セリビアン・セメトリ―とは、コルマ市にある東欧セルビア地方から米国へ移民してきた人々のための墓地である。今回もコルマ市の墓めぐりの記録だ。最近は酒を飲みながら、YouTubeで昭和のやくざ映画や平成のサスペンスドラマを見ている。もう亡くなった平成の俳優が、昭和時代の役柄を演じているのを令和時代に見ていると、何だか頭がこんがらがってくる。モニターの中でニンゲンは、既に半ばタイムスリップを達成しているように思えてくる。
このセメトリ―の特長は以下のとおりだ、参考にしてもらいたい。
①人種や宗教で区分された墓地
コルマの墓苑には全ての人に開かれた共同墓地以外に、イタリア人墓、日本人墓、中国人墓といった人種や、ユダヤ教徒、カトリック教徒などの宗教で区分されたものがある。米国といえばかつては“WASP(白人・アングロサクソン・プロテスタント)の人々がメインストリームだったはずだから、やはりWASPの社会から距離のあるアイデンティティを持った人々は、彼ら用の墓地を作る必要があったのではないかと邪推する。セリビアン・セメトリ―もその類だろうか。ちなみにコルマには、“黒人用(アフリカ系移民)の墓地”というものはないようだ。
②セリビアン・セメトリ―の場所
セリビアン・セメトリ―は、Hillside Blvdという名が相応しい、なだらかな丘陵の中腹を走る道路に面している。このサウス・サンフランシスコ市とコルマ市を結ぶ道路は、南方に市街を見下ろすことができ気持ちがよいし、綺麗に整備された墓苑が並んでいるので、ジョギングや散歩をする人々が多くみられる。セルビアン・セメトリ―は広大な共同墓苑に隣接しているので、車では目立たず通り過ぎてしまうほどだ。しかし糖尿病予防のためにウォーキングをしていた筆者は、その特徴的な墓石の形状にすぐに気が付き、立ち寄ってみることにしたのだ。
③セリビアン・セメトリ―の墓石 その1
セリビアン・セメトリ―は、通りに面した部分は小さいものの、ずいぶんと奥行きがあって、ベイエリアでのセリビア系コミュニティの規模が感じられる。何と一万二千基以上の墓があり、まだ区画に余裕があるのだという。墓石は将棋駒のようなかたちをした腰の高さほどの石板で、頂部に十字架風の石柱が立つものが多い。この十字架風石柱が特徴的だ。十字架“風”と書いたのは、十字形状に、さらに上に短い横棒、低部に左から斜めに下がる横棒が加えられた不思議なかたちをしている。 調べたところこれは“八端十字架”と呼び、ロシア正教やセルビア正教会などの東欧正教会で用いられる十字架で、上の線は罪状が書かれた木札、下の線は足置きを表しているとのことである。その凹凸の多い形状は墓石としては派手な部類に入ると思われる。そしてその特徴的な墓石の前には畳一畳ほどの重々しい石棺風のモノがあるので、“も、もしかしたら土葬なのかな・・・”と空恐ろしい気持ちになる。
④セリビアン・セメトリ―の墓石 その2
しかし将棋盤風の石板には世代の異なる複数(多い場合は5~6名)の名が刻まれているものが目立つ。大き目な石棺ではあるものの、5~6人の身体を入れるには窮屈であるし、次の人が亡くなる度に前の人々のフルボディが入った石棺を開閉するのも想像しにくいので、おそらくは石棺の中に火葬後の骨壺のようなものがあるに違いない。とはいえこのセリビアン・セメトリ― では、日本と同じく“○〇家之墓”システムを採用していることは興味深い。石板には本人の顔写真を載せているものが多い。古い墓には長寿を全うして亡くなった方々でも20~30代の壮年期の写真を載せているものが多いのも発見であった。“老い”が恥ずべきことであったのだろうか。
セリビアン・セメトリ―は1854年にサンフランシスコ市で開かれ、今のコルマには1901年に移ってきたのだという。墓石にはギリシャ文字表記が並び、“ヘルツェゴビナ”“ユーゴスラビア”など故郷の地が刻まれたものも多い。小さな教会のような建屋には東欧風のステンドガラス窓が設えてあって、雰囲気がある。サンフランシスコの乾いた風が吹きすさぶ休日に、東欧気分を少しだけ味わうことができるのでお勧めだ。ハッとするような東欧喪服美人と出会えるかも知れません。