ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

名古屋の夜

2023-12-17 12:50:28 | 生活
名古屋の夜とは、筆者が2023年の11月に過ごした名古屋での夜のことである。TOKYOで米国駐在ビザの更新と、勤め先の中間管理職研修を終えた週の金曜の夜に、筆者は名古屋に居た。名古屋駅で降りるのは学生時代に栗尾和尚の宅を訪ねて以来なので、おおよそ20年ぶりになる(*栗尾和尚の回を参照のこと)。中間管理職理研修で同席した大阪のニシダと話し足りずに思わず一緒に新幹線に乗り込み、なんとなく名古屋で下車したのだ。似非30代独身日本式サラリーマンは孤独だが身軽な小金持ちなので、ニシダのように子供が待つイエに一生懸命帰らなくてもいい。名古屋駅のコンコースで宿を探し、 “くれたけイン久屋大通り” を予約した。


この日の夜の記憶は以下のとおりだ、参考になりはしないだろう。


①名古屋駅からタクシー
名古屋駅からタクシーで“くれたけイン久屋大通り”まで向かう。名古屋市街は車道と歩道が広い。そしてさすが城下町だけあって歴史がありそうな名前の通りが連続する。運転手の話によれば、2年に渡る“三密運動”の結果、外で遅くまで酒を飲む人がめっきり減り、“終電過ぎてからが稼ぎ時”のタクシー業界は売り上げが戻らないのだそうだ。そのうえ『ライドシェア』なる自由化にさらされる気配を帯びてきて、業界の先行きは暗いとの話であった。その他に“岐阜までは名鉄の特急で20分で行けてしまうこと”や、“赤提灯の飲み屋はホテルから南へ歩けば沢山ある”などといった有益な情報を得た。



②くれたけイン久屋大通
くれたけインが面する通りは“久屋大通”といって、対向車線の間に大きなパブリックスースがあるたいそう立派な通りでびっくりする。 “きっと江戸時代には名古屋城の大手門に繋がる大通りだったのだろう”と思い地図を見ると、通りは名古屋城の位置とは若干ずれている。そこで歴史を見ればこの通りは名古屋城とはまるで関係がなく、空襲で焼き尽くされた名古屋市街の復興時に火災被害防止の目的で大きな幅員が取られたのだという。それが今では『100メートル道路』として名古屋市のメインストリートとなっているのだ。ホテルの場所から通りの先を眺めると、大きな電波塔が見える。これは“みらいタワー”と言うのだそうだ。1950年代に建てられた国の文化財にも指定されている由緒のあるタワーらしいが、日本のその他のタワーに比べてマイナーな存在であることは否めない。だって似非30代日本式独身サラリーマンの筆者は今の今までその存在を知らなかったのだから。そいういところに名古屋の宿命を感じざるを得ない。ちなみにこのタワーについて調べていたら、近藤陽洲さんという面白い男性を発見したので興味のある読者は調べるとよい。


③盛り場へ
筆者は着替えを済ませてすぐにホテルを出て、町を探訪しながら酒場を探す。“盛り場は南方にある”との運転手の情報をもとに歩きだすも、何故かネオンは遠い。そう、筆者はてっきり名古屋駅方面を南と思い込み、しばらく明後日な方向を徘徊していた。東海道新幹線は愛知県を南北に通っているので、筆者は西進していたのだ。それでも自然にネオンの光に惹かれていき、なんともなしに名古屋随一の繁華街“栄”にたどり着いた。しかし金曜夜の栄は何だかギラギラしていて、似非30代独身日本式サラリーマンがひとりで気軽に入れるお店は見つからない(勇気を出して入った地下の鮨屋は満席)。それに路上にはジャージファッションの若者が多くて何だか怖いので、筆者はいそいそと盛り場を退散し、コンビニで総菜を買ってホテル飲みでもすることに決めたのだった。



しかし帰り道を少し迷っているうちに、“味のかつら”という何とも安心感のある酒場に遭遇した。金曜夜というのに客足は少なく、そこそこ広い店内には大学教員と思われる5~6人グループと筆者のみである。筆者はヱビスビールの大瓶から始めて、豊富なメニューの中から土手煮、味噌田楽、目刺し、焼き椎茸にから揚げ、そしてホタルイカ沖漬けとハムカツと、厳選してつまみを選び、“通”を装った。ヱビスビールの後は“蓬莱泉”という三河の酒を、冷や燗で愉しんだ。至福の時間である。あまりに嬉しくなったので釣りの千円札をチップとして残して店を後にすれば、女将さんが『お客さん、お釣り忘れてますよ!』と駆けてきた。以上までが、ここで書ける範囲の2023年の名古屋の夜である。

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