引き続き水木しげるさんの「三途の川の渡り方」の紹介を続けます。
今度は、海外での思い出話です。
以下、同書より抜粋し、引用します。
*****
(引用ここから)
アメリカインディアンのナバホ族・ヨロク族・ホピ族の3部族の聖地を回ったことがある。
その旅の中でとくにすごかったのが、ホピ族の踊り。
とにかく圧倒された。
同行してくれたジャーナリストの足立倫行さんから聞いたのだが、
ホピには興味深い伝説があって、伝説では世界はもう2度も絶滅しているという。
その度にホピ族はグランドキャニオンの地下1000メートルの地底に隠れた。
1回目は世界を浄化する火で人間は滅んだ。
2回目は大洪水で滅び、その名残がノアの方舟だという。
ホピ族は農耕の民なので、夏至のころ、精霊を送ると同時に雨乞いのためのダンスを踊る。
ニーマンダンスというのだが、大地との一体化を願ったものだ。
まず穴に入って8日間、絶食をする。
そして当日、おかしな大きい仮面をかぶって、 右と左のふくらはぎに亀の甲羅と鈴をつけて、「ファー」と4,50人が声を出して踊る。
断食をしていたから、声も小さいし、動きも少ない。
じつはこの祭りは神聖なので、写真撮影はおろかスケッチもいけない。
もちろん録音なんかしたら殺されても仕方ない。
でもぼくはこっそり小型のテープレコーダーで録音してきてしまった。
ふつうの人が聞くと5分も聞いたら眠くなってしまうというのだが、ぼくはこの「フファー」という4,50人の声が一つになるのが気になって、一週間、ずっと聞いていたら、楽譜にない音が聞こえてきた。
そうしたらすごく自由になった。
木や石とも会話できるような気持ちになってきたのだ。
3000年前までは世界中が精霊信仰だった。
いま純粋な精霊信仰が残っているのはホピ族だけと言ってもいい。
彼らの歌は「元に戻せ」と言っているように聞こえていた。
精霊信仰に戻れ、とぼくに伝えたかったのだろう。
荒俣宏さんとジャマイカに行ったときも、霊と音楽の関係の強さに驚かされた。
教会に行ったらボロボロのたたみ2枚分もあるスピーカーが2つ置いてあった。
牧師は1分も説教しないで、あとは合唱。
するとスピーカーからは日本では聞いたこともない深くて低い音が耳に入ってくる。
それに加えて大合唱。
きっとジャマイカの人は音楽に魔力があるのを知っているのだろう。
ぼくもすっかり巻き込まれて魂を取られたようになっていた。
ニューギニアの奥地に350人ほどのワヘイという部族がいる。
この部族の祭りも、徹夜で笛と太鼓の大合奏をする。
これをずっと続けていると、やがてビッタガスという精霊の音が入ってくるというのだ。
もちろん、全員が念を凝らしていないとこの音は聞こえない。
この音はもともとジャングルの妖怪から教わったそうだ。
ぼくもこの音を聞いたら、夢にワニの姿をした妖怪が現れてきた。
ワヘイ族は、竹を割って束にしたもので、大地をたたいたり、音楽を演奏したりして霊との交信を行う。
こうして精霊を降ろして、仲間にとりついた病を川へ流す。
ワヘイでは、この演奏を一晩中やる。
すると明け方、楽譜にない音が聞こえてくる。
それが、精霊が来た証だ。
録音は禁じられていたけど、ぼくはいつものようにそっと録音してきた。
日本に帰ってから聞いてみたら、ものすごく気持ちがいい。
聞いているうちに、自分が木になったり、石になったり、石のなかに入ったりできるような感じになった。
つまりぼく自身が精霊になったように思えた。
キリスト教以前のメソポタミア地方には、大母神信仰というのがあって、これは自然信仰だった。
古代エジプトでも太陽が神としてあがめられていたように、自然信仰だった。
文明というものが生まれた当時は、人間は生きている時間を死後の世界のために費やしている。
あの世とこの世が混在しているような世界だった。
以前ぼくは、鬼太郎は“第一期人間界”の末裔だ、と書いたことがある。
“第一期の人類”とは、霊的な存在だった。
鬼太郎はその末裔だから、地獄だろうと天国だろうと好きな所に出入りできると考えていた。
霊的な力が上がれば、石にでも入りこめる。
脇役のねずみ男は妖怪。
いつも鬼太郎の邪魔をしようとするが、ちょっと抜けたところがあって失敗する。
愛すべき霊的な存在だ。
人を怖がらせるのが妖怪ではない。
霊の世界を教えるために、ぼくらの世界に現れるのが妖怪だと、僕はとらえてきた。
お化けや妖怪の話を、いい歳をした人でさえ熱心に話してくれるような所では、人間もゆったりした心をもっている。
心に余裕がある。
実利的なことばかり考えていると、お化けも逃げてしまう。
でも僕にはむしろ実利に追われた生身の人間の方がずっと怖いものに見えるのだが、どうだろう。
(引用ここまで)
*****
お化けに逃げられるようになったら、人間も終わりかもしれないですね。
今度は、海外での思い出話です。
以下、同書より抜粋し、引用します。
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(引用ここから)
アメリカインディアンのナバホ族・ヨロク族・ホピ族の3部族の聖地を回ったことがある。
その旅の中でとくにすごかったのが、ホピ族の踊り。
とにかく圧倒された。
同行してくれたジャーナリストの足立倫行さんから聞いたのだが、
ホピには興味深い伝説があって、伝説では世界はもう2度も絶滅しているという。
その度にホピ族はグランドキャニオンの地下1000メートルの地底に隠れた。
1回目は世界を浄化する火で人間は滅んだ。
2回目は大洪水で滅び、その名残がノアの方舟だという。
ホピ族は農耕の民なので、夏至のころ、精霊を送ると同時に雨乞いのためのダンスを踊る。
ニーマンダンスというのだが、大地との一体化を願ったものだ。
まず穴に入って8日間、絶食をする。
そして当日、おかしな大きい仮面をかぶって、 右と左のふくらはぎに亀の甲羅と鈴をつけて、「ファー」と4,50人が声を出して踊る。
断食をしていたから、声も小さいし、動きも少ない。
じつはこの祭りは神聖なので、写真撮影はおろかスケッチもいけない。
もちろん録音なんかしたら殺されても仕方ない。
でもぼくはこっそり小型のテープレコーダーで録音してきてしまった。
ふつうの人が聞くと5分も聞いたら眠くなってしまうというのだが、ぼくはこの「フファー」という4,50人の声が一つになるのが気になって、一週間、ずっと聞いていたら、楽譜にない音が聞こえてきた。
そうしたらすごく自由になった。
木や石とも会話できるような気持ちになってきたのだ。
3000年前までは世界中が精霊信仰だった。
いま純粋な精霊信仰が残っているのはホピ族だけと言ってもいい。
彼らの歌は「元に戻せ」と言っているように聞こえていた。
精霊信仰に戻れ、とぼくに伝えたかったのだろう。
荒俣宏さんとジャマイカに行ったときも、霊と音楽の関係の強さに驚かされた。
教会に行ったらボロボロのたたみ2枚分もあるスピーカーが2つ置いてあった。
牧師は1分も説教しないで、あとは合唱。
するとスピーカーからは日本では聞いたこともない深くて低い音が耳に入ってくる。
それに加えて大合唱。
きっとジャマイカの人は音楽に魔力があるのを知っているのだろう。
ぼくもすっかり巻き込まれて魂を取られたようになっていた。
ニューギニアの奥地に350人ほどのワヘイという部族がいる。
この部族の祭りも、徹夜で笛と太鼓の大合奏をする。
これをずっと続けていると、やがてビッタガスという精霊の音が入ってくるというのだ。
もちろん、全員が念を凝らしていないとこの音は聞こえない。
この音はもともとジャングルの妖怪から教わったそうだ。
ぼくもこの音を聞いたら、夢にワニの姿をした妖怪が現れてきた。
ワヘイ族は、竹を割って束にしたもので、大地をたたいたり、音楽を演奏したりして霊との交信を行う。
こうして精霊を降ろして、仲間にとりついた病を川へ流す。
ワヘイでは、この演奏を一晩中やる。
すると明け方、楽譜にない音が聞こえてくる。
それが、精霊が来た証だ。
録音は禁じられていたけど、ぼくはいつものようにそっと録音してきた。
日本に帰ってから聞いてみたら、ものすごく気持ちがいい。
聞いているうちに、自分が木になったり、石になったり、石のなかに入ったりできるような感じになった。
つまりぼく自身が精霊になったように思えた。
キリスト教以前のメソポタミア地方には、大母神信仰というのがあって、これは自然信仰だった。
古代エジプトでも太陽が神としてあがめられていたように、自然信仰だった。
文明というものが生まれた当時は、人間は生きている時間を死後の世界のために費やしている。
あの世とこの世が混在しているような世界だった。
以前ぼくは、鬼太郎は“第一期人間界”の末裔だ、と書いたことがある。
“第一期の人類”とは、霊的な存在だった。
鬼太郎はその末裔だから、地獄だろうと天国だろうと好きな所に出入りできると考えていた。
霊的な力が上がれば、石にでも入りこめる。
脇役のねずみ男は妖怪。
いつも鬼太郎の邪魔をしようとするが、ちょっと抜けたところがあって失敗する。
愛すべき霊的な存在だ。
人を怖がらせるのが妖怪ではない。
霊の世界を教えるために、ぼくらの世界に現れるのが妖怪だと、僕はとらえてきた。
お化けや妖怪の話を、いい歳をした人でさえ熱心に話してくれるような所では、人間もゆったりした心をもっている。
心に余裕がある。
実利的なことばかり考えていると、お化けも逃げてしまう。
でも僕にはむしろ実利に追われた生身の人間の方がずっと怖いものに見えるのだが、どうだろう。
(引用ここまで)
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お化けに逃げられるようになったら、人間も終わりかもしれないですね。
彼らの世界観でむやみに命を奪うモノは未熟とされていますし。
水木さんも最初から自然の中の石や木に心があるとは思ってなかったんですね、意外です、貴重な文章感謝します
虹を探す者様
コメントありがとうございました。
私はちょっと違う見解をもっているのですが、、
このエピソードで、水木さんが殺されなかったのは、たぶん、精霊たちがチェックして、まあ、この人は見逃そう、と思ったからだと思います。
彼らの世界観として、むやみに命を奪うことは、けっしてしないと思いますが、他者が彼らの秘密の世界に不用意に首を突っ込むことには、ひじょうに神経質だと思います。
外部の人ではありませんが、ホピ族でも、いけにえとして、部族の少女を、祈りの成就のために崖から突き落としたり、というようなことも行われていたようです。
生と死と現実と社会、それらを捉える感覚が、現代社会人とは異なる、独特なものがあるのだと思います。
水木さんは、彼らから見たら、同族に見えたのではないでしょうか?