1981年に発表された日本の曲の「フライディ・チャイナタウン」であるが、今回はこの批判と肯定を行う。
ちょっと長めの前提を記載したい。
私が葉に衣着せぬことを言うので、この曲のファンの方は苛立ちを覚えるかもしれない。
そうした方達に不躾で失礼な文章を記載することに関しては、大変申し訳ないと思っている。
だがこの世の中と言うのは多角的観点の考え方の重層的構造で成り立っている。
様々な方向からの意見があれば、その分だけその積み重ねにより我々の社会は強くなるのだ。
なので、「フライディ・チャイナタウン」に関する批判については、更なる批判が重ねられるとは思うけれども、しかしこの楽曲を作った泰葉さんへの賛辞と批判を送ることが、この曲の正当たる評価の積み重ねにつながると思うし、そしてこれから音楽に携わる人に対し、今後の楽曲づくりの参考にもなるかと思うのでここに記載する。
まず、歌詞が古い。
注意すべきは使っている語彙が古いと言うことではなく、文章の構成が古いのである。
個人の直接的感情「飲みたいのよ」「着替えたいのよ」と言うのは、最終的にどういう葛藤が潜んでいてそれを解決したいのか、あるいは心の内の煩悶を示したいのか分からない。
歌詞の構成は「情景」+「心象」と言う構成で俳句とほぼ同じのように思えるが、その裏の心象が見えない。
俳句の構成が悪いわけではない。それを活かして表現できていないのである。
俳句パターンの「情景」+「心象」で、自分の心の内の葛藤が示せている例:
<
第二十八回 | 伊藤園 お~いお茶新俳句大賞
https://itoen-shinhaiku.jp/archive/28/eigo/
freshly mown grass
clinging to my shoes
my muddled thoughts
刈りたての芝生が靴にくっつく
まとまらない私の考え
>
ちなみにこの句は海外での反応も良かった。
http://honyakualfa.blog.fc2.com/blog-entry-837.html
俳句パターンの「情景」+「心象」で、自分の心の内の葛藤が示せている例2:
何が悪かったのか、と言うのを別方向から書くと、人間の内面にある悩みが浅いのである。
酒を飲んだり、あるいは新しい服を着たりすれば解決できそうな感じである。
無論、時代がそういうものを求めたのかもしれないし、私個人が深いものを求めすぎると言う偏屈でもあるので、これは一般論にはならないが、しかし私個人は不満である。
本当は、何をしてもどうにもならないような人間の純真性に対し、そのもどかしさ、狂おしさ、煩悶、躊躇、素朴な疑問や、どうにも解決できない事態に対し、それを情景と併せるべきである。
じゃあお前はできるのか、と言う感じで言われると思うので、私自身がトライする。
原発事故を例に例えてみよう。そこにある問題や煩悶、躊躇や、どうにもならない人間心理は何か。
レベル1から段々レベルを上げていく形にする。
lv1)
「原発はどうにかならないのか」
→表現が直接的すぎる。
lv2)
「原発をかかえる僕らができることは」
→表現は間接的になったがまだ直接的である
lv3)
「原発を見に行った、やるせなかった、無力だと悟った」
→個人の感想でまだ聴衆には届かない。
と言うのを踏まえてレベル4を記載。
lv4)
「福島を見に行った。
いつもの太陽、照り着く小石、遠くの林が風に吹かれている
生気のないブロック塀、わんさと生えている雑草、割れたガラス窓
人がいないという違和感
帰り道は何もしなかった。
何かをしなきゃと思いながら、本当は何もしなかった。
帰った翌日は普段どおりの生活をした。
皆が笑っている。テレビでは明るいニュースが流れている。
」
とここまで書くことになるとは書き出しの時には思わなかった。
「フライディ・チャイナタウン」は何かを考える時の基軸になるだろう。
余談であるが、泰葉さんは林家三平の娘さんなんですね(どうもすみません)。
あとこの曲の肯定的側面を書いておく。
ここ数年において、海外において日本の80年代の曲のリバイバルブームが起きており、そのリミックスも海外の人らによって作られている。
私はこの「フライディ・チャイナタウン」のリミックスをよく聞いているのだが、これがまた夏に合うんだなあ。
皆さんもよろしければどうぞ。
余談:
本記事に関係ないですがその他夏に合いそうな曲:
ちょっと長めの前提を記載したい。
私が葉に衣着せぬことを言うので、この曲のファンの方は苛立ちを覚えるかもしれない。
そうした方達に不躾で失礼な文章を記載することに関しては、大変申し訳ないと思っている。
だがこの世の中と言うのは多角的観点の考え方の重層的構造で成り立っている。
様々な方向からの意見があれば、その分だけその積み重ねにより我々の社会は強くなるのだ。
なので、「フライディ・チャイナタウン」に関する批判については、更なる批判が重ねられるとは思うけれども、しかしこの楽曲を作った泰葉さんへの賛辞と批判を送ることが、この曲の正当たる評価の積み重ねにつながると思うし、そしてこれから音楽に携わる人に対し、今後の楽曲づくりの参考にもなるかと思うのでここに記載する。
まず、歌詞が古い。
注意すべきは使っている語彙が古いと言うことではなく、文章の構成が古いのである。
個人の直接的感情「飲みたいのよ」「着替えたいのよ」と言うのは、最終的にどういう葛藤が潜んでいてそれを解決したいのか、あるいは心の内の煩悶を示したいのか分からない。
歌詞の構成は「情景」+「心象」と言う構成で俳句とほぼ同じのように思えるが、その裏の心象が見えない。
俳句の構成が悪いわけではない。それを活かして表現できていないのである。
俳句パターンの「情景」+「心象」で、自分の心の内の葛藤が示せている例:
<
第二十八回 | 伊藤園 お~いお茶新俳句大賞
https://itoen-shinhaiku.jp/archive/28/eigo/
freshly mown grass
clinging to my shoes
my muddled thoughts
刈りたての芝生が靴にくっつく
まとまらない私の考え
>
ちなみにこの句は海外での反応も良かった。
http://honyakualfa.blog.fc2.com/blog-entry-837.html
俳句パターンの「情景」+「心象」で、自分の心の内の葛藤が示せている例2:
何が悪かったのか、と言うのを別方向から書くと、人間の内面にある悩みが浅いのである。
酒を飲んだり、あるいは新しい服を着たりすれば解決できそうな感じである。
無論、時代がそういうものを求めたのかもしれないし、私個人が深いものを求めすぎると言う偏屈でもあるので、これは一般論にはならないが、しかし私個人は不満である。
本当は、何をしてもどうにもならないような人間の純真性に対し、そのもどかしさ、狂おしさ、煩悶、躊躇、素朴な疑問や、どうにも解決できない事態に対し、それを情景と併せるべきである。
じゃあお前はできるのか、と言う感じで言われると思うので、私自身がトライする。
原発事故を例に例えてみよう。そこにある問題や煩悶、躊躇や、どうにもならない人間心理は何か。
レベル1から段々レベルを上げていく形にする。
lv1)
「原発はどうにかならないのか」
→表現が直接的すぎる。
lv2)
「原発をかかえる僕らができることは」
→表現は間接的になったがまだ直接的である
lv3)
「原発を見に行った、やるせなかった、無力だと悟った」
→個人の感想でまだ聴衆には届かない。
と言うのを踏まえてレベル4を記載。
lv4)
「福島を見に行った。
いつもの太陽、照り着く小石、遠くの林が風に吹かれている
生気のないブロック塀、わんさと生えている雑草、割れたガラス窓
人がいないという違和感
帰り道は何もしなかった。
何かをしなきゃと思いながら、本当は何もしなかった。
帰った翌日は普段どおりの生活をした。
皆が笑っている。テレビでは明るいニュースが流れている。
」
とここまで書くことになるとは書き出しの時には思わなかった。
「フライディ・チャイナタウン」は何かを考える時の基軸になるだろう。
余談であるが、泰葉さんは林家三平の娘さんなんですね(どうもすみません)。
あとこの曲の肯定的側面を書いておく。
ここ数年において、海外において日本の80年代の曲のリバイバルブームが起きており、そのリミックスも海外の人らによって作られている。
私はこの「フライディ・チャイナタウン」のリミックスをよく聞いているのだが、これがまた夏に合うんだなあ。
皆さんもよろしければどうぞ。
余談:
本記事に関係ないですがその他夏に合いそうな曲:
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