「チベットの死者の書」の資料は集めているのですが、実母の危篤にあり、分析・記述することができません。
実母の死にあたっては、自然死を選択しました。
今まで、何回も入院しては、老人ホームに戻るために、わたしは命をけずって努力してきました。
なぜなら、介助あり・無しありますが、口から食事をとれないと、老人ホームは受け入れてくれないからです。
胃ろうという選択もありますが。
娘が母に、なんとか、自分で食事をとれるよう、食べさせてあげ、自分で食べられるよう、心をくだいて協力する、ということは、人生のフィルムを逆回転させて見るようなものです。
かつて(前世)、わたしは、、おそらく、父母に、歓喜を持って誕生を受け入れいられ、この世に生を受けました。
そして、母の乳をふくみ、寝息をたてるわたしは、、おそらく、父母の間で、たいせつに見守られたのだとおもいます。
それ以上のことは、もう、人生で、いらない、とすら思います。
ただ、感謝ですし、無力なわたしをゆるしてほしいです。
もう10数年お世話になっている老人ホームでは、「看取り」を希望したら、「〇〇さんの最期なら喜んで看取らせていただきます」と、二つ返事でご了解をいただきました。
担当ドクターの了解も得ています。
ですから、わたしが、母ののどをしめて、殺そう、というわけではありません。
もう、水も飲めなくなって、8日になります。
夜が明けたら、9日目です。
救急搬送していただいて、息を吹き返した10日前に、母とは、ちゃんとお別れのご挨拶を、互いにしあいましたから、あとは、苦しまないで、その時をむかえてほしい、と思うだけです。
ブログ内関連記事
「レモン哀歌(高村光太郎)への哀歌」
「なぜ人を殺してはいけないのか?(1)・・殺すなかれ、の声を聴く」
「嵐山光三郎「死ぬための教養」・・ゆうゆうと死ぬために。。」
「利他的遺伝子・・「自分」と「自分達」は、どう違うのだろうか?」
「自殺は許されるべき選択肢・・ウィリアム・レーネンは語る」