すっかり情熱が冷え切っている私でございますが、久々にエエ感じの新聞記事を見つけました。
たった9年間の中学山岳部「小史」
朝日新聞 2011年04月05日
マナスルブーム前の1952年に創部し、1959年に学校からの要望で廃部となった、武蔵野市立第三中学校の山岳部について、このたび記録がまとめられたとのこと。
ふと思いましたけど、中学校で山岳部があるトコなんて、あまり聞かないですね。自分の母校にはあったような記憶がありますが、中高一貫校でしたからねえ。
引用
山岳部は同校創立2年目の1952年、山登りが好きな数人の生徒で結成された。はじめは奥多摩などへ日帰り登山に出かけていたが、次第に難しい山にも挑戦。高校の山岳部に入った先輩と南アルプスを何日もかけて縦走したり、冬山に挑んだり、大学の山岳部に負けない活動だった。
引用おわり
南アルプスの縦走とはいえ、ロクな装備が無かった当時の状況を思うと、その大変さがしのばれます。
引用
だが、59年夏の登山が最後になった。中央アルプスでの合宿中に台風に遭い、予定より下山が遅れた。小史にある当時の日記には〈八人用のテントはポールが持ち上がってしまい、押さえ切れない状況でした。進駐軍放出の三人用テントだけ残り、全員で空木小屋に避難することになりました〉とある。被害はなかったが、心配した学校側が、以後は活動を認めなかったという。
引用おわり
「剣岳 点の記」を映画で見た人なら、あのシーンを思い浮かべてください。柴崎芳太郎と長次郎がテントの中で大変なことになってるところです。ちなみに、映画では屈強の山男たちが必死にテントの中で悪天候に耐えていたわけですけど、この場合は中学生ですよ。
引用
創立メンバーの立原弘さん(73)は「独学で覚えた天気図は、ラジオを聞きながら描いた。今思えば、中学生がよく登れましたよ」と振り返る。高価で買えない登山靴の代わりに地下足袋を履き、スコップやナベを担いで登った。小学校を出たばかりの1年生にはなるべく負担をかけず、先輩や卒業生が重い荷物を持つ決まりだった。
引用おわり
今では登山靴を何足も持っているのは普通になりました。が、昔は皮のごつい登山靴がサラリーマンの1ヶ月分の給料と同等だった時代もあったわけで、戦後間もない頃の中学生が気軽に買えるようなシロモノではなかったでしょうね。
そういえば先日、戦後に唐松山荘が建設された頃のお話をうかがったのですが、当時のボッカさんは80キロの荷物を背負って八方尾根を登っていたそうです。もちろんリフトはありませんから、黒菱平から8時間ぐらいかけて登っていたのですね。で、履いているものといえば登山靴なんて買えるわけがなく、草鞋が当たり前だったとか。その草鞋も稜線に到着する頃にはボロボロになるため、下山する場合、ボッカさんは裸足で八方尾根を駆け下りていったそうです。
槍ヶ岳の槍沢コースでボッカしてた人も、あの雪渓を地下足袋で歩いていたと聞いたことがあります。実際にボッカしてた職人さんから聞きましたけど、古いタイプのプロパンガスのボンベは100キロぐらいあったそうで、それを背負って普通に地下足袋で行動していたとか。雪渓が固くても、親指が信じられないほど強いので、普通にキックステップできてたそうです。
要するに、道具なんて何でもいいわけですね。もちろん、強靱な体力と堅忍不抜の精神があれば、の話ですけど。
引用
立原さんは「今の時代、大人が子どもの力を過小評価していると思う。戦後の物が無い時代に、中学生がこういう活動をしていたという記録を残したかった」と話す。
引用おわり
昔の山の本なんぞを読むと、登山に使えるモノが無くて、米軍の放出品とかいろいろ創意工夫して登っている様子がイキイキと描かれていて面白いです。中公文庫の山の本なんぞ、読み漁ってみるとよろしいかと。
個人的に一番好きな山の本は、佐瀬稔が書いた「喪なわれた岩壁―第2次RCCの青春群像」ですかね。
たった9年間の中学山岳部「小史」
朝日新聞 2011年04月05日
マナスルブーム前の1952年に創部し、1959年に学校からの要望で廃部となった、武蔵野市立第三中学校の山岳部について、このたび記録がまとめられたとのこと。
ふと思いましたけど、中学校で山岳部があるトコなんて、あまり聞かないですね。自分の母校にはあったような記憶がありますが、中高一貫校でしたからねえ。
引用
山岳部は同校創立2年目の1952年、山登りが好きな数人の生徒で結成された。はじめは奥多摩などへ日帰り登山に出かけていたが、次第に難しい山にも挑戦。高校の山岳部に入った先輩と南アルプスを何日もかけて縦走したり、冬山に挑んだり、大学の山岳部に負けない活動だった。
引用おわり
南アルプスの縦走とはいえ、ロクな装備が無かった当時の状況を思うと、その大変さがしのばれます。
引用
だが、59年夏の登山が最後になった。中央アルプスでの合宿中に台風に遭い、予定より下山が遅れた。小史にある当時の日記には〈八人用のテントはポールが持ち上がってしまい、押さえ切れない状況でした。進駐軍放出の三人用テントだけ残り、全員で空木小屋に避難することになりました〉とある。被害はなかったが、心配した学校側が、以後は活動を認めなかったという。
引用おわり
「剣岳 点の記」を映画で見た人なら、あのシーンを思い浮かべてください。柴崎芳太郎と長次郎がテントの中で大変なことになってるところです。ちなみに、映画では屈強の山男たちが必死にテントの中で悪天候に耐えていたわけですけど、この場合は中学生ですよ。
引用
創立メンバーの立原弘さん(73)は「独学で覚えた天気図は、ラジオを聞きながら描いた。今思えば、中学生がよく登れましたよ」と振り返る。高価で買えない登山靴の代わりに地下足袋を履き、スコップやナベを担いで登った。小学校を出たばかりの1年生にはなるべく負担をかけず、先輩や卒業生が重い荷物を持つ決まりだった。
引用おわり
今では登山靴を何足も持っているのは普通になりました。が、昔は皮のごつい登山靴がサラリーマンの1ヶ月分の給料と同等だった時代もあったわけで、戦後間もない頃の中学生が気軽に買えるようなシロモノではなかったでしょうね。
そういえば先日、戦後に唐松山荘が建設された頃のお話をうかがったのですが、当時のボッカさんは80キロの荷物を背負って八方尾根を登っていたそうです。もちろんリフトはありませんから、黒菱平から8時間ぐらいかけて登っていたのですね。で、履いているものといえば登山靴なんて買えるわけがなく、草鞋が当たり前だったとか。その草鞋も稜線に到着する頃にはボロボロになるため、下山する場合、ボッカさんは裸足で八方尾根を駆け下りていったそうです。
槍ヶ岳の槍沢コースでボッカしてた人も、あの雪渓を地下足袋で歩いていたと聞いたことがあります。実際にボッカしてた職人さんから聞きましたけど、古いタイプのプロパンガスのボンベは100キロぐらいあったそうで、それを背負って普通に地下足袋で行動していたとか。雪渓が固くても、親指が信じられないほど強いので、普通にキックステップできてたそうです。
要するに、道具なんて何でもいいわけですね。もちろん、強靱な体力と堅忍不抜の精神があれば、の話ですけど。
引用
立原さんは「今の時代、大人が子どもの力を過小評価していると思う。戦後の物が無い時代に、中学生がこういう活動をしていたという記録を残したかった」と話す。
引用おわり
昔の山の本なんぞを読むと、登山に使えるモノが無くて、米軍の放出品とかいろいろ創意工夫して登っている様子がイキイキと描かれていて面白いです。中公文庫の山の本なんぞ、読み漁ってみるとよろしいかと。
個人的に一番好きな山の本は、佐瀬稔が書いた「喪なわれた岩壁―第2次RCCの青春群像」ですかね。
山について調べ物をしていて偶然こちらへ辿り着いたのですが、私は1997~99年にその武蔵野市立第三中学校のワンゲル部に入っておりました。
社会科の先生(当時おそらく50代)と地元の登山好きのおじさんに引率して頂いて、夏は北岳・甲斐駒・仙丈ケ岳など、それ以外の季節は奥多摩などへ15人ほどでワイワイと登っておりました。
私の卒業後、顧問の先生の異動によってワンゲル部は無くなってしまいましたが、個人的に今でも月1程度でのんびりと登山を続けています。
今思うと、当時はゴアテックスは高くて買えず、ザックもみんなキスリング、友達とキャンプに行くような感覚で、よく事故が何も起こらず続けられたなと、先生の力を偉大に感じています。
その先生方と記事の当時の山岳部につながりがあるのかは分かりませんが、思わぬ所で母校の歴史を知ることが出来、感激です。
佐瀬稔の著作を本文では挙げましたけど、他に印象的なのは松本竜雄さんの「初登攀行」とか、小森康行さんの「垂直の上と下」、そして小西政継さんの一連の作品あたりでしょうか。