とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

依存症考察

2016-12-31 14:27:37 | 哲学・学術・教育
人のDNAに書かれているプログラミング・コードは、基本的な命令として、一旦何らかの方法で利益を得たのであれば、それを反復するように出来ている。

例えば、それが良い方向に向かうケースとしては、勉強した際の、自分で解を見つけた時の喜びや、あるいはスポーツで勝利した時の喜びが、更にその行為を増幅させることになる。
ごく少ないケースとして、志賀直哉は活字中毒であったようである。

これが現代社会の観点においては、悪いケースに向かうこともある。
例えば、肥満による別の病気が併発する恐れがあるので、ダイエットすべきところを過剰に食べてしまったり、あるいはタバコを止められなかったり、酒を止められなかったり、あるいは麻雀や競馬を止められなかったり、買い物が止められなかったり、あるいはゲームが止められない、テレビを止められない、インターネットが止められない、女遊びが止められない・・・
もっと悪いところに行けば、大麻、コカイン、ヘロイン、覚醒剤が止められないというものもあるだろう。

この反復は人間に備わっているプログラミングコードなので、一概に「根性でやめろ」というのは現代医療にそぐわない、非論理的で非科学的な治療手段である。
人間であるならば、もっと「そのプログラミングコードを止めたり、あるいは制御するにはどういう方式があるか? 」と考えるべきだ。


米国の研究で、怒りを制御する「アングリーコントロール」の手法が啓蒙されている。
怒りによって社会の原動力になることもままあるが、しかしそれが為に社会に混乱をもたらすこともまたある。
そのマイナス面を制御すべきとは誰しもが思うにしても、どうやればいいのか、どうすればいいのかが分からない。

最近の研究によると、怒りを発する脳の部分が、その怒りを理解し、なだめるところに信号が到達するまで6秒かかるとのことである。
つまり、どうにもならない怒りに思えても、6秒待てば、自分のクールな理性がホットな怒りをクールダウンしてくれる可能性があるのだ。
よって、そのアングリーコントロールでは、何か自分が怒りたくなった時でも、6秒待つことを推奨している。


さて、話を元に戻す。このアングリーコントロールのように、依存症も制御が可能であればそうした方がいい。
その理論的で論理的で科学的な対応策は一体なんであろうか。

それを一度研究し、人に適用できることが分かったのならば、社会問題となっている箇所、即ち、健康診断でダイエット、タバコ、酒で依存して悩んでいる人たちに医師がアドバイスできれば尚のこといいし、そしてギャンブルや非合法な薬品の服用を止められない人には、これをアドバイスして、自律制御をかけてもいい。
買い物依存にしても、そうしたことを適用すべきなのである。

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人間はなぜ絵を描くのか? 

2016-12-31 14:18:52 | 哲学・学術・教育

ビルの壁に落書き容疑、2人逮捕 SNSで「作品」公開
2016年12月31日05時00分
http://www.asahi.com/articles/ASJDX4SF2JDXOIPE00X.html

名古屋市中区の繁華街でビルの外壁に落書きをしたとして、愛知県警が今月中旬、男2人を建造物損壊容疑で逮捕していたことが、県警への取材でわかった。2人は「デザイナー」などと自称。落書きはグラフィックアートの「作品」として、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(SNS)に公開していたという。

 中署などによると、逮捕されたのは愛知県西尾市の会社員の男(22)と住居不詳の無職少年(19)。2人は12日午前2時ごろ、同区錦2丁目で、それぞれ違うビルの外壁にスプレーで落書きし、建造物を損壊した疑いがある。

 落書きされた2棟のビルは2階建ての建物をはさんで隣り合っており、2人は間の建物の屋根に上って落書きをしたという。通報を受けて中署員が駆けつけたところ、別の少年2人が付近におり、4人で落書きしていたことを認めたという。


ということであるが、人間とは何かにつけて絵を描きたがり、造形をしたがる習性を持っている。

イスラム教などでは雪だるまを作るのが合法か否かが問われ、偶像に当たるのでダメという判定が下されたが、その判定をわざわざしたのは、何の根拠もなく、人間と言うものは雪が降ったら雪だるまをつくってしまう習性が、その本能の根底にあるからである。

ある人は絵を描きたがり、ある人は歌いたがり、ある人は劇を作りたがって、ある人は映像作品を動画で撮りたがる・・・
誰にも頼まれておらず、しかも自分の利益にならないケースでもそれをする。
それはショーベやラスコーの洞窟壁画を見れば分かる。旧石器時代のこれらの絵画の時代には、貨幣が存在していなかった(バーターは存在していたかもしれない)。

こうした絵を描きたがり、あるいは造形をするのは奇しくもホモ・サピエンス、即ち現生人類だけである。
あるいはサルは腰掛け用の木を見つけて座ることはあるが、それに改良を加えようとはしない。
一方で現生人類は種々様々な椅子を作って、工夫をしている。

家具の雑誌を見ていたところ、一番原始的であったのは、三股の木の幹を切り取って空き缶の蓋で補修している、持ち運びを可能としたアフリカの椅子であった。


人間とは何かを生み出すことが出来る。それはいたずら書きであってもその片鱗を見ることができる。
ただし、そういう能力を発言するのであれば、人の迷惑になってはダメだ。それが古代社会と現代の異なる部分である。
その能力を発揮したいのであれば、人の役に立てるべきである。
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私の頭の悪さの話

2016-12-31 05:14:49 | 思い出
私は頭が悪い。これは謙遜ではなく、客観的事実である。
と言うのも、学歴や実績やらが特にそうで、私は特に大した学校を出ることもなく、成績も良くなく、その学歴を終えたのが証拠であった。

学業における理解とは、「噛み砕いて理解する」のと、「内容は分からないが飲み込んで暗記する」方式の二つあるように思う。
学校における授業内容の疑問と言えば、私は「飲み込む方式」を心理的に選択していた。

なぜそうしていたのかと言うと、「虚数はなぜ虚数なのですか? 」だとか「1+1はなぜ2なのですか? 」だとか「電磁波による電位差の高低を表すスポンジのようなものはなぜそこに存在しているのですか」と言う疑問は、授業の合間の質問としては不適切のような気がしていた。
そうした質問をしていた理由も、更に原因が二つある。これは答えが用意されておらず、教師が答えるのに困りそうな質問であったのと、学生間で変な奴扱いされるような内容の質問であり、あるいは質問をすることそのものが、ええ格好をしいの悪目立ちのように思われたので、そうした集団心理の力学を察知し、そを阻害する選択を自ら都度課していたように思われる。

よって、教育の現場においては、都度よく飲み込んで、紙に回答を書ける能力の多寡が問われていた。

特に物理などでは、「電場や磁場をベクトルと微分で表現する」という初歩が全く分からなかった。そこの表現に内在する真理が掴めなかった。他の学生は何かを掴んだらしく、その式を理解していたようだったが、私はついぞ分からず終いで終わってしまった。今でもそれが何を指し示しているのか、どういう真理が描かれているのか、何を意味し、何に応用できるのかが全く分かっていない。
丹念に追えば分かるだろうという当時の私の試みは、失敗した状態でそのままである。

しかし私は疑問に思う。たまにネットで物理の表現として「空間テンソルが~」などの表現を見るが、投げやりな説明でそれが何を指し示しているのかが分からない。
そうした表現をしている人は、本当にその哲理的内容における真理が分かっていれば、もっと分かりやすく説明できるはずだ。ウサイン・ボルトは世界一速く走ることはできるが、歩くことも出来るはずなのだ。
そういういきなり二段も三段も飛ばして説明している人は、その概念を示す用語に隠れて内在する真理を本当に把握しているのだろうか? 

それが分かれば、人間が持つ哲理的理解の体系に落とし込むことができ、そして再応用が可能になるだろう。
しかし今日の教育はそれを放棄しているように思われてならない・・・

とは書いたものの、これは責任転嫁であろう。
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【質問】このブログで面白かった記事を教えて下さい。

2016-12-31 03:13:05 | 質問・ご連絡など
年の瀬もいよいよ押し迫り、私もこんな時間まで文章を書いているわけですが、それはさておき、
ここをご覧になられている方がいらっしゃいましたら、このブログで面白かった記事があれば、どの記事が面白かったのかを教えて下さい。

書いている本人としては、読まれている人がどの記事にピントが合ったのかを知りたく思っています。

前回質問でご回答いただいた方もいらっしゃいましたが、その時には具体的な記事名を聞けなかったので・・・

コメント (3)
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仕事と労働のこれから

2016-12-31 02:48:36 | 哲学・社会
日本における仕事と労働をこれから新しく捉えなおす必要がある。

世界的に日本の労働文化というのは「KAROSHI」(過労死)という言葉に代表されるように、クールな文化輸出ではない。むしろ恥ずべき代物である。
文化的な渓流を辿れば、江戸幕府の時代に、外様である薩摩藩に対し、死者が出ながらも過剰な労働を強いた宝暦治水事件があるだろうが、今はそのような時代ではない。それにも関わらず、人命を損なうような労働文化が続き、それを許容しているのが日本の実態なのである。

こういった現状に対し、我々の考え方そのものも改める必要がある。労働とは何か? 仕事とは何か? どこまで働くべきか? 

・~・~・~・~・~・~・~・~・~・~・

一般的な認識としては、労働したから対価が貰え、より良い成果が出たのであればより良い給料が貰える、指揮をして上の立場になればより貰える、というものがあると思うが、これは幻想だ。
事業者からすれば、従業員とは事業をして金を稼ぐための部品であり、給与はコストである。本質的には従業員の人生など考えない。
ただ、経営者も鬼ではなく、人の子なので、多少は従業員の人生も考えるが、実際に考えなければならないのは組織体の生き残りだ。

よって、労働者も、生命を一蓮托生にする構造とは捉えず、自分の生命と人生をまず第一義に考えることからスタートせねばならない。

電通の件でもそうだが、個人の生命や精神や人生が破綻するくらいに仕事を振るというのは特攻と同じくらいの美徳かもしれないが、しかし戦時の緊急事態ではなく、平時の通常の民間企業の業務でそれをするならば、運営や運用や管理者側経営での資源分配が上手く行っていないということだ。
インパール作戦の時に、栄養失調でバタバタと将校が倒れながらも訓示した牟田口廉也は、戦時だから許されるかもしれないが(許されないが)、平時であれば、それは尚更無能そのものだ。
ここに企業は着目すべきだ。

部品が壊れるまでのオーバーワークをして、壊れたのは部品のせいと、カードライバーは言うのか? それは違う。
丁寧な運転と適切なメンテナンスをすればいいのである。また、人員と言う部品は強化可能である。そういう整備を怠ってきたのが今までの企業であるので、それを改めなければ成らない。

そして、その問題の根本原因を探ると、オーバーワークをするに至るまで仕事を受注してしまった経営側の判断に問題がある。
10という出力がある人員組織に、なぜ20の仕事を持ってきてしまうのか。それであるならば、銀行業務が午後3時に終わるように、「それ以上は受け付けられません」と文句を言われながら断ればいい。
そして日本の企業文化でそれが言いにくい。契約の裏には、信頼と道義と倫理が暗黙の前提として潜んでいるので、出来ないと断るならば、それはそれらの要素を減じたり、あるいは裏切ることになる。
そういう問題があるので、法律の適用や、あるいは法整備をせねばならない。
今の時代、ストは無い。共産主義思想が崩壊した現在、人は労働対価で、より良いサービスをすれば信頼と金が入ってくると言う幻想を信じているからだ。私もそれを信じたいが、しかしそれにすら裏切られた過去が、それを信じることを許してくれない。

あるいはもう一つの解決方法として、20の仕事を改善して10に収める省力化を目指す方法もある。
労働と言う商品自体の、同じ機能の小型化だ。無論そこに圧力があってはならないが、工夫して小型化し、高品質で高価格で売るのは日本のお家芸ではないだろうか。
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