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たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

寺社の規律と独立 <宗教界 介入の影に警戒・・・教義提供で>と<3億円詐欺で共犯に問われた住職と檀家総代が法廷バトル>を読みながら

2018-04-06 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

180406 寺社の規律と独立 <宗教界 介入の影に警戒・・・教義提供で>と<3億円詐欺で共犯に問われた住職と檀家総代が法廷バトル>を読みながら

 

寺社は、日本人のみならず外国人にも人気のスポットになっていますね。ある放送で、外国人に説明する中で、神社で言えば鳥居、寺でいえば山門(大門)が世俗と清浄な空間を仕切る結界といった趣旨の解説があり、そこをくぐる前にそれぞれ礼をを尽くすとともに、そこから一歩入ると、浄界に入っていくことになり、それに応じた備えとしきたりがあるというのです。玉砂利もそうでしょう。

 

そういった仕組みというか仕掛けというか、社寺がもつ雰囲気を醸しだし、実際、心ある人は次第に浄化されていくのでしょうね。しかし、そういった神社仏閣も人間が営むわけですから、人間の中にはなかなか世俗の汚れを払いきれない人も少なくないですね。

 

今日の産経ウェブ記事<3億円詐欺で共犯に問われた住職と檀家総代が法廷バトル…「信じたのが間違い」VS「利用された」>は、以前、このブログでも少し取り上げた松山市の黄檗宗の寺院「安城寺」を舞台に黄檗宗大本山「萬福寺」まで巻き込んだ事件で、共犯者とされた両者が法廷でバトルを演じているようです。

 

共犯事件では、よくあるパターンで、仲間割れというか、どちらがだました、だまされたという話でしょうか。

<寺の住職と檀家(だんか)総代。二人三脚で数億円を集金したとされる男2人は、公判では手のひらを返すように真っ向から対立している。黄檗(おうばく)宗寺院「安城寺」(松山市)の土地・建物を担保に1億5千万円の融資を受けた不動産会社に損害を与えたなどとして、背任や詐欺罪などに問われた住職、片井徳久(57)と檀家総代の宇都宮貞史(42)両被告の裁判。>

 

<2人はそれぞれ「宗教家であることを宇都宮被告に利用された」「住職(片井被告)を信じたのが間違いだった」と主張している。寺を舞台にした巨額詐欺事件の真相は何だったのか。審理は佳境を迎えている。>

 

詳細は記事をご覧ください。私がこの件を取り上げたのは、寺の不動産を担保提供すること自体、宗教法人法のルールが無視されている印象を持ったからです。宗教法人法上、23条の財産処分の一つに当たり、公告をはじめ厳格な手続きが必要ですし、別に定める規則で責任役員の決定事項とされたり、総代会への報告事項とされたりして、一定の民主的コントロールのような世俗の原理を用意していますが、はたしてこのような手続きが厳格に運用されていたか疑問です。

 

宗教法人法は、一方で宗教団体や構成員の信仰の自由を尊重しつつ、世俗的な民主的合理的な管理ルールを定めていますが、実際の寺社などでこのルールを厳格に遵守しているところは多くない印象です。むろん一般企業が企業法務をしっかり遵守しているかというと、大企業ですら問題があるわけですから、宗教法人だけを責めるわけにはいかないかもしれません。

 

とはいえ、オウム真理教事件を含め、さまざまな宗教団体による問題行動が起こってきたため、その都度、一定の法規制がされてきましたが、その法規制が遵守されているか監督行政において生ぬるい印象を感じています。それが直ちにこの詐欺・背任事件に結びつくとはいえませんが、温床になりうるとは思うのです。

 

さてもう一つの裁判に関係すると見られる?話題が先日の毎日記事です。<宗教界介入の影に警戒 国補助研究、教義提供で 京都仏教会が反対決議>とのタイトルで、

<国の宗教法人審議会元会長で憲法学者の大石眞・京都大名誉教授らによる「国法と宗教法人の自治」をテーマにした研究が、宗教界に波紋を広げている。>というのです。

 

それは<研究グループは宗教団体に教義や規則など内部文書の提供を求めた>ことが原因です。そうですね、教義は一般には公開されていませんね。私は仕事上、いくつかの宗派の教義を知っていますが、難解で、それを現代の規範に当てはめるといった作業というか、解釈は必要でしょうね。

 

もう一つの規則は、宗教法人法で規定している規則でしたら、所轄官庁の認証対象ですから、行政はすべて当然保持していますが、国の補助を得た機関であっても提供の対象にはならないのでしょうね。ただ、同法で認証を受ける規則にはあまり信仰の教義に関係するような内容は含まれていないように思います。これを研究対象として利用できることくらいは寛容であってもよいと思うのですが、どうでしょう。

 

<国の補助金を受け、宗教行政を所管する文化庁宗務課の職員も加わるなどしていたためだ。宗派を超えた京都の寺院でつくる京都仏教会が「国家権力が介入する道を開く」と反対を決議する事態になっている。【宮川佐知子】>ということですが、たしかに教義まで求めるとなると、その機関の中立性・独立性の担保が必要でしょうね。

 

ただ、記事を読むと提出を求めたのは<自治権行使の現状を調べるとして、宗教法人・団体の「規則集一式」の提供を求める内容だった。>ということで、その規則集の中には、宗教法人法が求めているもの以外も含まれているのでしょう。

 

その提出を求める合理的な理由・必要性があるかも検討されるべきでしょう。

<研究に関する資料では、研究の背景について「オウム事件以後、宗教法人法改正で宗教法人への国法(国の法令)の関与が強まり、自治権と運営の適正確保の要請との調整が重要な問題になった」と説明。その上で「どのように調整すべきかは、宗教法人・団体の自治規範の具体的内容を理解しなければ検討できない」としている。>

 

趣旨は抽象的にはわかりますが、<自治権と運営の適正確保の要請との調整>ということであれば、そのような目的に絞った規則に限定して提出を求めるべきではないかと思うのです。教義に関わるような内容は除外するとか、宗教法人において任意に選別できるとかを明示すべきでしょうね。

 

<大石氏は「学術研究目的で、私には何の公権力もない。協力できない宗教法人には強制しておらず、説明にも応じている」と話している。>とのことですが、宗教法人としては過去の糾弾された、強制された歴史がありますから、より丁寧なアプローチがあってもよかったのではと思うのです。

 

また、<大石氏は宗教と法令の「調整」が課題になる一例として、日本カトリック司教協議会が「公職受諾を禁じる教会法に抵触する」として聖職者の裁判員辞退を最高裁に申し入れた例などを挙げている。>ことを取り上げているようですが、そのことから、教義自体の提出を求める根拠としてはいかがかと思うのです。

 

その点では<島薗教授は「教団の規範が宗教の社会性にどう影響しているかは興味深いが、さまざまな当事者の立場を考慮して理解を得ることが大切だ」とし、調査方法などの見直しを求める。>という意見に賛同します。

 

ただ、認証規則については、基本、世俗のルールに類するものに近いといえますし、それがきちんと実態に合った形で規則の変更などが行われていなかったり、規則通りに管理が行われていないところもあるのが実情ではないかと思います。そのような実態把握こそ、むしろ必要ではないでしょうか。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


宮司世襲と女性 <宇佐神宮 世襲家解雇は有効>と<富岡八幡宮殺人事件>を読んで

2018-02-14 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

180214 宮司世襲と女性 <宇佐神宮 世襲家解雇は有効>と<富岡八幡宮殺人事件>を読んで

 

富岡八幡宮で宮司が弟夫婦に襲われ殺害された事件、はや2ヶ月経ったのですね。元横綱・日馬富士による暴行事件をめぐる展開が大騒動となり、いつの間にか重大事件にもかかわらず話題から消え去っていった観もありますね。たしかに容疑者夫婦がすでに死亡していることもありますが、問題の背景・本質がなにかうやむやになったような晴れない気分です。

 

そこに今朝の毎日新聞に<宇佐神宮世襲家解雇は有効 神社本庁が勝訴 大分地裁支部>という小さな記事が掲載されていました。この宇佐神宮事件は、富岡八幡宮事件とは、宮司の地位をめぐる紛争が根源にあり、女性が宮司になることに神社本庁が反対したこと、いずれも離脱を試み、前者はできずに神社本庁との関係で対立したこと、後者は離脱したものの今度は弟との間で紛争が激化したことで共通問題が顕著かなと思うのです。

 

むろん今回の裁判は権宮司の地位をめぐる裁判ですが、その引き金は宮司職をめぐる対立です。

 

記事では<宇佐神宮(大分県宇佐市)で宮司を世襲していた到津(いとうづ)家の到津克子(よしこ)さん(49)が、ナンバー2の権宮司(ごんぐうじ)を免職され、神宮から解雇されたのは無効などとして神社本庁(東京)と宇佐神宮などを相手取り、地位確認と総額約1665万円の損害賠償などを求めた訴訟で、大分地裁中津支部は13日、解雇を有効とする判決を言い渡した。>と、神社本庁側に軍配を上げています。

 

この訴訟の引き金になったのは< 宇佐神宮の混乱の発端は2008年。責任役員会が到津さんを新宮司に推薦したが、神社本庁は拒み別人が宮司となった。法廷闘争となり13年に到津さん側敗訴が確定。>です。

 

富岡八幡宮の場合も、世襲の姉が宮司になろうとしたら、神社本庁が認めませんでした。いずれの宮司の場合も、神社本庁は経験が足りないとかのもっともらしい理由を挙げているといった記事があったかと思いますが、女性を就任させることを拒否したとみられても仕方がないように思います。

 

なかには神社・神宮は、天皇家のように世襲制が認められていて、寺の場合は違うといった見解もあるようですが、実態は、いずれもすべてではないですが、世襲制がかなり採用されているように思います。ただ、お寺の場合は女性住職も徐々に増えてきているのではないでしょうか。これに対し、神社・神宮の場合は女性の宮司はあまり聞かないですね。とりわけ宇佐神宮や富岡八幡宮のように社格の高いところでは。

 

では神社本庁は、なぜ女性を宮司にとして認めないのか、天皇制と関係があるのか、わかりませんが、性差別を理由に就任を認めないとすれば、宮司の就任を認めるか否かは信仰に関わることで、一般には俗を規律する宗教法人法の適用がないとしても、憲法上いかがかと思うのです。

 

では世襲制は問題ないのか、これも気になりますが、さすがにそこまでは憲法論としておかしいといえるかは信仰上の領域とグレーゾーンになるか、見解が分かれるかもしれません。ただ、信仰の世界において、世襲制は仏教をはじめ多くの宗教では宗教上の根拠を欠いているのではないかと思うのです。神社・神宮も変わらないと言いたいところですが、出雲大社などの例を見る限り、氏子などに支えられて、連綿と継承されてきているわけですから、こういった実態があれば世襲制は宗教上も確立しているといってよいのでしょう。ただ、すべての神社・神宮がそうかというと、それぞれの地域で異なるように思います。古い歴史のある神社・神宮ほど、世襲制が確立しているように思えます。

 

実のところ裁判では、太宰府天満宮、出雲大社などでは、しっかりその規則で世襲制を規定していることが、本件の前に訴訟となった宇佐八幡宮事件で明らかにされています。

 

とはいえ、女性しか跡継ぎがいない場合、婿養子が宮司となって継承することもあるようですから、男系の世襲制といった強固な形態は、もしかしたら天皇制くらいでしょうか(とはいえ、記紀の天武天皇以前は実態がどうだったか気になるところです)。

 

さて、もう少し宇佐神宮について言及してみたいと思います。私もこのブログかfbでなんどかこの宇佐神宮については取りあげてきましたが、今回問題になっている解雇・パワハラ事件は知りませんでしたので、古代の宇佐神宮のいろいろの物語は別の機会に取りあげるとして、現代の問題を少し追ってみたいと思います。

 

まず判決内容は、大分合同新聞が<宇佐神宮訴訟 「権宮司の解雇有効」 パワハラは一部認定>として、より詳細に報じていますので、少し引用します。

<主な争点は▽宇佐神宮との雇用関係が継続しているか▽未払い賃金があるか▽パワハラなどの不法行為があったか―など。>

 

上記の争点について、<判決で沢井裁判長は「原告が約4年間欠勤した他、元宮司を宮司と認めず、業務命令に従う意思がなかった。(解雇は)客観的、合理的な理由がある」と判断。一方で「神職らによる無視など敵対的言動があった。元宮司らは就労環境を改善しなかった」などと指摘した。>として、前2つの争点は否定し、最後の部分の一部を認めたということですね。

 

 もう一つ神宮側が請求した事件があり、<神宮側が境内にある到津さんが住む建物「職舎」を明け渡すよう求めた訴えについては、棄却した。>ということで、なお今後も引き続き境内の建物利用をめぐって対立したままの状態が残され、紛争はこの結論自体への不満もあるでしょうけど、継続することが明白です。

 

なお、<到津さん側代理人の岡村正淳弁護士は「一部認められたことは評価したい。ただ、正常な労働環境でなかったことを認めながらも解雇は有効との判断は矛盾している」。>と指摘していますが、上記の争点に対する判断はまさにそのとおりで、これだけ読むとあまり練れていない印象を抱きますが、適切に判断するのであれば、やはり判決文自体を丁寧に読んでからかと思います(むろん判決文には証拠の内容が明らかにされないので、話半分ですが、それでも一定の整合性がとれているのが普通ですから、そこは確認する必要があるでしょう)。

 

裁判の争点については<権宮司解雇巡る訴訟 13日判決 宇佐神宮>で、一覧表にして、より的確に示していますので、参考になりますが、引用はカットします。

 

で、これとは別に、毎日記事は判決直前に<宇佐神宮“内紛”10年どう裁く? 神宮と世襲社家側、免職・解雇で論争 13日、地裁判決 /大分>として整理しています。

 

ここでは紛争の発端から記事にしています。

<混乱の発端は08年。宮司任命権を持つ神社本庁に具申できる責任役員会は新宮司に克子さんを推薦したが、神社本庁は翌年「経験が少ない」との理由で別人を宮司に決めた。責任役員会は神社本庁に離脱届けを提出するなど対立。>

 

<訴訟になり、最高裁まで争われたが、13年に克子さん側敗訴が確定した。>とありますが、この訴訟は克子さんが世襲宮司家の慣習があるとして宮司の地位確認を求めたもので、なぜか富岡八幡宮とは違って神社本庁を離脱せず、とどまって、同庁に認めさせようとしたわけですが、結局慣習が認められず敗訴したのです。

 

パワハラの主張を読んでみますと(むろん主張だけでは真相はわかりませんが)、歴史のある神宮の中で、陰湿な争いが繰り返されてきた印象をぬぐえません。いくら美しく、飾り立てても、八幡宮といった立派な神様が鎮座していたとしても、神宮の祭祀を行い主宰する宮司や関係者が清浄な心でなければ、とても神様どころか、人も寄りつかなくなるのではと心配します。

 

いずれに応神天応や神功皇后の話をするときなどで、宇佐八幡宮も登場してもらおうかと思っていますし、聖武天皇や称徳天皇のときの事件でも考えてみたいこともあるので、それは別の機会にして、今日はこのへんでおしまいです。また明日。

 

 


神社と女性宮司 <富岡八幡宮殺傷 宮司職巡りトラブル 復帰できず姉恨む?>などを読みながら

2017-12-09 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

171209 神社と女性宮司 <富岡八幡宮殺傷宮司職巡りトラブル 復帰できず姉恨む?>などを読みながら

 

127日夜発生した富岡八幡宮での宮司殺人事件、とんでもない背景・実態が明らかになりつつありますね。

 

とりあえず今朝の上記毎日記事によると、事件そのものについて、<茂永容疑者と真里子容疑者は7日午後8時25分ごろ、帰宅する富岡さんを待ち伏せ、日本刀で襲いかかった。富岡さんは首などを刺され、富岡さんの運転手の男性(33)も重傷を負った。茂永容疑者は直後に短刀で真里子容疑者の腹などを刺して殺害。自身の胸や腹も刺した。>と警察発表を報じています。

 

その動機なり背景については、<自殺した弟で元宮司の茂永容疑者(56)=住所職業不詳=が、八幡宮が神社本庁から離脱することに反対していたことが関係者への取材で分かった。9月に離脱して富岡さんが宮司に就いたため、茂永容疑者は宮司に復帰できなくなったと感じて恨みを募らせ、襲撃を計画した可能性がある。>と関係者取材結果を報じています。

 

さらに宮司就任をめぐっては長い間、弟と父、また姉と弟に加えて神社本庁の間でもめていたようです。

 

関係者取材では<茂永容疑者は父親に代わって宮司になったが2001年5月ごろ、金銭問題などを理由に職を追われた。父親が再び宮司に就き、10年ごろからは富岡さんが宮司の代務者として跡を継いだ。しかし全国の神社を統括する宗教法人「神社本庁」が宮司就任を承認しなかったため、八幡宮は今年9月に同庁を離脱。富岡さんは正式に宮司に就任した。>

 

この記事をみて、つい思い出す事件があります。以前fbで書いたように思いますが(これがどこにいったか、原稿がないかも?)、宇佐神宮宮司事件です。この事件でも、神社本庁が宇佐神宮の世襲家では女性しかいなくて、その方が氏子らでつくる責任役員会で推挙され宮司になろうとしたところ、神社本庁がこれを認めず、別の方を宮司に任命して、裁判事件(その地位不存在確認訴訟は上告審で敗訴確定)、その後当該宮司が地位を職務上の問題で地位を奪われたものの、当該女性による傷害事件まで発展していますね。怒りの感情が収まらないようですね。

 

ところで、このような女性の宮司を認めない神社本庁の取り扱いは、他でもあったように記憶しますが、ともかく頑なに女性宮司を認めない取り扱いは、なにか女性天皇を認めない勢力と通底する思想がありそうですね。なお、神社本庁という名前から行政庁の一機関ではないかと思われる向きもあるかもしれませんが、信仰の自由という憲法上の原則からそれはありえませんね。あくまで一宗教法人です。といってもほとんどの神社を包括しているのですから、数の上では最大の宗教法人です。約8万社ある日本の神社のうち主要なものなど79千社以上が加盟しているとのこと。

 

少し脱線しますが、宇佐神宮と言えば、八幡宮の起源とされ、全国に約44,000社の総本社とされていますね。創建は古いようですが、世に出たというか、世間の耳目を騒がせたのは、あの神託事件です。宇佐神宮が道鏡を天皇の位につければ天下は泰平になるとの神託を伝え、もう少しで民間から天皇が生まれる演出をしたのですから、日本最大の事件ともいえるでしょう。結局、その真偽を確認することを任された姉(このときは女性でOKだったんですね)に代わって弟の和気清麻呂が宮司と対面したのでしょうか、神託が虚偽であることを喝破し、上申して事なきを得たわけですね。

 

たしかに聖武天皇は、娘の孝謙天皇(後の称徳天皇)に、天皇就任に際して、その地位について、こだわる必要がなく、皇位継承者でない民間人がなることも許されているよなんてことをやさしく語ったとか、どこかで読んだ記憶があります。そんなことも影響したのでしょうか、神託事件が起こる背景があったのでしょう。それにしても宇佐八幡宮・宮司は思いきったことをする方だったんでしょうね。虚偽が判明した後、称徳天皇が亡くなったのを契機に、道鏡は結局左遷させられましたが、宮司の方はどうなったのでしょう、こっちはフォローしていません。応神天皇という天皇家のある種頂点にあるような方を祭神として、八幡宮の起源として祀っていることから、藤原家など政権中枢も手出しできなかったのかもしれません。このあたりはかなり適当な見方ですけど。

 

さて、宮司の地位をめぐる紛争、骨肉の争いとなっていたわけですが、それを統括すべき役割を担っている神社本庁は、適切に対処してきたのか、それが問題だと思うのです。むろん弟夫婦が行った今回の殺戮行為はどのような理由があっても許されるはずもなく、神社本庁にその責任が問われるものではないでしょう。

 

しかし、こういった宮司や住職といた寺社のトップの地位をめぐる紛争は、結構起きています。多くは世襲制が事実上行われているため、肉親間での争いとなり、今回のような殺傷沙汰までに至らなくても、一触即発になるほど危険な状況はときに見られます。私自身も仕事上体験したことがあります。

 

こういう場合、とりわけ当該神社や寺などを統括する包括宗教法人が指導力を発揮するのでなければ、なんのための包括宗教法人となっているのでしょう。と簡単に言ってしまいますが、名前だけに近いかもしれませんね、実態は。にも関わらず、今回の場合女性の宮司はダメというのが認めない実質的な理由ではないでしょうか。それは憲法上、合理的な差別と言えましょうか。いやいや、信仰の自由、宗教団体の活動は憲法上保障されているので、そのような取り扱いは憲法に抵触しないというのでしょうか。

 

そうであれば、拒否する根拠をしっかり示して、亡くなった宮司の申出にきちんと対応すべきだったと思うのです。不文の原理として女性は宮司になれないというのが神社本庁にあるのであれば、それこそ開示してその原理の憲法議論をしっかりしてもらいたいと思うのです。

 

なぜこんなことを言うかといえば、弟は、神社本庁が女性を宮司にすることを認めないから、必ず自分が宮司になれると思っていたのではないかと思うのです。実際は氏子総代や責任役員が支持しないと、推薦されず、弟は宮司の道は客観的には閉ざされていたと思われるのですが、そのことも含めてはっきりしておくことも神社本庁のつとめだったのではないでしょうか。

 

ともかく宮司や住職などの事実上の世襲制、女性排除(これは神社の場合)といった、現代の時代状況にはたして適合するかどうかといった問題を真剣に議論する時期に来ているように思うのですが、神社本庁は動こうともしませんね。

 

ちょうど一時間近くとなりました。この辺でおしまい。また明日。

 

 

 


お盆と日本人 <大阪うめきた 梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体>を読んで

2017-08-13 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

170813 お盆と日本人 <大阪うめきた梅田墓に「大坂七墓」物証の人骨200体>を読んで

 

今年はお盆休みが「山の日」休日もあって長期間の人も多いのではと思います。幸い巨大台風ノルーが過ぎ去って穏やか(暑さは仕方ないですが)な天候でお墓参りやそれぞれの地域特有の行事、各家庭の祖先供養が行われていることでしょう。

 

葬送文化は時代性・地域性を反映して、少しずつ、場合によっては大きく変わってきた、いや変わらないまま、見方によっていろいろな様相を示すかもしれません。

 

そんなことをつい書く気になったのは、昨日の毎日夕刊の見出し記事に驚かされたからです。

 

だいたい「梅田墓」といってもぴんと来ないですね。関西の地理・地下鉄駅にうといといっても、「梅田」くらいは知っていますが、そこに墓域があって「梅田墓」と呼ばれていたということまではなかなか結びつきません。

 

<JR大阪駅北側の再開発区域「うめきた」(大阪市北区)に江戸~明治時代にかけてあった「梅田墓(ばか)」の発掘調査で、200体以上の埋葬人骨が見つかった。>というのですね。

 

<梅田墓は、江戸期に庶民の間で流行した盆行事「大坂七墓巡り」の1カ所に数えられ、近松門左衛門の「曽根崎心中」や井原西鶴の「好色二代男」にも登場する>というのですから、江戸時代から有名な墓場だったわけですね。

 

驚いたのは、一つは大坂でいま最も発展著しい「うめきた」がわずか100年くらい前まで墓場だったということです。当時の梅田周辺の土地利用は知りませんが、中之島からでもさほど離れているわけでもないわけですから、辺鄙な郊外とはいえないでしょう。そんな場所に火葬・土葬が入り交じった墓地が作られていたということが、当時の墓地に対する意識を考えるヒントにもなるかなと思うのです。

 

そういえば、谷中墓地も青山霊園、雑司ヶ谷霊園など、前2者は訪れたことがあり雰囲気のいいところですが、いまでは東京都の中心街からそれほど離れていませんね。でも「うめきた」なみに、東京駅の北は皇居ですから無理ですが南の八重洲付近に墓地があったなんて想像できませんね。

 

江戸時代における大坂の活気と生死をも飲み込む多様な文化を取り入れる素地が、そういう土地利用を可能にしたのでしょうか。

 

土葬と火葬が混在というのも興味深いですね。<調査では、きれいな盛り土の層に整然と並ぶ棺桶(かんおけ)に入った状態で土葬された人骨が見つかった。一方、火葬されて骨つぼごと穴に投げ込まれたような状態で見つかったものや、骨つぼに入れられず、同じ場所に何層にも重なって埋葬された痕跡も確認されるなど、多様な埋葬形態が明らかになった。>

 

<調査した大阪文化財研究所の岡村勝行・東淀川調査事務所長は「江戸期の大阪では、火葬が大半だったとする史料が残されているが、土葬もかなりあったことが明らかになった。多様な埋葬形態は、時期の違いや貧富・身分の差によるものかもしれない」と話す。>ということですが、私自身は都市域での火葬はかなり大変だったのではないかと思うのです。

 

当時は燃やす施設も簡易なもので、燃やす材料も木や藁しかなく、日中は臭気や煙が大変で、夜中に燃やすのですが、それでも朝まで燃やしても容易に焼骨までならなかったと言われています。

 

江戸では、北千住に火葬場があったそうで、解体新書を書き上げた前野良沢、杉田玄白らは毎日のように通って死体を解剖して、オランダ原書を翻訳することに成功したという記憶です。つまり、江戸市中というより、芭蕉が奥の細道の出発点とした郊外地にあったという記憶なのです。

 

むろん、現在の拾骨儀式もありません。それだけの方法を採用するには、明治以降の先進的な火葬技術の進展をまたないと行けなかったわけです。ですから、いま斎場(火葬場とはいわないですね)で行われている拾骨儀式は戦後に普及したものですね。

 

もう一つこの記事で驚いたのは、土葬された遺骨の形態です。まさに屈葬です。高層ビルをバックに発掘現場が丁寧に撮影された写真では、そこに写っている遺骨はいずれもきちんと尾骨を中心に横に折れ曲げられています。

 

私が四半世紀前から愛読している?『火葬の文化』の著者・鯖田豊之氏は同書で、スイスの遣日使節団長アンベールが『幕末日本図絵』下で「遺体を折りまげてのかめやたるへの屈葬」を詳細に記述しているのを引用しながら、例外は皇女和宮の寝棺だけで上は徳川将軍から末端まで座棺収容の屈葬だったというのです。

 

明治以降も戦前までは、経済的に豊かな一部が寝棺を使用していますが、「全体としては第二次大戦直後まで土葬、火葬の別なく座棺が圧倒的だった。」というのです。

 

むろん、梅田墓も座棺屈葬であるのは当然です。ではなぜ座棺屈葬なのかについて、鯖田氏は、「胎児の姿勢をとらせるためより、故人の再帰迷奔をふせぐのがねらいともいわれるが、真偽のほどはわからない。」というのです。

 

私のような素人にはわかるはずもないですが、縄文時代から続いているのではないかと思うのです。すると、屈葬には日本人としてなにか重要なDNAなり血統なりの継承の意味があったのかもと考えてしまいます。そういう意味不明の議論はここまでとします。

 

私が屈葬を取り上げたのは、拾骨といういまでは当たり前のように行われている葬送作法の一つが寝棺となり、さらに火葬技術の向上によって初めて成り立ったという文化というか習俗というか、それを一言指摘したかったからです。それもわずか70年にも満たないような葬送作法でしょうか。

 

それは仏教でも儒教でも、ある種の宗教的な教理によるものではないことを改めて指摘しておきたかったわけです。鎌倉新仏教において初めて個人の心の問題を対象にするようになったともいわれます。葬送方法もその頃から次第に形成し、檀家制度を経てかなり実体を伴うようになり、戦後の経済成長の中でより進化したのではないかと思います。

 

それは個人の選択の問題でもあり、仏教を含む宗教団体、宗教者の対応の問題でもあり、いまはやりの各種葬儀業者の問題でもあるのでしょう。

 

最後に、二人の知見を紹介しておきます。

 

新谷尚紀著『「お葬式」の日本史』で、盂蘭盆会を含む葬送儀礼について、「日本の歴史では盆行事は、まず死者への供養が主であった。それは奈良時代や平安時代のことである。そして鎌倉時代になると、孟蘭盆会とともに万灯会、そして施餓鬼会がとりおこなわれるようになる。」とし、「供養の対象を先祖の霊から餓鬼の世界に墜ちたあらゆる霊に広げた施餓鬼供養は、仏教の浸透にさらに拍車をかけることになった。」というのです。

 

そして江戸時代の檀家制度と本山末寺制度です。新谷氏は「寺と檀家との結びつきが密接になると、一般民衆の墓は「寺院墓地」に設けられるようになった。一度檀家になった寺からの離脱を禁止し、一宗一寺の原則を敷き、民衆支配の機能を強化する。」と指摘します。

 

そして「戸籍業務を一手に引き受けた寺はしだいに尊大になっていった。庶民に対しても葬儀を強要する風潮が生まれたが、それは「五条日宗門檀那請合之旋」によるところが大きかったとされている。」のですが、この掟が「真っ赤な偽文書」だったというのです。

 

その偽の掟には「(宗派の祖師の法要、釈迦の死去した日、孟蘭盆会、彼岸と各人に先祖の命日には必ず寺に参拝すること)とし、これに参加しないものは吟味するというのである。」など現代の葬式儀礼につながる細かな指示が次々と打ち出されているのです。

 

決して庶民の自由な意思で選んだり、地域の自然な慣習から生まれたものでもないですし、仏教本来の教理から導き出されたものではないのです。

 

私はいま、現在の盂蘭盆会を含むさまざまな行事を廃せといっているのではないのです。仏教者を含む宗教者も、世俗の人々も、改めて何のために行うかを心に問いかけて、真の思いを尽くすことに叡智を傾け、行動する必要を感じているのです。

 

山折哲雄氏はなんどかお会いする機会があり、いつもその柔らかな語り口としっかりした内容に敬意を抱いてきた方であり、その著作も大変な量の一部ですが、愛読しています。その山折氏の著作『仏教とは何か』で、日本人抱く「先祖崇拝 その構造」という見出しの中で、仏教伝来を推進した蘇我氏が疫病の流行に直面し、当初より祟りが問題となり、その後政権を巡る殺戮を通して祟りと鎮魂が何世紀にもわたって支配するようになったというのです。

 

そのことについて山折氏は「このような「崇り」と「鎮魂」というメカニズムが、日本人の宗教意識の根底をつらぬく特質であった。その骨格はほぼ平安時代において定まったということができるが、それがやがて民間にも深く浸透していった。その結果として、われわれの先祖の霊もまた崇るという観念がしだいに定着していった。」というのです。

 

先祖崇拝と祟り・鎮魂の結びつきは、仏教の役割の変化、庶民に普及する過程で強固なものになったかもしれません。

 

山折氏は「先祖の霊にたいする供養をおろそかにするとき、その先祖の霊はかならずや何らかの形で崇りをなすであろう。それが先祖供養を支える中心的な観念であった。納骨や墓供養の問題がでてくるのも、そのような観念がしだいに強力なものとなっていったからなのである。」として、戦争中の「英霊」へも言及しています。

 

さらに山折氏は「こうして先祖や死者のための墓を建て、一定の時期に祭紀と供養をおこなうことが、子孫たるものや関係者たちのつとめとされるようになった。生きのこった者たちの家内の安全と幸福を約束する道であるとされるようになった。家の永続と子孫の繁栄は先祖の加護によってこそはじめて可能になるということがつよく信じられるようになったのである。」と明言しています。

 

ただ、それはこれまでの先祖供養の観念です。山折氏は現代世相の変転について常に心を砕いています。

 

山折氏は、その事実をしっかりと見据えて、次のように一人一人に訴えかけているように思えるのです。

 

「いま先祖供養の問題は、新たな展望のもとに位置づけられるべき段階にきているのではないであろうか。それはもはや、たんなる死者供養や霊魂信仰にとどまるものではない。先祖供養の課題は、それらの枠組みをとびこえて、むしろわれわれの日常化した現実生活を組みかえる、もう一つの人間関係を暗示しているようにもみられるからである。生きている者同士の、しばしば硬直化しかねない人間関係にたいし、生者と死者とのあいだに対話や連帯のパイプをとおす、深みのある人間関係をそれはひそかに主張しているようにもみえるのである。

 

先祖供養の問題は、今後はたして、あいもかわらず日本人の宗教意識を規定する固有の信念体系として受容されていくのであろうか。それとも、そのような枠組みを踏み破って、さらに広い普遍の場に歩みだしていくのであろうか。

 

いずれにしても、日本の仏教者は、そろそろこの先祖供養の問題を、正面から本気で考えるべきときにさしかかっているように私には思われるのである。」

 

そうです。私が言いたかったのは、山折氏の最後の言葉です。

 

今日はこの辺で終わりとします。2時間かけました。


道を活かす <高野山参詣道・・女人道を歩く>に参加して

2017-06-03 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

170603 道を活かす <高野山参詣道・・女人道を歩く>に参加して

 

いつものように薄闇の中、目覚めました。おぼろ月夜でしょうか、さほど暗くもなく明るくもない感じです。うつらうつらしながら、まぶしい明かりを感じて起き出しました。以前ほど調子が悪くは感じていませんが、血圧計の測定結果が気になっています。今朝は一段と高いのです。といっても夕食後だとだいたい正常値なんですね。あまり計測器を信頼していないのですが、少しは気にしています。

 

それで昨日の毎日朝刊記事<高野山参詣道トレッキング女人道を歩く あす、参加者募集 /和歌山>を思い出し、血圧が高いのは運動不足だと判断し、3時間の行程ですし、女性が歩いた道でしょうから、ちょうどいいかなと思い、参加することにしました。その前に、明日庭に植えるため、花の苗を60くらい買って、そのまま高野山に登りました。

 

そのため集合時間ぎりぎりにたどり着いたところ、すでに大勢が集まっていました。せいぜい450人くらいだろうと思っていたら、私で150をとっくにオーバーしている参加番号をいただきました。

 

この参加の私なりの狙いは、上記以外に、いつも遠望している高野の山々、雪池山、楊柳山、摩尼山、そして今日のルートになっている弁天岳が、それぞれ比定できるのではないかと思ったことが一つ。参詣道は町石道の一部くらいしか歩いたことがないので、とりわけ女人道は壇上伽藍を含む高野の寺の周囲をぐるりと回っているというのを以前なにかの文献で読んだ記憶があるので、回りながら高野山を考えてみたいと思ったことが一つ。そして世界遺産に追加登録された古道がどのように維持されているのか現状を見たいことが一つ。できればいろいろ歴史解説などがあると参考になると思ったことが一つ。と欲張った思いが輻輳していました。

 

でも大勢の参加者を見て、他方でガイドとか語り部らしい人もいないようで、これはただ歩くだけかなと、まず半分諦念の気持ちがわいてきました。とはいえ久しぶりの山歩き、体調はいいとはいえないので、途中で具合が悪くならないよう注意して一歩を踏み出しました。首都圏で仕事をしているときは、車に乗ることがほとんどなく、電車と歩きでしたので、地下鉄の駅ホームを「はしご」するなど歩くことがとても多かったのですが、山歩きはおそらく10数年前涸沢まで友人たちと登ったことがあるのでそれ以来でしょうか。そのときも仲間は北穂などを登攀したのですが、私はテントの中でギブアップして見上げていました。最近はどこへ行くのも車になって、ほとんど歩かないため、血圧が高くなったのではないかと愚考しているぐらいです。

 

さて、女人道(にょにんみち)はトレッキングコースというだけあって、歩きやすい山道で、初心者、一般向けでした。で、参考までに<高野みらい語り部の会 高野山女人道(女人堂~中の橋駐車場)>の解説を見ますと、

 

<昔高野山への入り口は、高野七口と言われるように七つの入り口がありました。不動坂口、大門口、龍神口、相浦口、大滝口、大峰口、黒子口、です。明治五年女人禁制が解かれるまで、高野山に入れない女性のための参籠所がそれぞれ七口に設けられました。のちに女人堂となり、今では現存する唯一の女人堂となった不動坂口女人堂です。女性達は、この七口を結ぶ八葉蓮華の峰々を巡る女人道を辿り、遠くから堂塔や奥ノ院御廊を拝んで回られたと伝えられています。この道が高野山女人道です。>とのことです。

 

で今回の企画は、<“世界遺産追加登録特別企画”高野参詣道トレッキングの実施について>ということで、415日の黒河道を皮切りに、三谷坂、新高野街道、町石道に続く5番目に開催されたもので、最後だったのですね。

 

で、なぜ追加登録されたのか探ろうとしたのですが、和歌山県世界遺産センターのウェブ情報でも<軽微な変更による追加登録>として形式的な記載のみで、よくわかりません。日本イコモス国内委員会のウェブ情報をのぞいてみても、文化庁の世界遺産をのぞいても、詳細情報が見つかりません。

 

なにかブランド色が強いというのは私の勝手な思いでしょうか。世界遺産に(追加)登録されれば、それだけで価値があり、それがどのような意味をもつかは重要ではないとまではいいませんが、なんとなくそう感じてしまいます。

 

とはいえ、世界遺産登録された、女人道のトレッキングということで、大勢が参加したのかもしれません。でもこの道を歩くことにより、そこに世界遺産の構成資産としての価値(<文化庁・紀伊山地の霊場と参詣道(世界遺産登録年:2004年)>)があるということを、上記の語り部の説明などは意味があるものと思いますが、それで十分なのか、的確に表してもらえないものか、気になります。

 

で、私が当初目的としていた多数の思いは、どの程度達成したかというと、高野の山々の比定は、弁天岳の頂上に登ったものの、見渡すこともできず、結局、他の山はもちろん、弁天岳の北方からの眺望景観における位置づけはまったくできませんでした。

 

また、歩きの方は思ったよりきつく、やはりほとんど歩いていないため、最後になるとたいした下り道でもないのですが、もう少しでけいれん状態になってしまいました。そして軽い昼食を済ませて車で降りていったのですが、いつもは快適なコーナーワークで気分がいいのですが、足がつり気味ですので、ブレーキをうまく踏めない状態になってしまいました。渋滞気味で衝突の危険を少し感じつつも、慣れたコースなので、なんとか乗り切り、花坂の分かれ道では普段は九度山に降りるいろは坂のようなコースを通るのですが、今日は怖くてほぼ一直線のバス道を降りていきました。

 

さて、余談はこの程度にして、女人道を歩いた感想を書きたいために今日の本題にしたので、これから本論に入ります。

 

女人道は、世界遺産の追加登録を目指して以前から補修なり維持管理に努力してきたことがうかがえました。そして今回の企画にあわせて、最近、クマザサなど支障草木を伐採して、歩くのには支障のないように配慮されていました。道は狭いところだと幅30㎝もないくらいのところもありましたが、1mくらいあるところも結構あり、階段状に木を打ち付けてあって、登りや下りも快適に歩くことができるようになっていました。

 

しかし、残念ながら、世界遺産の構成資産として、この道がどのような意図で維持かんりされているのかについてはもう少し工夫があってもいいのではないかと思ってしまいます。そもそも女人道がいつでき、どのように維持されてきたか、いまその価値をいつの時代のものを基礎とするのかについては、おそらく明確な資料がないのかもしれません。

 

なぜこのようなことをいうのかというと、道を歩いていて、一定の場所ではスギの枝葉(多くは葉っぱ)が道を覆っていました。歩くのに不便ということはないですが、それが当時の状態を示す意味であれば別ですが、そうでなければ、片付けることを考えてもよいのではないかと思うのです。これから話題にすることはすべて費用がかかることかもしれません。あるいはボランティアの募集なり、クラウドファンディングなどによる資金集めや、こういった企画の参加費をアップして費用の一部に当てる、あるいは高野山内の店舗や寺の支援を求めるなど、検討してもいいのではないかと思うのです。

 

沢を渡る道造りがされていましたが、半分くらい崩れていました。丸太組で土台が作られていますが、こういう手法は定期的に補修が必要でしょう。また、切り捨て間伐が一定の箇所で行われていて、道の目線のところまで伐倒されたスギの倒木が無数にありました。できれば世界遺産の周囲での切り捨て間伐は避けてもらいたいものです。万が一道に落ちてくるかもしれませんし、それ以上に見苦しい情景です。

 

女人道は壇上伽藍を含む高野のすべての寺の周りをぐるりと囲むように道が通っていますので、下を見れば、そういったお寺の甍が見えるのではと思っていたら(参加者の声にもありました)、全くといっていいほど見えませんでした。スギ・ヒノキの木々があったり、さらに高い山に遮られて見えないのです。ただ、一カ所、根本大塔が見える、木々の隙間があり、なかなかいい眺望景観でした。ところが、一切、ビューポイントの説明がありません。

 

こういったビューポイントは、道を歩くだけの単調さを和らげるだけでなく、その構成資産としての価値付けを裏付ける一つにもなると思うのです。余分なものはいらないという専門家もいるかもしれません。果たしてそういった表示は余分なものでしょうか。美術館でも博物館でも、それぞれの価値を理解してもらうために解説文を展示物の前に掲示等する、それがその価値を理解するのに役立つのではないかと思うのです。

 

要はその掲示の仕方、工夫だと思います。また、ビューポイントという点では、女人道を歩いていて、何カ所か、遠望がきく開けた場所があり、その眺望景観はなかなかのものです。しかし、一切、解説らしきものがありません。たとえば、<高野三山と女人道>の中に、写真で遠くに山脈の間に市街地が見え、さらに遠くには海が見える?のが掲載されていて、<

和泉山脈の向こうには大阪湾が薄ぼんやりと見えているはずです>という解説があります。

 

たしかに今日、同じような光景を見かけました。ただ、参加者の人もそれがどこかわからず、方向もはっきりせず、「有田」の町ではないか、その先に海が見えるとか、遠くに見えるのは淡路島だろうとか、いろいろな声が上がりました。

 

磁石がないかとかの声が上がり、私が持参していたALTIMETER(高度計)にデジタルコンパスがついていて、これで見ると、海が見える方角は南南西に近かったように思います。そういうと、有田ではないかという声があがったのです。私自身は有田の位置がいまひとつよくわからなかったので、なんともいえませんでした。最初は、和歌山市街が見え、その先に突き出しているのが加太岬ではないか、その先が淡路島かもなんて思っていたのですが、コンパスの方位が正しいと、和歌山方面はほぼ真西に近いですし、淡路島は北西方向ですので、どれも当たりません。

 

帰ってきて、Google Earthを見たのですが、その見えた場所を特定できず、3Dでも女人道のような狭い場所だとどこかわかりません。

 

その後、南方向に眺望がいい場所が何カ所もあり、これらもただただ通り過ごしてしまいました。山々の名前がわかるといいなと思った次第です。要は、そういった眺望景観を楽しめる掲示がやはり欲しいと思うのです。

 

で、女人道の歴史についても、語り部の解説だけでいいのかと思います。そもそも女人禁制という戒律的なものがなぜ生まれ、それが仏教、高野山とどう関係するのかをもきちんと解説が欲しいと思うのです。

 

お釈迦様は、そんな戒律が仏教にあると知ったら腰を抜かす?ではないかと思うわけです。そもそも仏教伝来されたと言われる時代、最初にそうとなったのは尼僧であることは有名な話ですね。

 

ではいつからそんな戒律らしいものが生まれたのか、諸説あるかもしれませんが、ウィキペディアのような意味合いが結構当たっているかもしれません。

 

法然さんが親鸞に妻帯を許したように、鎌倉仏教の宗祖といわれる高層はいずれも女人禁制などといった戒律を否定していたと思うのです。

 

そういえば西行も高野山に30年近く修行?していたといわれ、その際、天野には捨てられたという妻子がそこに庵をもって祈っていたという伝承もあったように記憶しています。この女人禁制を背景に、いろいろな物語、伝承が残っていますが、たとえば刈萱道心と石童丸の物語ですね。高野山にある刈萱堂(かるかやどう)建立の由来でしょうか。そういえば慈尊院もそうですね。空海の母親が訪ねてきたけど、女人禁制のためそこにとどまり、空海は九度も訪ねたことから、九度山という名前がついたとか(いま真田幸村が幽閉されたことで真田庵の方が有名かもしれませんが)。

 

こういった女人禁制制度といった結界ですね、この背景とそれでも女性が訪ねてくる、そのせめぎ合いの場であったこと、おそらくこの道はせつない思いの道だったのではないかと思うのですが、そういった歴史的な意味合いもより深く調べて解説してもらいたいものですが、無理な相談でしょうか。

 

本題がどこに行ったのかよくわからなくなってきましたが、最後に、道の途中に「相ノ浦」という名前がありました。「浦」というのは海岸線の船だまりのような地形をいうのではないかと思うのですが、なぜこの山の上にそんな名前がついているのでしょうか。不思議に思いつつ、中野榮治著「流域の歴史地理ー紀ノ川」の一説を思い出しました。紀ノ川の北側に走る和泉山脈を含め中央構造線(帯)という巨大断層が日本列島を横断していますね。そして何億年前には日本列島は海の底にあったわけですが、この和泉山脈より北側のプレートがまず隆起し、その後に南側の山麓や紀ノ川、そして高野山を含む紀伊半島が隆起したということでした。それで断層ができたとのこと。で、地質調査の結果でも当然、海の底にあった地層が含まれているわけですね。で、相ノ浦も、隆起途中で海が残っているときに命名されたと一旦、思ったのですが、それはないですね。人類の生存以前の話ですから。すると縄文海進のとき水没していたのではと飛躍したのですが、その当時の日本列島像が紀伊半島ではよくわかっていません。こんど調べてみたいと思います。

 

いつの間にか2時間以上経過しています。疲れもとれたようで、この辺で終わりとします。