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速度を落とすべし・・鷲田清一氏「しんがりの思想」(2)

2016-01-04 | 野生の思考・社会・脱原発



明けまして おめでとう ございます。

今年も よろしく お願いいたします。


年末に途中までご紹介した、鷲田清一氏の「しんがりの思想」の続きです。

     
            *****



          (引用ここから)



「限界」を意識するのは、この意味で大事なことである。

「ここを超えると危険水域に入る」という「臨界点を知る」こと。

これが命をつなぐために最も重要なことだ。

限界を見させまいとすることは、子供の心を傷つけまいという思いからのことだろうが、いずれ子供をより大きな危機にさらすことになる。


しかし、限界はよほど眼をこらさないと見えない。

眼をこらすというのは、自分がどういう状況にあるかを距離を置いて見ること、つまりは惰性を脱するということだからだ。


日本人は、〝寡栄養”に強いと言われ、〝過栄養”には弱いと、肝臓疾患の専門医から聞いたことがある。

日本人の体は、体内に採りいれた少ない脂肪を数日間うまく使って、飢えをしのぐには向いているが、栄養過多に対して、脂肪を減らす機能が弱いということらしい。

だからこのところ脂肪肝が原因で、肝臓がんになる人がじわりじわり増えているという。


そういう意味でも、「減らす」というのは本当に難しい。

ごちそうがあるのに、途中で止めるというのは難しい。

便利なものをあえて使わないというのも難しい。

何かある事業を立ち上げるために、別の事業をやめるというのも、難しい。


「足るを知る」という言葉はやさしいが、それを実行するのは難しい。

このことが私たちの社会構造についても言える。


とするなら、「足るを知る」という古人の知恵に、今、誰よりも近いところにいるのが、若者たちではなかろうか?

と言うか、そうならざるを得ない場所へ、一番先にはじき出されたのが、今の若い世代なのかもしれない。

骨の髄まで成長幻想に染められているそれ以前の世代には、「過栄養」という「不自然」が「不自然」には映らないからである。

「ダウンサイジング」というメンタリティーに最も遠い世代のリーダー像では、「縮小してゆく社会」には対応できないのだ。


この国は、本気で「退却戦」を考えなければならない時代に入りつつある。

その時、リーダーの任に堪えるのは、もはや引っ張っていくタイプのリーダーではない。

それは「右肩上がり」の時代にしか通用しないリーダー像だ。

これに対して、「ダウンサイジング」の時代に求められるのは、言ってみれば「しんがり」のマインドである。

「しんがり」とは、言うまでもなく、合戦で劣勢に立たされ、退却を余技なくされた時に、隊列の最後部を務める部隊のことである。

彼等が担うのは、敵の追撃に遭って、本体を先に安全な場所まで退却させるために、限られた軍勢で敵の追撃を阻止し、味方の犠牲を最小限に食い止める、極めて危険な任務である。


「しんがり」・・「後駆(しりがり)」が音便化した語で、「後備え」、「尻払い」「殿軍」とも言われる。 

現代では「ケツモチ」という言い回しもあるようで、いわゆるイベントサークルでトラブルに陥った時、それに〝片を付けて”くれる人のことらしい。

ヤンキー言葉では、暴走族が暴走行為をする時に、最後尾を受け持つメンバーのことを指す。

パトカーに追跡されると、速度を落として蛇行運転し、前の集団を逃がすのが彼等の役目である。

あるいは登山のパーティーで、最後尾を務める人も指す。


経験と判断と体力に最も秀でた人が、その任に着くという。

一番手が、「しんがり」を務める。

二番手は、先頭に立つ。

そして最も経験と体力に劣る者が、先頭の真後ろに付き、先頭はその人に息遣いや気配を背中でうかがいながら、歩行のペースを決めるという。

「しんがり」だけが隊列の全体を見ることができる。

パーティー全体の〝後ろ姿”を見ることができる。

そして隊員がよろけたり、足を踏み外したりした時、間髪を入れず救助にあたる。


「右肩下がり」の時代、「廃炉」とか「ダウンサイジング」が課題として立ってくるところでは、このように仲間の安全を確認してから最後に引き上げる、「しんがり」の判断が最も重要になってくる。


誰かに、あるいは特定の業界に犠牲が集中していないか?

リーダーは張り切りすぎで、皆が付いて行くのに四苦八苦しているのではないか?

そろそろ、どこかから悲鳴があがらないか?

このままで、果たして「もつ」のか?

といった全体のケア、各所への気遣いと、そこでの周到な判断こそ、「縮小していく社会」において、リーダーが備えていなければならないマインドなのである。


「地域社会」とか「市民社会」と呼ばれる場は、職業政治の場ではない。

誰もがよそに本務をもったままで、そうしたゆるい集団の一員として参画する。

それは日々、それぞれの持ち場で、おのれの務めを果たしながら、公共的な課題が持ち上がれば、誰もが時にリーダーに推され、時に メンバーの一員、そうワン・オブ・ぜムになって行動する。

つまり普段はリーダーに推された人の足を引っ張ることもなく、よほどのことがない限り従順に行動する。

しかし場合によっては、すぐに主役の交代もできる。

そういう可塑性のある、しなりのある集団だろう。

リーダーに、そしてシステムに全部を預けず、しかし全部を自分が丸ごと引き受けるのでもなく、いつも全体の気遣いをできるところで責任担う。


そんな伸縮可能な関わり方で・・「上位下達」「指示待ち」の対極である・・で維持されてゆく集団であろう。

実際、誰もがリーダーになりたがる社会ほど、もろいものはない。

日ごろは自己の本務を果たしつつ、公共的なことがらについて、ある時は「今は仕事が手を抜けないのでちょっと頼む」。

ある時は「あなたも本業が忙しいでしょうからしばらくわたしが交代しましょう」。

というように、前面に出たり、背後になったりしながら、しかし、いつも全体に気配りができる、そんな賢いフォロワーの存在こそが、ここでは大きな意味を持つ。


公共的なことがらに関して、観客になるのではなく、みずから問題の解決のためのネットワークを編んでゆく能力。

それこそが、「市民性の成熟」の前提であるということである。

この社会ではいまだに、「リーダー待望論」が声高く謳われる。

異様と言わざるを得ない。


             (引用ここまで)


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