フィラデルフィア探訪とは、筆者が出張の合間を縫って探訪したペンシルバニア州フィラデルフィア市の記録である。アフリカン・アメリカンミュージアムを跡にした筆者は、チャイナタウンへ向かい北上した。6月のフィラデルフィアの気温は、ずんずん町を歩くには長袖シャツでは少し暑いくらいで、それども南北の通りには爽やかな風が通り、それが街路樹の緑を揺らして心地がいい。とはいえ深夜便の疲れがひしひしと押し寄せていたので、昼飯を食べたらすぐに宿へ行って眠るつもりであった。だが、チャイナタウン周辺の食堂がオープンするにはまだ少し時間があったので、もう一度デラウエア川方面へ歩いてみることにした。
この探訪の詳細(のつづき)は以下の通りだ。参考にしてもらいたい。
①ベンジャミン・フランクリン橋へ向かう
デラウェア川に架かる、ペンシルバニア州とニュー・ジャージー州を繋ぐベンジャミン・フランクリン橋は、フィラデルフィア市のシンボルの一つであろう。そう思い、橋上からの街の景色を見ようと、ずんずんと橋に向かって歩いていた。だがどこかで道を逸れたようで、橋のたもとを真横に見ながら河畔へと下りてしまう。この辺りはむかしの風景が残されるエリアのようで、道路は灰色の石畳、両側には赤レンガの四角い窓の建屋が迫り、洒落た空間になっている。特に時折現れる南北の細い小路の様子が、現在のアメリカでは見られない古都の雰囲気が出ていて楽しい。このエリアはアメリカ人にとっても観光名所の様で、洒落たカフェや土産物屋が点在し、“かっぽかっぽ”とゆっくり走るツアー馬車に乗った若夫婦や老夫婦が風景を楽しんでいた。
②桟橋からのベンジャミン・フランクリン橋
坂を降りきる少し手前で、デラウエア川を眺めることができた。河畔からは桟橋がいくつも伸びている。かつては各所から帆船や蒸気船で輸送された物資の荷下ろし場として活気づいていたであろう桟橋群は、今では公園になっていたり、レジャーボートの係留場になっているようだ。公園になっているベンジャミン・フランクリン橋のたもとの桟橋で、筆者はベンチに腰を掛けてしばらく休んだ。日曜の午前中は、ジョギングやヨガを楽しむ都会人で賑わいを見せている。そして下方から間近に見る鉄橋は迫力がある。1926年に完成したこの吊橋は、今は修繕工事が必要なようで仮設の足場で一部が覆われていた。
③もと来た道を戻り、チャイナタウンへ
ベンジャミン橋を背に、もと来た道を戻る。かなり疲れが出てきて、レンタサイクルなどに挑戦しようと思ったりするも、システムが理解できずに諦めたりしながら歩いて、やっとこさチャイナタウンへたどり着いた。立札によるとこの南北2ブロック、東西3ブロックほどの中華街は、中国では清朝末期にあたる1870年に設立されたものだという。町の様子を歩いてみるに、サンフランシスコやニューヨークの中華街のような新しい活気が少なく、昔ながらの雰囲気そのままの印象がある。中華スーパーにもベイエリア中国人には人気の日系商品がほとんどない。戦後にフィラデルフィアの都市機能が衰退した影響で、母国からの新たな文化流入が少なかったからかも知れない。蘭州拉麺や点心を謳う食堂が多く、中国でも特定の地域からの人々が多かったことが想像できる。
腹は減ったものの胃腸の調子はよくないので、脂っこい中華は避け、チャイナタウンの正門外にあったベトナム料理屋で、青島ビールを飲みながらフォーを食べた。さて、今回の出張旅行は経費削減を目的に、ただのアパートを宿泊施設にした民泊っぽい施設を予約していた。ダウンタウンの少し北の薄汚いエリアのアパートだ。そこは早めのチェックインができず、疲労困憊かつ青島ビールで思の外酩酊した筆者は時間を潰すのに大変な思いをしたのだった。2022年の初夏、安部晋三元首相の銃殺やエリザベス女王の崩御の数ヵ月前のことである。
この探訪の詳細(のつづき)は以下の通りだ。参考にしてもらいたい。
①ベンジャミン・フランクリン橋へ向かう
デラウェア川に架かる、ペンシルバニア州とニュー・ジャージー州を繋ぐベンジャミン・フランクリン橋は、フィラデルフィア市のシンボルの一つであろう。そう思い、橋上からの街の景色を見ようと、ずんずんと橋に向かって歩いていた。だがどこかで道を逸れたようで、橋のたもとを真横に見ながら河畔へと下りてしまう。この辺りはむかしの風景が残されるエリアのようで、道路は灰色の石畳、両側には赤レンガの四角い窓の建屋が迫り、洒落た空間になっている。特に時折現れる南北の細い小路の様子が、現在のアメリカでは見られない古都の雰囲気が出ていて楽しい。このエリアはアメリカ人にとっても観光名所の様で、洒落たカフェや土産物屋が点在し、“かっぽかっぽ”とゆっくり走るツアー馬車に乗った若夫婦や老夫婦が風景を楽しんでいた。
②桟橋からのベンジャミン・フランクリン橋
坂を降りきる少し手前で、デラウエア川を眺めることができた。河畔からは桟橋がいくつも伸びている。かつては各所から帆船や蒸気船で輸送された物資の荷下ろし場として活気づいていたであろう桟橋群は、今では公園になっていたり、レジャーボートの係留場になっているようだ。公園になっているベンジャミン・フランクリン橋のたもとの桟橋で、筆者はベンチに腰を掛けてしばらく休んだ。日曜の午前中は、ジョギングやヨガを楽しむ都会人で賑わいを見せている。そして下方から間近に見る鉄橋は迫力がある。1926年に完成したこの吊橋は、今は修繕工事が必要なようで仮設の足場で一部が覆われていた。
③もと来た道を戻り、チャイナタウンへ
ベンジャミン橋を背に、もと来た道を戻る。かなり疲れが出てきて、レンタサイクルなどに挑戦しようと思ったりするも、システムが理解できずに諦めたりしながら歩いて、やっとこさチャイナタウンへたどり着いた。立札によるとこの南北2ブロック、東西3ブロックほどの中華街は、中国では清朝末期にあたる1870年に設立されたものだという。町の様子を歩いてみるに、サンフランシスコやニューヨークの中華街のような新しい活気が少なく、昔ながらの雰囲気そのままの印象がある。中華スーパーにもベイエリア中国人には人気の日系商品がほとんどない。戦後にフィラデルフィアの都市機能が衰退した影響で、母国からの新たな文化流入が少なかったからかも知れない。蘭州拉麺や点心を謳う食堂が多く、中国でも特定の地域からの人々が多かったことが想像できる。
腹は減ったものの胃腸の調子はよくないので、脂っこい中華は避け、チャイナタウンの正門外にあったベトナム料理屋で、青島ビールを飲みながらフォーを食べた。さて、今回の出張旅行は経費削減を目的に、ただのアパートを宿泊施設にした民泊っぽい施設を予約していた。ダウンタウンの少し北の薄汚いエリアのアパートだ。そこは早めのチェックインができず、疲労困憊かつ青島ビールで思の外酩酊した筆者は時間を潰すのに大変な思いをしたのだった。2022年の初夏、安部晋三元首相の銃殺やエリザベス女王の崩御の数ヵ月前のことである。