ヴァールブルク著「蛇儀礼」のご紹介を続けます。
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(引用ここから)
食糧確保という社会的行為は、こうしてみると分裂的です。
つまり、魔術と技術が合体しているのです。
魔術とロゴスの中間にある彼らが、状況に対処する手段は、「象徴」なのです。
サン・インデフォンソで「カモシカの舞踏」を見ました。
まずは音楽隊が大きな太鼓を持って現れます。
それから彼らは2列に並んで、仮装や体の動きでカモシカになりきります。
この舞踏の場合は一つの列は動物の歩き方を真似し、もう一つの列は羽が巻きつけてある小さな棒をカモシカの前足に見立てて、それを支えとして半立ちになり、その場で様々な身振りをします。
二つの列の先頭には、女性の像と猟師がいます。
動物になったふりをしている人々は、彼女に願をかけている様子でした。
「狩猟舞踏」にあっては動物の恰好をすることによって、当該の動物が、いわばあらかじめ捕まえられることになります。
狩りの現場における動物への攻撃が、模倣されるのです。
こうした「仮装舞踏」は、人間以外の存在と自らを結合させるプロセスであり、それは自分とはまったく違う存在に徹底的に服することを意味するのです。
インディアン達が仮装してそうした動物の表現や運動を真似するのは、自分の人格を変容させることによって、自然から魔術的な何かを奪いとろうとしているからです。
自分の人間としての人格を広げ、変えないかぎり、そうしたことは不可能だと思っているのです。
こうしたパントマイム的な「動物舞踏」における模倣は、人間とは異なる存在に恭順の意を示す自己放棄で、そういうものとして礼拝的な行為なのです。
動物に対するインディアンたちの心の内の態度は、ヨーロッパ人のそれとはまったく異なります。
インディアン達は、動物を人間より高次の存在と見ています。
なぜなら、動物はまさに動物であるというその完璧なあり方によって、人間という弱い存在よりもはるかに高い能力を持った存在となっているからです。
動物へと転成しようとするこの意志の心理的分析に関して、クッシング氏は、あるインディアンが彼に「なぜ人間が動物より高等だと言えるのか?」と聞いた時の話をしてくれました。
インディアンはこう言ったのです。
「カモシカを見てごらんなさい。走っているだけだが、走るのは人間よりはるかに上手ではありませんか。あるいは熊を考えてください。力そのものではありませんか。人間は何かがほんのちょっとできるだけです。ところが動物はそのままで完璧な存在です」と。
この夢のような考え方は、尊崇による恐れの気持ちから・・トーテミズムと言われるものですが・・一切の動物は自分たちの種族の神話的な祖先である、と信じることで、動物世界と関わっているのです。
彼らは動物世界と自分たちを恣意的に結びつけることで、自然の発展過程を説明しようとするのです。
こうした人々の生活を規定しているのは、神話的な親和力により自然の発展過程を説明しようとしているのです。
サン・イルデフォンソに残っている「カモシカの舞踏」は、明らかに「狩猟舞踏」です。
しかしこの地域ではすでに3世紀前にカモシカは絶滅しています。
それゆえこの「カモシカの舞踏」は純粋に魔術的な「カチーナ舞踏」への過渡期のものかもしれません。
(引用ここまで)
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