ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

アスパラガス

2019-05-26 22:25:56 | 食材
アスパラガスとは、ニンゲンが食用にしている野菜である。昨今、“痴漢に対して安全ピンで反撃する行為”の是非が、筆者の見ているツイッター業界では盛んに議論されている。筆者のような基本的に物腰が柔らかく、そこそこの教養を持ち合わせたバランス感覚のあるニンゲンでさえ、中学入学時に買ってもらった自転車を盗んだ犯人や、高校で大雨の日に傘を盗んだ犯人、それに千葉県高根木戸の安アパートに再三いたずらをしかけた犯人には、“殺したい”とは思わないまでも“生きている価値はない、できれば死んでほしい”と思うほどの殺意を未だに憶えるのだから、一般的婦女子らが、痴漢に対して報復したいという気持ちを抱くのは至極当然であろうが、それを“是”とすると世の中の秩序を保ついくつかの前提が崩れるのも理解でき、筆者には答えが出せずにいる。


この野菜の特長は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。


①アスパラガス
日本でも一般的なアスパラガスだが、米国のスーパーでも必ず見かける大衆的な野菜だ。輪ゴムで10本ほどが束になった状態で売られており、日本でよく見るサイズのものと、それより径がずっと太い逞しいタイプのものが売られている。筆者はこれまで調理方法がピンと来ず、見て見ぬふりをして過ごしてきたが、深刻化する30代独身日本式サラリーマンの野菜不足解消の手段になるのではないかと思い、購入してみたのだった。


②30代独身日本式サラリーマンの野菜事情
30代独身日本式サラリーマンが野菜不足に陥る原因として、野菜が『肉類より食欲がそそらない』、『調理が面倒くさい』、『(大きいので) 買っても余らせるから無駄』、が挙げられる。我々はどんなに格好つけて “最近は肉が食べられなくなった” と嘯いてみても、本当はまだ肉に執着している。そして食べたくないものを調理するのはとても面倒くさい。結果、レタスやカボチャを購入しても使い切らずに余らせて、ミイラになりかけた野菜を冷蔵庫から発見する羽目になるのだ。


③アスパラガス 食べかた
ものぐさ筆者は、アスパラガスを電子レンジで加熱して、それにマヨネーズをつけて食べるという方法を考案した。これが旨い。下手にベーコンやハムなどで巻いたりするよりも断然美味しい。青い香りが口の中に充満し、歯ごたえもそこそこにあって、“私は今野菜を食べている”という認識がしっかりと脳に伝わる。マヨネーズと相まって、ビールやウイスキーなどの肴としても働いてくれる頼もしいサラダになる。ささっと水洗いし、普通サイズは10秒前後、逞しいタイプは25秒程度の加熱すれば芯や繊維が気にならない程度に柔らかくなる。




④アスパラガス 余らせない
上記の調理方法はおよそ調理とは呼べないほどに簡素であるので30代独身日本式サラリーマンでも苦にならない。また1回の食事で3~4本は食べられるので、10本束を余らせることはなく、美味しく飽きることなく完食できるので、冷蔵庫でミイラを発見することもないだろう。



 元法政大学の学生運動ヒロイン洞口朋子さんが、東京都の区議会議員に当選したそうで、かつての彼女の“暴力を肯定する。暴力こそが世界を変える”との発言を取り上げて、“およそ民主主義ではない危険人物”との非難がある。しかし歴史の教科書を一度開けば、彼女の発言が理に適っていることはすぐに分かる。今の秩序でさえ暴力、もしくは暴力装置の存在で維持されているにするに過ぎないことを、平和で暇なニンゲンはすぐに忘れてしまい、事実を語る彼女が理解されるのは次の戦争や革命が始まってからになる。アスパラガスを食べると尿が臭くなる人とそうでない人がいるそうだ。ちなみに筆者の尿はアスパラガスを食べなくても臭い。

五香干豆腐

2019-05-18 16:18:59 | 食材
五香干豆腐とは、亜東超級市場で手に入る干豆腐のことだ。日用品と人生のネタになりそうな珍品を求めて亜東超級市場に通い始めて2年が経とうとしており、手ごろな珍品はだいたい挑戦しきった感がある。“これも食った、あれも食った”と思いながら店内を歩けるほどだ。瓶詰にされた珍奇な魚類や、真空パックされたアヒルの卵黄、冷凍保存された田螺のような貝など、手ごろでない珍品ならまだいくらかあるのだが、それに手を伸ばす勇気が湧いてこないのは、筆者が既に30代後半の独身日本式サラリーマンだからであろう。日常の生活空間からトビウオのように跳ね上がる筋力はまだあるはずなのに、気力がない。なので今日も“手ごろな珍品”である五香干豆腐の紹介だ。


この食材の特長は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。



①干豆腐 見つける
亜東超級市場の一番南側の陳列コーナーは、左側に肉類、右側に野菜が並び、そこを進むと左側は肉類から鮮魚コーナーに変わる。さらに奥へ進むと麩や、植物の葉でくるまれた怪しげな加工肉、そして豆腐などが並ぶエリアに突き当たり、そのすぐ隣の冷蔵コーナーに干豆腐が置かれている。干豆腐はビニル真空パックされているので保存が効くのであろう、山積みにされている。いくつか種類があるのだが、どれも“五香干豆腐”と銘打たれており、違いはどうやら大きさと形状のようだ。


②干豆腐 見た目
筆者が購入する干し豆腐は一片が4㎝ほどの正方形の座布団型で、10㎝程度四方のビニルに“田”の字のように4区画に分かれてパッキングされている。封を開けて見ると一区画に3枚の干豆腐が圧縮されていることが判明した。つまり、一パックに合計12枚の座布団型の干豆腐が詰められているというわけだ。干豆腐は豆腐を圧縮脱水したもののようで、さわり心地はとても固く、ねじったり曲げたりしてみても弾力があって「ぶりん」という感触と共に元の形状に戻る。だがさらに力を加えてねじったり曲げたりすると千切れるように割れてしまう。この感触はまさに消しゴムであり、幼少期に消しゴムに対して妙な食欲を憶えた記憶がある30代独身日本式サラリーマンにとっては魅惑的な品物だ。表面の色は何故か茶色く、中身は白い。



③干豆腐 食べる
干豆腐は千切りにして炒め料理に入れるのが一般的で、サンマテオ市の25番通りの“毛家菜”でもそのように出されていた。しかし幼少期に消しゴムに対して妙な食欲を憶えた記憶がある30代独身日本式サラリーマンは、そのまま食べてみるとよいだろう。座布団干豆腐を3~4mm程度の厚さで薄切りにし、好みの調味料を付けて食べるだけだ。それはすこぶる滋味である。まるで消しゴムのような歯ざわりに、ほんのりとにがりのような風味がするのみだが、よく噛むと大豆の味がやってくきて、わさびや醬油、マヨネーズなどを少し付けて食べるとなかなかよい肴になる。商品名には“五香”と銘打たれているが、香料が足されている気配は感じない。筆者は購入した干豆腐を予め切っておき、食事の副菜として愉しんでいる。

 
 さて、本稿を執筆中に、試しに“消しゴム 食べたい”とグーグルで検索してみたところ、“Rinaのブログ”という2012年を最後に打ち捨てられた廃ブログに行き当たり、しばらく読んでしまった。当時の京都の女子大生のウキウキキャンパスライフが等身大の文章力で綴ってある。私のキャンパスライフとは全く縁のなかった可愛い女子大生のプリクラなどもバンバン貼られてあり、遠い世界を感じた。当時のもの寂しい大学下宿生活の匂いと、今の30代独身日本式サラリーマンの長屋生活の匂いがあまり変わらないことに絶望を感じ、消しゴムを齧った。

こじき

2019-05-02 17:25:14 | 生活
 こじきとは、路上などで物乞いをする行為、もしくはその行為を行う人のことだ。アメリカでは日本に比べてこじきをよく見かける。そもそも日本ではこじき行為が軽犯罪法で禁止されており、こじき行為を行ったものは“100万円以下の罰金”を支払わねばならないというややパラドックスな法律がある。米国でこじき行為が規制されているのかどうか知らないが、これだけ多くのこじきが市井に居ることから、取り締まられてはいないようだ。




①アメリカのこじき
彼らはたいてい段ボールの切れ端に生活困窮を伝える内容を書いたメッセージボードを持ち、交通量の多い交差点や商業施設の入り口付近で待機している。しかし身なりはさほど見すぼらしくなく、日本の所謂ホームレスと呼ばれる人をイメージしている我々からすると、“この人たちは本当に貧しいのか”と疑問を持ちたくなる。それでも米国市民は彼らに対してとてもやさしく、車の窓から彼らに紙幣を手渡す光景を見ることは少なくない。キリスト教所以の寄付文化の浸透が原因であろうか。


②“施し施されの関係”に慣れていない。
30代独身日本式サラリーマンの筆者は、 “人にモノを施すこと” にためらいがある。それはなんだか動物にエサを与えているような、相手を蔑む行為に当たるのではないかという不安だ。だが一方で、 “人にモノを施さないこと” に罪悪感を感じる。交差点での信号待ちの間、こじきを見て見ぬふりして過ごす時間は苦痛だ。 きっと“施し施されの関係”に慣れていないのだ。日本の生活困窮者にこじき行為をする者はほとんどおらず、社会から隠れるようにゴミ箱から空き缶を集めたり、コンビニで廃棄食品を貰ったりしながら河川敷などでひっそりと生活しているのも、それが犯罪だからではなく、“施し施されの関係”に慣れていないからかも知れない。“恥の文化”の残骸が所以であろうか。


③筆者とこじき その1
そんな筆者が勇気を出してこじきに施しを与えたのは米国に来て数か月が経った頃だ。それは仕事で久方ぶりに達成感を味わう機会があった日の帰り道であった。せっかく達成感を味わっているものの、30代独身日本式サラリーマンにはその喜びを共有する人が居ない。そんなときに交差点で見かけたのが同世代くらいの健康そうな白人こじきであり、勇気を出して車の窓を開け、 “少ないけど” と言って小銭をひとつかみ手渡したのだった。そのこじきは思いのほか気軽に「ありがと! 神のご加護を!」と笑顔で小銭を受け取った。



④筆者とこじき その2
彼の気軽さに少し拍子抜けしたものの、こちらも気軽に施してもよいのだと悟った筆者は、それ以来ちょいちょいと気分がのらないときや、気分のよいときに施すようになった。旅先の国道沿いの小さな町のガソリンスタンドでは、これからの長い帰り道の安全祈願を込めて、足の悪い白人老人こじきに小銭とバナナを施した。ヒトにバナナを与えるのは人生で初めてのことで不安だったので、「このバナナ、もう食べないんだけど要りますか」と尋ねたところ、「要る」とのことだったので手渡したのだ。老人はバナナを一房抱えて「神のご加護がありますように」と言った。


⑤筆者とこじき その3
“人にモノを施さないこと”に罪悪感を感じる必要も特にないようだ。ベトナムスーパーの五星超級市場に入ろうとしたところ、若い20代の欧風女性こじきに『少しばかり恵んでくれないかしら』と声をかけられたので、『ごめんなさい。今日はできないんだ』と答えると、『そう、よい一日を!』とニコニコ応対された。少し申し訳ないような思いを抱きながら五星超級市場で買い物を済ませて店を出ると、彼女はまだ居て「さっきはどうも!よい一日を!」とまた声をかけてくれた。彼らも“施されること”を当たり前だとは思っていないので、こちらのことを『この、けちが』と憎悪を向けたりはしない(もちろん例外もあるだろうが)。



 『安易に彼らに恵みを与えることは、彼らの社会復帰への意欲を削ぐことになり好ましくない行為である』という考えがある。しかしアメリカのこじきはちゃんと資本主義社会・地域社会の環の中に居るように見える。堂々と恵みを求め、“恵みたい”と思う人から恵まれている時点でれっきとした職業の一つと呼べる。“恵みたい”と思う人から“恵まれてあげる”サービスを行うことで、恵んだ人の心に安らぎを与えているのだ(という解釈)。本来の仏教用語における“乞食”に近いのだろうか、筆者の職業などよりも地域社会に与える影響が大きい高尚な職業なのかも知れない。そんなことを思いながら令和を迎えたのだった。



追記(2021年):
この記事は主にコネチカットのこじきについて書いてある。2021年にカリフォルニア州サンノゼ市にやってきた筆者は、新たなこじき観を抱くことになる。