ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

ファジータ・スペシャル

2020-12-20 07:23:07 | 食材
 ファジータ・スペシャルとは、ストップショップで手に入る、調理用に切られた野菜がパックされた商品の名前で、プロレス技の名前ではない。さて、アメリカのレストランには必ずと言っていい程“肉なしメニュー”がある。中華、イタリアン・日本料理などの料理の種類に関わらずだ。それはこの国の様々な宗教を信じる人々への配慮であろうし、この肥満大国で健康上の理由から肉の摂取量に制限がある人々への対応とも想像できる。それに加え、昨今台頭してきた“ヴィーガン”と呼ばれる肉を食べない思想の人々の影響もあるに違いない。まぁ、そんなことはどうでもよいとして、深刻な30代独身日本式サラリーマンの慢性的な野菜不足対策にこのファジータ・スペシャルがおすすめだというのが今回の内容である。



この商品の特長は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。



①カット野菜のプラスチック容器詰め
アメリカのスーパーはカット野菜をプラスチック容器に詰め込んだものが充実している。例えば表面に傷みがある、サイズが小さいなどといったそのまま売るとしては相応しくない野菜をこうしてカットしているものと想像するが、種類や組み合わせは様々で、包丁を使うのが面倒くさい人々にとっては人気の商品に違いない。30代独身日本式サラリーマンにとっても便利な代物だ。野菜炒めや野菜スープを作るのに、必要な野菜をそれぞれ購入していては買い過ぎで余らせることになる。プラスチック容器から必要な分だけを獲れば、余り野菜のラッピングの手間もない。主菜にちょっとだけ生野菜を添えたい場合などにも重宝できる。ファジータ・スペシャルはそんなカット野菜のプラスチック容器詰めの中でも、玉ねぎ・赤パプリカ・青パプリカのカットがぎっしり詰まったものを言う。



⓶ファジータ・スペシャル
玉ねぎ・赤パプリカ・青パプリカは“ファジータ”を作るのに必要な野菜なのだ。ファジータとは、テキサス発祥のメキシコ風料理で、簡単に言えば肉野菜炒めに他ならない。細切れの肉(牛肉を使う場合が多いと思うが、別に何でもよいようだ)をタマネギ・パプリカと共にメキシコ風調味料で炒めただけだと思われる。それをトルティーヤに包んだり、米と併せて食べたりするのだが、メキシコ独特の豆ペースト風調味料の味が薄く、あれが苦手な日本人でも食べやすいので初めてのメキシコ料理にはお勧めできる。だが筆者はこのファジータ・スペシャルを特別調理せずにサラダとしていただくのだ。


③ファジータ・スペシャルの玉ねぎ
たいていのサラダは酒の肴として相応しい刺激(塩み、脂っこさなど)を持ち合わせない。ゆえに調理の簡単さにも関わらず、サラダは30代独身日本式サラリーマンに敬遠されがちなのである。だがしかし、ファジータ・スぺシャルの玉ねぎとパプリカは違う。ファジータ・スペシャルの玉ねぎはやや厚めに切られており、そのまま食べればピリリと刺激のある味に仕上がっている。玉ねぎだけを選り分けて、かつお節を振ってポン酢などを垂らして和風のサラダにしてもなかなか豪華な野菜つまみになるというものだ。



④ファジータ・スペシャルのパプリカ
ところでアメリカにはピーマンがなく、代わりにあるのはパプリカだ。パプリカはピーマンに比べて苦み・辛みは少なく甘みが多い。そのため日本のように“子供の嫌いな野菜の代表格”としてのピーマンとはやや異なる扱いを受けているように思われる。ラズウェル細木先生の『酒のほそ道』で、ピーマンの細切りをからしマヨネーズで食べるというおつまみメニューが紹介されており、筆者はそれをパプリカで代用しているのだ。これは不味くはないのだが、やはりピーマンの持つ辛み苦みがないのでやや酒の肴としては物足りないと思っていた。しかしファジータスペシャルでパンチのある玉ねぎと共にいただけば、玉ねぎの刺激と上手にバランスし、さっぱりシャキシャキ、そしていい具合に青臭い良質なつまみになるのだ。



 昨日ハートフォード地区は大雪になった。仕事帰りにガソリンを入れていると、小柄な黒人に声をかけられた。何でも大雪で家に帰れないのだそうだ。すぐ近くに住んでいるものと思い乗せて行ってやることにしたのだが、よくよく話を聴けば空港よりも北の、ほぼマサチューセッツの辺りに家があるとのことだった。『じゃどうやってここまで来たのか』『金もなく一日中何をしていたのか』いろいろな疑問が湧いたが深く追求するのは良くないと思い、彼の言うがままに車を運転した。彼はエンフィールドの安モーテルを指定して、そこで礼を言って降りて行った。悲しい境遇から抜け出す手段を見つけらず、それでもそれなりに生きていける所為でいつの間にか抜け出す気力をも失った人々。そんな人たちがパワーを、誇りを取り戻すようなファジータ・スペシャルはありませんか、お酒と戦争以外で。

甑島の男とバーの女

2020-12-17 19:53:37 | 生活
 甑島の男とバーの女とは、筆者が20代日本式大学院生だった頃に出会った男女のことである。2020年の12月、筆者は長屋でひとり飲酒をしながらいつものように思い出し遊びに興じていたところ、ふいにこの2人のことを思い出した。今からもう10年以上前のことだ。正確には筆者が遭遇したのは甑島の男のみで、バーの女には会っていない。この不思議な夜を直接体験したのは筆者ではなくカタヤマで、筆者はやや傍観者的な立ち位置でこの夜を憶えている。ニンゲンの脳みそはその後の人生とは全く関係のない出来事を鮮明に記憶に残していることがある、もっと大切なことを留めておく方がよいのに。


この日の夜の詳細は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。


①鳥右衛門にて
筆者の年の就職戦線は“氷河期”の氷河が溶け始めたおかげで結構な売り手市場で、筆者もタカハシも早々に就職先が決まっていた。コスモビルの隣にはほとんど同じ大きさの4階建てほどのビルが建っていて、その頃はそのビルの半地下にある鳥右衛門という焼き鳥屋でよく酒を飲んでいた。仲間内からは『実はあまり美味くないのではないか』という疑問もちらほら出ていたのだが、カウンター席と小あがり数卓の小さな店内と、そこでいそいそと働く白髪交じりの少しだけ安斎肇風の店長の雰囲気が心地よくて通っていたのだった。その日はタカハシと2人でカウンター席でカタヤマを待ちながらビールを飲んでいた。


⓶甑島の男
甑島の男の風貌はもう忘れてしまったが、50代くらいの初老の男だったように思う。いつからか鳥右衛門に現れ、同じカウンター席でひとり酒を呑んでいた。そしてひょんなことから筆者とタカハシの会話に入り込み、「俺はコシキ島出身だ。」そう言って彼はメモ帳に“甑”の文字を書いて見せた。筆者はその文字も初めて見たし、甑島の場所も知らなかった。とにかく薩摩隼人らしい男らしさと冗談を許す懐の大きさを持った男で、生意気な学生相手の会話を甑島の男は楽しんでくれていた。そこへカタヤマがやってきたのだ。



③カタヤマ
カタヤマはのん気な男で、就職戦線への参加がずいぶんと遅れた。他の多くの友人がぞくぞくとあっさり就職先を決定していく中でひとり取り残されていた。さすがのカタヤマもこの頃は焦り気味、落ち込み気味で、それが筆者やタカハシには面白く、酒を呑みながら励ましたりからかったりしていたのだが、この夜は甑島の男が居た。『話はわかった』とばかりに甑島の男は、『俺がお前を男にしてやる、次の店へ行こう』などと言い始めた。筆者とタカハシは冗談半分に『あ、是非そうしてやってください、ねぇカタヤン。行くといいよ』と囃していると、カタヤマもその気になり何かを決意したかのような表情でビールを飲み干し、『じゃあ行ってくる』と言い、二人で本当に鳥右衛門を出て行ってしまったのだった。



④バーの女
以下は午前3時にコスモビルに呆然とした顔で帰って来たカタヤマから聞いた話だ。甑島の男には喫茶店のような内装のバーに連れて行かれたのだという。そこにはほとんど客はおらず、40代位の女がひとりでカウンターにいるばかりだった。女は甑島の男とは馴染みだったようで、カタヤマと甑島とそのバーの女の3人で会話が始まるも、甑島の男はカラオケを数曲歌ったところでぐうぐうと寝てしまったのだそうだ。カタヤマも酔っ払っていたので何を話したかはよく覚えていないのだが、ただいろいろと話し終わった後にバーの女が、“私も若いころはいろいろあったのだけれど、今は幸せよ”そう言ってグラスのワインを飲み干したのだそうだ。その姿が妙に艶っぽかったのだと言う。そうすると甑島の男が目を覚まし、“最後に何か歌おう”そう言って3人で時任三郎の歌を歌ったのだそうだ。筆者とタカハシはこの80年代ドラマのような、それとどこかしら宮沢賢治の小説のようなストーリーに大笑いし、しかも何故カタヤマが時任三郎の歌など知っているのかと不思議に思ったのだった。




 このときカタヤマと甑島の男とバーの女が歌った時任三郎の曲名が“川の流れを抱いて眠りたい”だ。あの時筆者はこの曲を知らなかったし、YouTubeはこの世になかったので聞かず仕舞いだったのだが、このほど聴いてみたところ、まさしく3人のあの夜に相応しい名曲で、10年越しにひとりで笑ってしまった。あの日以来、甑島の男には会っていない。バーの女には会っていたとしてもお互いに認識しない。インターネットのおかげで世界は狭くなったので、もしもふたりが筆者と同じようにあの日の夜のことを思い出し笑いをしているのなら伝えたい。カタヤマはあれからきちんと大手の自動車会社に就職を決め、今は二児の父親です。“俺も若いころはいろいろあったけど、今は幸せさ”筆者はいつか誰かにこの台詞を使いたい、そう思いながら飲酒を続けた。