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aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履歴稿 北海道似湾編  カケス 7の1

2024-10-19 14:53:38 | 履歴稿
IMGR074-04
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 カケス 7の1
 
 多盛老人の末子であった保君は、私と同年輩ではあったが、学校では早生れの私より一級遅れて居た。
 
 私の家の附近には、向いに多盛老人の家が一軒きりと言った関係が多分にあったが、学校から帰ると保君と私は、いつも仲良く遊んだものであった。
 
 私の家の裏に一度は開墾をしたことがあるらしい二段歩程の空地があったが、其処には一米程の背丈でヨムギの枯立が密生して居た。
 
 
 
IMGR074-05
 
 それは、私達が引越て来てから一週間程経過をした或る日の午后のことであったが、保君と私が、石蹴と言う競技的な遊びをして居た時に、私の名を裏の物置から母の声が呼んだので、「保君、一寸待ってくれ」と、タイムを要求して私が物置へ駈けつけると、「焚付けが無くなったから、裏の枯れたヨムギを折って来ておくれ」と、母が言いつけたので、「よっしゃ」と、裏へ行って枯れたヨムギを一本一本ポキンポキンと折って居ると、傍へ寄って来た保君が、「そのヨムギどうするのよ」と、聞いたので、「うん、これお母さんが焚付けにするのよ。」と私は答えた。
 すると「よし、それならば俺も手伝ってやる」と言って保君は、私と少々離れた所でそのヨムギを手折り始めた。
 
 
 
IMGR074-06
 
 私が五十本程手折ったヨムギを、「これだけあれば良いかい」と言って、母へ差出すと、その枯ヨムギを私の手から受取った母が、「毎日使うんだから、もっと沢山取って欲しいわ。」と言って居る所へ、私の三倍以上の量を抱きかかえて来た保君が、「おばさん、焚付けにするのなら、雁皮と言ってとても良い木の皮があるよ、だけどおばさんが、この枯ヨムギで良いと言うのなら、俺、此処の奴全部取ってやるよ。」と言ってから、「俺うまいことを考えたんだ、今作ってくるから一寸待っとれよ。」と、その一抱えの枯ヨムギを母の前へ投げ出して自分の家へ走って行った。
 
 
 

 
 
 


履歴稿 北海道似湾編  椎茸狩り2の2

2024-10-17 20:49:31 | 履歴稿
IMGR074-03
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 椎茸狩り2の2
 
 椎茸が沢山あるのは、主として此の急斜面であったが、其処には楢の木の風倒木と、地方の人達が薪を伐り出した残骸の捨木に芳香を放って黄褐色の椎茸が、無数に生えて居た。
 嬉嬉として生徒達が、楢の木の倒木から倒木へと椎茸を探し歩いて居るうちに、時は移って中春の陽が稍西へ傾きかけた頃、「皆集まれ」と、大声で叫んだ校長先生の集合の号令がかけられると、其処此処の熊笹を掻分けて全校生が集って来た。
 
 その時の私は、三十程しか取れなかったのだが、その三十程の椎茸を、「私は馴れない者だから、これだけしか取れなかった」と言って、校長先生に見せたのだが、その時の校長先生は、「お前はこんなこと始めてだから面白かっただろう。それでも随分取れたじゃないか、それだけ取れれば大成功だぞ、家へ帰ってからお母さんに見せたら、お母さん喜こぶぞ。」と言って朗かそうに、呵呵と笑って居たが、其処此処の熊笹を掻分けて、次次と校長先生の前へ集る生徒達が、それぞれ手頃の笹に十二、三個の椎茸を突刺して、多い者は十本以上を、そして少ない者でも七、八本をぶらさげて居たのには、「矢張り北海道の子供達は、俺等とは大分違うな。」と、大いに驚かされた私であった。
 
 
 
IMGR074-04
 
 併し、その時の私は、嘗てそれまでこうした原始その儘の容姿をした山へ登ったことも無ければ、椎茸と言う物を見たことも無かった私であったから、それが三十個程の収獲であっても得得として居た者であった。
 
 やがて私達生徒は、”青葉茂れる桜井の”と、南北朝時代の忠臣としてその名を称えられて居る楠公父子の袂別を歌った歌を、校長先生の声に合わせて、合唱しながら山を降ったのであった。
 山を降る時も、登る時と同じように、老樹の枝に小鳥の群が囀って居たが、二、三の老樹に栗鼠が枝から枝へ飛び跳ねる光景や、後足で立った前足で、きょとんとした恰好でお出お出をして居るように見えたのが、私にはとても珍しかった。
 私は、似湾と言う所に三年八ヶ月という歳月を過したのであったが、少年の時代であった私は、春秋の二期には必ずその山へ椎茸を取りに行った者であったが、次回からは二百個程の数ならば私にも容易に取れたものであった。
 



履歴稿 北海道似湾編  椎茸狩り 2の1

2024-10-17 20:47:06 | 履歴稿
IMGR074-02
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 椎茸狩り 2の1
 
 その日は、私が似湾の学校へ転校してから、あまり日数がたって居なかったと思っているが、全校の生徒が校長先生の引率で、その山裾が校庭の木柵まで延びて居る裏山へ、椎茸狩りに行ったことがあった。
 学校の周囲は、校門の両側から校庭と校舎を、清水の湧く裏の小沢の方面を除いた三方へ、高さが一米程あった木柵を巡らして在って、その南側は私の家から四十米程離れた所を東方へ直線に延びて居て、其処から校舎に併設されて居る校長住宅の横を台地の北端まで九十度の直角に曲って、直線に施設されて在った。
 
 
 
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 私達生徒が、校長先生の引率で椎茸狩に行った裏山へは、校長住宅の玄関前を通って東に突当った所の木柵に、三尺の木戸があって、地方の人達が薪を搬出する通路になって居る所から登るのであったが、その木戸を出た所からは、道幅が狭い小路の両側が雑木の生い茂った原始林の緩い傾斜が三十米程続いて居て、其処からは幾度か曲って登る急斜面になって居た。
 山頂への路は、地方人達が薪を背負って搬出するために施設した小路であったから、路傍に生い茂る老木の根が所所に露出をして居たので、話に夢中になって足許に油断をすると、その露出した根に躓いて転倒する者もあったが、その老樹には、早春の陽を浴びて、私にはその名も知れぬ小鳥の群が、芽ぶくれた枝から枝へ囀づつていた。
 やがて、私達は山頂へ登り着いたのだが、峯の平坦な所は二十米程であって、其処からは東側に在った谷間へ降る急斜面になって居た。




履歴稿 北海道似湾編  公立・似湾尋常小学校 2の2

2024-10-17 20:42:48 | 履歴稿
IMGR072-24
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 公立・似湾尋常小学校 2の2
 
 私の席が在った教室は、「右向け前へ。」で這入ると、その正面が教壇であって、教壇に向かった右端の一列が六年生、その隣りが私達五年生の列、そして私達の左から二年、一年と言う順序に各一列と言う四列の机が配列されて在った。
 一つの机には、それぞれ二人づつが着席するようになって居て私は、五年生の列の最後部に、戸長(村長と同じ資格)の三男坊であって、高松獅郎と言う少年と同席することになった。
 校舎前の校庭は、生徒の数と比較して「随分広い運動場だなぁ」と、私を驚かす程に広かった。
 この校庭には、校門を這入った左側に鉄棒が在って、その鉄棒から三米程離れた所にブランコが、鉄棒と直角に設けてあったが、私が六年を卒業するまでには、私以外の生徒で鉄棒体操をする者は1人もいなかった。
 
 
 
IMGR073-24
 
 校舎の裏は、十米程行った所が台地の終端であって、その下を二米程の幅で小沢が流れて居た。そして台地からその小沢のある下へは、子供の私達が漸く1人通れる程度に細くて、斜面の勾配を緩めるために、幾度もくの字に曲って居る小路があった。
 そのくの字に曲った小路を降りきった所に、岩間から清水がコンコンと湧き出て居た。
 
 「この湧水はなぁ、俺達が作ったんだぜ。」と、15分間の休み時間に、燥ぎ過ぎて渇を覚えた私を、その湧水へ案内をしてくれた同級生の庄谷と言う少年が、清水を溜めるために埋めて在った、俗に九升樽と言って居た正油の空樽と、その樽へ清水を落す幅が十糎程の脚がついている板で作った桶、その桶が湧水の出る岩間に安定するように工作をしてあったのを指さして、これは誰、あそこは誰と一人一人の名を指して誇らしげにを教えてくれたが、この湧清水は、全校生の渇を潤す唯一の飲料水であって、春夏秋冬のいづれの季節にも実に美味かった。




履歴稿 北海道似湾編  公立・ 似湾尋常小学校 2の1

2024-10-17 20:38:36 | 履歴稿
IMGR072-20
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 公立・ 似湾尋常小学校 2の1
 
 新居で二夜を明かした私は、父に伴われて”公立似湾尋常小学校”と大書した門標の在る所から這入て当時は、只一人っきりの教員兼校長が居た職員室を訪れた。
 この日が、北海道へ移住をした私の、転校入学第一日と言う日であったのだが、父はそのことを、
一、明治45年4月18日、二男、公立似湾尋常小学校の、五年生として入学す。
と、記録して居る。
 
 学校は、私達の家から前の道路を右に曲って約百五十米程行った所に在った。
 
 私達の家が在る所を、生べつから似湾へ移る時に、そして駄馬を迎えに行った時にも越した、村境の峠を降った所からが平野になって居たので、此処は平坦地だなと思って居たのだが、その日学校へ行って始めて台地になって居ることが判った。
 
 それと言うのは、校門の前を右へ三米程行った所からの道が、約45度の傾斜になって居たからであった。
 
 
 
 
IMGR072-21
 
 学校は、東西に並んで教室が二つあった。そして玄関は南向きであって凸形に出ぱっていて、玄関を這入ると、其処が一坪の板を張った土間になって居て 左右の壁ぎわには、生徒の下駄箱が備えてあった。
 
 その玄関を上って硝子戸を開けた所から十五米程の所が廊下になって居て、その奥に便所があったのだが、その便所と廊下は硝子戸で仕切ってあった。
 
 毎朝、始業の鐘が、「カラン、カラン」と鳴ると、廊下の右側には三・四年生、そして左側に一・二・五・六年の生徒が二列横隊に整列をして、校長先生を待つことになって居た。
 
 やがて出席簿と教科書を持った校長先生が、職員室から出て来て玄関の土間から上った所の廊下中央に立つと、六年生の級長が、「気をつけ、礼」と言う修礼の号令をかけて、その修礼が終ると、「右左向け、前へ進め。」と言う、次の号令でそれぞれの席がある教室へ這入て行くのであった。
 
 この似湾の学校も、校長の住宅が校舎に併設されて在った、 併し生べつのそれとは異って、この学校には職員室があったので、住宅はその職員室の隣に併設されて居た。
 
 
 

履歴稿 北海道似湾編  似湾村の新居 5の5

2024-10-15 20:28:27 | 履歴稿
IMGR072-17
 
履 歴 稿  紫 影子

北海道似湾編
 似湾村の新居 5の5

 その当時の私は、生べつと言う所がどれ程の距離に在るのかと言うことは、全然意識して居なかったものであったが、村境の峠も越えて、凸凹の多い密林の道を、生べつへ、生べつへと、ひたすらに足を急がせたのであった。
 
 そうした私が、中杵臼の部落に近づいた時に、それを熊の襲撃を避けるための物だと言って居たが、首から下げた鈴の輪を、チャリン、チャリンと鳴らしながら 数頭の駄馬が、荷鞍の両側に私達の引越荷物を緊縛してその鞍上の主人に馭されながら、似湾へ向って進んで来た。
 
 
 
IMGR072-18
 
 私は、この駄馬の群を路傍に避けて、その数を数えたのであったが、その頭数は7頭であった。
 
 「私達の引越荷物が来た。」と、小躍した私は、其処から引返してその駄馬の後を追ったのだが、少年の私には、パカパカと駆足で 進んで行く駄馬の列には、とても追っては行けなかった。
 
 息せき切った私が、新居から五百米程の所まで帰った時に、荷物を卸し終って生べつへ帰るこの駄馬の列に逢った。
 
 私が、新居へ帰り着いた時には荷物が一応整理されて居て、多盛老人から教わって作った十八立入の石油空缶を適当に切った即製ヘツツイで母が昼食の準備中であった。
 
 新居に移った翌日、母の指図に従って、兄と二人で私は終日住宅内外の清掃と小修理をしたのであったが、香川県時代に住まった家には、硝子戸と言う物は一枚も無かったのだが、この新居住宅は、玄関の入口も、窓も、その一切が硝子入であったのが、私には珍しかった。
 
 
 
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 私は、この日始めて硝子拭きを経験したのであったが、とてもその作業が辛いものに思えた。
 
 硝子拭きを終った私達兄弟は、それまで 嘗て見たことのない跳釣瓶と言う原始的な井戸の修理を母に言いつかったのだが、井戸の枠は未だ腐朽しては居なかった、併し、井戸の右側に設けて在った流場はその儘では到底使用に堪えないまでに朽ちて居たので、引越荷物の容器として用済になった、莨の空箱を利用して応急の修理をした。
 
 新居の寝室は、奥の八畳間であって、全員の家族がその部屋に寝るのであったから、お互いに窺屈ではあったが、「私は、既に北海道で成功をして居る。」と、嘗ての丸亀時代に、第三の家で父に豪語をした由佐校長が、校舎に併設された六畳間二室の住宅に、五人の家族が起居をして居たのと比較して、狭い家でこそはあったが、門柱の在る一戸建のこの家に生活をする、私達の明日が明るいような気がした。
 
 

履歴稿 北海道似湾編  似湾村の新居 5の4

2024-10-15 20:25:42 | 履歴稿
IMGR072-13
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 似湾村の新居 5の4
 
 そうした多盛老人は、更に次の言葉を私の父へ「あんたが今頃北海道へ来て、簡単に成功をしようと思ったならば、それは大間違いだ、と言うことは一寸時期が遅過ぎたと私は思うんだが、と言って、絶対不可能とは言い切れない。
 だから、往時私がやったことと、当然その方法は同じでは無いのだが、精神的には矢張り不焼不屈で無ければならない。
 そして、どんな時でも『どんとこい』と言うきもったまで打突かって行く執念が必要ですよ。」と、忠告をして、部屋を出て行ったが、遂に成功者としての列に加わることを許されなかった私達としては、その反省をする都度、正に冷汗三斗の思いがする、現実の私である。
 
 
 
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 多盛老人の旅館で一泊をした翌朝、宿の朝食が終ると、「さあ、表へ行ってこよう」と、独言を言って私は旅館の表へ出た。
 その日は空は良く 晴て旅館の前から二百米程隔てた山の端から五米程の所まで昇って居た太陽が紺碧の空から和らかい春の光を大地に浴びせて居た。
 郷里の香川県では桜花の満開季と言うに、北海道の四月は袷の着物に羽織を重ねた装いでは未だ肌寒かった。
 
 旅館の表に立った私は、四辺をずっと見廻したのだが、人家と言う物が全く疎であって、 旅館の附近には向いに私達の新居となる家が只一軒あるきりであった。
 
 
 
IMGR072-16
 
 旅館の部屋を出る時には、只単に「よし、表へ行こう。」と言う以外には、何の目的も無かった私であったが、不図、私達の引越荷物が今日この似湾へ着くと言うことを思出したので、「よし、これから引越荷物を迎えに行って来よう。」という気になって、私は生べつの方向へ歩き出したのであった。
 
 私のこうした行動には、何故と言う程の深い意味は無かったので あったが、丸亀を出発してから、自分達の住む家が無いと言うことを淋しく思って居た私であったので、”引越荷物が来たならば、自分達の家に住める”と言った感懐がそうさせたものであった。
 
 
 

履歴稿 北海道似湾編  似湾村の新居 5の3

2024-10-15 20:20:01 | 履歴稿
IMGR072-11
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 似湾村の新居 5の3
 
 私達の引越荷物は、丸亀駅から沼ノ端駅までが鉄道輸送、そして沼ノ端・生べつ間を荷馬車で継送される手順になって居たのだが、鉄道輸送は、貨物が人よりも可成り日数を要したので、私達が明日は似湾へ出発をすると言う日暮時に、漸く生べつ小学校に到着したのであった。
 
 その当時の生べつ・ 似湾間は、悪路とその村界にある峠のために、荷馬車による荷物の搬送には、相当困難なものがあった。 
したがって、私達の引越荷物は馬の背を借りる駄馬搬送をすることになったので、人馬を雇う都合もあって、私達よりも1日遅れることになった。
 
 
 
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 引越荷物が1日遅れるので、私達は似湾の第一夜を、多盛老人の旅館に宿泊することになった。
 
 多盛老人の家は、平屋の木造建築であったが、可成り大きい構えの家であった。
 
 当時の私は、その建坪が何坪あるか等と言うことには、未だ無頓着な時代であったから、そうしたことは 全然判って居ないのだが、店の間口が六間程であって、奥へは四間程あったように思った。
そして家人の居室については、その位置も間数も全然知らないのだが、店から上って廊下伝いで二間程を行くと左へ曲る廊下が在って、その廊下が二部屋並んで居た八畳の客間へ出入をする通路になって居た。
そしてその廊下の左側が全部硝子戸になって居て、その前の二間程の空地を隔てた所に、郵便局の宿泊室があった。
従って、 この家の構造は凹形の建物であったと私は思っている。
 
 多盛老人の家族は、後妻の夫人とその後妻との間に生まれたたもつと呼ぶ私と同年輩の少年が居て、長男の局長さんは一粁程川下に一戸を構えて別居をして居た。
 
 
 
IMGR072-12
 
 私達5人の夕食が終って、膳が下げられたあと多盛老人が這入って来て、老人がこの似湾へ 移住をした当時の体験談を、懇切に父に聞かせてくれたのだが、傍で聞いていた私は、未だ世事には疎い少年であったのだが、その厚意がとても嬉しく思えた。
 
 往時を懐旧しては語る多盛老人の体験談の中で、私が特に興味を覚えたのは、老人は此の似湾と言う所へ、明治20年代に入植したそうであったが、その当時は鵡川からの道路も、往時未だ無数の鹿が群棲して居た時代に、餌を求めては定期的に移動をした道が在った程度で、それ以外には道らしい道は無かったそうであった。
そして入植当時の似湾には、未だ 和人と言う者が2・3程度しか居なかったそうであったが、入植後の多盛老人は、国から給与された土地を只管開墾することに専念して、粒粒辛苦の末、遂に成功者の一員になったそうであったが、その開墾に着手をした当時は、堀り建てた仮小屋に、白昼狐狸の類は訪れ、夜ともなれば羆の咆哮に山野が震うという、密林の伐墾に全力を傾注をした結果が、今日の自分を成功者の位置に列せさせたものであると、多盛老人は言って居た。
 



履歴稿 北海道似湾編  似湾村の新居 5の2

2024-10-15 20:14:26 | 履歴稿
IMGR072-04
 
履 歴 稿  紫  影子
 
北海道似湾編
 似湾村の新居 5の2
 
 私達親子5人は、1週間の仮寝の宿であった生べつ小学校をあとに、新住の地となる似湾村へ出発したのは、明治45年の4月16日であった。
そうして、私達が校門を出た時刻が、朝の6時頃であったように覚えて居る。
 
 嘗て、鵡川から 私達が歩いた生べつまでの道は、鵡川川の川岸から山麓までが耕作されて居たのだが、生べつから似湾への道は、その中程に在る中杵臼と言う20戸程の部落附近が、若干耕作されて居た程度であって、それ以外の所は似湾との村境になっている峠を降るまでは、道の両側が千古斧釿を知らないと言う雑木の原始林であった。
 
私達の家族が行く似湾の新居は、生べつから更に鵡川川の上流へ八粁程行った所に在って、その字の名を下似湾と称して居る所であった。
 
 両側から雑木の密林に覆われて居て、途中に逢う人とてもない田舎の道をトボトボと歩いた私達が、目的地の下似湾へ着いたのは、その日の正午に近い時刻であった。
 
 
 
IMGR072-06
 
 私は、沼ノ端から鵡川の本村へは馬車で、そして生べつ・ 似湾と徒歩で旅行をしたのであったが、郷里の香川県とは、風物があまりにも異なって居るので興味が持てなかったから、途中の風光と言うものには、全くの無関心であった。
 
 似湾で、私達が新に住む家の先住者は、北海道庁の森林看守であったそうだが、その家は生べつから私達が歩いて来た道の右側に在って、その道路からの入口には、直径二十糎程の丸太が門柱の形式で建ててあった。
 
 そしてその住宅は、其処から六米道這入った所に建てて在って屋根が柾葺と言う南向の木造建築であった。
 
 家の構造は、玄関を這入った所が一坪の土間であって、その土間の左側には畳二畳を敷ける板の間、そしてその右隣りにこれも畳六畳を敷ける板の間が在ったが、この板の間を私の家では茶の間として使ったのだが、この茶の間と玄関の板の間の奥に、それぞれが一間の床の間と押入が在る八畳の座敷があった。
 
 
 
IMGR072-07
 
 この構造を見て私が驚ろいたのは、八畳間の座敷以外が、全部板の間であったことであった。
 
 また、玄関の土間の蔭が一坪の台所であって、その台所から左へ降りた所が、三方の囲いも、そして屋根も葭で造った四坪程の物置であった。
 
 勿論、下は床のない土間であった。
 
 台所からその物置への仕切は、粗末なものではあったが、板戸を使ってあったので、まずまずだなと私は思ったのだが、物置から表への出入り口は、戸と言う物の設備が無くて、古莚が二枚ぶら下って居たのには驚いたものであった。
 
 このぶら下った莚を潜って、物置から外へ出ると四米程の所に跳釣瓶の井戸があった。
 
 
 
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 その井戸から右へ五米程行った所に、桂の大木が1本、亭々と、天をを摩して居たが、その根元の近くから井戸の方向に向って同じ桂の大木が根こそぎに倒れて居て既に枯損していた。
 
 この桂の木を中心にして、南北に四米、東西に十米程の面積が、その根元で直径十糎位の木を頭にした雑木の薮になって居た。
 
 また、家の表側は道路までそして、その北側が裏の物置の最端線までがこの新居の野菜畑であって、その面積が一反半程あった。
 
 私達の新居と道路を挾んだ向側に、中村多盛さんと言う老人が、雑貨や荒物の店と旅館を兼業して居た。
 
 また、その南隣には似湾郵便局の局舎が同じ棟下に併設されて居て、多盛老人の長男で友之進さんと言う五十年配の人が局長さんで あった。



履歴稿 北海道似湾編  似湾村の新居 5の1

2024-10-15 20:09:40 | 履歴稿
IMGR072-02
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 似湾村の新居 5の1
 
 それは、私達の家族が生べつ小学校に着いてホッとした翌日のことであった。
そして校庭前の急斜面で失敗をした日の夜であったが、「あなた達が定住をする所は、隣村の似湾と言う村であって、今度鵡川村外七ヶ村の戸長役場から分離をして、似湾外三ケ村戸長役場として誕生をしたその役場の吏員となることは、私が前以ってきめてあるのだから、何も心配はありませんよ。そして、似湾の学校長をして居る大矢と言う同郷の男が、 住宅も既に手配をしてあるから、安心しなさい。」と、由佐校長が父に話をしたのであったのだが、その時の父は、ただ「ハ、ハ」と頷いて居たのではあったが、その表情には、何か深刻なものが潜んで居るように窺えた。
 
 由佐校長は、嘗て私達が第三の家に住まった時代に、「渡道してから3年もすれば、必らず成功をする。」と言って、父に渡道を勧誘した人物であっただけに、”村吏になって給料取りの生活をしろ。」という由佐校長の言葉を、傍で耳にした私ですらも、「何んだ話が違うじゃないか。」と、不満に思ったものであったのだから、父としては、私の想像を遥かに超えた深刻なものがあっただろうと、現在の私は想像をして居る。
 
 
 
IMGR072-03
 
 しかもである、父に渡道を勧誘した日の由佐校長が、「私は、既に成功をして居る。」と嘯いたことも、少年の私の耳朶に残って居たその人 が、教室1つの学校長に過ぎなかったとしたならばなおさらのことであった、と私は思って居る。
 
 由佐校長が嘯いた、「3年後には、必ず成功可能。」と言う言葉を信じて渡道をした父母は、遥々北海道まで来て給料生活をしなければならないのか、と思った時の心境は、辛いとか、口惜いとか言って表現のとても出来ない筆舌に尽くし難いものであったろうと、私は思っている。