色んな作品を見るにアメリカ人父親のベタベタさ、ドライさが気になる。
「ビジネスマンの父より 息子への30通の手紙」でも本当べったべたの愛情がある、かつ常に対等に接する説教モードと言うのが、まあアメリカ人らしいなというのがあった。
また、どこかの映画だったが、黒人の父親が、自分の息子に「いいか人と話す時は、きちんとその人の目を見て話すんだ」ときちんと教育をしていたのも良かった。
これは映画「セッション」のラストにも現れる。
「息子の心配をしない親がどこにいる」と。
ところが、これが映画「ジョーカー」になると、自分が妊娠させた女性の息子は法的にもがっちり「面倒を見ない」と言うことになっていて、完全切り離しにかかっている。
(あの門の向こうにいた若い息子は本当べったべたに接しているだろうけれどもお)
何かこう両極端なのだ。
日本のように、家族として同居して、家族の運営を差配しながらも人間教育として何も教えないみたいな中途半端な父親像がアメリカにはない。
「ビジネスマンの父より 息子への30通の手紙」でも本当べったべたの愛情がある、かつ常に対等に接する説教モードと言うのが、まあアメリカ人らしいなというのがあった。
また、どこかの映画だったが、黒人の父親が、自分の息子に「いいか人と話す時は、きちんとその人の目を見て話すんだ」ときちんと教育をしていたのも良かった。
これは映画「セッション」のラストにも現れる。
「息子の心配をしない親がどこにいる」と。
ところが、これが映画「ジョーカー」になると、自分が妊娠させた女性の息子は法的にもがっちり「面倒を見ない」と言うことになっていて、完全切り離しにかかっている。
(あの門の向こうにいた若い息子は本当べったべたに接しているだろうけれどもお)
何かこう両極端なのだ。
日本のように、家族として同居して、家族の運営を差配しながらも人間教育として何も教えないみたいな中途半端な父親像がアメリカにはない。