BOOK、CDなど

1 BOOK、CD、LPなど⇒断捨離、コンサート、リウマチ・膠原病などのメモ
2 失念防止のためのメモ

331-342 LEE MORGAN

2020年02月07日 | ジャズ(CD 001-626)

331  LEE  MORGAN~LEE  MORGAN  Indeed-1956
332  LEE  MORGAN~LEE  MORGAN  SEXTET-1956
333  LEE  MORGAN~LEE  MORGAN  Vol.3-1957
334  LEE  MORGAN~City  Lights-1957
335  LEE  MORGAN~The  Cooker-1957
336  LEE  MORGAN~CANDY-1957,1958
337  LEE  MORGAN~LEE  WAY-1960
338  LEE  MORGAN~THE  SIDEWINDER-1963
339  LEE  MORGAN~SEARCH  FOR  THE  NEW  LAND-1964
340  LEE  MORGAN~The  Rumproller-1965
341  LEE  MORGAN~CORNBREAD-1965
342  LEE  MORGAN~CHARISMA-1966

リー・モーガン (Edward Lee Morgan, 1938年7月10日 - 1972年2月19日)は、ジャズのトランペット奏者。アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア生まれ。子供の頃から才能を評価された、ブルーノート・レーベルの代表的トランペッター。1956年にディジー・ガレスピー楽団(1956年10月-1958年2月)に在籍し、その年には早くもブルーノートから『Lee Morgan indeed!』でデビューし、その艶やかで伸びのある輝かしい演奏スタイルから天才トランペッター・クリフォード・ブラウンの再来とも呼ばれた。1957年3月24日にレコーディングされたアルバム『Lee Morgan Vol.3』の中の「アイ・リメンバー・クリフォード」の演奏で高い評価を得た。 
1960年頃はアート・ブレイキー&ザ・ジャズメッセンジャーズにも所属し、トランペット奏者として、また一部の曲の作曲を手がけた。この時代の演奏では『モーニン』などが知られている。 
リー・モーガンの曲で特に有名なのは、1963年12月21日にレコーディングされてBlue Noteレーベルからリリースされた『ザ・サイドワインダー』で、ビルボード・チャートの25位まで上昇した。これは、当時のジャズ界では空前のヒット作であった[3]。シングルカットされたタイトル曲の「ザ・サイドワインダー」は8ビートをジャズにいち早く取り入れた楽曲の1つで、カヴァーも多い人気曲である。 
1972年2月18日、リー・モーガンはニューヨークにあったジャズクラブ「スラッグス」でライブ演奏をしていたが、その2ステージ目と3ステージ目の合間の休憩時間に、年上の愛人(内縁の妻)ヘレン・モア (Helen More) に拳銃で撃たれ、ただちに病院に移送されたが、ほぼ即死状態だった。死亡が確認されたのは2月19日午前2時45分だった。享年33歳。


325-330 LEE KONITZ

2020年02月07日 | ジャズ(CD 001-626)

325  LEE  KONITZ~SUBCONCIOUS-LEE-1949,1950
326  LEE  KONITZ~VERY  COOL-1957
327  LEE  KONITZ~THE  LEE  KONITZ  DUETS-1967
328  LEE  KONITZ~TOOT  SWEET-1982
329  LEE  KONITZ~JAZZ  NOCTURNE  LEE  KONITZ  QUARTET-1992
330  LEE  KONITZ~BRAZILIAN  PHAPSODY-1995

リー・コニッツは白人のアルト・ サックス奏者。レニー・トリスターノに師事し、トリスターノ派のジャズメンとして有名。

1927年10月13日、米イリノイ州シカゴで生まれたアルトサックス奏者。


321-324 KENNY DREW

2020年02月07日 | ジャズ(CD 001-626)

321  KENNY  DREW~THE  KENNY  DREW  TRIO-1956  
322  KENNY  DREW~UNDERCURRENT-1960   
323  KENNY  DREW~KENNY  DREW  REQUEST-1985    
324  KENNY  DREW~KENNY  DREW  REQUEST  2-1986

ケニー・ドリュー (Kenneth Sidney "Kenny" Drew、1928年8月28日 - 1993年8月4日)は、ハード・バップ・ピアニストの一人。アメリカ合衆国ニューヨーク出身。メロディアスかつ優美なタッチで、ヨーロッパ及び日本で人気を集めた。 
息子のケニー・ドリュー・ジュニアもジャズ・ピアニストとして活動している。
1949年にハワード・マクギーと初録音を行う。1950年代にはチャーリー・パーカーやミルト・ジャクソン等と共演。 
1953年、バンド・リーダーとしてブルーノートと契約し、『イントロデューシング・ケニー・ドリュー・トリオ』を制作したが、本国アメリカでは、なかなか高い評価を得られなかった。翌1954年、アメリカの西海岸に移り住んだ。 
1961年にパリに渡り、1964年からデンマークのコペンハーゲンに活動の拠点を移し、以来デンマーク人ベーシスト、ニールス=ヘニング・エルステッド・ペデルセンを生涯の演奏のパートナーとする。また、やはりコペンハーゲンに渡ってきたデクスター・ゴードンとも共演。 
日本でのプロデューサーはキーストンミュージック、木全信。 
最後のアルバムで日本におけるライブを録音した『ザ・ラスト・レコーディング:ライヴ・アット・ザ・ブルーノート・大阪』が残されている。 
1993年にコペンハーゲンで死去し、同地に埋葬された。


315-320 KENNY DORHAM

2020年02月07日 | ジャズ(CD 001-626)

315  KENNY  DORHAM~KENNY  DORHAM  QUARTET-1953 
316  KENNY  DORHAM~AFRO  CUBAN-1955  
317  KENNY  DORHAM~ROUND  ABOUT  MIDNIGHT-1956 
318  KENNY  DORHAM~QUIET  KENNY-1959  
319  KENNY  DORHAM~WHISTLE  STOP-1961   
320  KENNY  DORHAM~INTA  SOMETHIN'-1961

ケニー・ドーハム(Kenny Dorham, 1924年8月30日 - 1972年12月5日)は、テキサス州フェアフィールド出身のジャズ・トランペット奏者。ビバップを代表するトランペッターの一人。本名:McKinley Howard Dorham 。 
ビリー・エクスタインやディジー・ガレスピー、ライオネル・ハンプトン、マーサー・エリントンのビッグ・バンドやチャーリー・パーカーのクインテットで活躍。アート・ブレイキーが形成するジャズ・メッセンジャーの一人としても知られる。セロニアス・モンクやソニー・ロリンズのサイドマンとしても録音に参加し、1956年に死去したクリフォード・ブラウンの後継としてマックス・ローチのクインテットに加わる。 
サイドマンの仕事の傍ら、ジャズ・プロフィッツを含む自身のグループを持つ。ジャズ・プロフィッツの演奏はブルー・ノートの1956年のアルバム"Round About Midnight at the Cafe Bohemia."で聞くことができる。その前年の1955年にはアフロ・キューバン・ジャズの金字塔"Afro-Cuban"を発表。1959年にプレスティッジから"Quiet Kenny"を発表。前者を『動』のケニーだと表現するのに対して、後者を『静』のケニーと表現する者が多い。 
1963年に26歳のテナー・サックス奏者ジョー・ヘンダーソンを加え、"Una Mas"を録音。両者は仲がよく、ヘンダーソンのアルバム"Our Thing"や"In'n'Out"等にドーハムが参加している。1960年代始めにブラジルに赴いた。1960年代に頻繁に録音しており、ブルーノートやプレスティッジで聞くことができる。リーダーとしての他、ヘンダーソン、ジャッキー・マクリーン、シダー・ウォルトン、ミルト・ジャクソンのサイドマンとしてみられる。 
腎臓病を患い、1972年に死去。


309-314 KENNY BARRON

2020年02月07日 | ジャズ(CD 001-626)

309  KENNY  BARRON~GREENN  CHIMNEYS-1983  
310  KENNY  BARRON~LEMURIA  SEASCAPE-1991  
311  KENNY  BARRON~THE  MOMENT-1994
312  KENNY  BARRON~LIVE  AT  BRADLEY'S-1996  
313  KENNY  BARRON~LIVE  AT  BRADLEY'S  II-1996  
314  KENNY  BARRON~CANTA  BRASIL-2002 

ケニー・バロン(Kenny Barron、1943年6月9日 - )は、アメリカのジャズ・ピアニストである。何百ものレコーディングにリーダーおよびサイドマンとして参加しており、ビバップ時代から最も影響力のある主流ジャズ・ピアニストの1人と考えられている 。バロンは25年以上にわたり、ニュージャージー州のラトガース大学でピアノとキーボードのハーモニーについてを教えていた。現在、ジュリアード音楽院で教壇に立っている。


303-308 KEITH JARRETT

2020年02月07日 | ジャズ(CD 001-626)

303  KEITH  JARRETT~THE  CURE-1991
304  KEITH  JARRETT~PRICELESS  JAZZ  COLLECTION-1998
305  KEITH  JARRETT~WHISPER  NOT  DISC 1-1999
306  KEITH  JARRETT~WHISPER  NOT  DISC 2-1999
307  KEITH  JARRETT~MY  FOOLISH  HEART  DISC 1-2001
308  KEITH  JARRETT~MY  FOOLISH  HEART  DISC 2-2001

  

キース・ジャレット(Keith Jarrett、1945年5月8日 - )は、アメリカ合衆国のジャズ・ クラシックピアニスト、作曲家。 ジャズ・ピアニストとして広く認識されているが、 クラシック等、ジャンルを超えた音楽表現を身上とする。演奏楽器もピアノにとどまらず、 ソプラノ・サックス、パーカッション、ハープシコード、リコーダーなど多岐にわたる。メロディーの美しさもさることながら、中腰の姿勢で、時折うめき声を出しながらピアノを弾く姿が印象的。

The Cure(1990年録音)(ECM) 1991年(ニューヨーク「タウン・ホール」におけるライブ)

Whisper Not — Live in Paris 1999(1999年録音)(ECM) 2000年(ライヴ)

My Foolish Heart - Live at Montreux(2001年録音)(ECM) 2007年(「モントルー・ジャズ・フェスティバル」におけるライヴ)

2003年にはポーラー賞を受賞。2017年2月15日、ニューヨーク・カーネギーホールでのソロコンサートを最後に活動を休止、現在療養中となっている


297-302 Julie London

2020年02月07日 | ジャズ(CD 001-626)

297  Julie London~JULIE  IS  HER  NAME  VOL.1 & 2-1955,1958  
298  Julie London~Lonely Girl-1956  
299  Julie London~Calendar Girl/Your Number Please-1956,1959  
300  Julie London~About The Blues/London By Night-1957,1958  
301  Julie London~JULIE...  At Home/Around Midnight-1960,1960  
302  Julie London~Sophisticated Lady/For The Night People-1962,1966

ジュリー・ロンドン(Julie London、1926年9月26日 - 2000年10月18日)は、アメリカ合衆国の女優、歌手。本名、ゲイル・ペック(Gayle Peck)。

1944年、『ジャングルの妖女』で映画女優としてデビュー。『赤い家』『愛と血の大地』『機動部隊』などの映画にワーナーニューフェイスとして出演したが、女優としては幸運に恵まれない下積み時代を過ごした。

1947年に役者のジャック・ウェッブ(Jack Webb)と結婚し、徐々に主婦業に集中する。二人の娘を出産。 
1953年に離婚。ボビー・トゥループ(Bobby Troup)の勧めで芸能界へ復帰。歌手に転向し、ナイトクラブで歌うようになる。ジャズピアニストで「ルート66(Route 66)」の作曲家としても有名なトゥループの指導を受け、本格的なジャズシンガーとしてのキャリアをスタートさせた。

1955年、ファーストアルバム『Julie Is Her Name(邦題:彼女の名はジュリー)』を録音。同アルバム内からシングル・カットされた『クライ・ミー・ア・リバー(Cry Me a River)』がヒットして一躍人気歌手となり、同時に映画活動も再開。『女はそれを我慢できない』『西部の人』などに出演するなど、一躍スターとなる。歌手としては主にスタンダード・ナンバーを数多く歌い、レコードを発表している。また、『You'd Be So Nice To Come Home To(帰ってくれれば嬉しいわ)』は、日本ではヘレン・メリルの歌唱がよく知られているが、アメリカではジュリー・ロンドン版もヒットした。

1995年に脳卒中で倒れてから体調を崩すようになる。 
2000年10月18日、カリフォルニア州エンシノにある病院で、心臓病のため74歳で死去。

アメリカ、イギリス、日本の各報道機関がジュリーの死を報じた。ジュリーがかなりのアルコール好きだったことが死因に関係しているとされる。 
人気の理由として、その美貌と共にハスキーボイスが挙げられる。ジュリーの声は「スモーキー・ヴォイス」とも呼ばれていた。


267-296 JOHN COLTRANE

2020年02月07日 | ジャズ(CD 001-626)

267  JOHN  COLTRANE~DAKAR-1957
268  JOHN  COLTRANE~BLUE  TRAIN-1957
269  JOHN  COLTRANE~LUSH  LIFE-1957,1958
270  JOHN  COLTRANE~COLTRANETIME-1958
271  JOHN  COLTRANE~STARDUST-1958
272  JOHN  COLTRANE~GIANT  STEPS-1960 
273  JOHN  COLTRANE~MY  FAVORITE  THINGS-1960
274  JOHN  COLTRANE~European Impressions-1961
275  JOHN  COLTRANE~BALLADS-1961
276  JOHN  COLTRANE~DUKE  ELLINGTON  &  JOHN  COLTRANE-1962
277  JOHN  COLTRANE~JOHN  COLTRANE  &  JOHNNY  HARTMAN-1963
278  JOHN  COLTRANE~A  LOVE  SUPREME-1964
279  JOHN  COLTRANE~LIVE  IN  PARIS-1965
280  JOHN  COLTRANE~LIVING  SPACE(10084)-1965
281  JOHN  COLTRANE~STELLAR  REGIONS(10085)-1967
282  JOHN  COLTRANE~LIVE  AT  THE  VILLAGE  VANGUARD(10086)-1961
283  JOHN  COLTRANE~IMPRESSIONS(10087)-1961,1962,1963
284  JOHN  COLTRANE~CRESCENT(10088)-1964
285  JOHN  COLTRANE~JOHN  COLTRANE(10089)-1962
286  JOHN  COLTRANE~LIVE  AT  THE  VILLAGE  VANGUARD  AGAIN-1966 
287  JOHN  COLTRANE~AFRICA / BRASS(10091)-1961
288  JOHN  COLTRANE~KULU  SE  MAMA(10092)-1965
289  JOHN  COLTRANE~LIVE  AT  BIRDLAND(10093)-1963
290  JOHN  COLTRANE~JOHN  COLTRANE  QUARTET  PLAYS(10094)-1965
291  JOHN  COLTRANE~EXPRESSIONS(10099)-1967
292  JOHN  COLTRANE~LIVE  IN  JAPAN  DISC 1-1966
293  JOHN  COLTRANE~LIVE  IN  JAPAN  DISC 2-1966
294  JOHN  COLTRANE~LIVE  IN  JAPAN  DISC 3-1966
295  JOHN  COLTRANE~LIVE  IN  JAPAN  DISC 4-1966
296  JOHN  COLTRANE~PRICELESS  JAZZ  COLLECTION-1997

  

ジョン・コルトレーン(英語: John William Coltrane, 1926年9月23日 - 1967年7月17日)は、アメリカ、ノースカロライナ州生まれのモダンジャズを代表するサックスプレーヤー。愛称はトレーン(Trane)。 
無名時代が長く、第一線で活躍した期間は10年余りであったが、自己の音楽に満足せずに絶えず前進を続け、20世紀のジャズの巨人の中の1人となった。

主にテナー・サックスを演奏したが、活動最初期はアルト・サックス、1960年代よりソプラノ・サックス、最晩年にはフルートの演奏も残している。活動時期は、1950年代のハード・バップの黄金時代から1960年代のモード・ジャズの時代、さらにフリー・ジャズの時代にわたり、それぞれの時代に大きな足跡を残した。 
1940年代にチャーリー・パーカーらが確立した4ビート・バップ・ジャズのアドリブ方法論を、現代的に再構築した功績は大きい。コルトレーンの構築したアドリブ方法論はジャズだけでなく、ロックなど、他ジャンルのサウンドにもそのまま通用するものだった。このため、コルトレーンの影響は、他のプレイヤーにも及んでいる。 
短い活動期間にも関わらず、アルバムに換算して200枚を超える多数の録音を残した。現在でも多くのジャズ愛好家たちに愛され、彼の残したレコードはほとんどが廃盤にはならずに(あるいは一旦廃盤になっても再発売される形で)、2012年現在でも流通し続けている。さらに、死後40年以上経過した現在でも未発表テープが発掘され、新譜として発表される状況が続いている。 

1966年7月に来日。9都市を廻る大がかりな公演を行う。記者会見で「10年後のあなたはどんな人間でありたいと思いますか?」という質問に対し、コルトレーンは「私は聖者になりたい」と答えたというエピソードがある。 また、同じ会見にて「最も尊敬する音楽家は?」という問いに対し、オーネット・コールマンの名前を挙げたといわれる。 
1967年5月7日、ボルチモアで最後のコンサートを行う。7月17日、肝臓癌で亡くなる。


ゴーストタウンと化した北京、ロイター記者の通勤風景 (Reuters 2020/02/07)

2020年02月07日 | ネット・ニュースなど

ゴーストタウンと化した北京、ロイター記者の通勤風景 (Reuters 2020/02/07)


新型肺炎の感染拡大で、中国では首都・北京もゴーストタウンと化している。ロイター・グレーター・チャイナのチーフプロデューサー、マーク・チザムが、いつもの通勤風景がどう変わったかをリポートした。

こんな北京はあなたも見たことがないはず――。
朝のこの時間はいつも通勤客でにぎわっていた。だが、新型コロナウイルスの感染拡大で、中国では旧正月の連休が延長され、2500万人の人々の大半が通りから消えた。

「歩道には誰もいない。車、自転車、バイクもほとんどいない」
ロイターのマーク・チザム記者はこの10日間、いつもの通勤経路から人の消えた不気味な様子を記録し続けた。
「左側はシルクマーケットで、いつもなら多くの外国人が来て買い物をしているが、ここも閉まっていて誰も入れない」
「永安里駅に向かう。最も混雑する、北京地下鉄1号線の駅だ」
「これからサーモスキャンをする」
「1人として電車から降りず、1人として乗らなかった。
通常、このホームは人でぎゅうぎゅう詰めで、電車は大量の乗客で混み合う。
だが今は、ご覧の通りガラガラだ」

新型コロナウイルスは中国中部の都市武漢で発生したと考えられている。
ウイルスは複数の都市に拡大、多くの人々が感染を警戒し家に引きこもっている。

「ここに来ると分かるように、店は1つか2つしか開いていない。
これが、私の最近10日間の通勤風景だ。まるでゴーストタウンのようだ」
「弊社のオフィスビルに入ると、向こうで消毒液を撒いている人が見える。
彼らは私の体温をチェックする。
登録カードを持っていなければこのビルには入れない」