ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

祥興海鮮館の調理モツ肉

2023-12-31 14:53:14 | 食事
祥興海鮮館の調理モツ肉とは、サウスサンフランシスコ市にある中華料理店“祥興海鮮館”で手に入る調理モツ肉のことだ。新型コロナウイルスの被害は沈静化し、人々は再び家からオフィスへ出てきてハグをしはじめた。しかし外食産業の営業スタイルはコロナ禍の頃のままに“店内飲食(DINE-IN)”よりも“持ち帰り(To Go)”に重点を置いている店が多いようだ。特に筆者が行くような安食堂ではそれが顕著だ。これは店側には回転率の最大化や人件費(接客や皿洗い)の節約というメリットがあるだろう。客側にもメリットはある。特に最近の似非30代独身日本式サラリーマンは自然と持ち帰りが多くなってきている。自宅なら酒量を気にしなくてもいいし、孤独の惨めさも感じないからだ。


この店の特長は以下のとおりだ、参考にしてもらいたい。



①祥興海鮮館に入る
祥興海鮮館はサウスサンフランシスコ市の小さな商店街にある。筆者が最近よく徘徊している通りだ。 実は北米には“祥興”と名が付く中華料理屋が多くある。きっと何かおめでたい意味があるに違いないと思って調べてみたが、見つけることができなかった。“Cheung Hing” と発音する。筆者はとある体調が悪い日に、肉モリモリの中華焼きそばでカロリーをたっぷり摂ろうとこの店に立ち寄った。奥行きのある店内には白いテーブルクロスが敷かれた円卓が並び、若干の高級感があるため、普段の30代独身日本式サラリーマンならば素通りする店構えであったが、体調の悪さが幸いした。


②祥興海鮮館BBQメニュー
しかしいざ入ってみると、一見したところ小ぎれいな奥のホールには客が全くおらず閑散としている。そして客なのか店員なのか区別がつかない普段着の中年女が現れて、『ピックアップか!!』と聞いてくる。ここもすっかりお持ち帰り専門の安食堂になっているようだ。また、入口左側のフードコート風のカウンターには調理された肉類が雑然と並んでいる。壁に架かる“焼味!BBQメニュー”と書かれた看板に、その調理肉のメニューと値段が書いてあるのだ。たいていのこういった中華風BBQは真っ赤な豚肉や北京ダックなどがあるばかりなので、あまり期待せずに眺めていたところに、“滷水猪脷、滷水猪肚、鹹水猪耳”という魅惑のメニューを見つけたのだった。


③祥興海鮮館の調理モツ肉を注文
猪脷、猪肚、猪耳はそれぞれ『豚タン、豚ガツ、豚ミミ』である。頭に着く“滷水”とはいったい何なのかが少し心配ではあったが、そんなことで筆者の雑肉欲は抑えられず、カウンター内に佇む初老の男に注文を試みた。だがこの男は筆者の英語を理解しない。看板の番号を使ったり、自分の胃袋や舌を指さしたりして何とか意思疎通を図るも無理である。さっきの客なのか店員なのか区別がつかない普段着の中年女が見かねて助けてくれたおかげで何とか注文することができた。初老の男は金属のケースに雑然と入った豚タンと豚ガツをトングでペローンと摘まみ上げ、大きな包丁で細かく切ってプラスチック容器に詰め込んでくれた。値段はパウンド9.99ドル、安い。



④祥興海鮮館の調理モツ肉を食べる
持ち帰って食べると、なかなかに美味である。雑肉は醤油ベースとほのかな八角の香りが心地よく臭みがない。2種の雑肉が混ざる細切れには食感の違いがあって飽きもない。そのまま食べてもよいが、箸でつまんで和からしにチョイ漬けして口に放り込めば何とも素敵な酒のつまみになる。米にも合うし、日が経って傷みが気になりだしたらラーメンの具材にしてもなかなかに旨い。ガツやタンは非常に栄養価の高い食材であるのも嬉しい。



さて、せっかくなので“滷水”について調べてみた。滷は“ルー”と読むが、所謂日本語の意味するとところのルーとは異なる。ウィキペディア中国語版によれば、“醤油をベースとした様々な薬味を入れた調味料”とのことである。使用する薬味に明確な定義はないが、一般的なものには四川唐辛子、スターアニス(八角)、みかんの皮、シナモン、甘草、草の実、生姜、生姜、砂生姜、ネギ、岩砂糖が含まれ、その中で生姜は本格的な潮山滷水に不可欠な調味料、という内容であった。2023年も終わろうとしている。80代独身日本式お笑い芸人のアホの坂田師匠が、弟子の間寛平氏に看取られながら、老衰で亡くなったようだ。筆者の死は一体誰が看取るのだろうか。ありがとさーん。

世界淡水魚水族館

2023-12-18 01:23:55 | 生活
世界淡水魚水族館とは、岐阜県にある淡水魚専門の水族館である。TOKYOで米国駐在ビザの更新と勤め先の中間管理職研修を終えた週の金曜の夜、筆者は名古屋に居た。その夜に出会った人々の影響で、筆者は翌朝の土曜には名鉄に乗り込んで岐阜へ向かったのだ。朝食は大都会名古屋駅前で牛丼でも食べようと思い、あえて“くれたけイン”の朝食を食べずに地下鉄に乗るも、土曜の朝の名古屋駅周辺の食堂はすべからく閉まっている。筆者は仕方なく三井ガーデンホテルへ行き、豪華ひつまぶし食べ放題朝食をパクついたのだった(2700円!)。隣の席のプチ富裕層熟年夫婦の世間話から、羽生結弦選手のスピード離婚のニュースを聞く。ガラス張りの高層階レストランからは広大な尾張国の平野と海が見えた。


この施設の特長は以下の通りだ。参考にしてもらいたい。



①名鉄に乗って岐阜へ
名鉄とは名古屋鉄道のことをいう。この特急に乗れば名古屋駅から名鉄岐阜駅までおおよそ20分で着いてしまうのだ。正直なところ筆者は勝手に岐阜県に対して漠然と“山奥、秘境、田舎”のイメージを持っていたが、少なくとも岐阜市からは名古屋都市圏が完全な通勤範囲のようだ。しかも勝手に岐阜県と愛知県の間には山々があるのだとばかり思っていたが、県境は木曽川周辺で、名鉄は岐阜駅まで見事なまでの平野を進んだ。名鉄は岐阜・名古屋間以外にも、犬山城方面や知多半島先など沿線は愛知県を網羅している。何でも私鉄の中で近鉄と東武鉄道に次いで3番目の沿線距離を持ち、歴史も古い鉄道なのだが、やはり名古屋の宿命で、上の二つの私鉄に比べるといたってマイナーな印象は否めない。



②世界淡水魚水族館へ向かう その1
筆者の最初の目的地は世界淡水魚水族館である。曇天模様の名鉄岐阜駅にたどり着き、当該施設までのアクセスを調べると、最寄り駅は“笠松”という駅で残念ながらまた戻らなくてはならないことが判明した。悔しいので駅に隣接する商業施設で特大の便を済ませてすっきりする。駅の構内には“岐阜の財布MURA”の看板があった。ちょうど財布を買い替えたいと思っていたので、同じく隣接するロフトなどを覗いてみるも、ポーターしかなくてがっかりする。そして笠松駅まで電車に乗りこんだ、



③世界淡水魚水族館へ向かう その2
笠松駅は寂しい。小さな駅前ロータリーに1台だけ止まっていたタクシーに乗り、“世界淡水魚水族館までお願いします”というと、中年運転手には“あぁ、アクアトットね”と返された。似非30代の大人の男が一人で向かうには恥ずかしいネーミングである。筆者が旅行で岐阜まで来たと言えば、運転手は『ここには競馬と飛騨牛以外はナーンもありませんよ、住むにはエェですけど』と滔々と岐阜をディスり始めて楽しかった。タクシーは笠松競馬場から木曽川の堤防通りを上っていき、15分ほどで世界淡水魚水族館に着いた。



④世界淡水魚水族館
“世界淡水魚水族館は昭和の堅苦しい重厚なコンクリート建物で、薄暗い館内にはあまり人がおらず、話好きな老人の学芸員が筆者について回りアレコレ説明する施設である”はずだったが、違った。それは現代的な建物で、子供連れのママたちで大変賑やかで、周囲に観覧車があったり大道芸人がショーをしていたりと、大したアミューズメント施設であった。しかし楽しい。清流長良川を上流から下流へと下るコンセプトで、生き物たちを素晴らしいレイアウトで紹介しながら、川に関する知識を与えてくれる。それを終えれば研究室のコンセプトでアマゾンの生き物、航海のイメージでアフリカの淡水魚たちとも出会える。実は筆者は池沼や河川が大好きで、そこに住む生き物もまた大好きなのだ。童やママたちがすぐに通り過ぎる水槽の前に立ち、不審者のようにじっくりと生き物たちとの会話を楽しんだ。



この辺りは完全な車社会のようだ。公共交通機関での世界淡水魚水族館へのアクセスは良くない。帰りはバスで安く帰れるかと期待するも便は多くない。仕方なくさっきのタクシー会社に電話をした。さっきと同じ運転手がやって来たなら淡水魚水族館の魅力を滔々と語ってやろうと待ち構えていたが、やってきたのはもっと年老いた運転手だった。笠松駅から岐阜へ向かう。小さなお土産屋“ふらっと笠松”で少しお金を落として帰ろうかと思ったが、岐阜行の特急の時間が迫っていたので足早に切符を購入する。だが、ふと変わった自販機が目に止まる。ボルシチやビーツなどの東欧料理の自販機だ。『笠松と東欧・・・?』何とも不思議な気持ちになったが、とにかく特急に乗るべく、筆者は改札をくぐった。2023年11月の岐阜である。

名古屋の夜

2023-12-17 12:50:28 | 生活
名古屋の夜とは、筆者が2023年の11月に過ごした名古屋での夜のことである。TOKYOで米国駐在ビザの更新と、勤め先の中間管理職研修を終えた週の金曜の夜に、筆者は名古屋に居た。名古屋駅で降りるのは学生時代に栗尾和尚の宅を訪ねて以来なので、おおよそ20年ぶりになる(*栗尾和尚の回を参照のこと)。中間管理職理研修で同席した大阪のニシダと話し足りずに思わず一緒に新幹線に乗り込み、なんとなく名古屋で下車したのだ。似非30代独身日本式サラリーマンは孤独だが身軽な小金持ちなので、ニシダのように子供が待つイエに一生懸命帰らなくてもいい。名古屋駅のコンコースで宿を探し、 “くれたけイン久屋大通り” を予約した。


この日の夜の記憶は以下のとおりだ、参考になりはしないだろう。


①名古屋駅からタクシー
名古屋駅からタクシーで“くれたけイン久屋大通り”まで向かう。名古屋市街は車道と歩道が広い。そしてさすが城下町だけあって歴史がありそうな名前の通りが連続する。運転手の話によれば、2年に渡る“三密運動”の結果、外で遅くまで酒を飲む人がめっきり減り、“終電過ぎてからが稼ぎ時”のタクシー業界は売り上げが戻らないのだそうだ。そのうえ『ライドシェア』なる自由化にさらされる気配を帯びてきて、業界の先行きは暗いとの話であった。その他に“岐阜までは名鉄の特急で20分で行けてしまうこと”や、“赤提灯の飲み屋はホテルから南へ歩けば沢山ある”などといった有益な情報を得た。



②くれたけイン久屋大通
くれたけインが面する通りは“久屋大通”といって、対向車線の間に大きなパブリックスースがあるたいそう立派な通りでびっくりする。 “きっと江戸時代には名古屋城の大手門に繋がる大通りだったのだろう”と思い地図を見ると、通りは名古屋城の位置とは若干ずれている。そこで歴史を見ればこの通りは名古屋城とはまるで関係がなく、空襲で焼き尽くされた名古屋市街の復興時に火災被害防止の目的で大きな幅員が取られたのだという。それが今では『100メートル道路』として名古屋市のメインストリートとなっているのだ。ホテルの場所から通りの先を眺めると、大きな電波塔が見える。これは“みらいタワー”と言うのだそうだ。1950年代に建てられた国の文化財にも指定されている由緒のあるタワーらしいが、日本のその他のタワーに比べてマイナーな存在であることは否めない。だって似非30代日本式独身サラリーマンの筆者は今の今までその存在を知らなかったのだから。そいういところに名古屋の宿命を感じざるを得ない。ちなみにこのタワーについて調べていたら、近藤陽洲さんという面白い男性を発見したので興味のある読者は調べるとよい。


③盛り場へ
筆者は着替えを済ませてすぐにホテルを出て、町を探訪しながら酒場を探す。“盛り場は南方にある”との運転手の情報をもとに歩きだすも、何故かネオンは遠い。そう、筆者はてっきり名古屋駅方面を南と思い込み、しばらく明後日な方向を徘徊していた。東海道新幹線は愛知県を南北に通っているので、筆者は西進していたのだ。それでも自然にネオンの光に惹かれていき、なんともなしに名古屋随一の繁華街“栄”にたどり着いた。しかし金曜夜の栄は何だかギラギラしていて、似非30代独身日本式サラリーマンがひとりで気軽に入れるお店は見つからない(勇気を出して入った地下の鮨屋は満席)。それに路上にはジャージファッションの若者が多くて何だか怖いので、筆者はいそいそと盛り場を退散し、コンビニで総菜を買ってホテル飲みでもすることに決めたのだった。



しかし帰り道を少し迷っているうちに、“味のかつら”という何とも安心感のある酒場に遭遇した。金曜夜というのに客足は少なく、そこそこ広い店内には大学教員と思われる5~6人グループと筆者のみである。筆者はヱビスビールの大瓶から始めて、豊富なメニューの中から土手煮、味噌田楽、目刺し、焼き椎茸にから揚げ、そしてホタルイカ沖漬けとハムカツと、厳選してつまみを選び、“通”を装った。ヱビスビールの後は“蓬莱泉”という三河の酒を、冷や燗で愉しんだ。至福の時間である。あまりに嬉しくなったので釣りの千円札をチップとして残して店を後にすれば、女将さんが『お客さん、お釣り忘れてますよ!』と駆けてきた。以上までが、ここで書ける範囲の2023年の名古屋の夜である。

ナガラヤ

2023-12-14 12:26:38 | 食材
ナガラヤとは、フィリピン産の豆菓子である。デイリー・シティ市やコルマ市、そしてサウス・サンフランシスコ市などのサンフランシスコのすぐ南のエリアにはフィリピン系移民が多く、周辺にはフィリピン系のお店をよく見かける。それはかつて住んでいたサンノゼやサン・マテオ辺りにはない雰囲気なので、孤独で無趣味な似非30代独身日本式サラリーマンのよい退屈しのぎになっているというものだ。フィリピンといえば数年前に、ドゥテルテという大統領の強烈な政治が話題になっていたが、今はあまりニュースを聞かない。調べてみると彼は既に政界を引退し、今は娘さんが副大統領なのだそうだ。フィリピンの大統領任期は5年で、再選は禁止されているのだという。



この豆菓子の特長は以下の通りだ。参考にしてもらいたい。



①パシフィックスーパーのお菓子コーナー
ナガラヤを見つけたのはやはりフィリピン系スーパーのパシフィックスーパーである。このパシフィックスーパーマーケットは、一見したところでは他のアジア系スーパーと特に大きな違いを感じない(ピナパイタン・ミックスの回を参照のこと)。しかしお菓子のコーナーに立ち入ると少し様子が違い、『おやおや?』という気分になる。そう、フィリピンの公用語であるタガログ語の筆記様式はラテン文字(ABC)なので(もともとは違ったようだが・・)、西洋と東洋が入り混じったようなデザインの袋菓子が並ぶ。これが固有の文字を持つ他のアジア諸国のお菓子の装丁に比べて雰囲気が違うのだ。



②ナガラヤを見つかる。
フィリピン人はスナック菓子が好きなようで、お菓子コーナーにはフィリピン直輸入と思われるスナック菓子がけっこうある。そしてどれを試そうかと眺めると、日本人ならすぐに“ナガラヤ”が目に止まる。何故ならナガラヤだけが日本語表記であるからだ。袋の正面にはでかでかとカタカナで“ナガラヤ”と書いてある。手のひらサイズより少し大きいその袋を手に取ってよく見れば、それは砂糖でコーティングしたピーナツ菓子である。筆者は『またか!』と絶句した。読者諸氏は覚えておられるだろうか。同様の菓子が日系移民のヨシゲイ・ナカタニ氏によりメキシコで開発されて“ジャパニーズスタイル”のお菓子として現地で一般化している(タリーン~コーティッド・ピーナッツ の回参照のこと)。筆者はすぐさまこのナガラヤを購入した。




③ナガラヤを買って食べる
ナガラヤはたいていのフィリピン系スナック菓子と同様に、オリジナル味に加えてアドボ(フィリピンの家庭料理で酢や醤油やニンニクでマリネした肉や魚のこと)味やガーリック味、スパイシー・ガーリック味などの種類がある。どれも旨いがニンニクが強めでたくさん食べると食傷気味になるので、基本はオリジナル味をお勧めしたい(フィリピンの人はニンニクがたいそう好きなようだ)。オリジナルのナガラヤは黄色い袋だ。これが甘じょっぱいコーティングとカリカリとした食感が絶妙で、たいへんにおいしい。間食用にもよいし、酒のつまみにもなれる。最近の筆者は職場でこいつをポリポリと頬張って昼食にしている。




このナガラヤは、フィリピンではかなりメジャーなスナック菓子のようだ。フィリピンはスペイン、アメリカ、日本に立て続けに占領された苦しい歴史を持つ(国名もスペイン国王からとったもの)。そのためナガラヤは日本の植民地時代の産物なのかと調べると、そうではないようだ。売り出されたのは1968年と比較的新しい。名前の由来を根気よく調べていくと“ナガラヤという名前は、日本の技術パートナーの名前から採用した”との一文が見つかった。発売当初にはカバヤ食品が関わっていたとの記載もあった。だがカバヤ食品さんのウェブサイトからはその情報は見つからなかった。ここまでメジャーな商品ならば、『実は開発には○○が関わった!!』などのサイトがあってもいいものを、全く出てこない。2023年も終わろうとしている。だが世界にはまだまだ、調べても分からないことの方が多いのである。

浦賀

2023-12-11 05:07:49 | 生活
浦賀とは、神奈川県横須賀市にある地域である。三浦半島の東南部(かかとの部分)に位置する。溜池山王の米国領事館で書類提出と面接を終え、米国就労ビザ発給を待つ間は楽しい暇な時間である。筆者は浦賀へ行ってみることにした。開国の、明治維新のきっかけとなった黒船来航の地である。きっと面白いものがあるに違いない。京急線に乗り込み、途中で“雑色”という奇妙な名前の駅で降り、思いのほか賑やかな商店街でハムカツを食べたり、駅前喫茶“リベルテ”でモーニングを食べたりしたので、終着駅の浦賀に着いたのは午前10時頃だった。2023年の11月、天気が良い。


この日の思い出は以下の通りだ、参考になるだろうか。



①浦賀駅に着く
平日、京急線の終点浦賀駅の曲線状ホームで電車から降りる乗客はごく僅かで、観光客らしき人は全くいなかった。駅の改札に、『ようこそ開国の町へ』という手作り感のある看板、というより貼り紙に近いものがある以外は観光地を思わせるものすらなく、少し不安になる。それでも改札を出て階段を下りると入り江の景色が眼前に広がり、『お、海に来た。浦賀に来た』と感じることができる(駅のホームからは谷あいの景色しか見えないのだ)。そして駅前には小さな観光案内看板や、防波堤のようなブロック塀に地元の少年少女が描いた歴史場面の絵画があって、それなりに外からの観光客を迎え入れる準備を感じたので安心した。




②観音崎通りを南へ行く
案内看板を見ればこの京急浦賀駅は入り江の根に位置し、入り江の先端両側に寺社仏閣や碑などの史跡が多いことがわかる。入り江の先端には、東西を結ぶ渡し舟が出ているそうだ。そこで散歩がてら入り江の東側の観音埼通りを南下することにした。道の山側はほぼ垂直に切り立った崖がそびえていて、崖の間を縫うように砦のようなマンションが建っている。入り江側はコンクリート塀で囲まれて、有刺鉄線までついてる。ここは“浦賀ドッグ”といい、この深い入り江を利用して江戸末期に造船所として整備されたようだ。ここで日本初めての洋式軍艦鳳凰丸の築造や、咸臨丸の整備が行われたのだ。明治~昭和時代に軍艦製造がおこなわれ、2021年に住友重工から横須賀市に文化遺産として譲渡されたという。だが背伸びして塀の中を覗くと、この東側のエリアは材料置き場のような殺風景な雰囲気で、観光に使われている様子はまだない。




③史跡エリア周辺
入り江の先端に近づくと平地が増え始め、住居エリアが見えてくる。この辺りが史跡スポットエリアである。歴史好きの老人男性共が書物を持ってエリアを探訪している。しかし基本的に案内が親切とはいえず、東林寺では中島助三郎の墓がどこか分からなかったし、中島助三郎についても説明を見つけることができなかった。“勝海舟の断食の碑”があるとのことだったが、“勝海舟が断食のときに使った井戸”しか見つけられなかった。その他案内にはない記念碑が突然現れたりもする(日スペイン貿易の碑など)。入り江の両側にある叶神社はどちらも応神天皇(誉田天皇)を祭る神社で、21世紀に入り宮司が西と東のコラボのお守りを作って縁結びパワースポットとして売り出しているらしく、ちらほら若い男女がいた。



浦賀、今日では静かな漁村と小さな都心へのベッドタウンとして機能する地域のようだ。観光というより散歩スポットだが、漁村の雰囲気や入り江の地形は楽しいし、のどかな渡し舟やふいに現れる石碑など宝探しのような楽しみがある。しかし筆者は大事なことを忘れていることに気が付いた。それはペリーである。西叶神社の山門にある“ペリー歯科”以外にペリー提督にまつわるものがない。これはおかしい。『浦賀と言えばペリーでしょうが!!』と思い、すぐにネット検索すると、久里浜方面に“ペリー公園”があるという。筆者は浦賀駅へは戻らずに、久里浜行きのバスに乗り込んだ。そのためこの浦賀地区最大の見どころ、浦賀レンガドッグを見そびれたのだった。人生である。