節分に行う「ヒイラギの枝にイワシの頭を刺して家の門戸に置く」という習俗について考えています。
ウィキペディア「ヒイラギイワシ」を見ると、文献に初めて出てくるのは平安時代の紀貫之の「土佐日記」であるということです。
以下に載せます。
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wikipedia「柊鰯」より
柊鰯(ひいらぎいわし)は、節分に魔除けとして使われる、柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿したもの。
西日本では、やいかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいう。
●概要
柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言う(逆に、鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすとも説明される)。
日本各地に広く見られる。
●歴史と変移
平安時代には、正月の門口に飾った注連縄(しめなわ)に、柊の枝と「なよし」(ボラ)の頭を刺していたことが、「土佐日記」から確認できる。
現在でも、伊勢神宮で正月に売っている注連縄には、柊の小枝が挿してある。
江戸時代にもこの風習は普及していたらしく、浮世絵や、黄表紙などに現れている。
西日本一円では節分にいわしを食べる「節分いわし」の習慣が広く残る。
奈良県奈良市内では、多くの家々が柊鰯の風習を今でも受け継いでいて、ごく普通に柊鰯が見られる。
福島県から関東一円にかけても、今でもこの風習が見られる。
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今はイワシですが、平安時代には、ヒイラギには「ボラ」が刺されていた、ということです。
そこで「ボラ」を見てみました。
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wikipedia「ボラ」より
ボラ(鰡、鯔、鮱)は、ボラ目・ボラ科に分類される魚の一種。
ほぼ全世界の熱帯・温帯に広く分布する大型魚で、海辺では身近な魚の一つである。
食用に漁獲されている。
全長80cm以上に達するが、沿岸でよく見られるのは数cmから50cmくらいまでである。
●生態
河口や内湾の汽水域に多く生息する。
基本的には海水魚であるが、幼魚のうちはしばしば大群を成して淡水域に遡上する。
水の汚染にも強く、都市部の港湾や川にも多く生息する。
体長が同じくらいの個体同士で大小の群れを作り、水面近くを泳ぎ回る。
釣りの際の撒き餌に群がるなど人間の近くにもやって来るが、泳ぎは敏捷で、手やタモ網で捕えるのは困難である。
また、海面上にジャンプし、時に体長の2-3倍ほどの高さまで跳びあがる。
●別名
イセゴイ(関西地方)、ナタネボラ(愛媛県)、マボラ(広島県)、ツクラ(沖縄県)、クチメ、メジロ、エブナ、ハク、マクチ、クロメ、シロメなど
日本では高度経済成長以降、沿岸水域の汚染が進み、それに伴って「ボラの身は臭い」と嫌われるようにもなったが、それ以前は沿岸でまとまって漁獲される味のよい食用魚として広く親しまれ、高級魚として扱った地域も少なくなかった。
そのため各地に様々な方言呼称がある。
●出世魚
また、ブリやクロダイ、スズキなどと同様に、大きくなるにつれて呼び名が変わる出世魚にもなっている。
関東 - オボコ→イナッコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド
関西 - ハク→オボコ→スバシリ→イナ→ボラ→トド
高知 - イキナゴ→コボラ→イナ→ボラ→オオボラ
東北 - コツブラ→ツボ→ミョウゲチ→ボラ
「トド」は、「これ以上大きくならない」ことから「結局」「行きつくところ」などを意味する「とどのつまり」の語源となった。
「イナ」は若い衆の月代の青々とした剃り跡をイナの青灰色でざらついた背中に見たてたことから、「いなせ」の語源とも言われる。
また、「若い衆が粋さを見せるために跳ね上げた髷の形をイナの背びれの形にたとえた」との説もある。
「オボコ」は子供などの幼い様子や、可愛いことを表す「おぼこい」の語源となっており、また「未通女」と書いてオボコと読んで処女を意味していた。
イナ(鯔)は、ボラ(鯔)の幼魚 18~30cmのもの。
「名吉(みょうきち・みょうぎち・なよし)」などとも。
オオボラ(鮱)は、ボラ(鯔・鰡)の成長しきったものを指す。
●利用
水質の良い水域のものや外洋の回遊個体は臭みが少なく、特に冬に脂瞼の回りに脂肪が付き白濁した状態になる「寒ボラ」は美味とされる。
身は歯ごたえのある白身で、血合が鮮やかな赤色をしている。
刺身、洗い、味噌汁、唐揚げなど様々な料理で食べられる。
刺身などの際は鱗と皮膚が厚く丈夫なので剥ぎ取った方がよい。
臭みを消すには酢味噌や柚子胡椒が用いられる。
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ボラという魚は、「出世魚」でもあり、かつては高級魚とされていたということです。
ボラの料理を探してみました。
「農文協」出版の「聞き書き・ふるさとの家庭料理・冬のおかず」から、ぼらのなますをご紹介します。
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(引用ここから)
「ぼらのなます」
ぼらは、いな→てっぽう→ぼら→とど、と成長するにしたがって名前が変わる出世魚で、一尺半ほどのぼらになると、波の上の跳躍が見られる。
一年中捕れる魚であるが、特に「寒ほら」が味がよい。
ぼらのなますは、祷屋(とうや)行事(集落の祭祀を継承する行事)の酒の肴として、また日常のおかずとしてもよく作られる。
煮つけや塩焼きにしても美味しい。
(引用ここまで)
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なるほど、「ぼら」という魚は、古くから、集落の祭祀の際に作られる料理の材料なのですね?
そこで再び、ウィキペディアで「節分」を調べてみました。
現在でも、伊勢神宮の「正月のしめ縄」には、ヒイラギが取り付けられているということです。
「節分」の起源をウィキペディアで見てみました。
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「追儺(ついな)」より
追儺(ついな)とは、大晦日(旧暦12月30日)の宮中の年中行事であり、平安時代の初期頃から行われている鬼払いの儀式。
「鬼やらい」(鬼遣らい、鬼儺などとも表記)、「儺(な)やらい」とも呼ばれる。
●歴史
追儺の儀式は、『論語』の郷党篇にも記述があり、中国の行事がルーツである。
日本においては天皇や親王が行う宮廷の年中行事となった。
その後、変遷があり、現在の節分の元となった。
●儀式の概要
方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負った役人(大舎人(おおとねり))と、方相氏の脇に仕える侲子(しんし)と呼ばれる役人(特に役職は決まっていない)が20人で、大内裏の中を掛け声をかけつつ回った。
方相氏は玄衣朱裳の袍(ほう)を着て、金色の目4つもった面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯をもった。
方相氏が大内裏を回るとき、公卿は清涼殿の階(きざはし)から弓矢をもって方相氏に対して援護としての弓をひき、殿上人(でんじょうびと)らは振り鼓(でんでん太鼓)をふって厄を払った。
ところが9世紀中頃に入ると、鬼を追う側であった方相氏が逆に鬼として追われるようになる。
古代史家の三宅和朗はこの変化について、平安初期における触穢信仰の高まりが、葬送儀礼にも深く関わっていた方相氏に対する忌避感を強め、穢れとして追われる側に変化させたのではないかとしている。
●節分と追儺
追儺は節分のルーツともされている。
この節分においては、鬼を豆によって追い払う。
「節分祭追儺神事」を行う社寺もある。
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豆まき一つとっても、いろいろと奥深い歴史が秘められているのだと、感慨を深くしました。
イワシより先に、祝肴としての「ぼら」が用いられていた、ということは、なんだか納得がいくように思いました。
そして、「節分」という季節の行事と、「追儺(ついな)」という宮中行事が混同していったのだということも、納得がいくように思いました。
しかし、それでも、「厄除け」という民俗は、さらに深い謎を秘めているとも思います。
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