ぶうちん村、風わたる。

風の吹くまま、気の向くままなんて、なかなかできませんが、楽しみを見つけながら過ごしたいものです。

先生はいじめられた人の味方と言い切っていいのか ③

2006年11月12日 21時10分40秒 | Weblog
 虚偽の報告が原因とやらで北九州の小学校の校長が自殺したという。痛ましいことだと思う。しかし、世間では同情というよりは何をやっているのかという雰囲気が強いのではないだろうか。
 詳細が分かった時点でのコメントが妥当なんだろうが、今の学校の雰囲気からして、どこかの管理職の誰かが自殺といった事態が発生するのではないかという予感はあった。
 学校では、今、県教委はじめ各級段階が企画したいじめの実態把握・調査に躍起にとりくまさせられている。問題は記入する子どもの側の意識だ。端から見ていて「かわいそう」と思われる事例もあるが、そういう子にいじめの自覚はないため実態ゼロという場合もあれば、プロレスごっこで痛い目にあった(プロレスごっこだから時に痛いと感じる技もあるのは当たり前)ことを記入したばかりに、それがいつから始まったのか、どの程度なのかなどと詳細に報告を求められるのである。
 それはそれでいいとしても、そのやりとりが学校と教育委員会の間で始まると、教育委員会による「作文指導」が始まるのである。「経過観察中」などの言葉がどんどん盛り込まれていく。これが徹底してしつこい。管理職だけでなく、教員にもかかってくる。そうすると、次第に言葉が一人歩きし始め、実態と違う文章に仕上がっていくのである。学校から出されたナマの報告文書をどうしてそのまま受け取れないのだろうか。
 つまり、いじめの実態は報告書として文書にまとめられていく段階で次第に別物になっていくのである。こういう学校で究極の事態が発生すると、偽造したの虚偽だのという評価がなされてしまうのである。
 また、ある学校では教育委員会とそんなやりとりに精力を注ぐのはむだとばかりに、報告よりも指導の時間をたっぷりとる、管理職も子どもと語るなど具体的に対応している。報告書作成に追われるのと、具体的な対応に力を注ぐのとではどちらがいいだろうか。どちらか、と割り切ることではないが、学校の職員の意識はそこまでになっている。
 ある学校の校長は、こういう状況の中で、保護者や地域が何をしているのか、どうするのかなどとやかましく言ってくる。学校としてできることはやっているのに、さらに要求してくる。学校というのは昔と違ってモノを言いやすいんだろうけど、反論することを許されない自分たちがいじめられているも同様だ、と語った。
 最近はテストでオール100点の子どもの保護者が「うちの子が分からないと言っている」と抗議する時代だ。こうした保護者に納得いただくために、職員が追いつめられているという実態はあちこちにある。 
 虚偽を作為的にしたというよりもそういった雰囲気の中でそうなった、と私は見ている。例え自殺した校長が作為的だったとしても、ほとんどの学校は上記のような実態に置かれていることを前提に見るべきだ。
 それでも「あまえている」と言うのなら、「究極の学校生活」を子どもたちが送ることになる。その「究極の学校生活」とは何か? 乞うご期待。

 PS 東京の自殺予告状の件の結果はまだだ・・・報道管制?
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棚田館の建設・4

2006年11月12日 20時35分57秒 | Weblog
 前回アップしてからずいぶん経ってしまいました。約1ヶ月ぶりになると思います。
 その後、建設のための事務所はほぼ毎夜のように夜遅くまで明かりがこうこうとついています。私の帰宅はたいてい21時以降なんですが。
 現在の工事の進捗状況は基礎工事が着々と進められています。その一方で、自治会の運動場が半分ほどなくなってしまう関係で、運動場の西側の樹木を伐採し、50㎝ほど低くなっている地盤に土砂を入れる作業が進められています(写真)。
これからの変化は早くなっていくので、できるだけ細かにお知らせをしたいと思っています。

 さて、ふれあい事業のソバ刈りが近づいてきました。場所はこの棚田館の建設現場の隣の畑。もうそろそろいい感じになってきましたよ。日時は11/26(日)の13時からです。みなさん、ぜひ参加してみてください。
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