ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

芳松

2022-06-27 02:06:24 | 食事
芳松とは、アリゾナ州ツーソンにある和食レストランである。ツーソンの宿で昼寝をし、やはり夕食時に空腹で目が覚めた。30代独身日本式サラリーマンが“生きていること”を感じるのは、空腹を感じるときではないだろうか。残りの時間は生きている演技を一生懸命してはいるものの、よくよく考えれば概して虚しい時間ばかりである。歯を磨きながら、ツーソングルメを楽しみたい気持ちと、おもしろ日本料理を試したい気持ちを闘争させた後、芳松へ行ってみることにした。ただしこのときはまだ芳松のことをただのYOSHIMATSUだと思っていた。2022年初夏、ウクライナとロシアの戦争は今も続いているようだが、ニュースは少なくなってきている。そしてガソリンの価格は2倍になってもう数ヵ月が経ち、だんだん昔の値段を忘れるほどだ。



この日本料理屋の特長は以下の通りだ。参考にしてもらいたい。




①立地・アクセス
芳松へは、ツーソン市のダウンタウンから北西に15分ほど郊外へ走る。グーグルマップでは商店が密集した賑やかな通りに見えたが、実際に行ってみるとカリフォルニアの町に比べて土地が大雑把に使われ、開放感がある通りだ。広い歩道に歩行者はいない。芳松はBBQ屋やインド料理屋などが連なる建屋に入っていて、建屋の前の駐車場は1列分しかなく、芳松とマッサージ屋の間から裏の駐車場へ入る。裏の駐車場に車を停め、正面まで歩くとき店舗裏手の小さな窓に、『芳松』と書かれた小さな看板を見つけて、“おや、日本人がやっているお店かな”という小さな期待を憶えた。




②内装や中の様子
内装は日本の昭和レトロを思わせる飾りつけが多くなされている。古い看板やレトロアニメのフィギュアなど飾られて楽しい。また、入口付近では日本のアニメキャラ風のキーホルダーやステッカーなどが販売されていて、アニメファンの来店を狙っているかのようだ。事実、案内されたテーブルの隣にはアニメ好き風のカップルが食事をしていた。この日は日本人風店員は見られず、店の奥のカウンターでは若い白人男性が寿司を握っていた。彼はこちらを『日本人客かな・・』という目で見ていたので、日本語話者なのかも知れない。





③メニュー
筆者がこの店を、“YOSHIMATSUではなく芳松である”と思い知ったのは、メニューを見てからだ。米国式ジャパニーズレストラン定番メニューに加え、焼きそば、カツカレー、唐揚げ、さらには冷やし中華にお好み焼き・モダン焼き、豊富な焼き鳥系メニュー、それに茶碗蒸しまである。飲み物メニューも日本居酒屋風にしてあり、チューハイ系が揃う。日本人が多いベイエリアでもなかなか見られないラインアップに、“売りたい”だけではなく、“日本食を広めたい”というメッセージを感じ、筆者の芳松リスペクトが沸き起こり始めたのだった。ただ、時間帯が早かったせいかホールの対応が追いついておらず、なかなか注文を聞きに来てくれない。



④ハッピー・アワー
ここは週末に関わらずハッピーアワー制をとっており、どれも格安だったので、筆者は“とりあえず感覚”、つまりメインは後から注文するつもりでイカゲソ唐揚げ、鶏唐揚げ、カリフォルニアロールと梅シソ巻を注文した。ところがどっこい、ホールの白人姉ちゃんが持ってきたハッピーアワーメニューがどれもボリューム満点で、30代独身日本式サラリーマンはこれだけで腹が膨れてしまった。味はどれもベイエリアと遜色なく、美味しくいただけた。生サッポロビールをゴクゴク飲んで、楽しい時間を過ごすことができました。




 さて、芳松のホームページに行ってみたところ、やはりここは“ヨシミさん”という方がオーナーのようだ。ツーソンでは16年連続でベスト日本料理レストランに選ばれる老舗であり、さらには健康志向にこだわったメニューを心掛けているという。何でもヨシミさんはご自身が癌を患った原因が、東京でファッションデザイナーをしていた多忙な頃の食生活にあると思い立ち、“家庭料理のような体に優しい料理”をモットーとして芳松を運営しているのだという。ヨシミさんが何故東京のファッション業界からわざわざツーソンくんだりまでやってきたのかが不明なことや、筆者の期待した“日本文化へのこだわり”には全く触れられていなかった点などがやや消化不良な内容であったが、とにかく予想どおり日本人によるレストランであった。筆者はもっとたくさん食べたかったのだが、いかんせんハッピーアワーがハッピーすぎたせいで腹はパンパンになってしまい、仕方なく芳松を後にしたのだった。30代独身日本式サラリーマン読者諸氏がツーソンへ立ち寄った際には、是非ともこの芳松へ行ってみてもらい、レポートしてもらいたいものだ。個人的には芳松弁当を食べてみたい。

ツーソンへ

2022-06-24 12:36:47 | 生活
 ツーソンへ、とは筆者が2022年のメモリアル・デー週末に敢行したアリゾナ旅行のうち、セドナからツーソンへ移動した日の記録である。この日は日の出前に目を覚ます。疲労から幾分回復していたので、朝焼けのセドナで簡単なトレッキングに出かける案もあったが、ツーソンまでは先が長いので自重した。それでもChapel of Holy Cross だけはせっかくだから見ておこうと南下するも、何をどう間違えたのか “The Church of the Red Rocks” という全く別の教会に辿りついてしまった。だがここからのセドナの景色が見事であり、プロ・カメラマンのような白人男が三脚を立てて朝日に映える山々を撮影していた。そのカメラマンと挨拶を交わし、筆者も一応景色を撮影し、そしてツーソンへ向かった。



旅の続きは以下の通りだ。参考にしてもらいたい。




①ひたはしる
同僚のTJが、“セドナは南から見ると良さがわかる”と言っていたのも納得で、179号線からの赤い岩山の景色はなかなか見ものだ。だが17号線に入る頃にはそんな赤茶けた岩山は急になくなり、灰色の無機質な岩肌になる。セドナの地に神秘を感じた先住民は、きっと南からやってきたに違いない。忽然と現れる燃えるような岩肌の絶景に驚き、畏れ慄いたのだろう。ちちなみに “セドナ” という名は、ミズーリ州からやってきた白人入植者男性の妻の名からついたもので、ネイティブアメリカンとは関係ないのだと、Sedona Heritage Museumで学習した。17号線はフェニックス、そしてツーソンへと続く自動車専用道路で、下り勾配で標高をどんどんと下げていき、そして気温がぐいぐいと上昇していく。ソノラ砂漠だ。フェニックスに近づくと丘陵地に珍妙なかたちのサボテンが群生しはじめて、これが楽しい。



②カサ・グランデに寄る
人工都市フェニックスを素通りしさらに南下を進めるも、徐々に疲れを感じ始める。そんなときに“カサ・グランデ・ナショナルモニュメントは次の出口”との看板があったので、休憩がてら立ち寄ってみることにした。最近スペイン語を勉強し始めた筆者は、『カサ・グランデ』が『大きい家』ということを理解できた嬉しさもあって、行ってみたくなったのだ。高速を降りるとまるで人気のない道が続き、少し不安になったが20分ほど行けば小さな町に到着し、そこにカサ・グランデがあった。カサ・グランデの開館時刻まで30分ほどあったので、正面にあるセイフ・ウェイでサンドウィッチを買って食べる。アリゾナ州ではプラスチック袋は無料のようだ。


③カサ・グランデ
ゲートが開いたのは開館時間を10分過ぎてからだった。ここはアメリカ先住民ホホカム族の遺跡が保存されている国立公園だ。アリゾナ近辺では紀元前から13世紀ほどまで彼らの生活の痕跡があり、以降は姿を消しているので謎に包まれた人々とされている。小さな屋内の展示施設をくぐり屋外へ出れば、遺跡群を目の前にする。土で作られた家屋らしき遺跡群の中央に迫力ある高層の立方体の建物があり、これを見つけた入植者のキノ神父が『カサ・グランデ』と名付けたそうだ。この巨大建築の目的が何なのかは正確にはわかっていないとのことだが、窓の位置が太陽の位置と関係していたりするそうだ。今は風化防止のために鉄骨製屋根で覆われていて、独特な雰囲気がある。このホホカム族は、長大な運河を作って灌漑農業を行っていた。てっきり北米大陸には遊牧系の人々ばかりが暮らしていたと思っていたが、このような定住・農耕の跡も残っているのは興味深かった。公園自体の敷地は広大なので、『これは見学が大変なのでは・・・』と思いきや、遺跡が残り観光客が立ち入れるところはわずかなエリアに限られているので、休憩ついでの立ち寄りにはもってこいだ。入場が無料なのも嬉しい。しかし強い日差しが痛いほどだ。見学を終えて駐車場で会った白人夫婦は日焼け止めを顔に塗りたくっていて、顔面真っ白だった。それでも雨続きのニューヨークから来たので太陽は嬉しいと言っていた。





 そして旅の目的地、ツーソンに着いたのが午前10時半だった。ツーソンは“Tucson”と綴る。初見ではなかなか読めない。入植し町を築き、この名を付けたのは17世紀のスペイン王国、その後19世紀の米墨戦争の結果アメリカに購入され、アメリカ領になった。ウィキペディアには“米国の購入の後、時を経てこのややこしい音節が標準化された”との記載があるので、アメリカ人にとっても読みにくいようだ。ツーソンの町ではまず美術館へ行く。コンクリート打ちっぱなしの螺旋回廊式建物で、BRAD KAHLHAMERというマルチ前衛アーテイストの作品や、中南米の絵画や土器などが見ものだった。その後はオールドタウンを散策する。休日昼間のダウンタウンは閑散としているが、筆者のように街歩きを楽しむ人々もちらほら見られた。そして例のごとくチェックイン時刻と共にホテルに飛び込み、昼寝をして疲れを癒す。“ツーソン寺金色堂”というおやじダジャレを思いつき、一人笑った。

セドナにて

2022-06-15 13:10:07 | 生活
セドナにて、とは筆者が2022年のメモリアル・デー週末に敢行したアリゾナ旅行のうち、セドナで過ごした日の記録である。サンホゼ市からひたすら東へ、東へ。40号線上で遠く眼前に朝日の光を感じ始めたので、『ここぞ!』と大音量でアメイジングレイスを流し、一人車内の演出を試みたものの、そこからなかなか日が出ない。何度かリピート再生したが、ついに飽きてきてしまい“演出”は失敗に終わった。そんな過酷な夜通し長距離ドライブを果たし、セドナに到着したのは午前9時頃であった。30代独身日本式サラリーマンはくたくたである。しかし筆者と同じように夜間にドライブをしている人は少なくなかった。特にホリデー期間は航空券が高騰し、そのうえ行く先でいずれにせよ車が要りような場合が多く、レンタカー代で旅費はなお嵩む。時間のロスと体力さえ気にならなければ、車が断然安上がりである。



セドナでの記録は以下の通りだ。参考にしてもらいたい。



①午前9時にセドナについても
アメリカの観光都市に午前中の9時についても、あまりすることがない。アップタウンにある宿の駐車場にチェックイン前に車を停めさせてもらい、時間を潰すことになる。トレッキングやジープツアーなどに行けるようだが、いかんせん体力が限界に近い。セドナと言えば占いやヨガも盛んだが、それも興味はない。よって眠気眼で通りをうろつくも、開いていない店が多く辛くなる。それでも周囲の赤茶けた岩肌は迫力があって美しく、ベンチに腰掛けて、ぼんやりしているだけでもそれなりに気分がよい。10時を過ぎる頃にはようやく通りの店が開きだし、ブラック・カウ・カフェでという名のカフェで甘いチョコレートアイスを食べると少し元気を取り戻した。店員の金髪巻き毛イタリア少年は、生意気で小憎らしい可愛らしさだった。



②Sedona Heritage Museum
という訳でSedona Heritage Museumという博物館へ足を運ぶ。ここはセドナの地に入植してきた頃の歴史や文化を学ぶための小さな施設だ。施設の北側には赤い岩山が迫る。入口の扉を開くと白人老婆が、筆者より先に入った白人夫婦にちょうど館内の説明をし始めたところであり、筆者もそれに混ぜてもらった。入場料の支払いの段になると老婆はやおら神経質になり、“私がOKと言うまで何もしないで!”と割と強めに指示される。どうやら支払用のクレジットカード読取機の取扱に不慣れなようだ。受付のラックには、日本語のパンフレットがあったので、『これをもらってもよいか』と尋ねると、『さっきあげたではないか』と言われる。『いえ、これは日本語のやつですよ』と見せると、『おやまぁ、日本語のものもあるの!知らなかった』と驚いていた。どうやらボランティアのガイドの人のようだ。



③車で仮眠、アーリーチェックインで爆睡
Sedona Heritage Museumを鑑賞し終えるとまたどっと疲れと眠気に襲われたので、車で郊外に出て、奥まったところに停車し仮眠する。小一時間ほど仮眠すれば、ホテルから『早めにチェックインできるよ』との電話があったのですぐに向かい、シャワーを浴びてさらに爆睡した。やはり飛行機移動が正解だっただろうか。 “ホリデー期間に飛行機に乗るなんて・・・”と独身貴族を嘲笑するような口ぶりで筆者の計画にコメントした同僚のTJという男を少し恨み始めていた。



 夕方に空腹で目が覚める。夕日がセドナの赤茶色の岩山をさらに赤く染め始めていた。宿だけは比較的高めのものを選んでおいたので、ベランダからはパノラマ・ビューで山々が一望できる。さすがにグランドキャニオンやモニュメント・バレーの迫力には及ばないが、なかなかどうして見ものである。さっそくアリゾナワインとピザを買ってきて、ベランダの籐椅子に腰掛けて、もう一つの椅子に両足を乗っけて踏ん反り帰り、ピザをパクつきながらワインをがぶ飲みする。だんたんと青く暗くなる空と赤い山のコントラストがくっきりとしてきて美しさが増す。“あぁ、やはりセドナに立ち寄って良かった”とせっかく満足感に浸っていたのに、サンフランシスコのダウンタウンでもらい事故に遭い、社有車を大破させた30前半独身日本人サラリーマン部下が不安を募らせて電話をかけてきた。それがしごく興ざめであった。

キョッポ・プラザのフードコート

2022-06-12 13:28:41 | 食事
 キョッポ・プラザのフードコートとは、サンタ・クララにある韓国系スーパーマーケット、キョッポ・プラザ内のフード・コートのことをいう。そういえば韓国では今年の三月に、保守系野党のユン・ソクヨル氏が新しい大統領に選ばれたはずだが、それ以降は特段大きなニュースを聞かない。ムン政権時代にこじれた日韓関係、深刻な少子高齢化問題、そして北朝鮮モンダイと、かじ取りの難しい時代をどのように乗り切るのか見ものである。とはいえここベイエリアでは韓国人人口はとても多く、ヒュンダイやキアの車も大変に人気だし、家電量販店はほぼサムソン一色、さらにはBTSとかいう若者グループは全米でも大変なフィーバーらしいし、“Kパワー”はいまだに炸裂中である。そして30代独身日本式サラリーマンにはキョッポ・プラザのフードコートを紹介します。



このフードコートの特長は以下の通りだ。参考にしてもらいらい。



①キョッポ・プラザ
ローレンス・エクスプレスに面した商業エリアにあるキョッポ・プラザは、漢字で『僑胞超市』と書く。“僑”と言う文字は、“華僑”という言葉でしか知らなかったが、調べてみると“かりずまい、やどる”という訓読みがあるそうだ。このスーパーはサンホゼ界隈ではハンコックスーパーと並んで良心的な価格の韓国スーパーで、筆者が好んで足を運ぶところである。段ボールにドカ置きされた野菜にはやや萎びたものも混ざりこんでいるため、客たちは野菜を手にとっては慎重に物色・吟味して、袋に入れている。レジ係の女性店員が筆者のステレオタイプそのままの韓国人なのも気持ちがいい。そのレジコーナーに隣接して、小ぶりのフードコートがある。



②雰囲気
このフードコートの鄙びた雰囲気に30代独身日本式サラリーマンは妙な懐かしさを感じるはずだ。10卓程度の安テーブルが並べられたフードコートは、レジコーナーと注文調理カウンター、そして床屋に囲まれた狭い空間で人通りが多く、買い物客との距離がとても近い。そのため老夫婦や独身風男らがチャンポンを啜っている様子が間近に見えるので、自ずと食欲が湧いてきて、入るつもりがなくてもついつい入ってしまう。注文・調理カウンターは島式になっており、中にはエプロンを付けた韓国女性やメキシコ人調理人が働いているが、何となく学校のバザーのような雰囲気が漂う。そう、気楽に入れるお店なのだ。床屋の昭和風佇まいも雰囲気に趣を添えている。


③システム・メニュー
大きな番号付きのメニュー看板が掲げられている。看板にあるメニューはチャンポンやタンメン風の麺類、ジャジャメン、それに酢豚風のものなど10品ほど、加えて注文カウンターに出来あいの総菜があるのでそれらも購入できる。ただしチジミやチゲ鍋、それにビビンバ・クッパといった所謂韓国料理は置いていない。注文する品を決めたら、カウンターにいる女店員に告げる。そこで支払いを済ませると番号入りのレシートが与えられ、番号が呼ばれるまで待つのだ。韓国女性店員が『ナンバー ファイブー! ナンバー ファイブー!』と、超カタカナ発音で呼んでくれるのが何とも安心感があって気持ちがいい。



④味わい
お勧めなのは赤いスープに入ったチャンポンと、白いスープに入ったタンメン風のラーメンだ。どちらもおそらくキョッポで賞味期限が近くなった魚介と野菜がたっぷり入ったお得な商品で、スープにも結構なうま味が感じられる。麺はやわらかなモチモチ麺で悪くない。小皿に沢庵などの漬け物を添えてくれるのも嬉しい。ジャジャメンや酢豚風のものも一度注文したことがあるが、これはあまり筆者の好みではなく、チャンポンとタンメンが美味なだけに、ガッカリ感が大きかった。週末の昼などの買い物ついでにここでチャンポンを啜れば、一人旅のソウルの街角でランチを食べているかのような気分に浸れる。ただしここではアルコールは飲めないので気を付けたい。



 ご存知のとおり先進諸国の多くでは少子高齢化による就労人口減少が問題になっている。ついぞ10年ほど前までは国民に出産制限をしていた社会主義国家までもが、少子化に歯止めをかける方向へ政策転換をした。子なしの30代独身日本式サラリーマンとしては祖国の力になれずに申し訳ない思いもある。しかし先日紹介した梅棹忠夫氏の1960年代の本によれば、当時の日本では“人口急増”が問題視されていた様子だ。たった50年程前の話だ。 おそらく戦後からの統計データを用いて“このままのペースで人口が増えれば2000年までには食料が足りなくなり、水不足により・・・雇用問題が・・・”などの議論がされていたのだろう。実際に対策に取り組んでおられる方々には頑張ってもらいたいが、人口問題は一般庶民がそこまでうんぬんかんぬんと心配することではないのかも知れない。明日に怯えず、昨日に苛まれず、今日を誠実に生き、たまにチャンポンを食べるだけで、よりよい社会の構成に役立っている、と信じたい。

ミッション・サン・サビエル・デル・バク

2022-06-08 09:56:05 | 生活
 
 ミッション・サン・サビエル・デル・バクとは、アリゾナ州ツーソンにあるカトリック教伝道所である。それは“ニュー・エスパニア”としてスペイン王国の支配下となったメキシコ・カリフォルニアエリアの先住民に対し、キリスト教改宗を目的に建てらた歴史あるカトリック教会で、今は立派な観光地になっているようだ。2022年のメモリアル・デー週末に、筆者は1日余分の休暇をとってアリゾナ州へ行ってみたのだ。30代後半独身日本式サラリーマンにとっては相当過酷なドライブ旅行とアリゾナの酷暑により、始終ぐったりしていたので詳しいレポはできなかったが、それなりに貴重な体験をしてきたので記録に残しておこうという次第です。まずは、このミッション・サン・サビエル・デル・バクだ。



この伝道所の概要は以下の通りだ。参考にしてもらいたい。
 


①ロケーション、風景
筆者はツーソンのダウンタウンに宿をとった。ミッション・サン・サビエル・デル・バクは、ダウンタウンから車で15分ほど南下した場所にある。ダウンタウンと言えども休日の日中のツーソンは車が少なく運転しやすいのだが、ついつい最短の19号線に乗りそびれてしまったので、下道のミッション・ロードという道を南下した。下草が一切なく、砂地むき出しで低木とサボテンばかりの風景だ。それでもしばらくは道沿いに人家やピザ屋などが並んでいたが、車線が1車線になってからはまさに“荒地”という名がふさわしい風景が両側に広がり始める。そんな土地の区画さえはっきりしないところにも人家がポツポツとあり、小さな囲いの中で牛馬が飼われていたりするのを見る。“何でこんな荒地に住むのだろう”と思いつつ南下を進めると、『ミッション・サン・サビエル・デル・バクは左折』との看板が見える。ミッション・サン・サビエル・デル・バクもまた荒地の中にあるのだ。左折すればすぐにミッションの大きな建物が見える。初夏のツーソンの昼下がり、気温は華氏100度を超え、強い日差しが痛いほどだが、乾いた風は心地よい。



②ミッション・サン・サビエル・デル・バク
伝道所の前の広い駐車場には車が多く停まり、建物の前では写真を撮る人々が沢山ある。大小のサボテンが植えられた前庭は可愛らしく、白く高い二つの塔に挟まれた門構えの部分が土色で、彫刻細工が施されている。コロナ渦の混乱は落ち着きはじめており、ツーソンの町でマスク着用者を見ることは少なかったのだが、伝道所に入るのはマスク着用が求められた。“マスクを持ってきておいてよかった”とホッとして入場しようとすると、入口の係員風の男に止められ、『マス(ミサ)がもうすぐ始まる。そうすると出入りはできなくなるし、写真はダメだ』と言われた。見た目が明らかに観光客だったから仕方がないが、外見で『信者でない』と思われたのが心外だったので、“ミサに参加してやろう”と思い『そうですか』と返事をして後ろの席に腰を掛けた。アーチ形の梁にはわりと優しい画風の天使の画が描かれている。前の方の席はヒスパニック系の人々でどんどんと埋まりはじめ、白人修道士服の男がミサに協力する人を求めている。ただの観光地ではなく、生きている教会なのだ。



③ミサ
こうして図らずも人生で初めてのミサ(聖飢魔Ⅱのライブも含めて)に参加することになった。希望者にはカラオケ選曲本ほどの分厚い本が配られる。そこには日ごとのミサのプログラムが記載されているので、当日のページを見つけ出す。さっきの修道士姿の男が荘厳な衣装を重ねた神父姿で壇上に現れ、その左には3名のギター楽団がスタンバイする。ミサは基本的には、①神父がプログラム内の聖書の節を朗読、②参加者が『神のご加護を!』などの掛け声で合いの手、③楽団が賛美歌の演奏と歌唱、の繰り返しで、その都度起立と着席を繰り返すので、日本の学校の卒業式を思い起こさせた。終盤になると先ほど依頼された協力者が柄杓を持って座席を周り、寄進をする。1ドル程度で十分のようだが、現金を持っておいて助かったと筆者はホッとした。結局小一時間のミサをすっかり体験し、参加者がパラパラと退出し始めるのに合わせて筆者も堂内を跡にした。‘


 この伝道所のあるエリアを含む南方のメキシコとの国境までの土地は、“トホノ・オーダム”という部族の、所謂ネイティブアメリカン居留地であり、“アメリカ合衆国内の別の国”という扱いのエリアであることが判明した。ミッションストリートを走っていて急に人家が少なくなったのも、それでも荒地にポツポツと人家があったのも、荒地に大きなカジノがあるのも、複雑な根深い事情があるようだ。その辺りはここでは述べないが、国家は所詮ニンゲンの集合体なので、ニンゲンと同じように矛盾した行動をするし、自身の後ろ暗さを忘れるための正義を捻出するのに夢中になる。そして犠牲になるのは立場の弱い人々だ。それを救うのが宗教だった訳だが、とにかく現実は過酷である。聖飢魔Ⅱの80年代黒ミサ動画を見ている方が、平和を感じる