ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

フィラデルフィア探訪 その2

2022-09-25 21:19:59 | 生活
フィラデルフィア探訪とは、筆者が出張の合間を縫って探訪したペンシルバニア州フィラデルフィア市の記録である。アフリカン・アメリカンミュージアムを跡にした筆者は、チャイナタウンへ向かい北上した。6月のフィラデルフィアの気温は、ずんずん町を歩くには長袖シャツでは少し暑いくらいで、それども南北の通りには爽やかな風が通り、それが街路樹の緑を揺らして心地がいい。とはいえ深夜便の疲れがひしひしと押し寄せていたので、昼飯を食べたらすぐに宿へ行って眠るつもりであった。だが、チャイナタウン周辺の食堂がオープンするにはまだ少し時間があったので、もう一度デラウエア川方面へ歩いてみることにした。


この探訪の詳細(のつづき)は以下の通りだ。参考にしてもらいたい。



①ベンジャミン・フランクリン橋へ向かう
デラウェア川に架かる、ペンシルバニア州とニュー・ジャージー州を繋ぐベンジャミン・フランクリン橋は、フィラデルフィア市のシンボルの一つであろう。そう思い、橋上からの街の景色を見ようと、ずんずんと橋に向かって歩いていた。だがどこかで道を逸れたようで、橋のたもとを真横に見ながら河畔へと下りてしまう。この辺りはむかしの風景が残されるエリアのようで、道路は灰色の石畳、両側には赤レンガの四角い窓の建屋が迫り、洒落た空間になっている。特に時折現れる南北の細い小路の様子が、現在のアメリカでは見られない古都の雰囲気が出ていて楽しい。このエリアはアメリカ人にとっても観光名所の様で、洒落たカフェや土産物屋が点在し、“かっぽかっぽ”とゆっくり走るツアー馬車に乗った若夫婦や老夫婦が風景を楽しんでいた。



②桟橋からのベンジャミン・フランクリン橋
坂を降りきる少し手前で、デラウエア川を眺めることができた。河畔からは桟橋がいくつも伸びている。かつては各所から帆船や蒸気船で輸送された物資の荷下ろし場として活気づいていたであろう桟橋群は、今では公園になっていたり、レジャーボートの係留場になっているようだ。公園になっているベンジャミン・フランクリン橋のたもとの桟橋で、筆者はベンチに腰を掛けてしばらく休んだ。日曜の午前中は、ジョギングやヨガを楽しむ都会人で賑わいを見せている。そして下方から間近に見る鉄橋は迫力がある。1926年に完成したこの吊橋は、今は修繕工事が必要なようで仮設の足場で一部が覆われていた。




③もと来た道を戻り、チャイナタウンへ
ベンジャミン橋を背に、もと来た道を戻る。かなり疲れが出てきて、レンタサイクルなどに挑戦しようと思ったりするも、システムが理解できずに諦めたりしながら歩いて、やっとこさチャイナタウンへたどり着いた。立札によるとこの南北2ブロック、東西3ブロックほどの中華街は、中国では清朝末期にあたる1870年に設立されたものだという。町の様子を歩いてみるに、サンフランシスコやニューヨークの中華街のような新しい活気が少なく、昔ながらの雰囲気そのままの印象がある。中華スーパーにもベイエリア中国人には人気の日系商品がほとんどない。戦後にフィラデルフィアの都市機能が衰退した影響で、母国からの新たな文化流入が少なかったからかも知れない。蘭州拉麺や点心を謳う食堂が多く、中国でも特定の地域からの人々が多かったことが想像できる。



腹は減ったものの胃腸の調子はよくないので、脂っこい中華は避け、チャイナタウンの正門外にあったベトナム料理屋で、青島ビールを飲みながらフォーを食べた。さて、今回の出張旅行は経費削減を目的に、ただのアパートを宿泊施設にした民泊っぽい施設を予約していた。ダウンタウンの少し北の薄汚いエリアのアパートだ。そこは早めのチェックインができず、疲労困憊かつ青島ビールで思の外酩酊した筆者は時間を潰すのに大変な思いをしたのだった。2022年の初夏、安部晋三元首相の銃殺やエリザベス女王の崩御の数ヵ月前のことである。

フィラデルフィア探訪 その1

2022-09-19 03:58:38 | 生活
 フィラデルフィア探訪とは、筆者が2022年の6月中旬に訪ねたペンシルバニア州フィラデルフィア市の記録である。フィラデルフィア市にはコネチカット州在住時、ワシントンDC探訪の帰り道に立ち寄ったことがあったが、ものの数時間ではその魅力を堪能できなかった。憶えているのはロッキー像と、シェルター化した美術館脇の空き地に居た大量の乞食群だけである。今回は再挑戦だ。実は私用ではなく会社の出張で訪れたのだが、あえて週末の便を選んだり、上手に雲隠れしたりして自由時間を持つことができた。今回は古都フィラデルフィアの魅力を30代独身日本式サラリーマンに伝えたい。暇なら訪れる価値のある町だ。



この探訪の詳細は以下の通りだ。参考にしてもらいたい。



①フィラデルフィア空港
サンノゼ空港を土曜日の夜8時に出発した。期待していた乗り継ぎのシアトル空港での夕食だったが、アラスカ航空のターミナルには食堂が一軒しかなく、それが大混雑で入れなかった。しかたなく売店で砂糖をまぶしたピーナツ一袋買い、それを深夜の機内でまるまるポリポリと平らげた。おそらくその所為だろう、フィラデルフィアに着いた朝の6時には、便意があるのに屁しかでない、屁を出したのに便意が消えない、といった妙な腹具合になってしまった。フィラデルフィア空港からダウンタウンまでは、電車での移動が安価で都合がよいようだ。券売機で切符を購入し、ドアが開きっぱなしで止まっている電車に乗り込む。出発時刻が近くなると黒人の乗務員が乗り込んできた。そして電車は想像とは逆方向に走り出したので不審に思って路線図を見ると、空港を出てからぐるりと180度曲がることが判明し、安心したのだ。制服を着た黒人乗務員が次の到着駅名を慣れた口調で叫ぶが、聞き取れなくて可笑しい。




②30番街駅
電車はゆっくりと動く。沿道は住宅地でないからだろうか、ベイエリアのカルトレインのような沿線のアメリカン落書きはなく、純粋に景色を楽しめる。ペンシルバニア大学駅の後に30番街駅に到着した。この駅舎はニューヨークやシカゴへ続く長距離列車や高速バスのターミナルになっている大きな駅で、コンコースは大きく吹き抜けて天井が高すぎるのが印象的だ。土曜の早朝、移動を始める人がコンコースを歩く様子は駅というよりも空港のような雰囲気が漂う。引き続き妙な便意はあるが、駅のトイレには忌避感がある。だからダウンタウン方向の出口から外へ出てみると、駅舎はまるでどこかの国の議事堂のような石柱が並ぶ、巨大な近代建築であった。眼前にはダウンタウンの高層ビル群が広がる。茶色く濁ったどぶ臭いSchuylkill 川(スクークルと発音する)を渡り、ダウンタウン方向へ歩くことにした。



③ダウンタウンへ
フィラデルフィア市は1682年にクエーカー教徒のウィリアム・ペンという人の一行が居住区を建設したのが起源とされる。米国独立戦争時には建国の父とされる人が集まった中心地で、ワシントンDCに首都が移される前はここが首都だったのだそうだ。町を歩けば古い教会や近代建築風の建物が残されている。通りの交差点にはそんな鑑賞スポットの方角を示す小さな看板があって、街歩きがしやすくなっている。町は碁盤目状で、南北の通りの名前が番号なのも歩きやすい。筆者は時折プスプスと放屁しながら、とりあえずミュージアムが乱立するデラウエア川方面を目指して歩く。だがどれも開館時間までまだずいぶんと時間があるのでゆっくりと町を歩く。やはりちらほら乞食がいるもののサンフランシスコほど酷くないし、公園はきれいに整備されて東海岸の広葉樹が美しい。




④インデペンデンス・ビジターセンター
確かな便意が迫ってきたので、“自由の鐘”が鎮座する建物を素通りし、インディペンデンス・ビジターセンターという施設で用を足し、気分が落ち着いてきた。この辺りがフィラデルフィア観光の中心地のようで、お決まりの町巡りバスの発着場が見られる。筆者はかねてから訪ねることを決めていた、アフリカン・アメリカンミュージアムへ向かう。その途中、犬を抱いて歩く黒人中年女性に急に、『ウェルカム・アメリカ・フェスが始まるわよ!』と声をかけたられた。何でもちょうどアフリカン・アメリカンミュージアムの近くで黒人コミュニティのフェスがあるのだそうだ。筆者がアフリカン・アメリカンミュージアムに行くと伝えると、親切に入館方法などを教えてくれた。この日初めてニンゲンと会話したのだ。




 さて、アフリカン・アメリカンミュージアムはフェスの開催に合わせて入館無料になっていた。小さなビルの1階から4階に、アメリカ黒人の歴史や生活の様子が、映像を使ったり人形を使ったりして説明している。だが内容の多くは歴史の教科書を読めばわかるような内容ばかりで、少々物足りなかった。例えば彼らの音楽についてや、どのようにキリスト教に改宗していったのかや、ソウルフードの起源とか、服装とか、そんなところにもっとフォーカスしてもらっても楽しいものになるのではと思った。それでも黒人の家族や白人の勉強家たちの来場が絶えず、アメリカ人にとっては存在意義の高いミュージアムであることは見て取れた。ミュージアムは小一時間で拝観し終え、フェスの様子を見に行くもほとんどがまだ準備中だったので、通り抜けて北へ、チャイナタウンへと向かった。