aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履歴稿 北海道似湾編 私の弟と烏 6の6

2025-01-06 19:57:49 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
 
北海道似湾編 
 私の弟と烏 6の6
 
 当初私は、「弟の奴、何故あんなことをするのかな。」と不審に思って見詰めて居たのであったが、そうした私の目が其処に意外な光景を捕えたので、「ウム、そうだったのか。」と頷けたのであった、併しその光景があまりにも珍無類と言う滑稽なものであったので、私は思わず吹き出してしまった。
 
 その珍無類の光景と言うのは、「こん畜生」と弟に怒鳴られて居るのが、何んと二羽の烏では無かったか。
 
 私が、その根元に薯種を置いてある太い切株の上には、弟が背負って来たお握り弁当を包んだ風呂敷包が置いてあった。
 
 それが雌雄の烏であったかも知れないが、その風呂敷を二羽で喰えて、飛び去ろうとして居るのを弟が、柳の木で根元の大地を叩いては、怒鳴って居たのであった。
 
 
 
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 その頃の烏は、郷人に懐いて居た。何故そうした状態にあったかと言うことを今にして想えば、次の諸条件であったように想う。
 
 その当時の似湾村は、山と言う山がいづれを見ても、斧釿を知らない原始その儘の姿であった、そして平地にもそうした状態の森林がうっ蒼として所々に点在して居た時代であったから、川雑魚、木の実、虫類、小鳥の雛等を常食として居た烏は、その日その日の餌食に不自由をしなかったので、村の農作物を荒すと言うことが、至極稀であった。
 
 それはそうした実態がそうさせたものと思うが、私達少年が、烏を追っかけたり、その巣を襲って仔烏を捕えようとする行動を大人の人達は叱ったものであった。
 
 その日の弟が、直接烏を叩かないで足下の大地を叩いて怒鳴ったのもそうした郷人のありかたが、そうさせたと今の私は思って居るが、若しあの時の弟が、今一歩踏み込んで直接烏を叩いたならば、勿論烏は風呂敷包のお握り弁当を諦めて飛び去ったではあろうが、弟のような幼年期の子供が、よしんばそれが真剣なものであっても烏としては、一種の戯れでないかと思ったのではないかと、現在の私は想像をして居るのだが、弟の叩く柳の木が、切株の根元の大地に音をたてると、羽搏きはこそするが、烏は切株からは離れなかった。
 
 
 
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 二羽の烏が、切株から飛び立てなかった理由には、こうしたことがあったのでないかと現在の私は思って居る。それは二羽の烏が、風呂敷包を右と左から向い合って喰えて居たことであった。その結果として羽搏いても羽搏いてもお互いが引張合をすることになるので飛び上れなかったのだろうと言うことであるが、その時の光景は、弟が足下の大地を叩く、烏が切株の上でバタバタと羽搏く、弟がそうした烏をじっと見て居ると、烏が羽搏きを止めて風呂敷包を喰え直す、すると弟が、また足下の大地を叩く、と言う場面を繰返して居る弟と烏の握り飯争奪戦が、あまりにも滑稽であったので、「ハハハハハ」と私は腹を抱えて笑った。
 
 私の笑い声が、あまりにも大きかったので、それまで青豌豆の種蒔に専念して居た母が顔を上げて、弟と烏のそうした争いを見ると「シッ、シッ」と烏を追う口を鳴らしながら弟の傍へ、駆け寄って行った。
 
 それまで弟が、柳の木を振り廻して迫る、風呂敷包の争奪戦を繰返して居た烏は、子供の弟に大人の母が応援をすると言う、始めての経験に風呂敷包を諦めて仔烏が、待って居るであろう林の奥へ、「カア・カア」と啼きながら飛んで行った。
 


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履歴稿 北海道似湾編 私の弟と烏 6の5

2025-01-06 19:26:53 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 6の5
 
 その時の弟と私の距離は、二十米程しか無かったのだが、周章た弟は、その途中で二、三度転倒をしたのだが彼は起きあがり、起きあがり、夢中になって駈け寄って来た。
 
 当時の似湾では、洋服を着て居る者と言えば、役場吏員の一部、教員・巡査・森林看守・医師と言った人達に限って居て、その他の者は凡てが和服に下駄履或は草鞋履と言った服装であった。
 
 従ってこの日の私達母子は当然和服姿であった。
 
 私と母は、高丈とも言ったし、また地下足袋とも言って居た物を履いて居たのだが、当時六歳の弟は下駄履の姿であった。
 
 弟は、最初に転倒した所で下駄を脱ぎ捨てて足袋裸足になって駈け寄って来たので、「義憲、裸足はいかん、危いから下駄を履いて来い。」と私が注意をするのを、彼は素直に「ウン」と頷いて、その場所へ駆けて行った。
 
 
 
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 私は、柳の木の馬に寄せる弟の関心を煽るのを目的に、下駄を履いて一心に駆け戻った彼を尻目に、「ヒヒン、ヒヒン」と嘶きを真似ながら、更に勢をつけて土塊を打砕いた儘になって居る、略正方形の一反歩に近い耕地を、或時は大きく、また或時は小さく、円を描いて巻乗の要領で駆け廻った。
 
 そうした私は、今は半ば泣声の弟が、「兄さんくれよ、馬をくれよ。」と喚きながら、幾度か転倒しながらも、必死になって追っかけて来た。
 
 そうした弟の喚き声に、豌豆を蒔く手を休めて腰を伸ばした母が、「義章、もうそんなにセカサないで、義憲にやりなさい。」と私を窘なめたので、潮時や良しと、「それ義憲」と弟を手招いて私は柳の木の馬から下りた。
 
 
 
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 そうした私は、「ハア、ハア、ハア」と息せき切って駆寄って来た弟にその柳の木の馬を手渡した。すると弟は「兄さん、有難う。」と軽く頭を下げたのだが、それまで嫌と言う程にセカされて居たのでいらだって居たものか、私の手からひったくるように捥ぎ取った、その柳の木の馬に早速打跨って堀返された畑に散らばって居た笹の根茎の中から鞭に手頃の物を一本拾うと、一鞭当てて「ヒヒン」と一声高々と嘶きを真似ると、大地を蹴って次弟は一目散に駆け出した。
 
 
 
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 それは、それから一時間程過ぎた時のことであったが、それまで「ヒヒン、ヒヒン」と喜こんで、駆け廻って居た弟が、「こらっ、こん畜生、この野郎。」と突然怒鳴り始めたので、そうした弟の怒号の声を聞いた私は、「義憲の奴、今度は何をやって遊んで居るのかな。」と薯蒔きの腰を伸して怒号する弟に目をやると、弟は馬齢薯の種を置いてある、一番大きい切株の側で、それまでは馬にして喜んで遊んで居た柳の木を振りかざして喚いて居たのであった。
 
 その時の私は、おかしなことをやる奴だなと思ったので、なおも弟の行動を見守って居ると、弟は振りかざした柳の木で足下の大地をバシッと叩いては、「こん畜生」と怒鳴って居るのであった。
 


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履歴稿 北海道似湾編 私の弟とカラス 6の4

2024-12-30 14:43:10 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 私の弟とカラス 6の4
 
 弟は親子三人分のお握弁当と母が、その日蒔かんとする、青豌豆の種をグルグル巻にした風呂敷包を右肩から、左脇下に背負ってその右手には、空手籠を持って居た。
 
 「おお義憲、お前弁当持って来てくれたのか、重かっただろうが。」と頭を撫でてやると「ウン」と頷いて、とても得意そうであったのが、今に私の印象に残って居る。
 
 私の馬鈴薯蒔は、背負って来た叺の種薯を全部、鎌で二つに切って、それを弟が持って来た手籠に一ぱい入れては自分が、昨日作った畝筋に約三十糎程の間隔に一個づつ、ポトンポトンと落しては、両足で交互に土をかけて行くのであった。
 
 また母は、私が薯を蒔くために畝筋を切った、最後の筋から約五十糎程間隔をおいて、自分が蒔かんとする青豌豆の畝筋を数十本切って種を蒔くのであったが、弟は原始林に隣った開墾畑で独りぼっちにされたのがつまらなかったのか、私の側へ来てブツブツ呟きながら未だ種薯を落としていない畝筋を私に真似て、両足で埋めるので、「駄目だっ、義憲。」と私が叱っても、弟は「何を言って居るんだ、こんなこと俺にだって出来るぜ。」と言った。寧ろ誇らし気な態度になって益々馬力をかけるので、私は閉口した。
 
 
 
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 私が、あまりにも連続的に𠮟るので、セッセッと青豌豆の畝筋を切って居た母が、「義憲、邪魔をしたらいかんよ、こっちへお出で。」と手招きをすると弟は喜んで、早速母の方へ走って行ったので、私はホッとしたのだが、しばらくすると、「義則、駄目っ。」としきりに叱る母の声が聞こえて来るので、「義憲の奴、困った奴だが一体何をやって居るんだ。」と目を弟に注ぐと彼は、折角母が切った畝筋を私の傍でやったと同じようにまたまた両足で、得意そうに埋めて居た。
 
 ホントに困った奴だなぁ。」と私は舌打をしたのだが、その途端、私に素晴らしい名案が浮かんだ。
 
 その案名と言うのは、弟が私達母子から離れて独りで遊べる物を作ってやることであった。
 
 何を作ってやろうかなと思いながら四辺を見廻した私の目が、私達の畑の東端を流れている小沢の芽に、芽ぶくれて居る数本の柳の木を捕えた。
 
 「そうだ。」柳の木で、一つ馬を作ってやろうと思いついた私は、早速その根元の直径が二糎程ある手頃の柳の木を一本切りとった。
 
 その柳の木の長さは、全長二米程の物であって、切り口から1米程のところまでには枝が無かった。
 
 
 
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 私は、切り口の太い方を馬の頭部に見たてて、その柳の木に打跨った。そしてヒヒン、ヒヒンと馬の嘶きを真似ながら、畝筋未だ切って無い畑を、跳ねながら走り出した。
 
 その当時の似湾には、未だ自転車と言う物が一台も無かった時代であったから往来は、凡て徒歩と馬によって居たので、私達の住んで居る住宅前の道路には、終日乗馬を駈ける人が絶え無かった。
 
 弟は、そうした乗馬を駈ける姿に憧憬を抱いて居たものか手頃の棒切に打ち跨っては、チッ、チッ、チッと口を鳴らして騎乗者が、馬に発進を促す舌打ちを真似て、ヒヒン、ヒヒンと、これまた馬の嘶きを真似て、吏員住宅の前を駆け廻るのが、独り遊びをする時の弟が、最も得意とする行動であった。
 
 私はこうした弟の日常に着想して、母と私の畑仕事を妨げる弟を遠ざけるのには、乗馬の遊びをさせるのが最適と思ったので、柳の木の馬を作ったのであったが、この着想は見事に成功した。
 
 弟は、私の「ヒヒン」と真似た馬の嘶きを耳にするとその視線にそうした私を捕えて、「兄さんおくれよ、兄さんおくれよ」と喚きながら私の傍へ駈寄って来た。
 

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履歴稿 北海道似湾編  私の弟と烏 6の3

2024-12-25 20:08:58 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 6の3
 
 私の母は、胃弱と言う持病があったので、いつも薬湯に親しんで居た人であったから、過激な労働は出来ない人であった。従って、住宅の付近にある家庭菜園を耕作するのが精一杯であったのだから、小出さんからの借地は、主として私が耕作をしなければならなかった。
 
 私の家では、借地の畑を小出さんの畑と呼んで居たが、私は学校から帰ると、早速その小出さんの畑へ鍬・鎌・鉈等の器具を持って第一日の火曜から土曜日までの五日間を、種を蒔くための整地に通った。
 
 私の整地作業第一日は、開墾をする時に伐採をした柴木や掘り起した木の根株、それに切り払った枝木を、人力ではとても掘り起せないので、其の儘に残してある巨木の根株を芯にして、その周囲に積重ねてあったものを焼きつくすことであった。
 
 芯になって燃やされる切株は、その直径が六、七十糎程あった物が五箇所に選ばれて居た。
 
 私は、枯草を狩集めて積累ねてある柴木や木の根の隙間へ風上の方から詰込んで、次々と五箇所を廻って火をつけた。
 
 
 
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 その日の風は微風ではあったが、柴木を始め木その物が乾燥しきって居たので、火は忽ち勢い良く燃え広がって真紅の炎が高々と五箇所の切株から揚がった。
 
 「よしっ、これならうまく燃えるぞ。」と、熾んに火の手を揚げる五箇所の火を次々と見廻った私は、その日の黄昏時まで笹の根を深く堀返してある新地の土塊を畑地の南端から、鍬を振るって砕き耕したのだが、その面積は、僅か二十坪程のものにしか過ぎなかった。
 
 私はその翌日も、学校から帰ると早速小出さんの畑に出かけたのであったが、昨日燃やした五箇所の火は既に燃えつきて居た、併し、柴木や木の根の類が未だ炭火のように赫赫として居た。そして芯にされた切株はその外側が黒く焦げてブスブスと燻って居た。
 
 私は昨日に引続いて、矢張黄昏時までの時間を懸命に土塊砕きをやったのであったが、昨日の経験が要領に馴れさせたので、その日は、約半反歩程の成果をあげることが出来た。
 
 明けて、木曜日の第三日目には、火は全く消えて、黒く燻んだ切株の周囲を柴木類の灰が、白く取り巻いて居た。
 
 
 
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 その日の土塊砕きは、二日間の熟練が能率をあげて、翌四日目には全部完了と言う素晴しい成績であった。
 
 五日目の土曜日には、昨日までに砕いた土を均して馬鈴薯を蒔く部分の畝筋を切った。
 
 ”私の弟と烏”それは、六日目の日曜日のことであったが、次弟の義憲がこの小出さんの畑で二羽の烏と、珍無類の滑稽を演じたことであった。
 
 その日の朝私が、叺に入れた半俵程の種馬鈴薯を背負って、鍬を持とうとした時に母が、「今日はお天気も良いし家にはお父さんが居るのだから、お母さんも手伝ってあげる。その鍬はお母さんが持って行くから置いて行きなさい。」と言ってくれたので、私はその鍬を残して途中では、三度ほど休んだが、三十分程で小出さんの畑に行き着いた。
 
 畑に行き着いた私が、畑の中央部に在った直径が一米程もある楢の巨木の切株に、種馬鈴薯の叺を卸してホッとした時に、「義章、重かったじゃろうなぁ。」と二丁の鍬を肩にした母が、弟を伴って畑に来着いた。
 
 
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履歴稿 北海道似湾編 私の弟と烏 6の2

2024-12-25 19:33:07 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 6の2
 
 当時、似湾村としての一般的な食生活は、米と麦或は稲黍・粟・稗・馬鈴薯・南瓜等を混合したものが主食であって、馬鈴薯・生唐黍・南瓜の類は、その季節ともなれば塩煮にして、一食は必ず食したものであった。
 
 私の家もこの二種類混合の主食と、代用食の馬鈴薯・生唐黍・南瓜等の塩煮を食べて生活をした家庭であったが、住宅の周辺に割当られた家庭菜園の収穫だけでは補い得なかったので、他に二反歩の借地をすることになった。
 
 借地は、私達の住んで居た吏員住宅から道路(私は鵡川から生べつそして似湾へ移住をするまでも、それから以後も自分達が歩いたこの道を、本稿では今まで道路と書いて居るが、胆振の国の鵡川から十勝の国へ抜けて居る道であったから、或いは当時の国道と称するものであったやも知れんと思うので、爾後は此の道路を国道と書くことにする)をT字路から左へ曲って一粁程を行った所の左側に、その家の造作はあまり立派では無かったが、当時の似湾村としては、家構えの広い小出さんと言う人の土地であって、前年開墾したばかりの新地であった。
 
 
 
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 現在では、苫小牧の王子製紙山林部は冬期間に鵡川川の上流地域に在る、会社の所有林から造材をした原料丸太を、柳芽が告げる北海道の春の水に乗せて国鉄富内線の穂別駅までを流送搬出をして、其処から鉄道輸送をして居るのであるが、当時は、太平洋へ注ぐ川口の在る鵡川村の本村までを、流送することによって搬出をして、其処から専用線であった軽便鉄道によって苫小牧まで運んだものであった。
 
 従って、上流地域から川口までの要所要所に、流送の作業をする人夫の宿泊所が必要であった。
 
 併し、その流送搬出は、六十日程度の短期間であったので、その流送作業の過程に於て、終点の鵡川までの途中に於て似湾村が一泊をする地点であったのだが、数隊に分れたその流送人夫の人達が一日間隔で川を原木と共に下って来て似湾に一泊をするのであった。
 
 併し、そうした人達の人数が、時としては百人に近い人数となることもあるので、一般の旅館営業をして居る人達としては、そうした季節的な多人数を収容する設備は、とても出来なかったので、小出さんのような大きな構をした家を借りて居たようであった。
 
 
 
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 私の家で借りた畑は、その小出さんの家から更に北へ百米程行った所に幅が二米程の小沢があって、その小沢の土橋を渡ると左へ曲る小路があった。
 
 小沢の流れは、この小路に添って十米程行った所から左へ曲って居て、私達の借地の畑はその右側に在った。
 
 畑は昨年開墾したばかりの処女地であったので、その直径が五十糎程の物から八十糎程もある樹木の切株が、此処や彼処に十数本点在して居て、切り倒して枝を払った直径六十糎内外と言う桂の丸太が、其処此処に集積されてあった。
 
 私達の家が、下似湾から市街地の吏員住宅へ引越たので、兄は郵便局へ遠くなったのだが、私は学校の授業が終わった足をその儘郵便局へ立寄って、開函用の鍵と鞄を持って帰えることを許されたので、翌朝の八時に開函した郵便函の郵便物を局に引継いで登校をすれば良かったので、寧ろ都合が良くなった。
 
 併し、日曜日と祭日には、引継を了えた空鞄を持って帰らなければならなかったので、以前とは反対の行程ではあったが、市街地と下似湾間を、矢張り往復をしなければならなかった。
 
 またその頃は、勤務の馴れた兄が、一人で配達をして午后の五時頃には毎日帰って来て居たので、私の手伝はもう必要が無くなって居た。
 
 
 
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