「常識に従え」と「常識に従うな」と言う言葉は、誰もがその二つの言葉に聞き慣れたものだろう。
「常識に従え」とは、一般に通底している事柄くらいは、世間に出る際の素養として身につけておけ、と言う意味である。
「常識に従うな」とは、一般に通底している事柄が全てでは無い、常識だけが全てでは無い、もし何も考えずに常識のみを信じて、常識を足場にして行動してしまうと、足を踏み外したり本質的発展を逃してしまう、と言う意味合いで使われる。
この二つは相反するようでいて、その性質は実は似ている。
それは両者ともに最低限の常識の素養は身につけておけ、と言う主張があることだ。
そしてそれ自体をまず最初に求めよ、と言うことと、それを求めたならば、それを疑え、と言った形に別れる。
さて、ここまで頼りにされている「常識」なる社会通念であるが、現実の社会を見てみると、実際バカにされていることが多い。
「常識に囚われて」は暗愚の象徴であるし、「常識破りの」「常識を突き抜ける」とはある種の褒め言葉だ。
だが、かと言ってそれ一辺倒であるわけでもなく、「非常識」「常識外れの」と言う言葉は否定的に使われ、「常識の範疇」「常識的な」と言う言葉は肯定的に使われる。
この常識と言う言葉に対して、我々はどう捉えればいいのだろうか。常識とは、崇拝すべき叡智であるか。唾棄すべきゴミクズであるか。
私では完全に力不足ではあるが、これに一定の解を出すことに、ここのブログで挑戦したい。
まず、「常識」とは一体何なのだろうか、と言うところから始める。常識とは一体何であるか。
常識とはその社会に広く通底する文化的知識の集合のことだ。
ここで言う文化とは、地域的特性を持った人の思考が物品の形成や人の行動様式に反映された様を示す。
例えば、日本での寺社の建築が、西洋の教会の建築と異なり、曲線や円が多用されるのは、その思考が建築のデザインに反映された為である。
この文化的思考は風土から人間の行動を条件づけ、発展させる。
洋風庭園に人工的な直線が使われるのはイデアの体現だ。理論値を実装することによって達成されるそれは、彼らの理想形を示す。
但し、このイデアの実装も時に失敗する。それは欧州の移民政策だ。
良かれと思い、そして労働力供給のために実施したそれは、治安悪化と言う別の解を導き出した。
イデアを提唱したギリシャ哲学の中ですら、アリストテレスは「形而上学」の中で「経験家は理論家よりもよく当てる」と書いた。
翻ってみると、日本庭園に不朽不変のイデアは見られない。四季に応じて様々な表情を見せ、ごく簡単な言葉で言い表すことが出来ない。
考えて見れば和菓子・洋菓子もこれに当てはまる。
プリンやチョコは味がはっきりとして分かりやすい上に直線的だ。甘い、滑らか、味の主張がはっきりしており、含みを持たせない。
が、ぼたもちや月餅などは、何かこうもっさりしていて、甘いんだけれどこう、何か、上手く言えない感じがあって・・・など、味からして曖昧模糊、何か主張していそうで、その奥の暗部にまだ何か隠れていそうな感じが表現できない。はっきりとした直線ではなく、水墨画、山水画のようだ。味の主張がはっきりしておらず、含みを持たせる。
洋の東西を問わず、文化的思考、つまり、大脳新皮質からの行動様式、思想様式は風土の影響を受けやすい。
他方、人間の本能に基づく行動様式についてはその共通解が見られる。戦争と性だ。
人としての「何かを考えない」という闘争と繁殖については人類は共通解として持つ部分が多いが、人として「何かを考える」という部分に様々な派生や応用が見られる。
最初のお題に戻る。常識とは何かと言えば、一般的には上記の「何かを考えない」「何かを考える」と言う面において、その後者を指す。
その「何かを考え」た結果、どうなるのかというのは、時と場所によって大きく異なる。現在の西欧的思想に基づく我々の社会では子供の人権が尊ばれるが、南米の奥地に住む民族では、不本意に生まれた子供を出産後に間引く習慣がある。これらはそれぞれの常識なのであって、どちらが正解であるとも言えない。人間というものはこうした事例について、おおよその人は主観でしか判断できないようになっている。
大昔は、日蝕が起きた際には「神が怒られているのだ」というのが正しかったが、現在の我々は「月が太陽を隠している」と理解している。
それでは、私たちが普段理解している理論が覆される理論が仮に出てきた時、私たちは笑われるハメになる。私たちが理解していることは本当に絶対なのだろうか?
人間が寝ている間に見ている夢は何の為に見ているのか? それは記憶の整理だという説を皆信じているが、立証されたのだろうか? 私は寝ている際の脳機能が不完全に動くことによる副産物の想像が記憶として定着し、夢と認識される、という仮説を立てているが、こちらの方が正しくないのか?
理論物理、数理学ではおおよそのことが解明されたが、他方、他のものは解明されていない部分も多くある。脳が意識を形成する時にどういう動きをしているのか、我々が魂と呼ぶものは一体なんなのか、悲しくなると泣くのはなぜ? なぜ無くならないインクが出ないの? なぜ水は無限に沸かないの? ヒッグス粒子を任意に与えられれば、物質は形成できないの? なぜ人口減少を止められないの? なぜ無造作に散らばった物質を一箇所に集約する機械が出来ないの?(これができれば放射性物質は一箇所に集約できるはずだが)
上記の疑問の内、常識と非常識はどれくらいあっただろうか?
私は常識と非常識の境目が分からない(無論社会的モラルは守ろうと思うが)。
本質を追い求めればそれが答えとなる筈であるのに、社会一般では「現在多くの人に認識される集合知」を正解として使用する。それが常識となる。
よって、常識は崇拝すべき叡智であるか、唾棄すべきゴミであるかという点については半々だ。イマイチすっきりしない答えであると思うが、それが人間が構築する社会における現実である。
常識=「現在多くの人に認識される集合知」であれば、それが正解であることもあるし、不正解であることもある。
夢の件を考えてみよう。人が睡眠中に体感現象として感じる夢とは記憶の整理である。これがおおよその人の常識であろうが、私はこれに納得しない。
誰かそれを理論的に確立したのか? 再実験にて確認できたのか? そもそも実験の成果の定義は何なのだ。
こうした夢=「記憶の整理」という仮説はどこかで立証されなければならない。そしてこれは立証されてはいないのだとは思うが、しかしこれは常識として使用されてしまっている。
それでは常識とされるものに対して、どのように我々は動けば良いのだろうか。
何事にも、発生と形成の理由が存在する。常識においても同様である。
まず、個人がその常識に接触し、常識が発生し、形成された理由を追って検証する。それに納得できたならばそのまま使用し、納得できなければ、社会が動く一つの軸として客観的に観測し、それを距離をおいておくことだ。
「常識に従え」とは、一般に通底している事柄くらいは、世間に出る際の素養として身につけておけ、と言う意味である。
「常識に従うな」とは、一般に通底している事柄が全てでは無い、常識だけが全てでは無い、もし何も考えずに常識のみを信じて、常識を足場にして行動してしまうと、足を踏み外したり本質的発展を逃してしまう、と言う意味合いで使われる。
この二つは相反するようでいて、その性質は実は似ている。
それは両者ともに最低限の常識の素養は身につけておけ、と言う主張があることだ。
そしてそれ自体をまず最初に求めよ、と言うことと、それを求めたならば、それを疑え、と言った形に別れる。
さて、ここまで頼りにされている「常識」なる社会通念であるが、現実の社会を見てみると、実際バカにされていることが多い。
「常識に囚われて」は暗愚の象徴であるし、「常識破りの」「常識を突き抜ける」とはある種の褒め言葉だ。
だが、かと言ってそれ一辺倒であるわけでもなく、「非常識」「常識外れの」と言う言葉は否定的に使われ、「常識の範疇」「常識的な」と言う言葉は肯定的に使われる。
この常識と言う言葉に対して、我々はどう捉えればいいのだろうか。常識とは、崇拝すべき叡智であるか。唾棄すべきゴミクズであるか。
私では完全に力不足ではあるが、これに一定の解を出すことに、ここのブログで挑戦したい。
まず、「常識」とは一体何なのだろうか、と言うところから始める。常識とは一体何であるか。
常識とはその社会に広く通底する文化的知識の集合のことだ。
ここで言う文化とは、地域的特性を持った人の思考が物品の形成や人の行動様式に反映された様を示す。
例えば、日本での寺社の建築が、西洋の教会の建築と異なり、曲線や円が多用されるのは、その思考が建築のデザインに反映された為である。
この文化的思考は風土から人間の行動を条件づけ、発展させる。
洋風庭園に人工的な直線が使われるのはイデアの体現だ。理論値を実装することによって達成されるそれは、彼らの理想形を示す。
但し、このイデアの実装も時に失敗する。それは欧州の移民政策だ。
良かれと思い、そして労働力供給のために実施したそれは、治安悪化と言う別の解を導き出した。
イデアを提唱したギリシャ哲学の中ですら、アリストテレスは「形而上学」の中で「経験家は理論家よりもよく当てる」と書いた。
翻ってみると、日本庭園に不朽不変のイデアは見られない。四季に応じて様々な表情を見せ、ごく簡単な言葉で言い表すことが出来ない。
考えて見れば和菓子・洋菓子もこれに当てはまる。
プリンやチョコは味がはっきりとして分かりやすい上に直線的だ。甘い、滑らか、味の主張がはっきりしており、含みを持たせない。
が、ぼたもちや月餅などは、何かこうもっさりしていて、甘いんだけれどこう、何か、上手く言えない感じがあって・・・など、味からして曖昧模糊、何か主張していそうで、その奥の暗部にまだ何か隠れていそうな感じが表現できない。はっきりとした直線ではなく、水墨画、山水画のようだ。味の主張がはっきりしておらず、含みを持たせる。
洋の東西を問わず、文化的思考、つまり、大脳新皮質からの行動様式、思想様式は風土の影響を受けやすい。
他方、人間の本能に基づく行動様式についてはその共通解が見られる。戦争と性だ。
人としての「何かを考えない」という闘争と繁殖については人類は共通解として持つ部分が多いが、人として「何かを考える」という部分に様々な派生や応用が見られる。
最初のお題に戻る。常識とは何かと言えば、一般的には上記の「何かを考えない」「何かを考える」と言う面において、その後者を指す。
その「何かを考え」た結果、どうなるのかというのは、時と場所によって大きく異なる。現在の西欧的思想に基づく我々の社会では子供の人権が尊ばれるが、南米の奥地に住む民族では、不本意に生まれた子供を出産後に間引く習慣がある。これらはそれぞれの常識なのであって、どちらが正解であるとも言えない。人間というものはこうした事例について、おおよその人は主観でしか判断できないようになっている。
大昔は、日蝕が起きた際には「神が怒られているのだ」というのが正しかったが、現在の我々は「月が太陽を隠している」と理解している。
それでは、私たちが普段理解している理論が覆される理論が仮に出てきた時、私たちは笑われるハメになる。私たちが理解していることは本当に絶対なのだろうか?
人間が寝ている間に見ている夢は何の為に見ているのか? それは記憶の整理だという説を皆信じているが、立証されたのだろうか? 私は寝ている際の脳機能が不完全に動くことによる副産物の想像が記憶として定着し、夢と認識される、という仮説を立てているが、こちらの方が正しくないのか?
理論物理、数理学ではおおよそのことが解明されたが、他方、他のものは解明されていない部分も多くある。脳が意識を形成する時にどういう動きをしているのか、我々が魂と呼ぶものは一体なんなのか、悲しくなると泣くのはなぜ? なぜ無くならないインクが出ないの? なぜ水は無限に沸かないの? ヒッグス粒子を任意に与えられれば、物質は形成できないの? なぜ人口減少を止められないの? なぜ無造作に散らばった物質を一箇所に集約する機械が出来ないの?(これができれば放射性物質は一箇所に集約できるはずだが)
上記の疑問の内、常識と非常識はどれくらいあっただろうか?
私は常識と非常識の境目が分からない(無論社会的モラルは守ろうと思うが)。
本質を追い求めればそれが答えとなる筈であるのに、社会一般では「現在多くの人に認識される集合知」を正解として使用する。それが常識となる。
よって、常識は崇拝すべき叡智であるか、唾棄すべきゴミであるかという点については半々だ。イマイチすっきりしない答えであると思うが、それが人間が構築する社会における現実である。
常識=「現在多くの人に認識される集合知」であれば、それが正解であることもあるし、不正解であることもある。
夢の件を考えてみよう。人が睡眠中に体感現象として感じる夢とは記憶の整理である。これがおおよその人の常識であろうが、私はこれに納得しない。
誰かそれを理論的に確立したのか? 再実験にて確認できたのか? そもそも実験の成果の定義は何なのだ。
こうした夢=「記憶の整理」という仮説はどこかで立証されなければならない。そしてこれは立証されてはいないのだとは思うが、しかしこれは常識として使用されてしまっている。
それでは常識とされるものに対して、どのように我々は動けば良いのだろうか。
何事にも、発生と形成の理由が存在する。常識においても同様である。
まず、個人がその常識に接触し、常識が発生し、形成された理由を追って検証する。それに納得できたならばそのまま使用し、納得できなければ、社会が動く一つの軸として客観的に観測し、それを距離をおいておくことだ。
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