなく違和感があり、今度は良寛さんについてあちこちのページを見ていたら、こんな言葉に出会いました。

「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬる時節には死ぬがよく候、是はこれ災難をのがるる妙法にて候」 - 俳人 山田杜皐(やまだとこう)に宛てた見舞の一文

大地震があって、良寛さんの地は難が少なく、杜皐さんが住んでいた地は被害が大きかったので、杜皐さんに見舞いの手紙を出した。その中の一文ですが、これには賛否がわかれ、名言と言われていますが、こんなことをこんな時に言うべきではないという人もいます。
以下、ネットのあちこちから見つけたこの一文の真意の説明です。(本来引用元を書くべきですが、すでにわからなくなってしまいました・・・すみません。)要するにありのままを受け入れなさいということ・・・でしょう。

☆「災難にあったら慌てず騒がず災難を受け入れなさい。死ぬ時が来たら静かに死を受け入れなさい、これが災難にあわない秘訣です」ということです。

☆ 主旨は、今あるがままを受け入れ、生かされた命を大切に前を向いて生きなさい、と励ましたものです

☆ 災難も、死も、ただありのまま、静かに受け入れることが良寛の説く「災難を逃るる」たったひとつの妙法だと気付くのです。

☆ 災難に逢うときは災難に遭い、死ぬときには死ぬしかない。私たちがどんなに手を尽くしてもそれは変えられません。だとしたら、それらを受け入れて生きるしかないという意味の言葉です。どんなに不運が続き、大災害に逢おうとも、それは紛れもない命の現実の姿でしかなく、そのことを「災難」としてしか捉えることができないならば、どこまでもその不運を嘆いて生きて行くしかありません。子供を亡くし悲嘆にくれる友人に対しそのことに一切触れることなく、「人として生まれたからには生老病死からは逃れることはできず、あるがままを受け入れ、その時自分ができることを一生懸命やるしかない」

☆ そのものに成りきれば、対象の中に自己は没しきっているから、自己を問題にしていない。災難らしき事にであった時に、その現実を嫌うとかえって、自分を失い、苦悩が深まり、なすべきことができなくなって、苦悩がますます深まる。災難の中にあって、現実を嫌って命を失うことなく、災難の中にあっても、なすべきことをなしていくよう指導したのであろう。それが災難にあいながら、災難を乗り越えていくすべなのである。最も、重大な問題が、死(自己自身の)である。

☆ さらに、「あるがままを受け入れ」「生死を離れる」ことは、アジアの仏教のみならず西洋キリスト教でも、以下のように指し示されています。

「生るるに時があり、死ぬるに時があり、~泣くに時があり、笑うに時がある。~神のなされることは皆その時にかなって美しい」
(伝道の書3:1~11)

「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな(ヨブが災害で全財産と10人の子供を失った時)」
(ヨブ記1:20)