ベイエリア独身日本式サラリーマン生活

駐在で米国ベイエリアへやってきた独身日本式サラリーマンによる独身日本式サラリーマンのための日々の記録

ケイスマウンテン・トレイル

2020-10-26 07:12:06 | 生活
ケイスマウンテン・トレイルとは、マンチェスター市にあるケイスマウンテン周辺のトレイルのことだ。この山周辺のトレイルは、気軽にハイキングやマウンテンバイクを楽しめ、それに頂上から市街を見渡す景色が気持ちいいことなどから地域の人にとても親しまれている。そのためマンチェスター市側にある登山口駐車場はたいてい混雑しているのだ。しかしグーグル地図などをバーーチャル散策していると、このトレイルは遠くヘブロン市のゲイ・シティ州立公園まで繋がっていて、南側からもアクセスできるようだ。南側からであれば筆者の長屋から簡単に行けることが判明したので、休日の朝方のちょっとしたウォーキングに出掛けてみることにしたのだった。



このトレイルの特長は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。


①アクセス
ゲイ・シティ州立公園とケイス・マウンテンを結ぶトレイルは、バーチマウンテンロードという94号線から入る小路で分断されていて、そこを起点にハイキングができるようだった。秋が深まり始めたヘブロンアヴェニューは紅葉が美しいが、バーチマウンテン通りを見逃さないように慎重に運転しなくてはならない。バーチマウンテン通りに入ってしばらく走れば、森の木々をことごとく伐採して設置された東西に走る高圧線の直下に遊歩道らしきものがあり、そこには駐車スペースもあったので車を停め、“これがトレイルかな”と思ってその遊歩道を歩き始めるも、明らかに電気工事用の作業通路に思えたので引き返した。再びバーチマウンテンロードに戻り、少し北方向に歩けば、今度は山道風のトレイルが見られたので、こちらを進んでみることを決意した。



⓶シェ二プシット トレイル
トレイルを進むとすぐに分岐が現れて、立て看板に地図がある。『入り口にも看板必要だろうが!』と突っ込みたくなるが、アメリカではよくあることだ。さて地図を見ると青色の線で、“シェ二プシット トレイル”という名の長大なトレイルが南北に延びている。そして筆者が立つ分岐から出る道は、どちらへ行ってもその“シェ二プシット トレイル”に繋がり、便宜上“シェ二プシット ゲイ・シティ コネクター”という長たらしい名前が付けられている。この長たらしい名前のトレイルは地図では青白の縞模様で描かれていて、縮尺を指で測ると北方面から回ればおおよそ1マイルで“シェ二プシット トレイル”に繋がって、“シェ二プシット トレイル”を半マイルいけば再度ナガタラシイトレイルまで戻ってくるようであった。さらに半マイルでこの分岐に戻る。一時間ほどの簡単なトレッキングになりそうだったので、ここを往くことにした。



③シェ二プシット ゲイ・シティ コネクター
地図の写真を撮り(アメリカのトレイルではとても重要)、分岐を右に進む。辺りは高い木が無数に生えていて下草が全くなく、地面はぎっしりと落ち葉で覆われている。樹木の間隔が広いこともあって、樹木の幹に塗られたトレイルの方向を示す青白紋様のペイントがなければどこがトレイルかわからない。秋の朝の森の中は風がよく通り、どんぐりが地面に落ちる。『ボツ!』と意外に大きな音を立てるので、わかっていても「ビクッ」としてしまうものだ。トレイルは緩やかなアップダウンを繰り返しつつ少しずつ谷に近づき、ついには小川に辿りつく。この辺りは水気が多いためか下草が繁茂しており、ときおりリスがガサガサと音を立てている。谷を過ぎ、緩い登りに入るとすぐに、シェ二プシット トレイルと交わって、ここから樹木のペイントは青単色になる。南下する周回コースは急こう配の登り路になっていたので、「引き返したいな」と思ったが、ここは行くしかあるまい。



④シェ二プシット トレイル
だが急こう配な登り道はすぐに終わり、この勾配の頂上からは、尾根の木々の隙間に遠くハートフォード市街が一望できる。また、この周辺からトレイル沿いに苔むし、おそらく雨水によって少しずつ浸食されたであろう灰色のさざれ石がゴロゴロと並んでいて、日本庭園のような造形美がある。特に10月初旬は落ち葉が岩の上にしんなりとかぶさっていて尚のこと趣深く、ハイカーを楽しませる。さて、シェ二プシット トレイルをこうして南下していれば、半マイルほどでもういちどナガタラシイトレイルと交わって分岐へ戻れるはずなのだが、ときおり標識のない名もないトレイルと交わるものの、それらは青白模様の標識がないのでナガタラシイトレイルではない。だんだんと筆者の心に不安が芽生え、景色を楽しめなくなってくる。



 ついにトレイルはナガタラシイトレイルと交わることなく、最初に筆者が誤って侵入した、高圧線の電気作業用通路と思しき道へと繋がったのだった。アメリカではよくあることだ。木々がことごとく取り払われ、大きく分断された森の中を走る高圧線の下の作業通路は森と違って朝日がまぶしい。道路の両側は下草が鬱蒼としていて、森の中よりも虫や鳥の声が明らかに大きく、生命の活動が活発だ。奇しくもニンゲンによって破壊された自然のあとに、低木や雑草、そして小動物の豊かな生活圏が出来上がったようだ。歩くニンゲンにとってもうす暗い森の中はやはり怖い。それはニンゲンがちょっと前まで森の中で外敵におびえながら暮らしていた頃の記憶だろうか。

鱈の舌

2020-10-22 07:01:57 | 食材
 鱈の舌とは、魚の鱈の舌のことだ。コロナウイルスによって命を絶たれた人や、間接的な影響として生じた世界的な経済活動の停滞によって倒産や内定取消などの不幸に見舞われている人が数多くいる。だがどんな悲しい厄災であっても、それによって新たな出会いも起きるものだ。○○被害者の会の活動を通じていろいろな人と出会い、人間的に成長できた人もあるだろうし、東日本大震災がきっかけで 出会い、結婚して幸せな家庭を築いた人も少なくないだろう。筆者もまた、コロナのおかげでいくつかの出会いがあった。ひとつは花園大学で仏教哲学を教える佐々木閑先生。彼はコロナの影響で遠隔講義をはじめており、それがユーチューブで一般公開されている。たまたまそれを見つけた筆者は、その古典仏教に関する講義に大いに刺激を受けており、ついに出家を考え始めている。そしてもうひとつが鱈の舌だ。


この食材の特長は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。


①鱈の舌との出会い
“不要不急の外出”の禁止が発令されていた頃は、州外に出る気分はすっかり失せており、近くの町を気ままにドライブして時間を潰すのが週末の常であった。ある日ウォーターバリー市のはずれを走っているときに、ポルトガルの旗を掲げたスーパーマーケットを見つけたのだ。ポルトガル系住民のコミュニティはハートフォードのParksvilleにもあるのだが、そこには大きなスーパーはない。『面白そうだ』と思いマスクを着用し入ってみるも、そこまで目新しいものは見つけられず、『つまんないな』と思った矢先、冷蔵庫の中に怪しい気配を見出した。



⓶鱈の舌 概要
鱈の舌は、米国ではよくスープの販売に使われる円柱形のプラスチック容器にぎっしり詰まって売られていて、1パウンド15ドルと結構な高級食材だ。最初は『そんなものが売ってあるはずがない、何か違う魚の通称かも知れない』とも思ったのだが、調べたところ本当に鱈の舌であり、北欧や南欧ではよく食べられる食材なのだそうだ。特にフィンランドでは人気食材で、水揚げされた鱈の舌をもぎ取るという地獄での鬼の業務のような残酷なバイトが高給であり、ティーンネイジャーに人気なのだと書かれた日本のブログを目にした。



③鱈の舌 下処理
長屋に帰りさっそく容器を開けてみると、鱈の舌は予想どおり結構なグロテスクさがある。“舌と言われれば舌だな”というかたちをしていて、それになんだかビラビラしたものが付いている。白い薄皮の中にピンクの肉が透けて見える感じや、大きさや形状が、ちょうど皮を剥かれたトノサマガエルの様で気持ちがよくない。また、今回の商品は保存が効くようにかなりの濃度の塩水に漬込んである。北欧ではフライにしたり、バターソテーにしたりするようだが、このまま調理するとしょっぱすぎて話にならないので、何度も洗った後に冷蔵庫で一晩冷水に付けて塩抜きを試みた。



④鱈の舌調理・味
今回はあえて和風に、塩抜きした鱈の舌を酒・砂糖・醬油で煮て食うことにした。味は悪くない。外側の白い部分はコラーゲンのプリプリで、中のピンクの部分になって初めてほんのりと魚の味が感じられる面白い食材だ。だがこの調理方法ではモリモリだくさん食べるとすぐに飽きが来るので、2、3枚の舌を酒と共に楽しむのが適している。北欧の調理法にしたがってフライにすれば、「サクッ!プリッ!サカナ」と変化に富む味覚を楽しめるだろうし、スープの具にしてもよいようにも思う。また挑戦してみたいと思うものの、はやりパウンド15ドルがややネックである。



 米国にやってきて随分と時が経つが、長らく『米国レストランのパスタはなぜあのようにネチャネチャと茹ですぎているのだろうか』という疑問を、調べることもないままに漫然と過ごしていた。先日その疑問をふと思い出し、職場のイタリア系アメリカ人のマルコに尋ねたところすぐに答えが返って来た。『それはアメリカ人がイタリア料理を知らないからだ。君にとっての米国の寿司やラーメンと同じさ。俺は外で絶対にパスタを食べないし、イタリア人は当然アルデンテだ!』と強い口調で言われました。こと味覚に関しては、『美味しい味』とは『知っている味』である必要がままある。幼少期の食育はとても重要ということだろう。筆者の母は手巻き寿司にはいつも珍妙な具材を用意していたのでアメリカ寿司にも違和感はないし、ラーメンも基本的に柔らかめに作ってくれていたのでアメリカラーメンも嫌いじゃない。そういえばやわらかパスタも給食でよく出ていた。親や自分の教育環境に感謝しなくてはいけない。

44号線ドライブ ハートフォード~プロビデンス

2020-10-20 04:19:43 | 生活
 44号線ドライブ ハートフォード~プロビデンスとは、筆者が暇な休日に敢行したのんびりドライブのことだ。この道路はニューイングランド地方を横断しており、ハートフォード市から東方を見れば、市の中心部からロードアイランドの州都であるプロビデンス、さらにはメイフラワー号が大西洋を渡って上陸した、まさしく『アメリカの故郷』、マサチューセッツ州プリマスまで延びており、その経路には歴史を感じさせる。だが、普段の東西の移動は84号線や90号線といった自動車専用道路を利用してしまうので、利用機会は少ないのだ。であるからして、『何か興味深いものがあるかも知れない』と思い立ち、ドライブすることにした。


このドライブの結果は以下のとおりだ。参考にして貰いたい。


①44号線
44号線の歴史について調べるも、小手先の調査ではあまり有意義な情報は得られなかった。だがなんでも19世紀にできたいくつもの“TURNPIKE(通行料が徴収された道)”を繋ぎ合わせたもので、由緒のある道路には違いないようだ。とにもかくにもスタート地点のハートフォードのダウンタウンへと向かうことにした。



⓶“アッパーアルバニー”から出発
スタート地点はハートフォード中心部北のアッパーアルバニー地区、廃墟のような古いレンガ作りの建物が点在し、歴史のあるエリアであることはうかがえるものの、今はけっこう廃れた界隈になる。ルート44号のこの部分はアルバニーアヴェニューと呼ばれ、19世紀初頭にできた道だとのこと。周辺は第二次大戦前まではユダヤ人やアイルランド人、戦後には黒人と、割と差別の憂き目に逢っていた人々の生活エリアとなっており、今でも都市部の暗部が凝縮されたような雰囲気を持つ。でも筆者がよく利用するジャマイカンレストランやベーカリーもここにあって、昼間はなかなか楽しいところなのだ。



③イーストハートフォード~マサチューセッツ~
ヤードゴートのスタジアムを抜けると左折してコネチカット川を渡り、イーストハートフォード市へ。この橋の部分は6号線と84号線と共用だったり、橋を渡ると5号線に突き当たったりして、44号線はつぎはぎになっているので標識を見ながら進まなくてはならない。イーストハートフォード市もまた、プエルトリコ系やジャマイカ系、アフリカ系の人々が多く住むエリアで、44号線沿いには楽しいお店が沢山ある。筆者はペッパーズ・ジャマイカンベーカリーで朝食を買い、再び車に乗り込む。マサチューセッツ市を抜けて6号線と分岐すると景色に森が広がり始める。野菜や果物を売るファームがところどころで見られるので、喉が乾いたらせっかくだからリンゴを買って齧るのが、粋な気分になってよいだろう。



④コネチカット大学
さらに田舎道を走っていると、コネチカット大学が右手に現れる。東京理科大学長万部キャンパスや、立命館アジア太平洋大学などのように、上京を期待して入学したら遠隔地だったガッカリサテライトキャンパスかと思いきや、この大学は1881年にこの場所で設立されたのだそうだ。古い建物が残り、ミュージアムなどもあるようで、44号線がやはりかつての交通の幹であったことが偲ばれる。中を覗いてみても楽しいことがあったかも知れないが、今回はパスした。



⑤ポムフレット、パットナム
さらに進めば道はより深い森に包まれ始め、寒暖差の激しい湖畔の木々はすでに紅葉を始めていた。ところどころに州立公園やトレイルが現れるのだが、標識が不親切で立ち寄るチャンスを逸してしまう。だいたいアメリカは、けっこうな観光地でも日本の様に『○○まで○キロ!』といった来所を促す標識がないことが多いので、目的のないドライブでは名所を見逃してしまうのだ。州境に近づくとポムフレット、パットナムといった集落が現れ始める。これらの町は広大な庭が綺麗に整備された富裕層っぽい邸宅があり、民主党支持層の白人が多いようだ。パットナムは鉄道の駅があってその周辺が小洒落たバーやカフェで賑わい、古い建物には大きなアンティークショップが入っていてこれも楽しい。筆者はこのアンティークショップに立ち寄り、昔のハートフォードを描いた古い絵葉書を物色していたが、白人の太った女性店員にずっと見張られていたようで、購入しようと数枚を手に取った瞬間に『預かりましょうか?』と声をかけられた。



 30代独身日本式サラリーマンの心には、伝説の教育番組『たんけんぼくのまち』で培われた探検心が残っている。だから遠くへ行くことがどんなに簡単になっても、長屋で仮想世界の探検に没頭できるようになっても、ちょっとした近場の隠れた魅力を探しに出かけてみたくなる。パットナムでは白人のキレイ目な姉ちゃん店員がいるカフェでフローズンコーヒーを注文し、それを一気に飲み干して再び車に乗り込んでプロビデンスへ。プロビデンスの町を少しだけ散歩し、また戻る。普段の自動車専用道路では2時間足らずで行ける行程を3時間程度かけたのんびりドライブは、近場なのに遠出をした気分で心地よい。ちなみにちょうさんは2020年の現在、声優・ナレーターとして活躍されているようだ。62歳だという。我々もまだまだこれからよ。

ホッカイドー・ラーメン

2020-10-12 22:55:02 | 食事
 ホッカイドー・ラーメンとは、ニューヘイブンにあるラーメン屋である。筆者はニューヘイブンのイエール大学周辺を散歩した後に、“あ、ラーメンが食べたい”と思った。“ラーメンが食べたい”という気持ちが定期的に沸き起こるのは、身体にまだ若々しさが残り、健康である証拠なので、その感覚は嬉しいものだ。イエール大学付近、つまりニューヘイブン市の中心部には学生客を狙ったかのような、比較的まともっぽいラーメン屋がいくつか発見できたのだが、どうせ駐車に難儀するし、もう歩くのも嫌だったし、「ズズズ」と音を立ててイエールの秀才たちに『オー!ジーザース!』と、しかめ面をされるのは恐怖だったので、少し郊外のこのホッカイドー・ラーメンへと向かった。


このお店の特長は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。



①ホッカイドー
米国には“HOKKAIDO”の名が付く日本食レストランがやたら多く、少し検索するだけでけっこう出てくる。米国人にとって北海道はそれほど知名度の高い場所なのだろうか。確かに最近は質のいい雪の魅力からスキー客が世界中からやってくると聞くが、わざわざ米国から足を運ぶ人は多くなかろう。それに特別大きな米軍基地がある訳でもない。理由は分からずじまいだが、ともかく少なくともアメリカでは“YAMAGATA”や“EHIME”、それに“GIFU”などに比べてHOKKAIDOは随分親しみのある名詞のようだ。



⓶立地・外観
ホッカイドー・ラーメンは、ニューヘイブン市街を出て、1号線を西方へ行くとすぐに現れる。携帯屋、作業靴やトレッキングシューズのレッドウィングの店などが入る大きな商業用建屋のひとつなので、外観に日本っぽさは全く見られない。しかし表に掲げられた立て看板には“Hokkaido Kaisen Ramen”と称して、海の幸がてんこ盛りのラーメンの写真があったので、店の主は北海道イコール海の幸というのを理解して店の名を付けたことが予想できた。



③店内・メニュー
店内は広々としてとても清潔感がある。たまに見かけるアジアン雑貨をこれでもかと置きまくった雑多な雰囲気はなく、壁に中国風の風景画や浮世絵風の絵画が飾られてある程度だ。調理カウンターには『拉麺』と書かれた赤ちょうちんがたくさんぶら下がっている。アジア人の男性店員が一人いて、気さくな笑顔でメニューをテーブルに置いていった。ラーメンのメニューは豊富で、日本語が添えられてあるが誤植が非道い。“ちゃしゅらめん、ぎゅにくらめん”はまだ許せるものの、“ぇげたりあんらめん”や“SぴCYみそらめん”などと原型の予測が難しいほどの誤植もある。ただし海鮮ラーメンが“カイゼンラーメン”なのは誤植ではなく、トヨタ自動車へのオマージュなのかも知れない。筆者はムール貝たっぷりの海鮮ラーメンには少し怖気づいた。でも普通の醬油やトンコツじゃあ面白くないので“ぎゅにくらめん”をいただくことにした。



④味
ぎゅにくらめんを待っていると奥の厨房から男性店員の妻と思しき女店員が現れて、『キムチは要りますか』と尋ねてきたので、どうやら店主は韓国の人のようだ。よく見るとメニューにはプルコギなどもある。やってきたぎゅにくラーメンの見た目は豪華だ。牛丼の具のようなバラ肉がどかんと乗っかり、煮卵とチャーシューも本格的だ。さっそくいただいてさらにびっくり、牛丼の具のようなバラ肉は甘めに味付けされており、それはまさしく牛丼の具そのものだったのだ。そういえば紅ショウガも載っている。牛丼の汁の影響で甘みを増した醬油ベース(おそらく)のスープは、テーブル胡椒をふんだんにかけて食べるとなかなか悪くない。日本では母親しか作らないほどの柔らかめの麺も食べやすくて懐かしい。YELPを見れば周辺住民の評価もすこぶる高いイチオシのラーメン屋のようだ。



 しかしこの国の外食は高い。ラーメンが税抜き12ドルだ。ビッグマックセットですら8ドルくらいする。これは単純労働者の最低賃金が高く設定されていることが理由のひとつだ。コネチカット州の法定最低時給は11ドルで、日本の首都東京よりも高い(2020年現在)。米国は日本に比べて労働組合の力が強いし、人材派遣会社のような悪徳ピンハネ組織もないので、単純労働者は日本のように搾取されない。つまり働いている人は基本的にお金があるのだ。そのはずだ、だってマクドナルドもラーメン屋もいつだって混雑している。それでもアメリカは貧富の差が大きいのは、つまり失業率が高いことが原因のはずだ。町には乞食が溢れているし、スラムのような場所もある。翻って日本は、失業率は低く乞食は少ないけれど、低時給で搾取される人々が増加している。統計データではなかなか掴めない現実がある。『アメリカでは・・』『欧米では・・』と、簡単に比較できないことは明らかなので、すぐにそうやって海外の例を何かと持ってくる人は基本信用しないようにしている。そしてアメリカのラーメンの麺はいつでもどこでもとても柔らかい。

ニューヘイブン周辺散歩

2020-10-09 04:43:40 | 生活
 ニューヘイブン周辺散歩とは、コネチカット州南部の都市ニューヘイブン市を筆者が探訪した記録である。自分の脚で歩ける老後を確保するために『とにかく歩く』ことを決めた筆者が、最近はトレイルへ頻繁に出かけていることは読者諸氏の知るところであろう。その他にも買い物へ行く際には入り口から離れた位置に車を停めたり、なるべく店内をウロウロするように心がけたり、レジ待ちの際には片足立ちを行ったりしている(一説によれば1分間の片足立ちは、30分の徒歩に匹敵する運動量なのだそうだ)。最近は森の中ばかりを歩いていたので、今回は町歩きでもしてみようと思ったのだ。


この散歩の概要は以下のとおりだ。参考にしてもらいたい。


①イエール大学
ニューヘイブンは天下のイエール大学がある都市としてあまりにも有名で、日本語のウィキペディアには州都のはずのハートフォードの数倍の記載量があり、知名度の差は歴然としている。『日本との関係』の項には、明治時代にイエール大学に留学した著名人の名が列挙されてあるものの、筆者の知らない人ばかりだ。彼らの詳細を見ると、その多くが実業家や政治家であるのに対して一人だけ“吉田鉄太郎”という人は、今もなお現役でラジオパーソナリティをされているとのことであるが、さすがにこれはツッコミ待ちの記事だろう。ともかく富国強兵・殖産興業を推し進めるべく強い志を持った明治の人々を、快く受け入れた教育機関でもあったのだ。



⓶散歩
とりあえず町の中心っぽい場所に辿りついたので、路上駐車スペースに車を停める。日曜の午前中、町は閑散としていて路上の駐車場はガラガラなので簡単に駐車できる。迷子にならぬように通りの名を確認すると、そこはエルムストリートで、ほぼ大学の南端の場所であった。駐車時間上限の二時間分を支払い、散歩を開始する。通りを挟んで南北両方がキャンパスになっていて、筆者はとりあえず北上することにした。この一角はさすが1700年代から続く古い大学だけあって、石やレンガ造りの古めかしい建物が並んでいて、ときに石の彫刻やステンドガラスの窓が美しい結構大きな塔や教会のようなホールなどもあって、中世ヨーロッパのような雰囲気がある。芝の広場やベンチには、イエールの秀才諸君が晴天の下で、一人ノートパソコンを見ていたり、数人で談笑していたりするのがまぶしく感じる。筆者はキャンパスを写真に収めたり、感心した様子で建造物を眺めたりして、“自分はただの旅行者で、不審者ではありません”とやんわりとアピールしておく。



③散歩2
そうして学内の小路をうろうろしていると、ヨーク通りに出てきてしまった。日本の大学は限られた門からしか出入できず、他は塀で囲まれたりしているものだが、ここは各所に出入り口があって自由に行き来できるようだ。ヨーク通りから南方向を見れば、洒落たカフェや店があるようだったので、南へ一度戻ってみることにした。とにかく歩道が広く歩きやすい。広い歩道には街路樹が植えられ、ゴミが少ないのもまた、アメリカらしくない雰囲気を持つ理由だ。ただし犬のクソが放置されていることがあるので、筆者の様にふらふらとよそ見をしながら歩く人は危ない。南下していくとイエール大学所有の美術館(開館が午前11時からで、今回来訪叶わず)やイエール大学グッズを売るショップなどがあって、それらを過ぎるとどうやらキャンパスエリアを出たようで、古い民家が並ぶ。どれも数段の石段を上ってから玄関がある様式の家なので、この付近は昔は洪水に見舞われることが多かったのかも知れない。




④散歩3
筆者はまだ歩き足りなかったのでプロスペクト通りを北上し、再びキャンパスを抜ける。キャンパス内を一般道路が縦横断している点も日本の大学とは異なる。そうすると左手にまるで城壁のような壁に囲まれた広大な墓地が現れる。こういった古い町の中心にある墓地というものは歴史が古く、見どころがあるのが常なので、入り口をもとめて城壁沿いを歩くものの、一向に入り口に遭遇せずについには一周してしまった。もしかしたらイエールのロゴが付いたユニフォーム姿のホッケー部女子集団がキャッキャしているのに気を取られているうちに見過ごしたのかも知れない。墓の北側は運河の跡があって今はトレイルになっている。その向こうにも何とも西洋風な大きな病院のようなマンションのような、または城のような建物があり、興味を持って調べるとパウリ・マリー・カレッジというイェールとは別の大学のようであった。



車に戻ると駐車上限時間の10分前、約100分で8000歩の散歩となった。帰宅してからパウリ・マリー・カレッジについて調べると、これは“レジデンシャルカレッジ”といい、どうやらいわゆる“大学”ではなく、イエールの学生が衣食住を共にしながら切磋琢磨する施設のことらしい。イエール大は学内にこういった施設を複数持っているとのことで、そういえば大学内にも“○○カレッジ”と銘打ったやや生活臭のする建物があったのを思い出す。ふと、筆者がかつて某地方都市の予備校の寮で送った生活を思い出し、それを何とかイエールの秀才・野心家たちの生活と重ね合わせようと試みたが、くだらないことや浪人生ならではの下世話の思い出ばかりが出てきてしまい、諦めました。