とめどもないことをつらつらと

日々の雑感などを書いて行こうと思います。
草稿に近く、人に読まれる事を前提としていません。
引用OKす。

漫画・美味しんぼについて

2023-12-25 23:27:31 | マンガ
序:

私は漫画を料理に例えることがある。人に通じて便利だからだ。
料理には人の好みがあり、自分がおいしいと思ったものが他人もそう思っていたり、あるいはそうでなかったり、あるいは他人が美味しいと思っているものではあるが、自分は美味しさを感じなかったり・・・

こうした意味において料理にはある種のうまい・まずいの傾向はあるが、絶対的な基準が存在しない。
これは映像作品や漫画にも同じことが言える。

私が今回書く対象の「美味しんぼ」は累計発行部数が1億部を超えたモンスター作品なのだが、そうした主流の潮流に抗った、マイノリティーの小さな意見であることをご容赦頂きたい。

多くの人が美味い美味いと言っているような料理に「自分はちょっと違うと思う」と言う自由があるのと同様、多くの人が面白い面白いと言っているような漫画に「自分はちょっと違うと思う」と言う自由があるのだと私は勝手に考えているので、ここにそれを書かせて頂く。

では始める。以下に続く文章は、総じて個人的意見になるのでご容赦頂きたい。

総論:

まず、個人的な意見だが、「美味しんぼ」は売れているほど面白くはない。
ディズニーを見ているだとか、アニメのサザエさんをまだ見ているだとか、そういう「大衆に乗っかっていなければいけない」と言う感覚の魔法にかかってしまった人が読んでしまっているのだろう。
鬼滅の刃がヒットしたので、最終巻だけ買ったと言う仰天ものの人も鬼滅ブームの際には発生したようだが(それでその作品の内容が分かるの? )、これの延長版だ。
いや正確には、こういう人は2つに分かれる。

一つは完全なるプロで、物語は1部だけ見ればいい、と言うものだ。
漫画版のサザエさんは、任意の一巻を購入して1ページだけ読めば、その雰囲気やその作品を目指していることが分かるし、それを材料にそれを読んだ自分自身が今後作るであろうものの基礎として取り込んでいく。これはこれで良い。作品の面白さを自分で判断・判定しているからだ。
また、プロは長時間の拘束となる作品読了に時間が取れない。仕方ない選択なのである。

もう一つはその対局にある、自分で自分の好みすら選択できない、ある種軽度の知的障害の人である。
自分が認識するであろう面白さの判定基準が自己の内部に存在しない。
何が良くて何が悪いのか、それを判断できず世間の判断基準にそれを委ねるタイプだ。
あるいは日常生活において読めるのはこれだけ、と娯楽に時間的制限を考えた結果こうなっているのかもしれない。

美味しんぼと言う作品が受けたのはおそらく後者のタイプの人間だった。
(そして商業作品とは、その成功をするにはそういう人間たちも商圏に巻き込む必要がある)

思わせぶりな押し付けルール、説教、新しい基軸のモラル、社会問題、ちょっとしたSFや突飛な設定・・・これらのサッカリンやアスパルテームなどの人工甘味料をちゃんぽんした結果、大衆受けの良いインスタントカップ焼きそばみたいな漫画が生まれてしまったのだろう。

絵柄:
上手くはない。さくらももこ氏のようなヘタウマ系で人を唸らせるようなものでもなければ、美麗な線を描くものでもない。
安直なキャラクターデザイン、そのデザインの実装の単純粗雑さなどアラを挙げればいいところはない。
もっともこれは掲載誌であったビッグコミックスピリッツの方針でもあったように思う。
漫画として面白いと言わせる利点の一つである、絵の美麗さ、あるいは絵柄の個性などがない。
また、漫画と言う媒体が発達しすぎたがために、これは一般的に普通と言われる絵のレベルであったものが、今の基準だと厳しい評価になるという部分があったのかもしれない。

別角度から個人的主観の上で言及するが、単純に絵柄が気持ち悪い。


時代性:
2023年の今は、もはや飽食の時代ではなくなった。
確かにグルメ旅行は残っているが、上位層の美味しさというものを求めるにしても、上位層で比較して競って争って・・・と言うものに対し、大衆が求められる時代ではなくなったのは確かである。
簡単に言えば、あの美味しいA店に行きたいね、B店にも行きたいね、と言うことはあっても、A店とB店を比較したらこっちの方がより優れている・・・と言うような判断をする贅沢が、大衆はできなくなったということになる。

プロット:
物語の構成においては対決のプロットを入れるのは正しい。大衆受けするためである。
ではそうしたロジックを入れた、カップラーメンのような大量生産品が美味いのかというと・・・? 

説教:
「〇〇は〇〇しなければならない」と言う義務的な押し付けを読者に強いる(そしてそれが間違っていることが往々にしてある)。これが読んでいる側として不快である。
不快でなかった人は、それを再説教する材料として自分の中に取り込んでしまったのだろう。
また説教する側の人間が、仕事ができない側の社員であるという設定もあまり良くなかった。
できていない人間に正論っぽい形で説教されるのは不快である。
(しかもそれが何十年後かに間違っていると分かった日にはなあ・・・)
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