とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

サディズム・イニシアティブ

2018-03-11 03:35:31 | 哲学・社会
人間にはどういうわけであるのか、他者への肉体的痛みや精神的な痛みを娯楽として感じる習性がある。
(支配欲からの暴力性なら霊長類の研究から説明できないこともないが、どうして娯楽として面白く感じるのかというのは説明できない。また、個人的にも理解できない)。

子供の頃には、人間の動物たる習性が一番強く出るのか、子供は時として仲間内に残虐な嗜好を見せる。
そしてそれを娯楽と考えているのである。
それが大人になってもそう思う人も少なからずいる。

そしてそれが困ったことに、「その身体的痛みは、万古不変のルールであり、娯楽なのだ」と言う発言権を持って、社会的強制性を持ってしまう。

それが度胸試しになったり、成人の通過儀礼であったりとするのは、万国どこの文化においてでも見られる。

他者を痛めつけるというのに嗜好的な愉悦を感じるのは人間の悲しき習性なのである。

なお、個人的なことを言えば、私はよく痛めつけられる方の対象になっていたから、これを自分の心理の中で逃れるため、あるいは痛めつける社会集団の中で、向こうの方から自発的に距離を置いてもらうために、自己の中で「誰がどういうことをしたら(されたら)どう傷つくのか」と言う線を撤廃していた。

だから、他の人から見れば、「あいつは近づいたら大変な目に遭う」と言う風に見られるのと同時に、「他者を痛めつけてもどうってことはない」と思われていたかもしれない。もっとひどい印象ならば、ひょっとしたら「あいつは人を傷つけることに快楽を感じている」と、思われたかもしれない。

だがそれは誤解が含まれるので、きちんと言っておくと、私からスレば「人を傷つけても構わないという社会ルールの中で生きていくために、私が生み出した戦闘法」を履行していただけ、と言うことになる。
だから、私の中では、人への身体的痛みや、心理的な痛みを娯楽にする感覚が根本的に分かっていない。


ただそれも、幼少期に限った話であって、大人になった今では適切な距離が置けている。
いや、置けていると信じたい。もしそれができていなければ修正せねばならない。
人を傷つけてはならない。
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