現在のエンターテイメントにはよくよく観察してみると、ある種の傾向があることが分かる。これは昔からあったことなのだが、現代には更にその傾向が高まってきたのではないかと私は考える。その傾向とは何かの考察をここに書こうと思う。
現在のテレビ業界は日本だけでなく、世界的に衰退の一途を辿っているとされる(それでも巨大な牙城の一部が崩れているだけで、まだまだ巨大な組織だと思うのだが)。しかし、テレビのコンテンツのエッセンスの多くは、ほぼインターネットに蚕食されて久しい。が、それではテレビという存在はエンターテイメントから完全に無くなるかと言うとどうもそうでないらしい。ロンドンエコノミストの分析によると将来にかけては違う観測がなされている。そこではテレビはイベント性のあるものが生き残るとしている。どういうことか。簡単に言えば、生中継であるか、リアルタイムの放送であるかどうかということである。生中継であればテレビの独壇場だ。
もう少し細かく考えてみよう。これらはどういう違いがあるのかというと、コンテンツの視聴者から見て先が見えるか見えないかの差異ということになる。例えば、映画は悲劇であろうと喜劇であろうと、予め結末が決まっている。なので、録画したり、あるいは版権元企画によるインターネットでの無料放送を利用したり、あるいはDVDを買ったり、借りたりして見ればいいが、サッカーの日本代表戦などはそうもいかない。サッカーの日本代表戦などを録画で見たい、あるいはDVDを買って見ようと思う人はそうそういないのではないだろうか(しかし、これらのイベント性があるコンテンツには弱点があり、それは、映画やドラマのように、再放送が出来ないこと、DVDの販売が出来ないことだ)。別の角度から言えば、一回見ればいいものがテレビで見られ、何回も繰り返して見たいものが、テレビ+ネットやDVDでの供給の傾向となる。
この傾向は、現代の漫画にも当てはまる。昔は巨悪に対して主人公が苦労、挫折、努力をし、そして最終的な勝利を収めると言う図式であったが、現在ではこの傾向が少々異なる。ガンツ、テラフォーマーズ、進撃の巨人、ハンターハンター、ドリフターズ、バキ、予告犯などなどいずれも決まった一点への収束では無く、「生放送でのスポーツの試合のように」先が見えない。デスノートもこれに含めて良いだろう。但し、漫画はテレビと違って金を出して購入するものであるし、そもそもワンピースや鋼の錬金術師、ドラゴンボールやダイの大冒険、うしおととらなどの決まった一点への収束をする王道漫画もある。また、昔にどこへ着地するか分からないと言ったマンガが無かったかと言うと、そうではなく、楳図かずおの14歳や私は真悟などがあったから、完全にトレンドが切り替わったかというとそうではない。
もっと遡れば、更に先が見えない、物語の決勝点が見えないと言う点では、三国志の時からそうであったのではないか。しかし、「ゴールを目指して頑張って、苦難を努力によって乗り越える」的なマンガは現在のトレンドから外れているように見える。
今度はゲームに目を向けて見る。昔テトリスが流行った頃は、何回も中毒患者のようにゲームをやる者がいた。その後、ゲーム機が高性能になるにつれ、長編RPGなど一回だけやればいいや、というものが増えた。更に現在ではまた原点回帰し、、中毒性のあるソーシャルゲームが流行っている。
ネットゲームはよく分からないのだが、これはイベント性を重視したものになっているのだろうか(つまり、再度同じプレイをしたくなるか否か)。
更に今度はテレビに目を向ける。ドリフ大爆笑のコントは決まった結末があったが、八時だョ全員集合はどこへ転げるか分からないイベント性、ハラハラ感があった。家政婦のミタは私は見ていないので何とも言えないのだが、しかし、結末がどこへ向かうか分からなかったのではないか。たけしの元気の出るテレビはどこへ向かうか分からなかったし、電波少年のアポ無し○○も録画ではあったがハラハラした。
ただ、これらは野球中継なサッカー中継のように生で見られるだけでなく、録画で見ても面白いので、完全なイベント性に偏っているとは言えない。
だが、「既成にあった決まった枠組みが無い、どこへ向かうか分からない面白さ」が、この番組にあったことは否定できないと思うのだが如何だろうか。
その昔、「悪魔のKISS」というストーリープロットも覚えていないようなドラマがあったのだが、笑っていいともか何かに出ていた奥山佳恵が放送中の番宣の為に「脚本とかもまだ未決定で制作進行中なんです! 」と言って盛り上げようとしていたが、冷静に考えると適当に作っていたのがバレてしまっている。こういうと悪い印象なので少し角度を変えた形で言うと、ストーリー性よりもイベント性を優先した結果こうなったのだと私は考える。人間性の核心に迫るような純文学的展開はしていないので、「ストーリーや展開が良かったからもう一回見たい」とか言う人はあまりいない。
宇多田ヒカルの歌で「秋のドラマ 再放送」と言う歌詞があって、この辺のけだるさに共感を覚えるのは、リアルタイムのイベント性に起因するんじゃないだろうか。
エンターテイメントの分類手法とその仕分けには、結論するにはまだまだ材料が不足している。
しかし、中間的な結論としてイベント性のある作品群と、非イベント性である作品群に仕分けた場合、現在のテレビのトレンドはイベント性に傾くだろうか。昔からあった手法がますますその傾向を強めていくだろうか。
テレビ局の再編、予算の削減、スポンサー離れ、そしてあまり言いたくないが、大衆から見たテレビの不信感。イベント性の展望と非イベント性の閉塞。これらが結合してどう展開していくのか、誰にも予測はできない。
現在のテレビ業界は日本だけでなく、世界的に衰退の一途を辿っているとされる(それでも巨大な牙城の一部が崩れているだけで、まだまだ巨大な組織だと思うのだが)。しかし、テレビのコンテンツのエッセンスの多くは、ほぼインターネットに蚕食されて久しい。が、それではテレビという存在はエンターテイメントから完全に無くなるかと言うとどうもそうでないらしい。ロンドンエコノミストの分析によると将来にかけては違う観測がなされている。そこではテレビはイベント性のあるものが生き残るとしている。どういうことか。簡単に言えば、生中継であるか、リアルタイムの放送であるかどうかということである。生中継であればテレビの独壇場だ。
もう少し細かく考えてみよう。これらはどういう違いがあるのかというと、コンテンツの視聴者から見て先が見えるか見えないかの差異ということになる。例えば、映画は悲劇であろうと喜劇であろうと、予め結末が決まっている。なので、録画したり、あるいは版権元企画によるインターネットでの無料放送を利用したり、あるいはDVDを買ったり、借りたりして見ればいいが、サッカーの日本代表戦などはそうもいかない。サッカーの日本代表戦などを録画で見たい、あるいはDVDを買って見ようと思う人はそうそういないのではないだろうか(しかし、これらのイベント性があるコンテンツには弱点があり、それは、映画やドラマのように、再放送が出来ないこと、DVDの販売が出来ないことだ)。別の角度から言えば、一回見ればいいものがテレビで見られ、何回も繰り返して見たいものが、テレビ+ネットやDVDでの供給の傾向となる。
この傾向は、現代の漫画にも当てはまる。昔は巨悪に対して主人公が苦労、挫折、努力をし、そして最終的な勝利を収めると言う図式であったが、現在ではこの傾向が少々異なる。ガンツ、テラフォーマーズ、進撃の巨人、ハンターハンター、ドリフターズ、バキ、予告犯などなどいずれも決まった一点への収束では無く、「生放送でのスポーツの試合のように」先が見えない。デスノートもこれに含めて良いだろう。但し、漫画はテレビと違って金を出して購入するものであるし、そもそもワンピースや鋼の錬金術師、ドラゴンボールやダイの大冒険、うしおととらなどの決まった一点への収束をする王道漫画もある。また、昔にどこへ着地するか分からないと言ったマンガが無かったかと言うと、そうではなく、楳図かずおの14歳や私は真悟などがあったから、完全にトレンドが切り替わったかというとそうではない。
もっと遡れば、更に先が見えない、物語の決勝点が見えないと言う点では、三国志の時からそうであったのではないか。しかし、「ゴールを目指して頑張って、苦難を努力によって乗り越える」的なマンガは現在のトレンドから外れているように見える。
今度はゲームに目を向けて見る。昔テトリスが流行った頃は、何回も中毒患者のようにゲームをやる者がいた。その後、ゲーム機が高性能になるにつれ、長編RPGなど一回だけやればいいや、というものが増えた。更に現在ではまた原点回帰し、、中毒性のあるソーシャルゲームが流行っている。
ネットゲームはよく分からないのだが、これはイベント性を重視したものになっているのだろうか(つまり、再度同じプレイをしたくなるか否か)。
更に今度はテレビに目を向ける。ドリフ大爆笑のコントは決まった結末があったが、八時だョ全員集合はどこへ転げるか分からないイベント性、ハラハラ感があった。家政婦のミタは私は見ていないので何とも言えないのだが、しかし、結末がどこへ向かうか分からなかったのではないか。たけしの元気の出るテレビはどこへ向かうか分からなかったし、電波少年のアポ無し○○も録画ではあったがハラハラした。
ただ、これらは野球中継なサッカー中継のように生で見られるだけでなく、録画で見ても面白いので、完全なイベント性に偏っているとは言えない。
だが、「既成にあった決まった枠組みが無い、どこへ向かうか分からない面白さ」が、この番組にあったことは否定できないと思うのだが如何だろうか。
その昔、「悪魔のKISS」というストーリープロットも覚えていないようなドラマがあったのだが、笑っていいともか何かに出ていた奥山佳恵が放送中の番宣の為に「脚本とかもまだ未決定で制作進行中なんです! 」と言って盛り上げようとしていたが、冷静に考えると適当に作っていたのがバレてしまっている。こういうと悪い印象なので少し角度を変えた形で言うと、ストーリー性よりもイベント性を優先した結果こうなったのだと私は考える。人間性の核心に迫るような純文学的展開はしていないので、「ストーリーや展開が良かったからもう一回見たい」とか言う人はあまりいない。
宇多田ヒカルの歌で「秋のドラマ 再放送」と言う歌詞があって、この辺のけだるさに共感を覚えるのは、リアルタイムのイベント性に起因するんじゃないだろうか。
エンターテイメントの分類手法とその仕分けには、結論するにはまだまだ材料が不足している。
しかし、中間的な結論としてイベント性のある作品群と、非イベント性である作品群に仕分けた場合、現在のテレビのトレンドはイベント性に傾くだろうか。昔からあった手法がますますその傾向を強めていくだろうか。
テレビ局の再編、予算の削減、スポンサー離れ、そしてあまり言いたくないが、大衆から見たテレビの不信感。イベント性の展望と非イベント性の閉塞。これらが結合してどう展開していくのか、誰にも予測はできない。
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