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名画「ナバロンの要塞」にみるダンディズムとは:『研究・ダンディズム』

2007-03-08 13:45:35 | 研究:「ダンディズム」
<添付画像>:映画「ナバロンの要塞」宣伝ポスターを引き抜く・・


 おおよそ、古今東西の映画俳優たるもの「役柄」にあわせ自在変化の演技を要求される。心身共に映画の中の人物に成り切るは最小必要不可欠なる素養にて、役柄を演じ切れない役者を「ダイコン役者」という。

 過去、映画の役者について、「とある(既成)概念」を読み知った。
それは、男優女優を問わず如何なる「ダイコン役者」に於いてしても、あらゆる男優は「ヤクザ」を演じること可能にて、あらゆる女優は「売春婦」を演じること可能なり。と、、、。


《その1》

 役者たるもの、すなわち、どんな男優も「ヤクザ」は演じれる。どんな女優も「娼婦」は演じれる。という理屈である。これは、世に存在する如何なる種類の男性は、いつ何時たりとも「ヤクザ」の要素は含んでおり、女性は「春をひさぐ女」に変げる可能性ありという諸説である。しかし、貴公子役・貴婦人役(言い換えれば殿様役・お姫様役)となると、これには役者の生まれ持った隠し立て不可能なる「顔立ち」や役者全体から醸し出される「品格」からして、おのずと限定されてくるけれど、ダイコン役者かどうか?という役者の巧拙とは違ったカテゴリーとなる。(これ、このテーマはあらためて取り上げたい)

 話し、「ヤクザ」の小理屈に戻る・・

 わからぬでもない。我輩をして、やくざ的要素はない!と、言えば、嘘になる。軟派硬派取り混ぜ、人間男子に生まれたら誰でも、世のヤクザになれる要素は存在するのである。

 さて、ヤクザ役ができるかどうか? まずは日本映画に焦点をあててみたい。

 我が敬愛するダイコン役者「高倉健」先生は、ヤクザ映画の主役を張って出世した典型的な御仁である。過去、時代劇に出演した多くの悪役は即刻ヤクザ映画の親分になれるし、二枚目も三枚目も若い役者も中年や初老の役者も、チンピラから人殺し専門役から大親分から引退寸前の病床に伏せるヨボヨボヤクザから、全ての範疇のヤクザに「役柄」を割り振りすれば、必ずや「適役なるヤクザ役」は回ってくるであろう。
 しかし、一度も「ヤクザ役」を演じた姿を確認していない役者も存在する、、、。グレゴリーペック大兄、弁護士役はあれどヤクザ役は、ない。(いや、若き頃の西部劇出演で一度だけ、若さにかまけて荒くれ飲んだくれカウボーイ役を演じた記憶あり。こんなペック大兄の役柄は、二度と見ていない。もう一度観たい映画の一つにて、一度紹介する!)
 とにかく、あれだけヤクザ者の出没する洋画に於いては如何か? ハンフリーボガー(Humphrey Bogart;発音が難しい。最後の「t」を発音するか無声音にするか?これ、(t)は子音にて我輩は無声音としたい)は名画「カサブランカ」に於いて、見事に不良アメリカ人役をこなした。アランドロンは女たらしのチンピラ兄ちゃん役から出世作「太陽がいっぱい」の貧乏青年役は、なんとも適役であった。中年になってからは、大御所ジャンギャバンに支えられつつも見事に、フランス映画のヤクザ役世界を闊歩した。よく似合っていた。貴族出身と聞き及ぶジャンポールベルモントも、所詮ヤクザ向きの顔立ちである。
 しかし、グレゴリーペックは一度もヤクザ映画に出演している記憶がない。かの名優・永遠の二枚目。ゲーリークーパー先生も、どうやらヤクザ役をなさっていないようだ。あの時代(≒1950年代をいう、当時ハリウッド映画の日本配給から上映に至るまでには10年近くかかった)、ハリウッド映画の風潮として、ヤクザモノ映画は流行らなかったのかも知れない・・・
 しかし、軍人役はどうか?
 ヤクザ役に続く「男優しか演じれない」軍人役も、高級将校から下士官役、軍曹からへっぴり腰の二等兵役まで「ピンきり」あれど、おおよそ全ての男優に満遍なくこなせる役どころも「軍人兵隊」の配役か。グレゴリーペック大兄は、何と、かの「マッカーサー元帥」役を十二分にこなされておられるから、あらためて最敬礼モノである。


《その2》

 いよいよ本論の本論に入りたく、先日の『ダンディズム研究』記事に続いて、本日あらためて「グレゴリーペック大兄」を語りたい。
 
IMDb's Photo gallary for Gregory Peck


 今はすでに遠き昔、高校時代に遡って銀幕の出来事。シネマスコープを凌ぐ、70mm大フィルムから立ち上げた鮮明なる大画面巨額経費投入の大作映画、数多く繰り出された。
 たやたら大型銀幕大流行から始まるハリウッド映画の大作中、興行的にヒットした「戦争映画」はココにあり。第2次大戦は歴史的事実であり、ならば戦争反対にして平和主義の云々を今更、小理屈挿入する必要もなし、、、。先の大戦を題材背景にした映画はゴマンとあるけれど、そのベスト10に入っていると確信して止まない名画のひとつは、「ナバロンの要塞」である。

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ソニー・ピクチャーズエンタテインメント

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 映画鑑賞感想を述べるは、本日記事のターゲットに非ず。
 加えて、「映画の面白み」を紹介する気分もなし、、、。
 映画のあらすじを述べ認(シタタ)めるは、ダンディズム研究に、不必要。しかし、行きがかり上、強いて粗筋を述べる。
 先の第二次大戦に於いて、エーゲ海の島and/orギリシャ半島の岩山の中腹に「ナバロンの要塞」あり。要塞とは、ナチスドイツの設置した2門の巨砲であり、これを以って海上交通を徹底遮断していることにより連合軍駆逐艦の航行を不可とする。連合軍のギリシャ半島上陸作戦遂行には、この要塞を壊滅せねばならず、デイヴィドニーヴン扮する英国人将校を中心に組織された特殊部隊を編成し、密かにナバロン要塞付近の海岸に接近上陸し、海岸線の崖をよじ登り、ナバロン要塞の破壊工作遂行計画を立てる。イザ、地中海は嵐の真っ只中、漁船をチャーターし難破しながらも海岸線に到達すれどドイツ軍守備隊に察知され、容易く作戦実行儘ならず。上陸した地点地域に於いて地元の地下組織の協力を得て作戦遂行に及ぶ。特殊部隊隊員の中、多くの犠牲者を出しつつも、最後にはナバロン砲台を破壊するに至る。という、あらまし、、、。途中、人種国籍を超えて「要塞破壊工作作戦」に携わる人物の人間像は綿密丁寧に描かれており、人と人との接点と機微が描かれヒューマニズムを表現しているところがこの映画作品の「見どころ」となるか。
 加えて何だか、当時海外旅行は夢のまた夢、ましてギリシャ半島を闊歩するなど薄暗き映画館の銀幕の中でしか体験できなかった当時、エーゲ海とギリシャ半島の風光明媚な風景情景を堪能した「夢多き若き時代」に切り取った映画の画面は、今となっては懐かしくも美味なる思い出であり、まるで、エーゲ海とギリシャ半島の観光旅行をしているほのかな気分になるから、想えば愉快にておもしろい。
 
 若し、
 この映画を観ていない御仁は必ず観て於かれたし。云いたくはないけれど、敢えて損得をいえば、「得」在って「損」は一切ない。
 第二次世界大戦を背景とすれどもイデオロギー的要素や戦争賛美的要素は見当たらず、まずはこの映画、冒険活劇映画であると判定する。この時代の冒険活劇映画は、きょうびのIT動画組合せ技術を一切駆使せず、元祖ゴジラ映画と等しき単純模型建物景観の特撮トリックにて用足ししているものの、ストーリー展開必要上の人物アクション撮影は、あくまでも現地ロケ敢行にて手抜き無しとし、本物の大作を手がけている。主演グレゴリーペックを支える共演者の、役者としての個性は目一杯引き出され、「デイヴィットニーヴン・アンソニークイン・アンソニークエイル」等々、主役を張っても様になる当時の名脇役の御歴々に支えられ、二枚目俳優ペック大兄の軍人としてのダンディズムを全面に出している。いかにも優秀な脇役に支えられ、主役の存在あり。この映画で、いやというほど「知らしめ」られるのだ。


《その3》
 
 かくしてこの映画の中、一度も「スーツ姿」にて登場しないペック大兄。冒険活劇映画に、スーツ姿は必要なし!?

 スーツの似合う男は、間違いなくダンディーであるけれど、総合的なアクションから醸し出される「勇敢かつ知的な戦士」としての男の姿からも、そこはかとなくダンディズムは漂って来るか、、、。

 〆て、
 時の国家の公認した「人殺し正当化?」を特権とした「軍人(将兵)」とは、巷のヤクザの延長線上にあり!・・・
 これを以って、グレゴリーペック兄にして「ヤクザ役」を演じてコナした!と、考えるか?

ご挨拶、ご報告  「ランキング競争脱会宣言」!

2007-03-06 19:41:19 | Weblog

  読者諸兄姉さま

 先の記事『ブログを始めて丸3年』にちなみ、長らく参加していたブログランキング競争(Blog Ranking)ゲームに関し、本日をもって競争戦線の第一線から撤収することに決定いたしました。

 これ、あくまでも撤収にて、撤退ではありませんぞ。

 主なる理由として、
 1.ランキングの上がり下がりに余計な気を使いたくなく、
 2.あわせて読者の皆様にランキングバー・クリック等の手間をお掛けしたくないこと、
   等々、です。

 長年にわたり「ランキング応援」してくださった読者の皆様に、あらためて御礼申します。
     ・・・たいへんありがとうございます。

 今まで、不肖エセ男爵ブログは好き放題書き放題にてエセ三文オペラの断続、いよいよ4年目に突入致しました。このまま引き下がるわけにもいかず、今からも尚、書き続けていく所存です。
 記事投稿に関しましては、あくまでも自然体を維持しつつ勝手きままな「エセ男爵風ブログ流儀」を貫きたくも、未熟者且つ不勉強にて、引き続き読者の皆様には一層のご指導ご鞭撻賜りたく、何卒宜しくお願い申し上げます。
 
                   平成19年3月吉日
 
                             エセ男爵 拝

拝啓 Caroll Baker さま・・

2007-03-05 17:32:45 | 趣味の話&本と雑学メモ
<Photo>:one of Hollywood Actress: "Ms. Caroll Baker", from IMDb's photo collection


  しばし、お待ち頂きたい!

           間違いではありませんぞ!

 かくなるブログは、自ずから「健全的不良シニア」を謳歌してやまない不肖エセ男爵メのブログにて、わけのわからぬ不良サイト・エログロナンセンスなるブログに迷い込まれたわけではありません。

 何故にかような「半裸プロマイド」の画像を掲げたかという「訳在り」記事を以って本日、息抜き投稿なり、、、。

 先日の記事「グログ始めて丸三年」に因(ちな)み、過去記事含む3年間のアクセス分析を懐古回想し回顧すれば、なんと、それなりの不特定多数読者の「過去記事立ち寄り分析」も可能にて、
 中でも、

1.櫻井よしこ女史関連記事、
2.靖国神社参拝問題とアーリントン墓地との「ひっかけ屁理屈」記事、
3.偉才バイオリニスト「天満敦子女史」を語る小編連載記事、
4.天才フラメンコギタリスト「ザビーカス」の紹介記事、
5.日の丸掲揚、日本国国歌「君が代」の良し悪し蘊蓄記事、
6.その他諸々、四季折々の風物詩的駄文記事、

 などなど、
  不肖エセ男爵の綴った「小理屈」に照準をあてて下さっているようです。

 加えて、面白い分析結果あり、、、。

 そう、なにゆえか、『キャロルベイカー』なるYahoo and/or Gooooogl ? の検索サイトから珍入される歓迎すべき「侵入者」多し・・・!

 かくして我輩、「Caroll姉さんのこと、何も語っていない!」にも関わらず、なぜか時々再々、往年のハリウッド女優「キャロル・ベイカー」元ピチピチ&キャぴキャぴ「平凡女優」の検索多く、以って「下記の記事」にアクセスする読者は後を絶たず、いまだにキャロルベイカーねえさんの「痕跡と色香」を追いかける衆族の存在すること、本日公表するに至った次第です。
関連記事は、ハリウッド映画往年の傑作を見た!『大いなる西部」(2005年9月15日投稿分)にて、念のため、一度お開き頂きたい。

下記添付画像は、上記「大いなる西部」のロケの合間に撮られたワンカットのはず。表情その他衣装ヘヤースタイルなどなど、上記映画のシーンに出てくる雰囲気を伝えるに的確なるカットであると感じてやまない。

The Photo form from "Big Country" by IMDb


女優キャロルベイカーは、我輩にとって「何の興味も湧かない女性」の典型であり、上述ブログ記事(大いなる西部のレヴュー)を書いた時も、天下の二枚目グレゴリーペックと映画そのものについて触れたけれど、キャロルベイカーについては、ほとんど何も言及していないのである。ならば、女優キャロルベイカーの「追っかけ趣味」を持って訪れた不特定多数の読者のために、負傷!?もとい不肖エセ男爵は男伊達に一肌脱ぎたくなった次第。
 片肌脱ぎつつ「Caroll姐御の痕跡」を捜し求めれば、晴れて本日、珍しきかな「半裸画像」の発掘に至った。かくなる上は、国際著作権問題に及ばん覚悟にて、掲載敢行に及ぶ。

 そんなこんなで、本日の「ややナンセンス」なる記事投稿となること、陳謝。

 あらためて、キャロルファンの諸兄に告ぐ!

 本来、、格調高き往年のハリウッド映画回想記事「大いなる西部」を熟読して頂きたいのであるけれど、それはそれ。記事読まずに放って置いても結構なり。さりとて潜める声は不必要にて、この際大いに声を出し、一匹狼や野良犬の「遠吠え」の如く、遠巻きにでも、お近くにでも、どうぞご遠慮なく「不肖エセ男爵ブログ」にお立寄りくだされ、、、。

カレーライスの栞 (1/5)

2007-03-03 14:55:35 | 食彩+酒の肴
<添付画像>:超手抜き「5分間・カレーライス」
(撮影:軽井沢山荘にて、超極寒今年1月上旬の頃)

 おおげさに言えば、カレーライスは日本人の「好む洋食」の代名詞かも知れない。 つまり、洋食のイロハ、ABC?入門編であろうか。。

 「画像のカレーライスは我輩丹精込めて時間掛けて仕込んだ『逸品』である!」と、宣言すれば、「ハイ、それまで」! おおよそ全員の読者諸兄姉に信じて頂ける「一品」となる。

 しかし、それを云うと「おおうそつき」になる。

 カレールーは、レトルトパックから取り出し電子レンジで温めたもの。

 ご飯は、スーパーマーケットで購入した「ご飯パック」をそのまま電子レンジにかけ、温めてから取り出したもの。

 しいて自作自演の料理?創作モノといえば、プチキャロットか。
 (ゆめゆめ誤解無きよう!ブチキャロットを我が畑で育てたのではなく、ブチキャロットを添えた!?という演出を自作という)
 創作行為を解説すれば、白ワイン少々に味塩少々をふりかけ、これまた電子レンジにて調理し、思いつきの数にて数本添え、栄養のバランサーとする。
 次に、パセリかな。
 パセリを冷凍にしてもみほぐし、カレールーにふりかけ、さらに生卵を割って皿の傍に添えた程度。これをもって我輩のオリジナル作品となった次第である。

 カレーライスは、ガキの頃から慣れ親しんできた「洋食メニュー」の一つである。昼夜を問わず断続的に食したカレーは、日本人の食卓に見受ける「家庭料理」の地位を築き上げて久しい。読者諸兄姉も、さぞかしカレーライスに秘められた各種歴史的場面の思い出を思い出して頂ければ、走馬灯の如くにめくるめく各々の思い出のアルバムの片隅に記録されているはず。
 だからこそ、今こうしてレトルトパックになって一層手短に食せる「メニュー」としてもてはやされている。

 さて、ココからが問題である。

 ポピュラーな家庭料理となった「カレーライス」には、それぞれの家庭の味がある。ジャガイモばかりのカレーもあれば、ジャガイモ抜きのカレーもあり、野菜大目の具沢山カレーもあれば、煮込んで煮込んで具の解けてしまったしゃぶしゃぶカレーもある。多めの牛肉と超多めのたまねぎを煮込んで作った「ホンモノのビーフカレー」もある。訳の解らない辛味香辛料をしこたま使ったやたら辛さを強調する超激辛カレーを訳の解らぬ「カレー専門レストラン」にて売り物にする勘違い人種や、それを流行と勘違いして好み望んで自ら進んで食したりする惚けた人種もいる。

 自作自演なる自我自尊的ちょうちん風亜流的ちんどんや「エセ・カレーライス」の氾濫する昨今、しかし、洋食として「カレーライス」の日本上陸を果たした時代には、それなりの「思い入れ」と「丹精込めて」創作されたカレーの歴史があるのを忘れてはならない。歴史的にカレーライスとは、それなりの洋食レストランに足を運んでそれなりの日にそれなりのメンバー打ち揃って敬意を表して食した「高級洋食」から単を発している。

 「カレーライスの栞」と題し、5回連続予定にて連断続的に記事に取り上げたい。そして本日、その第一回とする。


 <・続く・・>

ブログを始めて、丸3年?!!・・・

2007-03-01 11:45:15 | Weblog

 「石の上にも三年」・・・
                  という文言、ある。

 何故にこんな文言飛び出すか?その理由、あり。

 実は、先月2月の20日をもって、gooグログ開設して丸三年経過した、、、。

 我ながら、よく続いたものだと思う。今にして思うに、何故か、たいした感動はなく、意気消沈とまではいかぬとも「憂鬱」としている感、無きにしも非ず!である。

 「・・・?」

 そう、一体全体「3年」もの間ブログを書き続けたことから、自分は何を得たのであろうか?

 そして、何を失ったのであろうか?

 自分にとってプラス或いはマイナスを考えるは野暮であるとも思うけれど、実質的に「それなりの時間」を掛けてブログを書き続けて来たのであるから、得失を考えない人間はいないであろう。おおよそ自分自身も並の人間であるからして、得失を考えるは当然の成り行きであろう。
 三年経過した今、そして3月1日を迎えた今、4年目に突入する今、反省と回顧の範疇にて、あらためて自分自身のケースを挙げてみたい。


1. まずは、失ったものは、何か、、。

A)第一に、大切な自分の時間を失った。
 つまり、若し、ブログを書いていなかったら、自分はその時間を何かに当てていたはず。少なくとも、その時間に読書しておればこの3年間で「読めた本」はどのくらいになるか。想像しただけでもワクワクする。かなりの書籍を読破できていたに違いない。
B)次に、この3年間の紆余曲折あれども、自分の「書きたいモノ」を書く時間、これを見事に失った。
 ブログを書く神経構造と、自分のモノを書く時の精神構造は、まるっきり違うことが解った。加えて、若しもブログにしたためた文字数を自分の作品の文字数に置き換えれば、とっくに完成したはずの「作品」を書き上げる時間を完璧に失っている。ブログの文字数より少なくても、作品は完成したはず。そう、3分の1だけでよい。この文字数だけで、すでに作品は完璧にでき上がっていたはず! 等と、いささか「口惜しさ」を残して今日を迎える、、、。 

 結論として、
       「読むこと」と「書くこと」の時間を失った、、、。

 しかし、失ったのは自分自身の可処分的時間であり、決して「読書の時間」と「作品を完成させる時間」を失ったことにはならない。 時間あっても読書には繋がらなかったかもしれないし、作品に向って執筆するための時間に割り当てていなかったかもしれない。


 2.ブログを書き連ねることによって得たものは、何か。

A)ブログを書く作業はできた。それは単に「書く作業」ではなく、間違いなく(ブログの範疇ではあるけれど)創作活動をしていたはず、、。とにかく「書いた事」には違いないか。
B)うれしいことに、自分の創作した記事を読んでくださる読者、つまり、ブログを通じて仲間ができた。これはブログを書いていなければ、存在しえない財産である。財産は次なる資産を生む。次なる資産とは、読者諸兄姉から次のブログ記事創作のヒントを頂くことに他ならない。そのヒントを以ってして、今日までブログを継続できた。と、信ずる。これは、大切な自分の財産と考える。
C)更に、短時間内に「書き切る作業」の特訓はできた。もちろん、他人様との比較ではなく、自分自身の昨日と今日、今日から明日へ繋がる「内的トレーニング」の範疇に留まってはいるものの、3年前の自分の「書く力」と比較し、より「書く力」を増幅できた。と、確信したい。


 あれこれ客観的に眺めれば、次なる疑問が生じる。

1)ブログ書くための「書くエネルギー」は、作品創作の力量へのブラッシュアップに直結しているかどうか?
 これが大いに疑問である。
 ブログ記事は、あくまでもブログ投稿の為に(自分なりに)アレンジしたものであるからして妥協の副産物である。妥協の副産物を書き連ねても、すでに自主性失われており個性や表現したいことの一貫性は消え失せている。となれば、作品創作のベースに貢献できているのか如何か?この辺りまで突き詰めて来ると、かいもく解らなくなる。
2)加えて、上述「失った時間」の「埋め合わせ」は、できているか? これが解らない。 経済学的・経営学的な物差しに当てて物理的得失を考えれば、これ以上の詮索は無粋であるか。 ならば止めておこう。

 どうやら、自分自身問わねばならぬ「観点」は、別のところにあるようだ。

 そうだ!
 見落としている点あり。
 今ひとつ、「ブログを楽しむ」というアマチュアリズム的ブログ製作者の共通した考え方から逸脱してはならない。と、思う。

 そう!

 もう一度、アマチュアリズムに戻ろう、、、。

 ブログを書き続けたいと望むなら、後にも先にも「自然体」を維持するのみか。すなわち肩の張らない「アマチュア精神」に立ち戻り、気負わずに書き続けたい・・・