ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

サン・ルイス・オビスポ周辺探訪 その3

2021-09-29 11:59:22 | 生活
 サン・ルイス・オビスポ周辺探訪とは、筆者が2021年のレイバーデイ連休に、カリフォルニア州のやや南に位置するサン・ルイス・オビスポ周辺を探訪した記録である。ソルバングを後にした筆者は今朝来た道を戻る。そのまま戻っても時間を持て余すので、できるだけ寄り道を試みる。246号線のダチョウ牧場は素通りし、101号線と交差する場所でガソリンを入れ、ついでにスーパーマーケットに入って地元ワインを眺めたりして少し時間を潰した。あてはないので、とりあえず来るときに通ったサンタマリアという町に立ち寄ろうと思い101号線を北上する。日本では菅総理大臣が次期総裁選に立候補しないことを決め、河野さん、岸田さん、高市さんに野田さんと、なかなかのガチンコ勝負が繰り広げられる模様だ。党内選挙の方が議員選挙より盛り上がるのだから、野党はいつでも全くの蚊帳の外でかわいそうだ。



この探訪の詳細(のつづき)は以下の通りだ参考にしてもらいたい。



①サンタマリアには何もない
ソルバングから車で30分ほど101号を北上すると、サンタマリアという町がある。“サンタマリア”とはイタリア語やスペイン語などで『聖母マリア』の呼称であり、その響きにはどことなく魅惑的なものがある。グーグルマップからの情報では“何もない”ことがわかっていても、いちおう寄ってみようと思わせるほどの力があった。だから立ち寄ったのだが、果たして旅行者の目を引くものは何もなかった。メキシコ系の人々の多い町で、車線の多いメインストリートにはメキシコレストランやベーカリー、ウェスタンファッションの店などが並んでいるだけだ。メインストリートを東進し続けると町を抜け、そこは広大な農地になっている。サンタマリアは農業の町なのだ。



②ハヤシ・ベジタブルスタンドへ
広大な農地のドライブは気持ちがいいのでそのまま進むことにした。北へ向かえばいずれサン・ルイス・オビスポに着くのだから、よい時間潰しである。サリナスで見た光景と同じく収穫だけは今も人の手が必要なようで、一部の畑ではメキシコ人がたくさん畑でうごめいている。そこで筆者はハヤシ・ベジタブルスタンドのことを思い出した。旅行の計画中にたまたまグーグル地図で見つけた路上の八百屋で、“ハヤシ”という名からきっと日系の人によるお店だと思って記憶していたのだ。サンタマリアの広大な農地で再び検索すれば、それは20分ほど北上したオセアノという小さな町にあるということだったので、そこへ行ってみることにしたのだ。


③ハヤシ・ベジタブルスタンド
1号線はオセアノに入るところで直角に曲がり、それを曲がるととすぐ左手にハヤシ・ベジタブルスタンドがある。そこはいたって普通の野菜果物直売所だが、“ジャパン・クオリティ”の血脈を残している所為か客が後を絶たず、次々に車がやってきている。筆者は野菜・果物の目利きではないが、どれも元気そうだ。大きな看板にはイチゴに顔が描かれたキャラクターが、野菜を抱えてにっこり笑っている。その痘痕だらけの顔は日本人の趣味ではないと思われるが、どこどなく高橋陽一風の画にジャパンを感じる。せっかくだから何か買うものがないかと物色し、ハヤシ特製トマトドレッシングと桃をひとつ購入した。店員は皆メキシコ風で日系の雰囲気は残っていなかったが、唯一レジに立つまだ10代と思われる女店員の目が切れ長で、ややアジア美人の面影があった。『あなたはもしかしてハヤシさんですか?』と聞いてみようかと思ったが、近づけば胸元をざっくりあけたシャツからはけっこうな爆乳が剥き出ていたのですぐに気後れし、タンタンと商品を購入したのだった。かつての日系移民が開いた農場がまだこうして生きている。そこに出会えたことで筆者は少なからず幸せを感じたのだった。




 その後は1号線をふらふら北上し、ピスモビーチなどを探訪しながらサン・ルイス・オビスポへと帰ってきたのだ。なかなか充実した2日目だったと思い満足げに安宿に戻ると、隣やその隣の部屋では結婚パーテイー客のカップルが宿泊しており、女らが派手ないでたちでウロウロしていたので再びモンモンとした。とりあえず疲れをとるために少し眠る。『ハヤシの爆乳娘の夢でも見るかな』と思ったが、特段エロい夢を見ることはなく空腹で目が覚めた。腹が減る限り旅は続く。

サン・ルイス・オビスポ周辺探訪 その2

2021-09-28 11:10:49 | 生活
 サン・ルイス・オビスポ周辺探訪とは、筆者が2021年のレイバーデイ連休に、カリフォルニア州のやや南に位置するサン・スイス・オビスポ周辺を探訪した記録である。サン・ルイス・オビスポの安宿からソルバングへは、101号線を南へ約1時間のドライブだ。前日からの疲れもあったので、午前中はサン・ルイス・オビスポでのんびり過ごそうかとも思ったのだが、今回の探訪で最も有名な観光地のソルバングでは、土曜日の方がイベント事に期待ができると考えたのだ。サン・ルイス・オビスポから小高い丘を一越えすれば道は砂浜沿いになり、海を楽しむ人々のための別荘のような家々が並んでいる。だがそこを抜けて再び内陸へ向かえば、都市の間には山々とワインのブドウ畑や牧草地があるばかりだ。朝は海風の影響で曇っていたが、日が高くなると雲はなくなり晴れてきた。



この探訪の詳細は以下の通りだ参考にしてもらいたい。



①ソルバング
ソルバングの町は、むき出しの黒い木製の梁や柱、白塗りの壁、そして傾斜の大きい三角屋根のメルヘンチックな建屋で統一されていて欧風な雰囲気がある。メインストリートにはデンマーク風のベーカリーや北欧ファッションブランドの店など、観光客相手の店が並んで賑やかだ。もとはといえば19世紀後半から20世紀前半の期間に、経済貧窮から多くのデンマーク人が米国に移り住み、コミュニティを作ったのだという。といっても今のようにデンマークをフューチャーし始めたのは、ロスからほど近い立地も利用した観光産業目的な風合いが強いようだ。要は長崎オランダ村的なものと言ってもいい。それでも一般的カリフォルニアの町とは全く違った風景は楽しいし、この地のデンマークコミュニティ設立に尽力した人の像などもあって歴史を感じつつ、通りを歩いた。



②ミッション・サンタ・イネス
デンマーク風に模された賑やかな観光通りを歩いても、残念ながら孤独な30代独身日本式サラリーマンはその楽しみを他の人々のようには満喫できない。だが東端に静かな教会があった。ソルバングはもともとはスペインカトリック教会の先住民への布教伝道、所謂ミッション・カリフォルニアのための町であり、そのための教会(伝道所)が残っているのだ。先住民へのカトリック布教には残酷で、キリスト教を簡単に嫌悪できる歴史があるのだが、今の教会は喧騒に隣接しているにも関わらず静かで穏やかな姿を残していて、30代独身日本式サラリーマンにはむしろ居心地がよい。ベージュの粘土壁の南欧風建築や十字架に、ソテツやサボテンの中南米風の植物がエキゾチックな魅力を添える。教会は入館料を払えば中も見ることができ、入植当時の様子をうかがい知ることができる。庭園はきれいに整備され、鳥や蝶がのんびりと生活している。カトリックならではの偶像や十字架が盛りだくさんで、当時の彼らの敬虔さと共にややオカルティックな雰囲気も楽しいものだ。小さなギフトショップで買ったしおりにはアッシジの聖フランシスコの画が描かれていた。ウィキによればこの人はフランチェスコ会の創始者とされる10~11世紀のイタリアの修道士で、考え方はやや初期仏教に近いように見える。これが数世紀経後には侵略・殺戮を肯定する考えになるのだから、ニンゲンは永遠に鏡を見ることができないまま滅びゆくのだろうと、そう思う。




③バイキング・ガーデン・レストラン
そしてニンゲンは腹が減る。教会を出れば昼時前だ。食堂が混雑して孤独にさらされる前には食事を済ませようと、教会脇にあったバイキング・ガーデン・レストランに入ることにした。店名、それにレンガ造りの外観や北欧っぽいフォントの看板などがいかにもデンマーク料理のお店だと期待したが、メニューにはハンバーガーやメキシコ料理がずらりと並び、デンマーク料理は数種類あるのみだ。そして店員もヒスパニック系の人々だ。いちおう伝統的デンマーク料理の“BIKSEMAD”というものを注文した。出てきたのは、ハッシュドポテトの上に牛肉と玉ねぎをグリルしたものが載り、さらにその上に目玉焼きが載ったものだ。なかなかおいしくて、デンマークビールと楽しむことができだ。付け合わせはキャベツの漬物とさらにマッシュポテトで、ジャガイモが多めなので見た目よりもヴォリュームがあって腹が膨れた。


 
 デンマークは国民の幸福度がとても高いとのことで、インターネットではいろいろな人がその理由を考えて、書いている。国民全体に競争意識が高くなく、争いを好まずに共存する意識が高いようだ。日本の次に長い歴史を持つ王室もその国民性に一役買っているのかも知れない。だが筆者の予想では、EUに加盟せずに自国通貨を使用していることや、エネルギー・食糧の自給率が高いことから、外部の影響をあまり必要とせずに暮らせる地盤があるのが理由ではないかと想像する。つまり強い国なのだ。強ければ、生活はできるだけ誰とも関わらない方が幸せだ。弱い30代独身日本式サラリーマンはどうしても、『ソルバングは土曜日に行けば楽しいかな・・』と、外部に期待したりするから厄介だ。期待するがゆえに傷つく。その後も繁華街の本屋や雑貨屋や靴屋を見て回ったりしたが、ほどなくしてすることが無くなり、サン・ルイス・オビスポに帰ることにした。まだ夕暮れには時間があるので、帰り道はいろいろと寄り道しようと決めた。

サン・ルイス・オビスポ周辺探訪 その1

2021-09-26 09:19:14 | 生活
 サン・ルイス・オビスポ周辺探訪とは、筆者が2021年のレイバーデイ連休に、カリフォルニア州のやや南に位置するサン・スイス・オビスポ周辺を探訪した記録である。アメリカの祝日が絡む週末は、航空券や宿泊費が高くなるし、何せ3日間しかないのであまり大きな旅行には向かない。とはいえ3日間を酒と共に暗い長屋で過ごすのは気が滅入るので、今回はサン・ルイス・オビスポに滞在することにし3泊の宿をとった。京都大学霊長類研究所出身の山極 壽一総長によれば、旅とはゴリラの雄が新たな繁殖のために群れを離れる行為と無縁ではないという。メスの方も『転校生が一瞬モテる』という現象に見られるように、よその群れからの雄に惹かれやすいのだという。つまり30代独身日本式サラリーマン、よそへ出かけないわけにはいかないのである。


この探訪の詳細は以下の通りだ参考にしてもらいたい。


①金曜に仕事を終え、サン・ルイス・オビスポへ
三連休をなるべく長く活用するために、筆者は金曜の仕事終わりに現地へ向かうことにしていた。だいたい連休前の金曜は皆早めに仕事を切り上げるのが常であるため、夕暮れ前には出発する算段をしていたのだ。ところが今年は業務がややドタバタしてしまったせいで、予定よりも幾分遅い時間の出発となった。GPSが示す到着予定時刻が夜の22時近くになってしまい、ディナーをサン・ルイス・オビスポで楽しむ予定だった筆者は気落ちしたが、ふんばってカローラに乗り込んだ。空腹や疲労を紛らわせるために、NHKの“みんなでひきこもりラジオ”で現代の引きこもり諸氏の生の声を聴きながら101を南へ向かったのだった。栗原望アナウンサーの引きこもり諸氏への悩みながらの寄り添いには大変引き込まれるものがある。


②宿に着く
ついに空腹に耐えきれずに通りすがりのマクドナルドのドライブスルーに入れば、そこはけっこうな混雑であった。15分ほど待ってチキンナゲットセット+マックチキンを注文するも、ナゲットセットの注文が通っておらずマックチキンとコーヒーのみが出されたが、もう戦う気力も失せていたので我慢して先を急いだ。マクドナルドを出れば空は急に暗くなり、星空が近い。目的地のサン・ルイス・オビスポの安宿バガボンド・インは高級アミューズメントホテル、マドンナ・インのすぐ隣で、ややみじめな気持ちになったが仕方がない。フロントにはヒッピー風のロン毛若者がおり、そいつに筆者が着ていた仏陀Tシャツを褒められて気をよくしたものの、近場で開いている食堂がチキンウイング屋しかなく、チキンウイングにビールを二杯飲んで宿に帰り、そのままぐうぐうと寝込んだのだ。



“みんなでひきこもりラジオ”では、普段の生活では触れ合うことのできないヒキコモリ諸氏の生の声を聴くことができる。筆者と同じ中年男性も多く、日本社会にどんよりと漂ううっすらとした闇を垣間見る。『今日の目標は“猫のエサを買いに行くこと”だ』や、『もう数ヵ月風呂に入っていない』、『次はもうこのラジオを聞いていないかと思っていた』などの、割と言いにくいであろう内容を生の時空間で同じ境遇の人と共有できることで、彼らは安らぐと思う。昨今のNHKは叩かれ気味だが、こういった社会福祉的な役割も果たしているものだ、特にラジオでは。『では、皆さん!またこうして“生きて”会いましょう!』 そういって番組をしめた栗原アナの言葉に筆者もまた勇気づけられました。そして翌日は、朝からデンマーク風の風景を残した町、ソルバングへ出かけたのだ。

オークヒル・メモリアルパーク

2021-09-14 13:09:33 | 生活
 オークヒル・メモリアルパークとは、サンノゼ市の共同墓地である。先日のロス・ガドス・メモリアルパーク訪問時に、筆者の故郷(の近く)からその昔米国に渡った大田亀吉一家の墓を見つけ、いちおう町の役所に連絡をしてみたという話を記載した。その後、町役場から返事があって“移民の人々の記録は町ではなく県で管理しているので、県の管轄へ報告した”との内容であった。大したことのないやりとりで終わってしまったが、それでも何となく“人とのつながり”を感じた筆者は、可能性を求めてさらなる墓を巡ることにしてみたのだ。墓には出会いがある。すれ違いがない。



この墓参りの詳細は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。



①経緯
上に挙げた経緯に加えてオークヒル・メモリアルパークを参ることにした理由がもうひとつある。これもまたサンノゼ日系アメリカ人ミュージアムを訪ねた際に購入した本に、“サンノゼジャパンタウンの人々の多くはオークヒル・メモリアルパークに埋葬されている”との記載があったので、「であるなら・・・参らねばなるまい」と思いたったのだ。もちろん“普段から暇をしている”というのが最も大きな理由なのは、読者諸氏の知るところであろう。


②オークヒル・メモリアルパーク 立地・雰囲気
オークヒル・メモリアルパークはサンノゼ市南部にあり、カルチャー・アヴェニューにある入口から車を乗り入れるとその広大さがすぐにわかる。ウィキペディアによればその面積は300エーカー(1.2平方キロ、と、東京ドーム28個・・・)もあるそうだ。南西方向に緩やかに上る傾斜地に延々と墓石が並んでいる。園内は車道が整備されているのですべて見て回るには車がよい。ちょうど筆者はポンコツカローラを修理に出しており、折からの車不足の影響で、需要の少ないシボレーのピックアップトラックを代替車にあてがわれていたので、車高の高いトラックでサファリ気分での楽しい墓見物となった。


③オークヒル・メモリアルパーク 立地・雰囲気
そこはあらゆる人種や宗教の人々の墓が立ち並ぶ、墓の万国博覧会状態になっている。エリア毎に庭園のデザインが異なっていて、観音像や仏像やキリスト・マリアなどの像が並び、墓石の種類も変わっていって面白い。非常に風通しの良い開放的な雰囲気で、愛する人の墓の前に椅子を据えて音楽を聴きながら過ごす人たちなどが散見される。よりじっくり観察すれば、各文化圏の人々の墓との付き合い方も見て取れて楽しいかもしれない。南端の丘の上からはサンノゼの町が一望できて特に気持ちがよく、そこに建つキリスト像はリオデジャネイロに来たのかと少しだけ錯覚するほどだ。さらに丘の上には大きな原爆ドームに似た建物があり、その中は最近日本でも流行の兆しがあるコインロッカー式の墓がずっしりと入っている。トイレも整備されているのでここで用を足すことができた。


 

 日系アメリカ人の墓地は丘のふもとの園の中央付近にある。相当な数の墓石があり、本当にたくさんの人がアメリカに移り住んだことを実感するとともに、勤勉で薄給を気にしない日本人労働者がどんどん白人労働者の職を追いやり、その後の排斥運動につながっていった事実もわかるようだ。やはり日本の出身地を明記した墓石が多く、移り住んだ後にも日本の故郷に誇りや懐かしさを抱き続けた人々の思いを感じ取ることができる。九州の人が多いようだ。合理的に考えるならば墓など意味がない。死ねばそれまでだ。30代独身日本式サラリーマンならなおさら意味がない。でも、ある。そこかしこにある。これだけ科学が発達しても、人は墓を作らずにはいられない。ニンゲンが墓を必要としなくなったとき、いったい何が起きるだろうか。そんなことを考えながら、オークヒル・メモリアルパークを去った。

セラム・レストラン&カフェ

2021-09-13 00:29:17 | 食事
 セラム・レストラン&カフェとは、サンノゼ市にあるエチオピアレストランである。その昔、同じサンノゼ市のワリヤ・エチオピアンレストランを紹介したことがあった。ワリヤの方は、エスニック料理を気楽に楽しみたい白人層をも対象にした割とキャッチーな雰囲気を持っていて、当時の半端な30代前半独身日本式サラリーマンの筆者にも入りやすいものであった。しかしすっかり脂が乗り切った、30代“後半”独身日本式サラリーマンになった今では、もうあんな大衆店には恥ずかしくて入れないというものだ。ゆえにセラム・レストラン&カフェ、である。



この食堂の特長は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。


①エチオピアとサンノゼ
サンノゼは他のベイエリアの町に比べてエチオピア料理屋がとても多いので、『きっと大きなコミュニティがあるに違いない』と思い調べてみれば、サンノゼ市内に“エチオピアン・コミュ二ティ・サービス”という組織の事務所があった。そちらのウェブサイトによれば、1980年代のエチオピアの政変によって移民が増え、今(ウェブサイト記載当時)は二万五千人ものエチオピア人がサンノゼ周辺に暮らすということだ。ウィキによれば1975年に設立された社会主義の流れをくむ軍事政権が1987年に選挙により廃止され、エチオピア労働者党のメンギスツ・ハイレ・マリアムによる一党独裁が始まり、彼による粛清政治で難民が大量発生したとの記載がある。我ら30代独身日本式サラリーマンが何不自由なく生まれた80年代のエチオピアの話である。


②外観や立地
セラム・レストラン&カフェはウィンチェスター通りの商業区画内にある。とはいえその区画はディスカウント系のスーパーやコインランドリーなど、どちらかといえば貧民対象の店が並んでおり、駐車場には乞食風の人がよくウロウロしているのであまり雰囲気はよくない。そのうえセラム・レストラン&カフェの店の前のテラス席にはいつでも黒人男共がたむろして談笑しているので、なおのこと入りにくい雰囲気が出ている。しかし30代後半独身日本式サラリーマンは、こういった場所に赴いてこそ胸を張って生きられるものだ。




③入店し注文する
思い切って店に近づくと、はたから見ているほどの悪い雰囲気はない。たむろする黒人客も気のよさそうな人々で、ちょうど餃子の王将に黒人男性がノソリと入ってきたときの我らの反応と同じように、話しかけてきたりジロジロ見てきたりする。食事をしている人もいれば、仕事帰りにコーヒーやビールをちょっとだけ飲みながら談笑している人もおり、日本の酒場のような雰囲気がある。とはいえ筆者は今のところテイクアウトでしか利用していない。予想通りメニューの記載が不親切なので何を頼めばいいのかわからないが、そこは「エイや!」で頼んでみるしかない。“ティベ”という名の肉類の野菜炒めや、豆や野菜の煮込みなどのコンボなど、注文すると必ず大量のインジェラと一緒に出され、包んで食べるのだ。ワリヤのときの記憶よりスパイス臭が少なく食べやすいし、インジェラの酸味にも嫌味を感じなくなったのは、自分の味覚が変化したせいかも知れない。とにかく美味しく食べられ、ビールと相性がよい。



 さて、筆者の長屋の近所にはセラム・マーケットという名のエチオピアスーパーもあるので、 “セラム”とはきっとエチオピア語(アラハム語というらしい)では縁起のいい言葉なのだと予想して調べるも、これはエチオピアで、エチオピア人学者によって発見された幼い猿人の化石人骨に命名されたものだそうだ。330万年前のものだという。この猿人幼女は、『店の名前にしよう』と思われるほどにエチオピアでは馴染みのある猿人なのであろう。今日、衛生的もしくは経済的理由から土葬は少なくなってきているが、30代独身日本式サラリーマンがこれから有名人になる数少ない手段のひとつとして土葬に賭けてみるのもよいかも知れない。ただししっかりと名札などを付けて土葬されないと、発掘後には別名になってしまうので気を付けたい。