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Sayonara Karuizawa,, (3/3) 「軽井沢~小諸~上田へ、雪列車は行く」!?・・

2007-03-18 19:58:55 | つれずれ紀行
<上記添付画像>:小諸駅を過ぎて10数分程度?走ったところ、列車進行方向の左手の車窓から、千曲川方面の雪原を眺める。


 かれこれ2週間前に降った「大雪」は、いまだにその残雪を残したままである。要するにこの時節、この界隈は昼夜を問わず気温上がらず平均零下の気温続いていた。いくら太陽が顔を出しても日陰は零下、日なたでも僅か+2~3度までしか気温上がらず、夕方になって太陽の沈む前にはすでに零下の気温となるから、雪解けには至らないのである。
 雪原に次ぐ雪原の中、車窓から見える長野県の広大且つ猛々しい原野と豊かな田園風景を眺めつつ我輩の大好きな前川清の名曲「雪列車」を思い出すものの歌詞を思い出せなく、ぼやけた頭脳内部にてメロディーだけを鼻歌口ずさみながら上田駅に向う。
 車窓からは、よい風景に出くわすと鉄道沿線の電線や電信柱が邪魔をする。ちょうど宜しきシャッターチャンスに恵まれた時、とっさに旧式デジカメを構え撮影に挑むものの反応鈍く、シャッターチャンスを逃すは多々あり、口惜しい思いをしながら、望み求める「よき風景写真」は一枚も取れなかったのである、、、。

 ともあれ、生まれ育ったふるさとで見る山並みのほとんどは、こんもりと丸く連なり、なだらかで弱々しい中国山地の風景である。浅間山から始まった感動と驚きの連続にて、長野県の山並みは、雄雄しい、猛々しい、荒々しい、、、。
 千曲川に連なる高原の景観は雄々しく我がまぶたに焼きつく。感性の中で想像していた数十倍も激く、実景に見た「インパクト」は強い。そして、なにゆえに日本の歴史に残る中仙道の重要性あるか?理解できそうな気がしてきた・・・

 バッテリーは切れ掛かるは、シャッターチャンスは逃してしまいつつ、移り変わる見慣れぬ風景は素晴しく、若干の苛立ちと欲求不満を懐きつつも、ド素人ではあるまいに、まさか車窓からバシバシとシャッターを押すは愚の骨頂!なかば諦めつつ、あっという間に目的地駅到着の列車内放送を聴く。

 かくして上田駅到着、駅裏の東急インにチェックインしたのは、午後3時前であった、、、。



<添付画像>:上田東急イン客室より、上田市内を遠望。よく晴れており、長野市まで見渡せそうな気がする。。。

 まったく満足できない野暮天画像を(性懲りもなく)さらに続けてご紹介したく、粗悪画像の解説目的に悪文殴り書きし、もって次回は「上田・小諸の小旅行」シリーズ。チョイと一休み?気分転換にて別記事を入れた後、あらためて小諸の懐古園に上田城址など、ご案内したい。

前川清コレクション 雪列車~ひまわり
前川清
テイチクエンタテインメント

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 (記事中にて紹介した「名歌手・前川清先生」の名曲『雪列車』を、是非にも紹介しておきたい!優良メロディーにて正しき音符配列の卓越さ加減はベストにて、歌詞も良いですよ。メロディーそのもの、まず名曲。且つ、格調高き前川先生流儀のロマン演歌を聴けば聴くほどに、いかにもロマンティックな雪景色が目に浮かんでくるのだ・・・)


 <3回連載「Sayonara Karuizawa」 ・完・・>

「Sayonara Karuizawa」前回掲載分はこちらから入れます

<追記> 
 さて、
 いまや「しなの鉄道」の始発駅となった軽井沢から長野方面に向う電車のほとんどは、小諸駅が終点となっている。小諸駅から先に進むには、小諸駅にて、列車を乗換なければならない。

 いかにも面倒である。

 理由は全く解らない。その後資料を調べたら、どうやら長野新幹線ができたあと、ローカル鉄道の統廃合その他諸々の理由でダイヤ運営鉄道経営の約束事があるらしい。何も鉄道会社経営論的論文を書くつもりはないので、理由経緯の詳細は下記の添付資料をご参照願いたい。



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<参考資料>:ウイキペディア百科事典より引用。
  『碓氷峠』
  『横川駅』
  『しなの鉄道』

碓氷峠(ウイキペディア百科事典より)


碓氷峠地図詳細(ウイキペディア百科事典)、こちらからご参照いただけます。

『碓氷峠』
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

 碓氷峠の変遷。
 中仙道・中仙道和宮道・国道18号線・信越本線・碓氷バイパス・上信越自動車道・長野行新幹線碓氷峠(うすいとうげ)は、群馬県安中市松井田町と長野県北佐久郡軽井沢町との境にある峠である。標高は約960m。「碓井峠」「碓水峠」は誤表記。

 信濃川水系と利根川水系とを分ける中央分水嶺である。碓氷峠の長野県側に降った雨は日本海へ、群馬県側に降った雨は太平洋へ流れる。

「目次」
1 地理
2 歴史
2.1 古代・中世
2.2 近世
2.3 明治時代以降
2.4 鉄道
2.4.1 アプト式鉄道
2.4.2 粘着運転化
2.4.3 北陸新幹線開業に伴う廃止
2.4.4 観光鉄道としての再生
2.4.5 アプト式時代に使用された機関車
2.4.6 粘着式(非アプト)時代に使用された機関車
3 見所
4 関連項目


「地理」
 群馬県側の麓、安中市松井田町横川の標高は387m。長野県側の軽井沢は標高939m。直線距離で約10kmの間の標高差は500m以上に達する急峻な片勾配の峠越えで、山脈をトンネルで抜けることで峠越えの高低差を解消できる一般的な峠と異なり、数多くの困難を抱えた。


「歴史」

 古代・中世
 古来より、坂東と信濃をつなぐ道として使われてきたが、難所としても有名であった。古くは碓氷坂(うすひのさか)といい、宇須比坂、碓日坂などとも表記された。この碓氷坂および駿河・相模国境の足柄坂より東の地域を坂東と呼んだ。『日本書紀』景行紀には、日本武尊(ヤマトタケル)が坂東平定から帰還する際に碓氷坂(碓日坂)にて、安房沖で入水した妻の弟橘姫をしのんで「吾妻(あづま)はや」とうたったとある。
 碓氷峠の範囲は南北に広いが、その南端に当たる入山峠からは古墳時代の祭祀遺跡が発見されており(入山遺跡)、古墳時代当時の古東山道は入山峠を通ったと推定されている。
 7世紀後葉から8世紀前葉にかけて(飛鳥時代後期 - 奈良時代初期)、全国的な幹線道路(駅路)が整備されると、碓氷坂にも東山道駅路が建設された。入山遺跡はこの時期までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路は近世中山道にほぼ近いルートだったとする説が有力視されている。
 平安時代前期から中期頃の坂東では、武装した富豪百姓層が国家支配に抵抗し、国家への進納物を横領したり略奪する動きが活発化したため、これら富豪百姓層を「群盗」と見なした国家は、その取締りのため、昌泰2年(899年)に碓氷坂と足柄坂へ関所を設置した。これが碓氷関の初見である。
 古代駅路は全国的に11世紀初頭頃までに廃絶しており、碓氷坂における東山道駅路も同時期に荒廃したとされている。その後、碓氷峠における主要交通路は、旧碓氷峠ルートのほか、入山峠ルート・鰐坂峠ルートなどを通過したと考えられているが、どのルートが主たるものであったかは確定に至っていない。

 近世

 江戸時代には、中仙道が五街道のひとつとして整備され、旧碓氷峠ルートが本道とされた。碓氷峠は、関東と信濃国、さらには北陸とを結ぶ重要な場所と位置づけられ、峠の江戸側に関所(坂本関)が置かれて厳しい取締りが行われた。
 ただし、古道はその後も活用されており、たとえば鰐坂峠ルートは難所の碓氷峠を避けることができることから「姫街道」「女街道」と呼ばれていた。この姫街道は、本庄で中仙道本道から分かれ、藤岡・富岡・下仁田を経由して、鰐坂峠(和美峠付近)を経て信州にはいり、追分宿のあたりで本道と合流するルートであった。しかしこちらも難所であることにさほど差はなかったという。姫街道にも、西牧関所が置かれていた。
 碓氷峠は、中仙道有数の難所であったため、幕末の1861年に和宮が徳川家茂に嫁ぐために中山道を通ることが決まった際に一部区間で大工事が行われ、和宮道と呼ばれる多少平易な別ルートが開拓された。


 隣の宿 坂本宿 -(碓氷峠)- 軽井沢宿

 明治時代以降
 時代が明治に入ってもその重要性は変わらず、1882年に従来の南側に新道が作られ、1886年には馬や車での通行が可能となった。この新道は、坂本宿から碓氷湖付近まではおおむね和宮道を踏襲し、そこから西側は中尾川に沿って全く新しいルートとされ、軽井沢宿と沓掛宿の間で旧道と合流するものであった。新道の碓氷峠は、中山道旧道の碓氷峠(新道開通後は旧碓氷峠と呼ばれている)から南に3キロメートルほどの場所に移動した。その後「旧軽井沢」と呼ばれるようになったエリアは中仙道旧道に沿った場所であり、軽井沢駅があるエリアは明治時代になってから開発された新道沿いにあたる。

 さらにその後、1971年に国道18号のバイパスとして作られた有料道路の碓氷バイパス(入山峠)が開通し(2001年11月11日より無料化)、1993年の上信越自動車道が開通したことから、明治時代の新道もその重要性は薄れつつある。


 「鉄道」

 『アプト式鉄道』
 鉄道においても、この難所を越えることは早くから重要視され、1893年に官営鉄道中山道線として横川~軽井沢間が開通した(横川駅~軽井沢駅間にあることから、碓氷峠の別名として「横軽(よこかる)」と呼ばれることがある)。これに先立って、1888年~1893年には碓氷馬車鉄道という馬車鉄道も、同線の資材輸送のため国道18号上に敷設されていた事があった。
 しかし、資材や人員の運搬の便を図るため中山道沿いに線路を敷設したことが逆に仇となり、最大で66.7‰(パーミル・千分率。1/15=約3.8度)という急勾配が問題となった。急勾配を避けると相当の距離の迂回が必要で建設費がかかるため、この傾斜に真っ向から挑むことになったが、当時の通常の蒸気機関車では登坂が困難であったため、アプト式ラックレールが採用された。しかし、その後技術の進歩により、京阪電鉄京津線や東急電鉄玉川線は碓氷峠と同じ66.7‰の勾配をラックレールなしで越え、箱根登山鉄道もラックレールなしで80‰の勾配を登坂している。
 トンネルの連続による煙の問題から日本で最初の幹線電化が行われた(1912年)のもこの区間であるが、電化によって若干の輸送力増強はなされたものの、輸送の隘路であったことは相変わらずで、名だたる鉄道の難所として「西の碓氷峠、東の板谷峠」と並び称された。1900年に大和田建樹によって作成された『鉄道唱歌』第4集北陸編では、以下のように歌われている。

 19.これより音にききいたる 碓氷峠のアブト式 歯車つけておりのぼる 仕掛は外にたぐいなし
 20.くぐるトンネル二十六 ともし火うすく昼くらし いずれは天地うちはれて 顔ふく風の心地よさ
 更に『鉄道唱歌』と同じ年に作成された、現在の長野県歌である『信濃の国』も、6番において以下のように碓氷峠を歌っている。

 吾妻はやとし 日本武(やまとたけ) 嘆き給いし碓氷山 穿(うが)つ隧道(トンネル)二十六 夢にもこゆる汽車の道 みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき 古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い

 「粘着運転化」
 EF63形電気機関車を連結して碓氷峠を下る特急「白山」太平洋戦争後は、輸送の隘路の解消のため、再度急勾配を避け最急勾配を22.5‰とする迂回ルートも検討されたが、結局、ルートをあまり変更せず、最大66.7‰の急勾配は存置したまま、一般的な車輪のみによる粘着運転で登坂することになり、1963年に新線が開通してアプト式は廃止された。それでも、登坂力、ブレーキ力を補うため、この区間のみ補助機関車(EF63形)の連結が必要とされるうえ、連結両数が最大8両に制限されたり、通過車両には車体の挫屈を防止するための台枠補強や連結器の強化を要する(通称「横軽対策」。対策施行車は、識別のため車号の頭に「●」が付された。)など、峠越えにはやはり特別な取り扱いを要した。

 1968年以降、EF63形との協調運転により12両編成での通過を可能とした電車(169系、489系、189系:識別として形式末尾番号が9)が投入され、輸送力の増強に寄与したが、抜本的な輸送改善には至らなかった。1985年(昭和60年)頃には、余剰のサロ183形を改造した碓氷峠を自力登坂可能な電車も計画されたが、北陸新幹線(長野新幹線)建設決定にともない、計画は放棄された。


 「北陸新幹線開業に伴う廃止」
 碓氷峠の抜本的な輸送改善は、1997年の長野新幹線開通によってなされた。その際、信越本線の碓氷峠区間(横川~軽井沢間)は、県境を越えることもあってローカルの旅客流動が少なく、長距離旅客が新幹線に移動するとこの区間を維持できるだけの旅客数が見込めないことや、峠の上り下りに特別な装備が必要で維持に多額の費用がかかるとして、第三セクター等に転換されることなく廃止された。
 この廃止の方針について、安中市の新島学園高等学校に通学する長野県の生徒の父兄を中心に廃止許可取消の行政訴訟を前橋地方裁判所に起こしたが、行政不服審査法による手続きを行わなかったため、内容に踏み込むことなく「原告不適格」の判決が下され、東京高裁の控訴審、最高裁の上告審も前橋地裁の決定を支持したため、横軽廃止の是非が司法の場で本格的に問われることはなかった。

 「観光鉄道としての再生」
 碓氷峠の廃線跡2005年3月より碓氷峠鉄道文化むらと峠の湯の間に、トロッコ列車の運転が開始された。運転日は土曜・日曜・祝日となっている。動力車は、保線用として使用されてきたディーゼル車で、2両の客車を連結して運行されている。また、2006年にこのトロッコ列車を運行・管理している碓氷峠交流記念財団は政府に観光鉄道特区を提案した。しかし、国土交通省は現行の規定で可能と答えたため、観光や鑑賞を目的とした特定目的鉄道事業として申請を予定している。早ければ2006年10月に鉄道事業者の認可を受け、2007年10月の開業を目指している。認定されれば、横川~軽井沢間の鉄道が復活する可能性が大きい。トロッコ列車は現在ディーゼル車で運行されているが、将来的にはEF63形電気機関車の使用も視野に入れている。

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『横川駅』(ウイキペディア百科事典より)こちらから入れます

「ウイキペディア百科事典」より『しなの鉄道』の詳細説明はこちらから入れます
 
 概要
 北陸新幹線(長野新幹線)の開業の際に東日本旅客鉄道(JR東日本)から経営移管されることとなった信越本線・軽井沢駅~篠ノ井駅間を運営する会社として設立された。この区間はしなの鉄道線となった。

 長距離利用客が長野新幹線に転移したことなどにより、開業当初から経営は苦しく、2001年9月の中間決算では累積赤字が24億円以上になり、資本金23億円を上回る債務超過状態に陥った。そのため、同年に、「しなの鉄道経営改革に向けての提言」を策定。2002年6月からは旅行会社のエイチ・アイ・エス(HIS)から杉野正を社長に迎え、退任するまでの2年間に高齢者の乗降介助を行う「トレインアテンダント」やサポーター制度の新設といった経営改革を進めた。また、最も集客が見込まれながら、未だに「篠ノ井線の特急列車のダイヤ調節のため」と、JR東日本が経営権を握っている篠ノ井~長野間について、早期に譲渡するよう求めている(しかしこれには「しなの」を乗り入れさせているJR東海も関与するため、実現はやや難しく、北陸新幹線長野以北の開通以降も篠ノ井~長野間はJR東日本の経営のまま残る可能性もある)。開業直後には多くの駅でJR東日本線への連絡乗車券が発売されていたが、2002年に連絡乗車券の発売駅・発売範囲が大幅に縮小され、使用されなくなった発券機は会社の公式ホームページで一般向けに販売された。

 杉野正社長の経営手腕により、しなの鉄道は減価償却費前の利益で黒字計上するに至ったものの、2004年には減損会計導入を進めたい田中康夫知事(当時)と「上下分離方式」を主張する杉野正社長が対立を起こして杉野正社長が辞任した(なおその後、杉野正社長は埼玉高速鉄道の代表取締役に就任している)。その後、スカイマークエアラインズ(現スカイマーク)の元社長であった井上雅之を社長に迎えて減損会計に踏み切り、その結果、2005年度決算において開業以来の初めて最終損益において黒字を計上するに至った。井上雅之社長の下でも駅構内で宝くじを販売するなどの事業を展開している。

 当然のことながら、かつて存在した信濃鉄道(現在のJR大糸線の一部)とは何の関係もない。

 「歴史」
1996年5月1日 設立。
1997年10月1日 しなの鉄道線 軽井沢~篠ノ井間が開業。
2001年3月22日 運賃改定。JR東日本との乗継割引額を縮小。
2002年3月25日 本社を長野市から上田市に移転。
2002年7月12日 レールサポーター・トレインサポーター募集開始。
2002年9月9日 主要駅や列車に「トレインアテンダント」を配置。
2002年10月1日 JR各社との連絡運輸取扱範囲縮小。
2006年7月1日 「しなの鉄道ファンクラブ」創設。
2007年6月1日 運賃改定(現行の12.5%値上げ。初乗り運賃が160円から180円に)およびJR東日本との乗継割引運賃を廃止(予定)

                            <引用、ここまで・・・>