始まりに向かって

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与那国の海底遺跡・・ジャック・マイヨールの見た海

2008-12-16 | その他先史文明

世界中の深海に潜ってきたジャック・マイヨールが、とりわけ興味をもったのが、沖縄・与那国島の海底遺跡でした。

著書「海の記憶を求めて」に彼はこのように前置きを書いています。


「あらかじめ申し上げておきたいのだが、閉息潜水、つまり素潜りをしているときは、時間に限りがあって五感にも大きな制約が課せられているため、自分を取り巻く周囲の世界を平静に、知的に分析する時間は皆無と言っていい。

その時働く「知覚作用」は、直接的、動物的、瞬間的であり、わたしに言わせればかなり「正確かつ確実」なものである。

潜在意識に入り込んで直接に働きかけてくるこの「知覚作用」が、われわれを裏切ることはめったにない。」・・・


このような前置きのあと、与那国の海底遺跡についてこのように描写しています。。

    ***


海底の深い静寂のなかで、わたしはいきなり説明のつかない異様な感覚にどっと襲われ、打ちのめされた。

今眼前に広がっているのは、人間の手で改変され、美しい化粧を施された情景であることに気付いて、激しい衝撃を受けたのだ。

このようなものは、わたしは写真や映画を介して知ってもいたし、さまざまな意見も耳にしていた。
しかし潜在意識のなかに眠っていた感覚は五体から目ざめ、五感を超えて、わたしに告げていた。

おまえは今、突飛で説明しようのない、途方もないものを前にしているのだと。

それは想像を絶するものだったが、たしかにわたしの目の前にあり、わたしは人間の手が築きあげたその三次元の宇宙の中にいた。

それにしても、どんな人間がこんな途方もないものを築きあげたのだろう。

海と陸とを問わず、世界各地で見てきた大遺跡の数々を思い浮かべてみたが、これにはただ息をのむばかりだった。

人間の手がじかに石を削ったこの遺構は、どう見てもいわゆる原始人の築いたものではありえない。

このあたりは1万年以上前に氷河が溶けだして水没したものの、それまでは陸地だったところだが、そこに暮らしていた未開人の作品ではありえない。


わたしがいま目の当たりにしているのはまぎれもない階段だが、われわれ現代人に比べてあまりにスケールが大きすぎる。

この巨大な段丘や岩板は、まるでスタンリー・キューブリックの「2001年宇宙の旅」から抜け出してきたようではないか!

それにしても妙な形だ。
ほとんどが見事な左右対称をなして、幾何学模様を描いている。

これを築いたのはもしかするとわれわれよりずっと大きな体格の人間なのでは、、、わたしは漠然とながら、そう感じた。

そういえば、与那国からは身長2メートル20センチの、明らかに人間とおぼしいものの骨が発見されたと聞いている。

 
  ***


これはかれの仮説なのですが、かれは確信をもって語ります。


   ***



わたしは遺構の内部を隅々まで、直観だけを頼りに泳ぎまわった。
いとこ分のイルカのように嗅覚を働かせながら。
そして思わずつぶやいた。

「まったく、イルカだったらよかったのに。」
なぜならイルカは知っているからである。

もしも口がきけたら、この遺構がなんであるかを彼らは話して聞かせてくれるにちがいない。。

与那国の一帯は世界でもっとも謎に満ちた場所として知られている。

今はまだ人類の祖先にまつわる遺物の痕跡は見つかっていないが、そのような社会の足跡が発見される日も近いのではないだろうか。

  
     ***



ジャック・マイヨールは、琉球大學の木村政昭教授と同じく、与那国の海底遺跡はかつて大きな大陸が太平洋に存在したことの証左の一つではないかと考えていました。

彼は「与那国の海底には、教条的な先史の枠を超える新たな発見が待っているに違いない。組織的な調査をおこなえば、必ずや新たなる発見が可能なはずである。」と書いています。(同著)

そしてこれからも調査を続け、ドキュメンタリー映画を作りたいと書いていました。(同著)


早すぎる死を残念に思います。







wiki与那国島「海底遺跡」の項より

海底遺跡とされる場所

1986年に、ダイバーによって島の南側海底に巨大な一枚岩が発見された。「一枚岩」は周囲数百メートルに及ぶ巨大なもので、人工的に切り出したような跡や、人がちょうど歩くことができそうな通路状の隙間、階段状の壁、柱が立っていたと思わせる穴など、人が加工しなければできないかのように思われる形状を備えていたため、遺跡ではないかと報道された。
この地形の成因については、以下の通り、人工的な構造物であるとする立場と、自然地形であるとする立場からのいくつかの説がある[2][3]。人工的な構造物説に立つのは木村政昭(琉球大学名誉教授)らのグループのみである[4]。しかし、考古学的・地質学的な調査をせず、論文発表もせず、学会外における報告書や出版物でも精確な調査データを出さなかったり図面をわざわざ不正確に捏造するなどしているため、学術的に認められていない。一方、同じ琉球大学理学部教授の中村衛や元沖縄県埋蔵文化センター所長の安里嗣淳らは自然現象説を採っている[5][6]。

•遺跡説

1. 古代文明遺跡説
かつて古代文明がこの地に存在し、何かに使用した建物であるとする説。「遺跡」であれば、水没したのは動植物の分布や鍾乳石から、前回の氷河期が終わって海面が上昇したときであるとの説があり、これが事実ならば、1万年以上前の世界最古の古代遺跡ということになる[7]。また、発見者である新嵩喜八郎主催の与那国海底遺跡博物館のWEBによると、遺跡説の中では古代遺跡説がかなり有力である[1]。しかし周辺に同様の様式を持った遺構などを含めて1万年以上前の文明の痕跡らしきものが一切発見されていないこと、「遺跡」の傾き(これは与那国周辺の地層そのままである)が大きすぎて施設として考えた場合に実用性が疑わしいこと、そもそも人の手が加わった証拠が全く見つかっていないことなどから、この説には疑問の声が強い。

2. 石切り場説
1.に対して、施設を作る為に石を切り出す場所であったとする説。これは階段状に直角に切り出されている部分は説明がつくが、切り出した石の行方が説明できない。

3. 中世遺跡説
1.に対して、比較的新しい時代の遺跡とする説。2005年から2006年にかけて、遺跡の全貌の把握ならびに年代特定のために、琉球大学主催で本格調査が実施された。そして、採集した遺跡のサンプルから年代の特定が行われた結果、遺跡が水没した年代は、10世紀後半から11世紀前半にかけての時代であることが判明したとされる(論文・報告書は未公刊の為、この主張の客観的検証は現時点では不可能)。これが事実であれば、1万年以上前の古代遺跡とする説は否定され、古代文明も存在しなかったことになる。しかしながら、琉球史では、遺跡が水没したとされる時代の資料が非常に少なく、南西諸島における地殻変動の記録も未だ見つかっていないため、結論は未だ出せない状況である。とは言え数十mもの地殻変動であれば影響は広範囲に渡ると予想されるため、その記録が一切発見されていないことは説を疑問視するに充分な状況証拠となっている。


• 侵食説

岩が侵食されてできた自然地形であるとする説。この岩はもともと侵食されやすい種類のものであり、垂直や水平の階段状の部分は、マグマの冷却時に規則的な亀裂が発生し、それに沿って岩石が侵食される「方状節理」という現象で説明できる。階段状部分の高さがまちまちであり高いところでは1段につき1m以上もあることなどからも、人工の構造物ではなく節理による自然地形とする見方が裏付けられる。穴はへこんだ部分に石が入り込み、潮流によって回され、周りの石材を削りだしたもの(ポットホール)で、河川ではよく見られる光景である。また、地上にあった遺跡が海没したとする場合、一定期間(数百~数千年間)波打ち際で波による侵食を受けたと考えられるが、そのような痕跡は見られない。このように、地形が「人工物のように見える」という以外に古代文明があった証拠が希薄であることから、遺跡であることを疑問視する向きがあり、多くの学者は侵食説を支持している。木村らのグループはこの批判を踏まえた形で新たに「海底遺跡は一気に水没した」という説を打ち出している(上記中世遺跡説参照)が、現時点ではこの説は口頭発表のみで主張されているので、論文の公刊が熱望されるところである。



与那国島海底遺跡調査団HP
http://www.ocvb.or.jp/html/yonaguni/01.html
wiki木村政昭
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E6%94%BF%E6%98%AD
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