私は子供のころから飛行機が大好き!数えきれないくらいの模型飛行機を作っていた。
そんな中、今はほとんど見なくなったが、ワイヤー二本でエンジン付の模型飛行機を操作するUコンというものに、私はおおいにハマった。
当時、そのUコンの全日本チャンピオンを毎年のように勝ち取る方がいらっしゃり、子供のころの私の憧れだった。
佐々木正司氏という方だ。
佐々木さんは、大学時代にグライダーのライセンスを取得し、のちに鳥人間大会の滑空機部門の有力選手となった。
私が中学生になるころ、テレビで「びっくり日本新記録」とう番組が始まり、この企画の一つとして、琵琶湖で自作の飛行機の競技が開催された。
これが今の鳥人間大会の前身となった。
中学生だった私ではあったが、この競技に大いに興奮し、そして、夢中になった。
第一回目の優勝者は、ハンググライダーのベテランパイロットだった岡良樹氏であったが、この機体を設計者は、かつて一式陸攻を手がけた本庄氏であった。
時は進み、私が高校2年の時、雑誌に鳥人間大会の記録が、とうとう100メートルを超えたという記事が掲載された。
私はまたも大いに興奮した。
この記録を出したのは、鈴木正人氏であり、当時は日大理工学部の学生であったが、のちに、鳥人間大会での人力飛行機を大きく進歩させることになるエアロセプシーを設
立することになる。
「鳥人間で100メートルを超えた!」
この出来事に、私はたまらず次の年に、実際に琵琶湖へと足を運んだ。
少ない小遣いを握りしめ、各駅列車にのり、はるばる琵琶湖へとたどり着いた。
当日は残念ながら雨であったが、それでも、競技は行われた。
この年は悪条件もあり、新記録は出ず、ハンググライダーを改造した機体で参加した菊池守男氏がその優勝を勝ち取った。
高校卒業後、航空関係の学校へと進んだ私は、とうとう機体の設計者としてこの大会に参加した…。
あの頃はすべてのことが刺激的で、そして、楽しかった。
夢中になってやっているうちに、いろいろなことをどんどん吸収し、みるみる成長していった。
そんな青春時代を経験し、そして、30年の月日がたった。
第一回目の優勝者だった岡良樹氏は、長年鳥人間大会の審査員をされていたが、そろそろ引退したいということで、その後継者に私が
抜擢された。
そして、私はJHF(日本ハング・パラグライディング連盟)の代表として、鳥人間の審査員を仰せつかった。
実は、JHFにはもう一人鳥人間大会の審査員の方がいらっしゃるのであるが、その方は、私が初めて琵琶湖へと行った時の、雨の大会での優勝者である菊池守男氏なのである。
そして、そんな審査員の方たちの中に、子供のころUコン日本チャンピオンだった佐々木正司氏が、現在プラットフォームでの最終検査員としていらっしゃる。
また、100メートルを最初に超え、エアロセプシーを設立した鈴木正人氏が、大会全体の解説者としていらっしゃる。
私は今、私自身の人生に影響を与えた、このような方々と共に、鳥人間大会で仕事をしている…。
このことは、今さらではあるが、とても不思議な出来事のように感じるのである。
私は、鳥人間は「王道を行く大人の遊び」と考えている。
過去、この「遊び」にハマった若者たちの多くは、そののち世の中の第一線をいく技術者へと成長している。
鳥人間で極限設計を学んだことが、大きな経験となっているからだ。
いま、私のもとへ、昔の私と同じように、この鳥人間大会に夢中になっている若者が訪ねて来てくれる。
彼らは、一人一人、大きな可能性を秘めていると私は思っている。
私がかかわる若者たちは、まず間違いなく次の日本を背負うような素晴らしい技術者となっていくであろう。
だからこそ、そんな若者一人一人を大切にしなければいけないと私は考えている。
彼らもまた、若い時の私と同じように、様々なことに挑戦し、そして、多くの人生を変えるような素晴らしい方と巡り合うことだろう。
時がたち、そんな若者たちがそれぞれの人生を歩み、その結果、どれだけ大きくなっていってくれるか。それが楽しみである。
さて、明後日から第40回鳥人間大会が今年も琵琶湖で開催される。
今年も、頑張って自分に与えられた仕事をこなしたい!
そんな中、今はほとんど見なくなったが、ワイヤー二本でエンジン付の模型飛行機を操作するUコンというものに、私はおおいにハマった。
当時、そのUコンの全日本チャンピオンを毎年のように勝ち取る方がいらっしゃり、子供のころの私の憧れだった。
佐々木正司氏という方だ。
佐々木さんは、大学時代にグライダーのライセンスを取得し、のちに鳥人間大会の滑空機部門の有力選手となった。
私が中学生になるころ、テレビで「びっくり日本新記録」とう番組が始まり、この企画の一つとして、琵琶湖で自作の飛行機の競技が開催された。
これが今の鳥人間大会の前身となった。
中学生だった私ではあったが、この競技に大いに興奮し、そして、夢中になった。
第一回目の優勝者は、ハンググライダーのベテランパイロットだった岡良樹氏であったが、この機体を設計者は、かつて一式陸攻を手がけた本庄氏であった。
時は進み、私が高校2年の時、雑誌に鳥人間大会の記録が、とうとう100メートルを超えたという記事が掲載された。
私はまたも大いに興奮した。
この記録を出したのは、鈴木正人氏であり、当時は日大理工学部の学生であったが、のちに、鳥人間大会での人力飛行機を大きく進歩させることになるエアロセプシーを設
立することになる。
「鳥人間で100メートルを超えた!」
この出来事に、私はたまらず次の年に、実際に琵琶湖へと足を運んだ。
少ない小遣いを握りしめ、各駅列車にのり、はるばる琵琶湖へとたどり着いた。
当日は残念ながら雨であったが、それでも、競技は行われた。
この年は悪条件もあり、新記録は出ず、ハンググライダーを改造した機体で参加した菊池守男氏がその優勝を勝ち取った。
高校卒業後、航空関係の学校へと進んだ私は、とうとう機体の設計者としてこの大会に参加した…。
あの頃はすべてのことが刺激的で、そして、楽しかった。
夢中になってやっているうちに、いろいろなことをどんどん吸収し、みるみる成長していった。
そんな青春時代を経験し、そして、30年の月日がたった。
第一回目の優勝者だった岡良樹氏は、長年鳥人間大会の審査員をされていたが、そろそろ引退したいということで、その後継者に私が
抜擢された。
そして、私はJHF(日本ハング・パラグライディング連盟)の代表として、鳥人間の審査員を仰せつかった。
実は、JHFにはもう一人鳥人間大会の審査員の方がいらっしゃるのであるが、その方は、私が初めて琵琶湖へと行った時の、雨の大会での優勝者である菊池守男氏なのである。
そして、そんな審査員の方たちの中に、子供のころUコン日本チャンピオンだった佐々木正司氏が、現在プラットフォームでの最終検査員としていらっしゃる。
また、100メートルを最初に超え、エアロセプシーを設立した鈴木正人氏が、大会全体の解説者としていらっしゃる。
私は今、私自身の人生に影響を与えた、このような方々と共に、鳥人間大会で仕事をしている…。
このことは、今さらではあるが、とても不思議な出来事のように感じるのである。
私は、鳥人間は「王道を行く大人の遊び」と考えている。
過去、この「遊び」にハマった若者たちの多くは、そののち世の中の第一線をいく技術者へと成長している。
鳥人間で極限設計を学んだことが、大きな経験となっているからだ。
いま、私のもとへ、昔の私と同じように、この鳥人間大会に夢中になっている若者が訪ねて来てくれる。
彼らは、一人一人、大きな可能性を秘めていると私は思っている。
私がかかわる若者たちは、まず間違いなく次の日本を背負うような素晴らしい技術者となっていくであろう。
だからこそ、そんな若者一人一人を大切にしなければいけないと私は考えている。
彼らもまた、若い時の私と同じように、様々なことに挑戦し、そして、多くの人生を変えるような素晴らしい方と巡り合うことだろう。
時がたち、そんな若者たちがそれぞれの人生を歩み、その結果、どれだけ大きくなっていってくれるか。それが楽しみである。
さて、明後日から第40回鳥人間大会が今年も琵琶湖で開催される。
今年も、頑張って自分に与えられた仕事をこなしたい!