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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

人生の旅路 義と愛 <赤神諒著『大友二階崩れ』>を読みながら

2018-08-07 | 人の生と死、生き方

180807 人生の旅路 義と愛 <赤神諒著『大友二階崩れ』>を読みながら

 

先般、賞受賞の書籍を紹介しながら、数枚めくっただけの感想を書いた赤神諒著『大友二階崩れ』を日曜日に読みました。やはり一気読みでした。面白いのです。昔、司馬遼太郎の歴史小説を読んでいた頃のような刺激を思い出させてくれました。

 

著者にはそのストーリーについて聞きませんでしたが、彼は私にはもう一つの『大友の聖将』の方が好みかもしれませんと言われました。信仰がテーマになるようですので、そう彼が言ったのかもしれません。たしかにタイトルも魅力的です。だいたい、「二階崩れ」って何でしょうという感じでした。とはいえ、いつかどちらも読もうと思っていたのですが、なにか気になって読み出したら、とまりません。

 

帯には「義を貫く兄がいた。愛に生きる弟がいた・・・」と義と愛の相克といったことがメインテーマかなと思いつつ、その義とは何か、愛とは何か、そしてそれぞれの価値観にしたがって、あるいは求めて生きると何かが、大友家内紛や領地拡大といったことと絡み合いながら、予想しない展開が次々と起こっていきます。

 

私はこの書籍の紹介をしようとしているのではありません。うまく紹介できるとも思いません。ただ、ここに書かれている義とは何か、愛とは何かについて、当然かもしれませんが、現代に生きる私たちにとっても重要な何かを問いかけているように私は思ったのです。それは勝手な解釈かもしれませんが・・・

 

著者は、義という言葉をどう使っていたか、いま具体的な表現を思い出せませんが、主君への「忠義」といった意味合いで登場人物のうまく采配していたように思います。

 

私自身、義という言葉を真剣に考えてきたわけではないですが、古今東西を通じて、人間の行動原理として重要な原則の一つではなかったかと思うのです。それぞれの時代、あるいは身分制、階級制、あるいは格差社会の中で、その意味は多様であったかもしれません。

 

愛という言葉がわが国で使われるようになったかは知りませんが、少なくとも愛という言葉を使わなくても同様の意味を持つ言葉(コミュニケーション表現)はやはり同様に原始の世界から各国で長い歴史を築いてきたのだと思います。

 

著者が示す愛の表現は、割合自然な夫婦愛、兄弟愛、親子愛、同僚愛、それと対峙するような肉親を殺されたことによる憎悪の気持ちも愛と相克するような、もだえ苦しむような形で表現されていたかと思います。この辺は歴史小説を好む読者を意識していたかもしれませんし、愛の強さを巧みに表現したものかもしれません。

 

私が少し注目したのは義の多様性であり、義の中の相克です。大友家当主の正妻の嫡男が跡継ぎと決まっていたのに、側室(妾?)を溺愛しその子が生まれると、前者を廃嫡にして、後者を後継にするという専断を下したことで、義を求める生き方が彷徨するのです。それは主君の行いが正義に反するものであれば、命を賭して諫言し、それが受け入れられなければ、切り捨てられことを受け入れるのでしょうか。いや、受け入れられなければ主君に反抗するのではなく、従うのでしょうか。

 

この著作では、主人公とともに諫言した無二の親友は、主人公よって介錯されるのです。そして主人公は、主君の指命を甘受して、嫡男を助けるつもりで廃嫡に動くのですが、嫡男側が逆に主君を殺し、主人公は危うい立場に追いやられるわけです。

 

こういった状況は、命まで関係しなくても、現代の企業、行政、研究機関など組織では起こりうることではないでしょうか。では義とは何かです。ある権力構造を想定して、その権威にそって行動することは義とは言えないでしょう。

 

他方で、最近の忖度事情は、義がもっとも嫌う権威に媚びる、おもねる行為ではないかと思います。もり・かけ事件からはじまって、東京医科大事件の不正合格から女性受験生の一斉減点扱い、女子レスリング・パワハラ事件、日大アメフト反則事件、ボクシング協会理事長事件などあまりに頻繁に目立ちます。組織の中に義というものが感じられないともいえるのです。

 

私の仕事も本来、ある種の義を求めるものです。弁護士法は「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」を弁護士の使命としています。それこそ義がなにか常に問われるべきことだと思います。上記のようなひどい事態は論外としても、はたしてそうなっているか、自省する必要があると思うのです。

 

では愛とはなにか。著者は夫婦愛を重視した位置づけをしているように一見、思えました。しかし、それは当然、兄弟愛、親子愛などとともに、各種の義との相克が常に折り重なっているようにストーリーが展開しているのではないかと思うのです。

 

一見、主人公の弟は、妻子に対する愛情を、兄や主君に対する義のうえをいく、家庭本位に映ることもあります。しかし、弟は、主君を守り、兄の助けを期待しながらも、それが期待できないこと知っても端然とし、妻子のために生き抜こうとするのです。そして窮地を脱しようとしたそのとき、若い頃に自分を救って命を絶った傳役(もりやく)の子が敵に囲まれ万事休すであるのを見過ごしにできず、妻子への愛を投げ出して、自分の命を差し出し、救うのです。弟が最後に選択した、愛と義のあり方はどうとらえたらいいのでしょう。

 

著作のいい加減な紹介を避けようと思いつつ、適当な引用をしつつ、つい取り上げてしまいました。おそらく私が義と愛というものを、改めて考える契機になったからだと思います。

 

そこには義とは、愛とは、その具体の行動選択は参考になるものの、現代日本に生きる私たちにとって、それを真摯に考えないと曖昧なまま人生を送ってしまいそうな現実を振り替えさせる意義を見いだしたのは私一人ではないように思うのです。

 

人生という長い、あるいは短い旅路は、何を目指すのか、そしてどのように生き、死ぬのか、ふと考えてしまったのです。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 


相続とマイナス資産 <相続した空き家の管理策>などを読みながら

2018-06-21 | 人の生と死、生き方

180621 相続とマイナス資産 <相続した空き家の管理策>などを読みながら

 

今朝は昨夜のやや強い雨脚も途絶え、雨上がりの朝靄の感じが谷間に広がり、瓦屋根と白壁の倉が点在する集落、そこを囲む雨露を含んだ木々になんともいえない情緒を感じました。

 

雨を嫌う人も少なくないようですが、私は日照りのことを考えれば雨こそ天恵と思いますし、雨を題材にした古今の作品はわが国の見事な多様性のある景観を生み出す重要な要素であること、それこそ日本人の特性を生み出す基本要素と思っています。

 

ところで、今日は特別急ぐようもなかったのですが、最近は疲れが残り、昼間はボッとしてばかりいて、電話があると少しはっきりするくらいで、ほんと疲れやすい体になっているようです。高齢化?の影響でしょうか。東京で再会した同じ世代の友人は元気活発にやっているので、私の体と精神がなまっているのでしょうね。

 

さて本日のテーマ、とくに浮かばず、毎日朝刊記事<くらしナビ・ライフスタイル相続した空き家の管理策>は、私自身も、最近相談として増えてきたかなと思う内容なので、これまでも取り上げてきたことと似ていますが、少し違った観点で触れてみようかと思います。

 

記事は最初に<家が子や孫への「負の遺産」になりかねない時代だ。>と指摘します。

この意識が大事でしょうね。ある時期の経済政策から、持ち家優遇策を多面的に政府が行い、不動産業者、金融機関、そして消費者、ついでにいえば廃棄物処理業者(解体業者)など全体が、将来のことも考えず、持ち家志向に邁進した結果は、すでに80年代くらいには綻びがでていましたが、それでも抜本的な改善策もなく、今日までいわば消費財のごとく作られ、放置され、あるいは解体されてきたのでしょうか。

 

若い人が都会に出て、年寄りたちも家で生活できなくなり、あるいは亡くなったりで、空き家の数は増える一方でしょう。それに対する対策としては、現在おこなわれている、行政的な支援策と、民間サービスが、ここで紹介されています。

 

前者は<山あいの盆地に位置する埼玉県秩父市。>の例。

 

<市シルバー人材センターの登録メンバー、黒沢友一さん(77)が、1軒の平屋建て住宅の周囲を丹念に点検する。ここが空き家になったのは数年前。住んでいた女性が介護施設へ移り、所有者は東京都内で暮らす。ひび割れを透明テープで応急手当てした窓ガラスや草刈りされた庭。所有者の依頼でセンターが家を手入れしてきた痕跡が、随所で確認できた。>

 

秩父市がこの取り組みを始めたのは<2016年、空き家の見回りサービスをふるさと納税の返礼品に加えた。作業の担い手はセンターだ。市は「空き家の管理に役立つうえにシルバー世代の働く場づくりにもなる。故郷に貢献できる返礼品として、ふるさと納税本来の趣旨にも沿っている」と期待する。>一つの方策としては人気があるようです。

 

ただ<国が5年に1度行う住宅・土地統計調査によると、全国の空き家は13年に820万戸と、30年前の2・5倍に上った。住宅総数の中の空き家比率は13・5%になる。居住者の入院や死亡などで管理や撤去が必要な「その他空き家」は、このうち約4割を占めている。>といった現状を見たとき、このような対策では到底対応できない事態になりそうであることは火を見るより明らかでしょうか。

 

他方で、後者の例は<全国で空き家管理事業を展開する「日本空き家サポート」>によるサービスを紹介しています。

 

依頼人は地方に住む両親を高齢者住宅に入所させ、残った空き家の管理を心配した子供です。

<ともに90歳近い両親は福島県相馬市で暮らしていたが、父は認知機能が衰え始め、腰を痛めた母は買い物にも行けず「家に食べ物がない」と電話でこぼすことも。「このままでは無理だ」と昨夏、首都圏のサービス付き高齢者住宅に2人を転居させた。一人息子として「両親が新しい所になじめなければ帰れるよう、相馬の家をそのままで残しておいてやりたかった」が、自身は家族も仕事もある東京を離れられない。>

 

そのサービスの内容は<庭木の手入れや室内への風通し、水回りの点検など、実際の作業は、運営会社のL&F(千葉市)が業務提携する地元の不動産業者が担う。作業ぶりは動画で撮られ、パソコンやスマートフォンで会員専用サイトから見られるので安心感もある。料金は月1万800円。男性は「自分で相馬に通って手入れするよりお金も時間もずっと節約できる」と実感している。>とリーズナブルな値段で,自分でやることを考えれば安上がりでしょうか。

 

といっても、これらの対応策は抜本的でないことは確かですね。将来の利用を考えていないのですから。当然、<いずれ両親が他界し、家を相続した時>には問題が発生します。所有者不明の不動産ではありませんが、地域にとってもその家庭にとっても負の遺産にしか写らないように思えます。

 

最後は崩壊の危険が生じた場合に空き家対策特別措置法の新設により、行政代執行手続が実効性を発揮し、これまですでに<国土交通省の調べでは、同法施行後から今年3月31日までに実施された行政代執行は、既に全国で23件に上っている。>とのこと。

 

でも、それでは全国で問題となっている空き家対策としては間に合わないでしょう。所有者自身が生きているとき、その活用や将来の利用を考えて、計画を立てておくことこそ、終活の中で最も重視されてよいことのひとつではないでしょうか。遺言書を書くことだけをすすめるような法律専門家に頼っていては、最後の仕上げをしていい人生を送るといったことが望めないかもしれません。

 

残された人のこと、周囲の人のこと、そういったことに思いをはせて、自分の持ち物について責任を果たしたいものです。という私も終活なかばですが。

 

最後に、この記事を見て、昨日の法律相談であった話を思い出しましたので、付け加えておきます。親が亡くなり、負債があるということで、親が亡くなる直前まで乗っていた古い自動車が残っていて、その廃車をどうしたらいいかという相談でした。

 

こういう場合負債を支払って残った財産がプラスなら相続する限定承認制度があると話したら、すでに一人を除いて相続人全員が相続放棄をしてしまったというのです。この制度は相続人全員が共同して手続をしないといけないので、これを選ぶことができませんでした。そうなると後は、相続人がいない(残りの一人も相続放棄する予定とのこと)場合の相続財産管理人を家裁で選任してもらい、廃車手続を行っていもらうしかないでしょうと回答したのですが、費用をかけて負の遺産を処理するのも大変ですねと述べるしかありませんでした。ま、ウェブ上では、いろいろな情報が流れているようですが、法的にはこれ以外は難しいと言わざるを得ないでしょう。

 

これもまた、親はかなりの高齢で、いま話題の免許返上することが求められるような方でしたので、そのことも含めて、免許と車の廃車を生前にやっておれば、残された家族が困らなくて済むのですね。そういったことは結構あります。終活のチェックポイントはどんどん増えていくと思いますね。こういう点への配慮があまり考えられていない気がします。

 

といったところで一時間が経過しました。これにておしまい。また明日。


平安貴族の生死と宗教観 <「日記が明かす平安貴族の実像」>を少し聞きながら

2018-06-13 | 人の生と死、生き方

180613 平安貴族の生死と宗教観 <「日記が明かす平安貴族の実像」>を少し聞きながら

 

今回は少し長い出張で、しかも毎日遅くまで会議と、その後の飲みながらの談話、そして夜中のブログ書きを続けたことで、今日から事務所に出たものの、打ち合わせや電話にはなんとか対応できるものの、あとはボッとしたり、眠気に襲われたりして、終日ぼやっとして過ごしました。

 

そんな中、久しぶりにNHKらじる☆らじるをかけて、たまたま映画音楽を少し流して、終わったので、別の番組はないかと探したら、ちょうどいいのがあり、聞いたのが<日記が明かす平安貴族の実像 国際日本文化研究センター教授…倉本一宏>の<藤原道長「御堂関白記」には何が書かれているか>と<藤原行成の「権記」には何が書かれているか>でした。

 

半分くらい眠り薬となって聞き流していたのですが、時折、目覚めたときになかなか面白い話があり、これはいいと思った次第です。というか倉本氏、初めてお聞きする名前ですが、語りがすばらしく、解説も明快で(といいながら眠り込んでいますが)、疲れた体にはとてもすばらしい良薬でした。

 

で、藤原道長といえば、すべて世の中を自分の思うとおりに統治していたような独裁者的なイメージを勝手に作り上げていたのですが、彼が書いた日記、「御堂関白記」だとそれとは異なる人物像が映し出されていますね。自分が書いた日記ですから、どのようにでも書けるとはいえるものの、その人柄というものが出ていますね。

 

たとえば、倉本氏がとりあげた一節、道長が長く使えた一条天皇が亡くなったときの日記に、「崩じられた」と書くべきところ、どうやら山冠を草冠になっているそうのです。ま、動転してしまい、間違ったと言うこともあろうかと思うのですが、倉本氏いわく、アバウトな性格がでたといった調子です。そうなんですね、道長は結構アバウトなんだ、こんな偉い地位にあった人でもアバウトで成り立つのだと感心しました。

 

いやいや、それくらいアバウトでないと、世の中のトップにはなれないのかもしれない一つの例かもしれません。

 

というのは次に取り上げられている藤原行成の場合、書道の大家である三蹟、小野道風、

藤原佐理とともに、最高位に上げられている日本歴史に残る書道家だそうで、その書はちょっと書けば大変な宝物だったそうです。

 

その行成は、官吏としても有能で、儀式に通暁する最も秀でた人物として高く評価され、引っ張りだこだったとのことですが、あまりに才能豊かで、部下として話されなかったため、逆に出世の機会を失い、最後56歳でなくなったときは権大納言であったというのです。倉本氏いわく、大臣にまでなれる十分な能力と身分であったのにと惜しまれています。

 

道長と同じ日?に亡くなったそうですが、前者はアバウトゆえ?最高位に登り、後者はきっちりしていたゆえ?公卿にもなれなかったというのです。

 

それはともかく、私が今日、彼らを取り上げた理由は、10世紀末から広がっていた浄土思想が庶民から下級官僚、そして関白まで広がる状況にあったこと、その死生観なり、宗教観に興味を抱いたからです。

 

とりわけ行成は、浄土思想を強い信念で実践していることを、日記である「権記」に記載しているそうです。

 

私が瞠目したのは、その一例で、亡くなった後は火葬にして、その遺灰を鴨川に流すという葬送です。かれはこの方法に極めてこだわっていて、実践するのです。とりわけすごいのは、たしか父親の遺体が埋葬されている墓を掘り返し、それを火葬にして、遺灰を鴨川に流すというくだりです。いやはや、すごいなと思うのです。

 

むろん遺体や遺灰、遺骨にはなんの意味もないというのでしょう。極楽浄土に向かうために信念をもって行うのです。なにが極楽浄土なのかは、話されたのかもしれませんが、半分以上眠っていましたので、聞き漏らしたかもしれません。

 

そういえば、親鸞は最後に、墓はいらない、自分の遺体は鴨川にでも流せば良いとか言ったとか言われていますが、平安時代から長く続いた浄土思想と、鴨川への思慕があるのでしょうか。

 

今日は疲れた状態でよくブログを書けたなと自分で感心しながら、この辺でおしまいとします。ちょうど一時間となりました。また明日。


散骨と墓守と人と地球 <樹木葬 隠岐の波間に散骨島 墓守不要で自然葬人気>を読みながら

2018-04-20 | 人の生と死、生き方

180420 散骨と墓守と人と地球 <樹木葬 隠岐の波間に散骨島 墓守不要で自然葬人気>を読みながら

 

グレートラバースで、深田久弥の日本百名山、一筆書きを遂行する田中陽希さん、今日も15年に達成した一コマ(15分編集で4回、60分)に登場しました。

 

驚いたことに、彼は普段の仕事場、群馬・水上町でこれまでの内部疲労蓄積でダウンして5日間でしたか病院で安静療養したのですね。強靱な体力も、腸内細菌などの協力で忍耐強い支えがあってこそ、維持できたのですね。高熱でベッドに横たわる彼に、医師は内臓が疲労困憊して消化できない状態にあることを説明して点滴などによる安静療養を勧めたわけです。

 

そうでしょうね、私なんかはとてもそんな体力はありませんが、熱帯林を何日も歩いたり、北極圏を旅していると、内臓や心肺機能に異常を感じたことが何度もありました。私の場合は陽希さんのような無理がきかないので、それを持続するようなことはしません。それでも昔、修道院で助けてもらったときはたしか3日間ほとんどベッドに横たわっていた記憶です。よほど疲れていたのですね。ちょうど浅間山荘事件の頃です。

 

陽希さんの面白いというか、素直な自然体にも魅力を感じます。これまでも神社参拝や山頂に祠があると参拝するのですが、最初はとても粗雑で拝礼の適当さ、しかも柏手が形だけ、音も出ない程でした。でも彼はアドベンチャーが神髄です。外国でのアドベンチャーではそういった参拝もないでしょう。地元神を祭ることは、日本では、とりわけ登山する場合は自然に身につけてきたのでしょうけど、教わったことがないようです。

 

武尊神社(日本武尊が当地での統治活動を行ったとの伝承を受けたものでしょうか)は彼の地元、ようやくかなりいたについた感じになってきました。でも、彼らしい、独自の拝礼ですね。それでいいと思うのです。気持ちが込められていれば。千利休も作法は厳しく指導したようでもあり、自由にすることをすすめたようでもあり、それが芸の本道ではないかと思うのです。

 

道元は清掃、食事、排泄などあらゆることにその作法というか、細々とあり方を定めたようですが、それは仏道の本質を享受するための一つの道であって、すべてではないと思うのです。良寛さんは道元を尊崇していましたが、決してその作法を自分では試みず、その面では自由奔放に生き、和歌の世界や人と接する中で神髄を吐露したのではないでしょうか。

 

と久しぶりに前置きが饒舌となりましたが、本題に入ります。

 

昨夕の記事<樹木葬 隠岐の波間に散骨島 墓守不要で自然葬人気 風評懸念、条例で規制もでは、

<永代供養をうたう納骨堂が都心部に相次いで建設されるなど、弔い方が多様化する中、遺灰を自然にまく散骨や桜などの木の近くに遺骨を埋める「樹木葬」も注目を集めている。「自然の中で眠りたい」と考える人が増えているほか、将来の墓守の心配がないとの理由で人気を集めているという。一方、風評被害の懸念からこうした自然葬を条例で規制する動きも全国で相次いでいる。>

 

墓守というか、墓の管理が大変という、一つの側面がかなり重荷を感じる人が全国で声を上げるようになった印象ですね。

 

おそらく90年代に入る前は、そのような声も上げることができなかったと思います。

 

90年代初頭でしたか、80年代後半でしたか、記事で紹介されている<1991年、東京都のNPO法人「葬送の自由をすすめる会」が神奈川県沖の相模灘で本格的に始めた>数人の創始者の一人として私も仲間入りしました。

 

この運動は、当初、東京都の水源、奥多摩の森を守ろう(実際の全国の森も含めて)、他方で、火葬後の踵骨が産廃処分され、また首都圏では墓地開発で自然破壊が起きているなどの問題などを解決するために立ち上がったのです。

 

記事は<当初は墓地埋葬法に抵触するとの見方もあった。 しかし、当時の厚生省が「法の対象外で禁じるものではない」との見解を公表。>と書いていますが、少し誤解を招く表現です。

 

私はこの問題に法的対処するメンバーの一人として、厚労省(当時は厚生省)、法務省刑事局との折衝を行いましたが、墓地埋葬法に抵触すると言った理解は、私たちの解釈論を理解して、まったくありませんでした。むしろ法務省刑事局との折衝に私たちは注力を注いだのです。墓地埋葬法を丁寧に読めば一目瞭然です。この点はこの分野の権威、大正大学の藤井正雄氏とも協議かを開催し、藤井は浄土宗信徒として、温厚に対応していただき、当方の解釈を理解していただいたと思います。この方とはその後もシンポで議論したことがありますが、立派な紳士ですね。

 

ともかく刑事局が最初の自然葬実施を大々的に報道されたとき、「葬送のための祭祀」で「節度を持って行う」かぎり、「合法」と明言したことで、ある種決着がつきました。それを刑事局との折衝の中で、事前にその言質を得ていたのです。

 

四半世紀も前のことですから、多少記憶はいい加減ですが、でも当時の折衝場面はわずかながら記憶しています。

 

それからもいろいろありました。ただ、宗教界からの反発や抗議は一切なかった記憶です。

それがよかったか悪かったか、その後に様々な問題が起こってきましたが、藤井氏が懸念していたこともあったように思います。

 

たとえば、記事が取り上げた<農業が盛んな北海道長沼町は2005年、条例で墓地以外での埋葬を禁じた。町内の川で業者の散骨計画が持ち上がり、農業用水の汚染を危惧した町民の反対運動がきっかけだった。>もその一つ。

 

私も現地に飛んでいきました。私が関与していた上記会とは何の関係もなかったですが、自然葬の将来に影響があると考えたからです。そのやり方はある面で稚拙でした。しかも調べると、周辺ではヘルマン・ヘッセを慕う農村作りをする運動体がすてきな村づくりをしているそのそばでした。ヘッセは自由な思想の持ち主と思いますが、その具体のあり方には繊細で緻密な自然環境との調和を目指しているように思えます。残念ながら長沼町の例は、そのような理解に乏しいと思わざるを得ませんでした。事業者とお会いして考えを伺ったのですが、必ずしも経済目的でなく、私たちの考えにも通ずるところがありましたが、周辺の人たちへの理解を得る努力や手法に疑問がありました。

 

その後も多様な問題が起こりました。農地で散骨を肥料とするような伊豆大島事件もその一つでしょうか。

 

記事が取り上げている樹木葬は、あくまで墓地埋葬法上の墓地として経営許可を得て行うもので、それが本来の意味で樹木葬といえるのかは疑問がありますが、私は多様なあり方があってよいと考えますので、墓地埋葬法に則る選択肢の一つかと思うのです。

 

ただ、それは墓地問題が抱えている多様な事項に対処できているかというと、疑問が残ります。

 

前後が逆になりましたが、隠岐の島の、散骨島葬送、これは一つのあり方かなと思っています。

 

<島根県の隠岐諸島に「散骨島」と呼ばれる小さな無人島がある。大山隠岐国立公園内にあるカズラ島(海士(あま)町)。東京の葬祭業者が設立した運営会社が2008年、地権者から島を買い取って事業を始めた。

 対岸から船で渡り、小山を登ると木々に囲まれた平地の散骨場があり、遺族は粉にした遺骨を土の上にまく。基本料金は約26万円で、後の管理費などはかからない。環境保護に配慮し、島への立ち入りは原則5月と9月だけで、この時期以外は対岸に設けた慰霊所から拝むことができる。>

 

でもなぜ隠岐の島か、となると、むろん地元出身者ならいいかという問題もありますが、遺骨についての考え方の見直し、供養のあり方、島の自然環境に対する意識のあり方など、島に関係する人、その他さまざまな関係者との協議がどのようになされてきたかは気になるところです。

 

私はこれまで最初の海での散骨(灰が正解)、その後山や海での散灰に携わった経験がありますが、それぞれ亡くなった方との触れ合いを強く感じることができました。知っている人はもちろん、知らない人も。人と地球生命体との一体感みたいなものを感じさせてくれたように思うのです。葬送の自由をすすめる会の創設者、安田睦彦氏は著作『墓は心の中に』のなかで、私のそういった思いを引用してくれています。

 

そして般若心経からいって、有るものも無い、無いものも有る、意識すらも有るようで無い、そういう私たち人間のあり方を、この散灰をとおして、心の中で深く感じることができたような気がします。

 

それは葬送のあり方に一つの様式をのみ認めるのではなく、せいぜい有ると思われる心と対面して選択することではないかと思うのです。墓守や墓の管理は、残念ながらもう少し次元の異なる問題では無いかと思うのです。むろんさまざまな検討する課題の一つではありますが。


柳川堀割物語と高畑勲 <余録 後にスタジオジブリ代表になる鈴木敏夫さんが…>を読みながらふと思う

2018-04-07 | 人の生と死、生き方

180407 柳川堀割物語と高畑勲 <余録 後にスタジオジブリ代表になる鈴木敏夫さんが…>を読みながらふと思う

 

もう30年近く前でしたか。東京弁護士会公害環境委員会で川の問題をテーマにシンポをすることにして、なにか一般の人にアピールするものがないかと考える中で、だれかが映画「柳川堀割物語」を提案し、これは面白いということで、上映することになりました。映画は自主上映という形で、各地で人気を呼びつつあった時期でした。そのとき監督だった高畑勲氏に話を伺いにいくことになったと記憶していますが、私は何かの都合で参加しませんでした。これまたあいまいな記憶ですが、高畑氏の話を聞いたメンバーからその情熱に引き込まれたということで、改めてどんな内容かと期待したのです。

 

上映は、まだ現在の弁護会館が建つ前ですから、古い趣のある建物3階で行われました。私の知り合いも来てくれ、感覚的には狭い会場一杯で200人近かった印象です。大盛況だったと思います。そしてその内容は、しびれるほど素晴らしものでした。柳川の堀割がもつ機能をアニメーションでわかりやすく説明されているだけでなく、随所にユーモアあふれる動画になっていました。生活の中に堀割の水が役立ち、洪水調整、利水にと役立ってきた歴史が語られていました。

 

ところが高度成長とともに、次第に見捨てられていき、アオコが一杯になったり、悪臭が放たれて、また、ゴミの捨て場にもなっていました。その結果、埋め立てろといった意見が高まっていくのです。これは70年代頃、どこにでもあった光景ですね。

 

それを一人の役人が立ち上がり、臭い水の中に入って、青草を刈り取り、ゴミを拾い上げるなどの作業を始めるのです。それが次第に市民の中に広がっていき、堀割が復活するのです。その立ち上がった役人こそ、広松伝さんでした。高畑さんも広松さんと会い、彼の熱意に惹かれたのでしょう。彼の創作意欲が見事に傑出したのだと思います。

 

高畑さんが亡くなられて、ジブリ作品として評判を博した、著名な映画がいつも取り上げられますが、私にとっては最高の作品は「柳川堀割物語」だと、いまでも思っています。残念ながら、一回きりの上映で、それ以後見る機会がないため、記憶が曖昧ですが、私にとってはきわめて印象的な作品です。

 

広松伝さんという人物が、普通の役人(たしかこの作業を始めた頃は係長か主任だったでしょうか)ですが、傑物ですね。こういう役人がいるから、日本はもっていると思うのそういう人ですね。私は映画を見た後、しばらくして日弁連調査で柳川市に行く機会があり、広松さんとは会食をしながら2時間くらい話をすることができました。恥じらうような態度をしつつ、朴訥ですが、信念を曲げない、男の中の男という感じでした。その彼も亡くなって時が流れました。

 

ところで、高畑氏も宮崎駿氏も一度もお会いする機会がありませんが、その作品にはいつも魅了されてきました。そういえば鞆の浦世界遺産訴訟では、原告団の代表から宮崎さんが宿泊したところとか見せてもらったり、宮崎さんの話を伺ったりして、鞆の浦の景観をとても大事にされているのだなと感じました。ぴょにょの舞台も、宮崎さんが滞在した場所に設定が似ていて、そこからイメージしたのかと思うくらいです。

 

で、毎日の<余録後にスタジオジブリ代表になる鈴木敏夫さんが…>で指摘している鈴木さん、高畑さん、宮崎さん、3者の「なりそめ」を知ると、いずれも「とても面白い」を通り越して、子供のように夢中になり貫徹する能力、それを受け入れるだけの懐の深さを感じさせてくれます。その部分を引用させてもらいます(原文は岩波新書ですね)。

 

<後にスタジオジブリ代表になる鈴木敏夫(すずき・としお)さんがアニメ誌の記者として電話で取材を申し込んだのが、高畑勲(たかはた・いさお)さんとの「出会い」だった。高畑さんはなぜ取材に応じないかを1時間話し、隣の宮崎駿(みやざき・はやお)さんに代わった▲今度は宮崎さんが、取材で聞いてほしいことがありすぎて16ページは誌面がほしいと30分話す。ちょっとしたコメントがほしかった鈴木さんはさすがにあきれ、1時間半もの電話は一行の記事にもならなかった(「仕事道楽」岩波新書)>

 

映画「柳川堀割物語」が生まれたいきさつ、その内容はウィキペディアで簡潔に紹介されていますので、関心のある方はどうぞ。余録で紹介されている関係が見事に映画に結びついていると思うのです。

 

そういえば、さきほど私の友人から先日の長電話の成果(作品化)が出そうだとお礼の電話がありました。鈴木・高畑・宮崎の傑物3者の見事な融合関係による世界的な作品になるようなことはむろん期待すべくもありませんが、うまくいくよう成果を期待したいと思っています。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。