外科医 アンチエイジングに目覚める!?

目指そう サクセスフル・エイジング !

抗糖化 で 減らせAGEs 

炭水化物も要注意    

理想と現実の狭間で

2008-11-11 16:28:04 | ひとりごと 医療系
当ブログの重要点はこちらにまとめてあります。なお、図表および内容の引用は固くお断りいたします。



いいなぁ、徳永先生。

目指していた医療をやれるというのは、羨ましい限りです。



「俺はいったい何をやってるんだろ?」

との、筆者自身への自問自答は、益々激しく心に渦巻いている。




『「医療」は金儲けの手段であってはならない』

『医者が自分の生活のため (稼ぐため) に診療するようでは、ダメだろ』



筆者の持論・・・。




野の花の人々 第15回 分かりますかあ

を読んで、潤んだ目で北に流れる雲を、紫煙の向うに眺めながら、

学会の準備できてないなぁ・・・・・、

今夜も当直か・・・・・

と、ため息をつく。





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涙腺が緩むのは疲れの所為?

2008-11-09 14:00:09 | ひとりごと 医療系
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土曜日の朝6時半に起きてから、31時間半が経過。

この間、睡眠は半時間ほど。 結構キツメの当直であった。

日付が変わってからの救患は、3時半頃の救急搬入のみ。



しかし病棟では、0時1分の死亡診断書作成を筆頭に、

フレッシュな下血、 頻脈発作、 術後のイレウス疑い、が

次々と発生のため上の階へ、下の階へとテンヤワンヤ。



ふとラウンジを見ると、ベンチで休まれている方がいる。

あぁ、血圧低下中の患者さんの家族だ。ご苦労様。

でも、最期の時に家族が間に合うというのはとても大切なこと。


様々な事態が一段落して医局に戻る。ソファーに身を投げ出し「最期の時」に思いを巡らす。


そうだ、鳥取に行こう!


ふいに思い付いた。ソファーから身を起し、直ちに行動に移った。


「野の花診療所」と打ち込み検索。



はじめて徳永先生の文章を目にしたのは、いつだったか?

確かあれはアップジョンという製薬会社のスコープという雑誌に連載されていた。

先生が鳥取赤十字病院内科に勤務されていた時のもの。

京都市内の往診診療で知られていた病院の医局で、読んでは何度も頷いたものだった。



野の花診療所」とは19床の有床診療所。最期の時を過ごすための場所。

実を言うと、この診療所は筆者の理想とする終末期医療と、ほとんど違わない。

これを実現された徳永先生という方、ほんま、えらいわぁ~、すごいわぁ!!


そして、その文章。 笑いあり、涙あり。


今日も涙腺が緩んだのは、当直の疲れの所為だけではないと思うのです。


どなた様も、ぜひ、お読みになって下さい。

そして我々にとって、一番確実なものなのかを、再確認下さい。


徳永進先生の連載エッセイをリンクしました。以下をクリックしてどうぞ。

野の花の一日 第1回~第30回


野の花の一日 第31回~第70回


野の花の人々 第1回~第43回





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頚椎症性神経根症

2008-11-04 12:33:49 | ひとりごと 医療系
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大学の医局人事によって、結局6年間過ごすこととなった勤務先への通勤に、

京都市内から西へ向かう国道9号線を使うようになったのがちょうど10年前の4月。


移り行く季節は、車窓からの日々の楽しみ。


あちらこちらに点灯し始めたように見えるのはコブシ?

薄紅もやがて満開を迎えていく。

そうして次第に、山々は笑みを増していく。

点々とした薄紫に目をやれば、山ツツジ。

窓を開けて走れば、緑滴る山々からの蝉時雨。

稜線の彼方、青を増した空に立ち昇る入道雲。


やがて気温も落ち着くと、山々もそろりそろりと、お粧しを。



京都市内が穏やかな秋の朝陽に包まれていたある日。

いったい何なんだ!

京都縦貫道の新老ノ坂トンネルの出口が近づいた時のこと。

その先にあるはずの、いつもの見慣れた景色が見えない!


なんと、トンネルの先に拡がっているのは一面の乳白色


道といわず、山といわず、深い霧の中。

いつも縦貫道から眺める亀岡の町並みも、すべて霧の中に沈んでいた。



朝陽に溢れた世界から一転、先の知れない霧の真っ只中へ。

こんなビックリの体験を初めて経験してから、ちょうど10年が経った。



秋の深まりと共に深い朝霧に覆われるのが、

いわゆる 口丹波 と呼ばれるこの辺りの特徴であることを後になって知った。

そしてもう1つ知ったことは、「朝の深い霧は、昼頃からの晴天を約束する」ということだった。



さて、その勤務先で自らの身体について明らかになったのが、「頚椎症性神経根症」という病名。

今から7年ほど前のことになる。両手指の痺れが気になり、整形外科の教授に診て頂いた。

レントゲン写真でみると、頚椎の椎間孔が狭くなっていた。

「ソフトカラーを3ヶ月間、出来る限り巻いていなさい。」と、教授はおっしゃった。

手術中も就寝中も外さずに、2ヶ月ほどで症状は軽快してしまった。



永らく影を潜めていた手指の痺れは、去年夏から再発してきていた。

症状はそれほどきつくなかったため、ソフトカラーはあまり使わなかった。


ところが今年の夏の終わり頃から、両手の痺れは増悪してきた。

痺れが特にひどいのは右の前腕橈側。これだとC6の圧迫が疑われる。

ソフトカラーを巻かねばと思いつつ、暑さに耐えかねてほとんど巻かずに過ごしてしまった。

すると、症状は軽快することなく10月半ば頃より、洗髪時に右腕にだるさと脱力を自覚。

さらには、歯磨きでさえも右前腕に脱力が生じてくる始末。「これはマズイぞ・・・。」



とうとう先週の火曜日、頚部のレントゲンを撮って貰った。

火曜は当直であったが、整形外科の夜診に来られている先生を見込んでお願いした。

もはや 「これは手術しかないですねぇ」 と言われたとしても、

この先生の診断ならば信頼できる、と覚悟を決めたうえでのことであった。




7年前に比べれば椎間孔がいっそう狭くなっているだろうな、などと考えていたのだが

出来上がったレントゲン写真を見て、衝撃が走った。




骨棘の形成など、7年前には認めなかった椎体の変形が著明であった。

なんやねんこれ! バリバリの変形性頚椎症やないか!!

それによって椎間孔の狭小化がいっそう進行しているのだ。

しかもその変形は、第5・6・7頚椎の三椎体にだけ認められる。

そやけど、なんでここだけがなるんや?



夜診の整形外科の先生は 「首に衝撃を受けるようなスポーツとかは?」 と訊ねられた。

「いえ、していません。」と答えながら、遠い日々のことが思い出された。



「7m位の高所から真っ逆さまに転落したことはあります。」



高校2年生の時、アマチュア無線のアンテナを付ける鉄塔から転落。

近くにあった鉄製の階段の手すりで、まず腰を強打し、階段部で頭頂部を強打

あとから調べると、階段部の鉄板は凹んでいて衝撃のほどを物語っていた。

救急車で搬送される騒ぎとなったが、諸検査で異常はなかった。

ただしそれ以後、頚部の鬱陶しさは梅雨時のお馴染みの症状となった。



恐らくその時に、後縦靭帯に軽微な損傷が発生したのが原因でしょう。」



原因は心掛けの悪さかと思い始めていたところに、救いとなる整形外科の先生の言葉であった。

「MRIも撮っておいたほうが良いでしょう。」とのこと。

結局MRIでは、椎間板ヘルニアの存在も確認された。


そして肝心のこれからの治療方針が告げられた。

症状が進行しない限りは、手術にはなりません。牽引が必要。あるいはソフトカラー。





朝の深い霧は、昼頃からの晴天を約束する」の言葉は、ほとんど間違いなし。

それほど霧が深くなかった今日は、早くも10時くらいから晴天となっている。

はかなげな水色に、いくつもの白い造形がゆったりと西から東に流れている。


そして先週、新しい言葉を知ることとなった。

頚部への衝撃は、30余年後からの変形性頚椎症を約束する



すでに半ばは過ぎた我が人生。あと、どれくらい残っているのかな?

どうであれ、とても 「錦秋」 とは呼べないな、この頚椎じゃ。


う~ん、ブラームスのクラリネット五重奏曲が聴きたくなってきた。

そうだ、ウラッハのにしよう。





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