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aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履歴稿 北海道似湾編 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の5

2025-04-04 16:44:26 | 履歴稿
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履 歴 稿   紫 影 子
 
北海道似湾編
 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の5
 
 これは後日談ではあるが、私は大正四年の十二月に似湾村と言う所を離れてから、幌別、室蘭、幌別鉱山、東京、神戸と、家庭の事情、学問、鋳造技術の錬磨等と言った理由によって、転々とその住居を変えた者ではあったが、大正十一年に徴兵をされて、神戸から遥々札幌連隊区内の、月寒歩兵第二十五連隊と言う札幌の近郊(現在は市内)の兵営に入隊したものであったが、当時の連隊編成は、小銃部隊の三個大隊に、重機関銃の教練をする者と、歩兵砲の教練をする者と言う、二種類の兵隊を収容して居た機関銃隊と言うものから成って居た。そして私が所属をして居た兵舎は、この機関銃隊であった。
 
 それは古兵と呼ばれて居た私達二年兵には、最後の機動演習が身近に迫って居た九月中旬のことであったが、それは或日曜日のことであった。
 
 当時の軍隊では、日曜、祭日と言った日には、朝食後から夕食時限までを、週番、衛兵、諸当番(炊事、厩舎、連帯、大隊、中隊と言ったもの)と言った勤務以外の者は、札幌市内への外出が許されて居たので、いつもの私は、札幌の町へ出て制限をされた時間までを遊んで来たものであった。
 
 その日も一旦は週番下士から外出証を受け取ったものではあったが、あまり気が進まないので、その外出証を週番下士に、「綾井は今日外出を中止します。」と言って返して、私は班内に残った。
 
 
 
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 班内の戦友達が皆外出をしたので、独りボッチになった私は、しばらく、寝台の上に寝そべって居たのだが、「そうだ、連体サンデーに投稿をするつもりで書いた原稿を投稿してやろう。」と思ったので、早速整頓棚の手箱(兵営時代の稿に翔記してある)から、その原稿用紙を取り出して、そうした原稿を投函する設備のあった酒保(酒、莨、アンパン、歯磨粉、石鹼、燐寸、便箋、塵紙と言った物を兵隊が買う所)へ出かけた。
 
 私が投稿しようとした原稿の表題は”消燈喇叭”と言う小品文であったが、その内容はその入営前に馬と言う動物を扱い慣れて居ない一古兵が、機関銃隊の駄馬を曳いて馭歩教練
をする時の光景をテーマにしたものであったが、その原稿を持った私は、正面の入口から這入らずに、横の狭い入口から這入ったのであったが、日曜日の午前中の酒保は、勤務以外の兵隊が皆外出をして居るので至極閑散であって、卓子はがらんと空いて居た。
 
 連帯の酒保と言う所には、下士官の曹長が一人次に上等兵と当番率の一等卒(その後一等兵と呼ぶようになった)が一人づつと言う軍人の配置であって、その他はパンやウドンと言った物を売る地方人の商人が、五人程居るだけの所であった。
 その当時の酒保の上等兵は、私とは同室の中村と言う男であったので、原稿を投函した私が、カウンタに居た上等兵の側に寄って何かと雑談を交わして居た所へ、正面の入口から古兵が一人這入って来て、上等兵に煙草を一個くれと言って注文をした。
 
 
 
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 その古兵が這入って来たことによって、上等兵との話が途切れた私が、見るとはなしにその古兵の顔を見たのだが、その瞬間には思い出せなかったが、何処かで見覚えのある顔であった。
 
 私はその古兵が何処の誰かと言うことを思い出そうと首を捻ったのであったが、その古兵も私の顔をじいっと見詰めて首を捻っていた。
 
 お互いが首を捻って居るところへ、「そら、煙草(軍隊のみに発売されて居た誉と言う煙草であった)。」と言って中村上等兵が、一個の煙草をその古兵に手渡した。
 
 その当時の軍隊では、営内居住の下士官以下の兵隊に、儀式用、外出用、演習用と区別をした編上靴を三足貸与をして居たが、その外に営内靴と言って、その履くことが営内だけに限られて居たズック製の短靴が貸与されて居た。
 
 中村上等兵が差出した煙草を受取ってからも、しきりと首を捻りながら歩き出そうとする古兵の顔から目を離した私が、不図彼の足許を見た途端に私は、「オイッ、お前は似湾の学校へキキンニから通って居た坂尻と違うか。」と、思わず大きく叫んだのだが、それはその古兵の顔から私が思い出したのではなくて、必ずその姓を明記する規定になって居た彼の営内靴から読み取ったものであった。
 
 
 
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 「ウム、そうするとお前は矢張り綾井だったのか。」と言って私の営内靴へ目をやって「何んだ、はっきり書いてあるじゃないか。」と言って、彼は呵呵と笑って居た。
 
 似湾の小学校時代には、私より一級下の彼坂尻ではあったのだが、私は早生彼が遅生と言った関係から同じ年齢であったので、同じ徴兵年度となって、図ずも酒保の奇遇となったものであった。
 
 そうした二人は、十年振の邂逅であったと言うことで、酒保の卓子を挟んであれこれと少年時代の懐旧談に花を咲かせて居たのであったが、その時不図、次郎のことを思い出したので、「オイ、布施の次郎はどうした、彼は体の良い奴であったから、徴兵検査には俺達と同じように合格したろう。」と尋ねたのに対して、彼坂尻の答えは、「次郎の奴はなあ、可哀想な奴だったぞ、死んでしまったんだよ、それがまるで自殺行為よ、頭も相当に良かったし、温厚な男であったのになあ、彼が死んだ日にはなあ、焼酎をよ、鱈腹呑んで酔っぱらってから、全然泳げない癖に、今はなあ橋があるんだけどよ、お前も覚えて居るべ、似湾沢へ行く渡船場があった付近の深みへよ、『俺は泳ぐんだ』と言って、一緒に呑んだ友達が『お前は泳げないんだから止めろ。』と止めるのを振り切って、無理矢理飛込んだのだそうだが、飛込んだ途端に死んでしまったんだ、何んでも心臓麻痺を起こしたらしいんだ。」と彼坂尻が説明してくれたのだが、私はそれは只一日のことではあったのだが、次郎が死んだと言う渡船場の川で、次弟の義憲と三人が愉快に遊んだ少年時代のその日を回想して、「次郎よ、お前は何故死んだ。」と言う哀惜の情が、私をしばし咽ばしたものであった。
 


履歴稿 北海道似湾篇 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の4

2025-03-29 11:24:40 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子 
 
北海道似湾篇
 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の4
 
 当時三十を超えたばかりの校長先生は河原で、水泳の要領を懇切に説明をした、そして川へ這入てからは平泳ぎはこう、背泳はこう、抜手はこのように、と実演をして見せてから、深みを横断して、対岸へ往復をした。
 
 併し、生徒達は水泳に興味を持たないのか、浅瀬で四つん逼になって、ジャブジャブして居る者、水をかけ合って燥いで居る者、河原で日向ぼっこをして居る者と言った状態で、誰一人として泳ぎを知ろうとする者は居なかった。
 
 私はそうした学友達を見て、「何んだ、誰も泳げないのか、俺が一人で泳いでもつまらないなあ。」と乳のあたりまでの深みで、両手を使って水を搔廻したり、一寸浮いて見たりして一人で遊んで居ると、上流から下流へ、下流から上流へと、遊泳して居た校長先生が、私の傍へ近寄って来て、「綾井、お前は丸亀育ちの瀬戸っ子だから泳げるだろう。どうだ、向岸まで先生と競泳して見ないか。」と言ったので、私は「ハイ」と答えて、先生からの挑戦に応じた。
 
 
 
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 すると校長先生が右手を頭上で振って「オーイ、皆今先生と綾井が、向岸まで競泳をするからお前達は応援すれよ。」と叫ぶと、皆は一斉に拍手をして「ワーッ」と歓声をあげた。
 
 先生の「用意・ドン」でスタートをしたのだが、私は往く時を抜手、帰りは片抜手と泳を変えて我武者羅に泳いだ。
 
 この競泳は先生が加減をしたのかも知れなかったが、私が勝って観戦の皆から「ヤンヤ」と喝采をされたことがあった。
 
 そうした環境に育った次郎は、泳と言うものを全然知らない少年であった。その次郎が緊張した表情で、次弟の手を引いて熱心に泳がせて居るので、何故か私には不審に思えた。
 
 私は上流へ行ったり、下流へ行ったりして、彼の近くを泳ぎ抜けて居たのであったが、それは私が下流の方から登って来た時のことであった。
次郎が両手を頭上で万歳をして、「義章さん、これ見れよ、義憲さんが独りで泳げるようになったぞ、矢張りお前に似たんだなあ、今に屹度上手に泳ぐようになるぞ、俺もなあ、これ位の歳からやって居れば、少しは泳げるようになって居ただろうになあ。」と嘆息を洩らしたのであったが、「さあ、義憲さんよ今のように独りで浮いて泳いで見れよ。」と言って、また次弟の手を軽く引いてやって居た。
 
 
 
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 「何っ、義憲が独りで泳げるようになったって、そりゃあ不思議なことだ。」と思った私は、自分の泳ぎを止めて、しばらく彼と次弟の様子を見守って居ると、「ソレッ」と声をかけて、ひいて居る手を放すと、次弟の義憲はそれは無茶苦茶と言った行動ではあったが、一応は水に浮いて泳いで居た。
そして次弟が疲れると次郎が手を差しのべて、次弟の手を引いてくれて居た。
 
 そうした状景を見た私は、「次郎って奴はとても良い奴だなあ」と思った途端に、胸がせき込んで、私の目頭をボーッとさした。
 
 それはその時のことであった。「そうだ、よしっ、俺が次郎に泳ぎを教えてやろう。」と思いついたので、私は次弟の義憲を浅瀬へ誘って、其の浅瀬で蟹泳ぎの独り遊びをさせておいて、彼に私の知って居る限りの泳方を教えたものであったが、その日の次郎は遂に泳ぎ得なかった。
 
 

履 歴 稿 北海道似湾編 真夏の太陽と天狗の太鼓7の3

2025-03-27 11:18:22 | 履歴稿
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履 歴 稿   紫 影 子
 
北海道似湾編
 真夏の太陽と天狗の太鼓7の3
 
 やがて北海道にも真夏の八月が訪れた。
 小出さんの畑の手入れを上旬中に全部一応終ったので、あとは収穫をするだけと言うように一段落ついた或日、例によって遊びに来て居た次郎が、「オイ、これから川へ遊びに行かないか。」と私を誘うので、それまで次郎に雑誌を読ませておいて、一心に講義録を読んで居た私は、「お母さん、これから次郎と川へ遊びに行って良いかい。」と、その頃とても元気になって、なにか私達のお盆の晴着らしい物を縫って居た母に許しを乞うた。すると「渡四男おんぶして義憲を連れて行きなさい。」と母は、快く許してくれた。
 末弟を背負って紳士用の洋傘をさした私と次弟の手を引いてくれた次郎は、何かと雑談を交しながら、対岸に渡船場のある河原へ着いた。
 
 川の水は六月に次郎と乗馬で来た時と同じように対岸の山裾を流れて居たが、真夏の渇水期であったので、川幅の半ばが河原になって居た。
 
 
 
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 水の深みは対岸の山裾から四米程の幅だけあって、それから河原への八米程の所は、私達の乳のあたりまでの深さから、岸へだんだんと浅くなって居た。そして暑中休暇中の学童が、十人程でその浅瀬に集まって水鉄砲の掛合をして遊んで居た。
 
 「オイ義章さん、俺達も川へ這入って遊ぼうや。」と、裸になった次郎が、私を誘ったのだが、「俺は駄目よ、弟を背負って居るからな、俺は此処から皆が遊んで居るのを見て居るから、お前は義憲を泳がして遊んでやってくれないか。」と、私は彼に頼んだ。すると次郎は、「何を言って居るんだい。渡四男さんはぐっすり睡って居るじゃないか、おろして此処に寝かせてよ、顔に太陽が照らないように、その洋傘を差しかけておけば良いじゃないか。「と彼は、再び私を誘った。
 
 私は成程と思った。”そうだ、次郎が言ったようにして、俺も泳ごう”と決心をした。
 
 真実、私は泳ぎたくてムズムズしていたのであった。
 
「よし、俺も泳ぐわ。次郎すまんが渡四男をおろすから、お前そっと静かに抱いておろしてくれないか。」と言って私は、背負の帯を解いた。
 
 後へ廻った次郎は、そっと渡四男を抱きおろして、自分の脱いだ着物の上に寝かせた。
 
 
 
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 私は次郎が言ったように、太陽が直接渡四男の顔に照らないように洋傘をさしかけて、川風に洋傘が転動をしないようにと、付近にあった直径が十糎程あって長さが二米程の流木を拾って来た、そうしてその流木へ洋傘の柄を帯で結びつけた。
 
 「これならば大丈夫。」と、独りで頷いて、私は裸になった。
川の中へ這入った次弟は、私が裸になるのを見すまして、「よし、それなら俺は先に行くぞ。」と言って、チャポチャポと駆け込んで行った次郎に、両手を取って貰って、両足をバチャバチャとバタツカセながら、後去りに歩く次郎に引きづられて、「兄さん、これ。」と、さも嬉しそうに遊び始めた。
 
 どうした関係であったかと言うことは判って居ないのだが、その頃、似湾の少年で泳ぎを知って居る者は、一人も居なかった。
 
 それが私が未だ六年生として在学中の夏のことであったが、七月下旬の或日、学校の只一人きりの先生であって校長先生でもあった、大矢先生に引率されて五年六年と言う上級生が、この渡船場の川へ水泳に来たことが一度あった。
 
 勿論、私以外の生徒で泳げる者は一人も居なかった。
 
 


履歴稿 北海道似湾編  真夏の太陽と天狗の太鼓 7の2

2025-03-21 12:53:42 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の2
 
 当時私の毎日は、母に呼び起されて毎朝五時に起きた。
 そうして前夜仕度をしておいたご飯と味噌汁を炊いて、兄の弁当を容器(その当時の容器は、柳の細い枝を編んで作った物であって、一般には弁当行李と称されて居た)に詰めたのだが、その副食は、塩鱒の焼いた物か、身欠鰊の煮付に、香の物か梅干をご飯の上へ載せると、次は私と次弟義憲の日の丸弁当を握る(畑を仕事に行く日に限る)のであった、そして六時半頃までには朝食をすまして兄は七時、父は七時半頃に出勤をするのであったが、私はその朝食の後始末をしてから夜中に汚した末弟のオムツを洗濯するのであった。
 そして八時半頃には次弟を連れて畑に行くのであった。
 そして雨の日以外で畑仕事の無い日には、矢張り次弟を連れて、川辺や沢へ行っては野生の蕗や三ツ葉のような青物か、付近の山へ行ってきのこを取るか、さも無くば鵡川川や似湾沢へ魚を釣に行くと言う状態であった。
 
 雨の降る日には、終日家に居ることが多かったのであったが、外へ出た日の帰りは、午后の四時頃か、日暮時までかと言ったように、その日の母の健康如何によって異って居たのだが、四時頃に帰った日は、夕飯の仕度をして父や兄の帰りを待って、その夕飯が終った後仕末をすると、どんなに急いでも七時頃になった。
 また日暮時に帰る日には、夕飯の仕度は母がしてくれるのであったが、後の仕末は矢張私がしなければならなかったので、終る時刻には変わりが無かった。
 
 
 
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 私の毎日がこんな状態であったから、勉強の方は雨降りの日は別として毎日夕食の後始末が終ってから、一時間程、三分芯の洋燈の下で講義録が読めると言う程度であった。
 
 次弟の義憲は、数え年の七歳になって居たが、彼の遊びに対する考え方が一年間で大きく変わっていた。
 
 それは過去一年の歳月が、彼の遊びに対する考え方を進歩させたものであったろうが、私が小出さんの畑へ行く日には、去年と同様に彼を連れて行くのであったが、その第一日目の日に、「さあ、お前はまたこれで遊んで居れよ。」と柳の木を切ってやっても、彼はもう去年のような馬遊びをしようとはしなかった。
 
 また、私の傍に来て仕事の邪魔をすると言うこともしなくなって居た。
 
 その年の耕作第一日目の天候は、北海道としては珍らしい程にポカポカと暖い好天気であった。
 
 私は去年の豆殻や八十糎程に伸びて居る薯畑の枯草を搔集めて燃すことに終始して一日を終ったのであったが、その間の次弟は横の小沢で石をひっくり返してはざり蟹を捕えて、終日楽しそうに遊んで居た。
 
 次郎は私の卒業後も学校の授業を終ってからよく遊びに来て、私が薪を切って居れば、それを割って手伝ったり、屋外の掃除をしてくれたりして居たのだが、この日も留守居の母から、私の所在を聞いて小出さんの畑にやって来た。
 
 「オイ、今年は一反増えたんだってなあ。楽じゃないなあ、でも心配するなよ。俺また手伝うからなあ。」と言って次郎は、私の掻集める枯草や木屑を運んで燃やすのを手伝ってくれた。
 
 そうした次郎が、小沢でチ’’ャブチ’’ャブ1人で遊んでいる次弟を見て、「オイ、おんじ(弟と言う意味)何やって居るのよ。」と尋ねたので、「ウン、あいつざり蟹捕って遊んで居るんだ。」と私は答えた。
 
 
 
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 「ウム、そうか、そりゃうまいぞ。なあオイ、ざり蟹焼いて食うべや。」と言って、次郎は弟の方へ歩いて行った。
 
 ざり蟹を焼いて食うと言うことを始めて聞いた私は、果たして食えるのかと言う疑問と朝から飽かずに遊んで居る弟が、どれ程捕ったかなと言う好奇心から彼に続いて小沢の岸へ行った。
 
 その時の次弟は、小沢の岸に直径三十糎程の穴を掘って深さが二十糎程の底に十個程の小石を並べて其処に浅い溝で小沢の水を流し込んだ中に大小無数のざり蟹を泳がせて喜こんで居た。
 
 「オイ、これ焼いて食うととても美味いんだぞ、だからデッカイ奴を焼いて、三人で食うべや。」と次郎が、弟を促すと、「ウン」と言って一応頷いた弟が、「デッカイ奴だけだぞ。小さい奴は俺家に持って帰るんだからな。」と注文をつけて焼いて食うと言うことに賛成をした。
 
 次郎は早速マキリ(小刀)で柳の枝を削った串に大きいざり蟹を四匹づつ突刺したものを、三本作った。
 
 木屑や枯草の焚火で次郎が上手に焼いたざり蟹を三人で食べたのであったが、次弟の義憲も「美味い、美味い。」と言いながら喜んで食って居た、併しその時の私は、「何か海老に似た味だな」と不図思った。
 
 馬鈴薯、青豌豆、唐黍、金時、小豆、大豆と次々に種を蒔き終ると馬鈴薯から始まる除草に取掛かるのであったが、弟は小さい馬欠と笊を持って来ては毎日、小沢の雑魚を掬うやら、ざり蟹を捕っては喜んで遊んで居た。
 
 また、次郎も欠かさず手伝ってくれた。
 



履歴稿 北海道似湾編 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の1

2025-03-20 13:58:27 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 真夏の太陽と天狗の太鼓 7の1
 
私達の家が、下似湾から市街地の吏員住宅へ引越た年の秋に、末弟の渡四男が誕生をした。
 
父は、その末弟の誕生を、
一、大正二年十月二十八日、四男出生、渡四男と命名す。
と、その履歴稿に記録をして居る。
 
 父が末弟の名を渡四男(トシヲと読む)と言った一寸変わった命名をしたのは、北海道へ渡ってから、四男として生まれたと言うことを意味づけたのだと、後年の父は私達兄弟に聞かせて居た。
 
 病身の母は、その末弟の渡四男が生まれてからは、めっきり弱くなった。
 
 当時小学校の尋常科六年生であった私が、次弟の義憲を連れて登校をするようになったのも、父も兄も、そして私が登校をした留守中を隣の夫人(私はおばさんと呼んで居た)の世話になって居たので、次弟の義憲が居ると言うことが、母もそして隣の夫人も、お互に負担になるからと言う母の意思によったものであったが、朝夕の炊事には殆んど私が当たって居た。
 
 その翌年の三月に私は、公立似湾尋常小学校を首席の成績で卒業をした。
 
 
 
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 その当時の似湾村には、高等科と言うものの設置が無かったことが、そうさせたのだと思うのだが、私の同級生で高等科へ進学した者は、役場の戸長をして居た家の三男坊であって、私と同じ机に席のあった、高松獅郎と言う少年が只一人と言う状態であった。
 
 その高松君は、札幌の高女(校名は不詳)を卒業した姉さんが、教鞭を使って居た輪西の鶴ヶ崎小学校の高等科に進学をしたのであった。
 
 当時、私の心境は高等科に進学したい一心であったのだが、併し家庭の実状が、私の希望を居れ得ない状態であることを私には良く判って居た。
 
 併し私は、一応進学をしたい自分の希望を父に訴えて見たのではあったが、「お前も良く判って居るように、お母さんが弱いので、お前が居ないと家が困る。それに下宿をしなければならないのだから、お金が沢山かかる。お父さんと義潔の二人が貰う現在の給料では、とても送金が続かないから、可哀想ではあるが、高等科への進学を諦めてくれ。」と言う結果になった。
 
 無理にとは言えないので、とても残念ではあったのだが、私は進学を諦めてその当時東京で発行して居た、高等小学講義録と言う通信教育によって勉強をすることにした。
 
 私が学校を卒業したからということによって、畑の借地を更に一反歩増すことになった。
 
 朝夕の炊事、次弟と末弟の世話、講義録による勉強、三反歩になった畑の耕作と忙しい毎日を送らなければならなくなったので、それまで母を喜ばして居た臨時集配人としてのポストを開ける仕事を三月限りで辞めてしまった。
 
 
 
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 従って、毎月母に喜ばれた三円の給料は、もう貰えなくなった。
 
 学校を卒業してからの私が一ヶ月間に必要とした費用は五十銭程度のものであったのだが、その内訳をして見ると、講義録が二十銭、少年雑誌の日本少年が十銭、そして雑記帳や鉛筆と言った文房具費が二十銭程度と言った経費であった。
 
 その当時の兄は、月収十二円の内から九円を母に渡して残りの三円を自分の小遣銭にして居た。
 
 兄はその小遣銭で、当時流行して居た講談文庫の単行本やハーモニカ、銀笛、明笛といった楽器類を、私が購読をして居た日本少年の広告欄から選んで、振替用紙を使っては注文をして居た。
 
 学校を卒業するまでの私は、月月に貰う給料の三円をその儘母に渡して、「日本少年」を一冊買って貰って居たのであったが、その臨時集配人を辞めて無収入となった私が、逆に講義録その他で出費が増えたことが、当時の私としてはとても淋しく感じたものであった。
 
 併し、幸いなことに五月からは、役場の小使さんが休んだ日には、一日五十銭の割で代務者として私を使ってくれたことと、集配人が休むと、郵便局でもその代務者として私を使ってくれて、その休んだ人の日給を日払で支給をしてくれたので月間三円は欠かさない収入があるようになったので、私はホッとしたものであった。
 
 

履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の7

2025-02-08 19:24:25 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の7
 
 これは後日の物語りに属したことではあるが、私が二十八歳であった時に苫小牧町(現在は市政)の沼ノ端で父母と三人で生活をした時代であって、その当時の私は、現在では、国鉄日高本線となった鵡川駅から分岐をして居るのだが、その当時は室蘭本線の沼ノ端駅を分岐点として居た北海道鉄道株式会社(その当時は現在の千歳線の主要駅である、東札幌へ東京に在った本社が、駅前に新築をした建造物に移って居た。)の派出事務所に、その辞令面は車掌職と言う資格ではあったが、その実質的にはその派出事務所の次席と言った役割であった。
 
 私の父は、前にも書いたように、幼少の頃から関学を学んだ人であって、また書を良くした人であったのだが、その他に自分の趣味であった漢詩、短歌、俳句等を創作した物を、色紙や短冊に書いた場合に、自分の雅号であったその頭に、必ず五十翁と書くと言った程に弱々しい人になって居た。
 
 
 
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 勿論、当時の父は肋骨カリエスと言う難病と必死に闘って居た時代であったので、そうしたことも無理からぬことであったかも知れない父ではあったかも知れないが、当時の私としては、何んとかして今一度元気な父になって貰いたいと言う一念で、その当時の沼ノ端に蛇捕りのとても上手な人が住って居たので、そうした父の強壮に役立たせようと思って、その人に蝮を捕えて貰ったことがあった。
 
 私が頼んだその翌日に、その人は早速蝮を捕えて持って来てくれたので、「お母さん、似湾に居た時代に布施の次郎から貰った蝮を、美味い美味いと言って食べたお父さんでしょう。だから今日一日天日で干してさ明日蒲焼きにして、お父さんに食べさせておくれ。」と私は母に頼んだのであったが、その蒲焼を父の食膳に載せると、「義章、お父さんには、似湾時代の匂いがするぞ。」と懐かしそうにとても喜んで食べてくれた。
 
 次郎と私の古雑誌から生まれた交友は、その後父が室蘭市に程近い幌別の役場に転勤をした、大正四年の十二月まで続いたのであった。




履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の6

2025-02-07 11:46:15 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の6
 
 馬鈴薯の塩煮と「シシャモ」、それに甘酒といった饗応ですっかり満腹した私が、「どうもご馳走さんでした」と挨拶をして、「さあ帰ろう」と立ちあがった時に、「ホイ、俺すっかり忘れて居た。」と言って次郎が野蕗の葉に包んだ蝮の剝身を懐中から取り出して包を開いた。
 
 「オヤッ、次郎お前蝮捕って来たのか。」と言って彼の父親は、その裸に剝かれた蝮をじいっと見詰て居たが、「こりゃ、とても良い蝮だぞ。次郎この蝮綾井さんのセカチさやれや。」と次郎の同意を促すように、次郎へ目をやった。
 
 「ウン、良いよ。義章さんが気味悪く思わないのならやるから持って帰れよ。」と、次郎が蕗の葉に包みなおして、私に手渡そうとするのを「一寸待て。」と言って次郎の父親は、表へ出て行った。
 
 「オイ、親父なあ、屹度この蝮を干す串を作りに行ったんだぞ。見て居れ、今にその串持って帰って来るからなあ。」と次郎は言ったが、私には何故蝮を干すのか、そして次郎が言う串とは、一体どんな串か、と言う疑問以外に彼の言葉から、何の興味も湧かなかったので、只「ウン、そうか。」と頷いて見せただけで、あとは少々慣れた乗馬の話しを「オイ次郎、俺今度の日曜には一人で乗って見たいんだが。」と彼の意見を求めて居た。
 
 「ウン、そうか。多分大丈夫かと思うけど、どうかなぁ。よし、それでは馬を二頭借りて一つやって見るべや。そうして俺と二人が並んで行くべ。そうすりゃ屹度大丈夫だよ、そうだ、そうだ」と、次郎が一人で合点して居る所へ、彼の父親が帰って来た。
 
 
 
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 成程、次郎の言ったとおりであった。その右の手には柴木を細く削った、長さが三十糎程の串を持って居た。
 
 「どれ、蝮よこせ。」と言って次郎の手から蝮を受取った彼の父親は、その蝮を頭の方から尻尾の方へ幾曲りにも折曲げて串刺にした。
 
 これなあ、家さ持って帰ったらよ、何処さでもよいから高い所さ刺しておけ。すぐ乾くからなあ。そして乾いたらなあ、鋏でよ、好きなところから切って、焼いて食えよ、とても元気がつくからなあ。」と言ってから、更に次郎の父親は、この日次郎は捨て来たのだが剝いだ蝮の皮を干して保存をして置くと、負傷をした場合の切傷に、その皮をあてておくと血止めにとても良く効くと教えてくれた。
 
 私が串刺の蝮を持って帰ると不審そうに、その串刺の蝮をじいっと見詰た母が、「義章、お前が持っているそれは何じゃい」と訝るので、私は次郎と遊んだその日の一切を
詳さに説明をした。
 
 「ウン、そうじゃったの、そりゃ面白くて良かったな。でも、次郎の家には随分迷惑をかけたなあ。まあ良いわ、今度お母さんがそのお返しをするから。それはそうとしてその蝮たら言う口なご(香川県では蛇のことを”口なご”と称した)は、体にはとても良いのだと此の辺の人も言って居るのだから、教わったとおりに何処かに刺しとかないかんなあ。」と言って茶の間の四辺を見廻したのだが、葭で囲った次郎の家とは違って、板で囲った吏員住宅には、その蝮を刺した串を刺込む適当な箇所は、一寸見当らなかった。
 
 
 
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 「なあ義章、困ったことにその串を刺込所が無いなあ。」と困惑をした母は嘆息をしたのだが、「お母さん、何もそんなに心配すること無いよ。愈々無かったら、糸で何処かにぶらさげて置けば、すぐ乾くよ。」と言いながら私は、汚れた手を洗うべく台所へ行った。
 
 それは、手を洗い終った私が洗面器の水を流して正面の窓の上部に設けた棚へうつ伏せようとした時のことであった。棚から三十糎程上の方に小さな節穴があるのを発見した。「ウム、この節穴へ刺込んでおけば良いな。」と思ったので、「お母さん、あった、あった。」と私は大声で母を呼んだ。
 
 それはその翌朝のことであったが、洗面の時の父が、この串刺の蝮を見つけて、「これは何んだ。」と母に尋ねた。
 
 「それ、昨日義章が次郎の家から貰って来た蝮たら言う口なごですが。」と答えて母は、昨日私が母に話をした一切を父に説明をした。
 
 「ウム、そうか。そんならこれを一切れ蒲焼にしておいてくれ。晩酌の肴にして見るから。」と父は母に言ったのだが、その晩酌の盃を手にした父が、「こりゃ、いける。」ととても喜んでその翌日も翌々日も連続、その蝮が無く毎夜の食膳にその蝮の蒲焼を母に調理させては食べ続けた。
 
 
 

履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の5

2025-02-06 10:54:28 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の5
 
 皮を剝いだ蝮の胴体を野蕗の葉に包んで懐に入れた次郎が、「オイ義章さんよ、苺は駄目なんだからもう帰ろうや。」と言うので「「ウン、そうだなあ、帰るとするか。」と私は、彼に同調をして二人が馬を繋いだ箇所へ歩いた。
 
 次郎が巧みに飛び乗った馬を近くの切株に歩かせたので、私はその切株から次郎の背後に乗り移った。
 
 走る時には薄く曇って居た空の所々に蒼空が覗いて居て、其処からの日射しが私達に影を踏ました。
 
 また、渡船場の川辺では、美声の音頭に流送人夫が、来る時と同じようにキビキビと働いて居た。
 
 私達が小石川さんに馬を返して次郎の家に帰り着いたのは、午后の三時頃であったが次郎の両親は「おお、帰って来たか。」と二人を笑顔で迎えてくれた。
 
 窓らしい窓が無いので、家の中が少々薄暗い感じがしたが、天上の梁から囲炉裏に釣るされた自在鍵の鍋には、皮を剝かれた馬齢薯が蓋の隙間から白い肌を覗かせて居た。
 
 
 
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 「今に薯が煮えるから、それまでこれを食って居れや。」と次郎の母親が、片隅の大きな木箱から笊に「シシャモ」の干したのを出して来て、次郎と私の二人に勧めた。
 
「シシャモ」と言う魚は、体長が十二、三糎程の小魚であって、形も味もチカに良く似た魚であったが、鮭や鱒と同じように、その産卵期には必ず川に登って来る魚であった。
 
 「シシャモ」の漁期は至極短期間であって、一週間程しか続か無かった。そしてその時期は、十一月の上旬か中旬の頃に太平洋から、鵡川川へ登ろうと群来るのを川口の付近で漁獲をして、石油箱(十八立入りの罐が二個這入る)に一箱が三、四十銭程度と言った価格で売買されて居たようであったが、それをヨムギの茎で目刺にしたものを、煮付けにするか、焼いて、食膳に載せるのが普通であった。併し、一般の家庭では、生干のうちに食い尽してしまうので、次郎の家のように、翌年の六月頃までも保存をして居る家は、稀であった。
 
 囲炉裏の火を掻き分けて、砕けて炭火のようになった物を一箇所へ掻き集めた上へ、針金で作った手製の網渡の上にシシャモを並べて次郎が、焼き始めた時に鍋の薯が丁度煮揚った。
 
 
 
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 私と次郎が、焼たてのシシャモを副えて、これも煮揚ったばかりの薯の塩煮を、フウフウと吹きながら食べて居る傍で、次郎の父親も矢張り「シシャモ」の焼たてを副えて、プンプンと、それが丁度甘酒のような匂のする濁酒を愛奴の家庭以外では一寸見られない丼大の漆器に波々と注いで、さも楽しそうに呑んで居たが、やがてその濁酒を別の漆器に七分目程注いだ物を私に差出して、「オイ、お前これ呑んで見れや、なあに弱く造ってあるんだから、呑んでも酔っぱらうこと無いよ。」と次郎の父が勧めたので、「ウン」と頷いた私は、その濁酒を一口啜って見たのだが、その味はとても美味かった。
 
 舌鼓を打った私は、次郎の父親を真似て「シシャモ」を肴に二杯も平げた、勿論次郎も二杯呑んだ。
 
 「この濁酒なあ、甘く造ってあるから酔っぱらわ無いんだ。俺の親爺は酒を呑まないから何時も甘く造るんだ。」と次郎は、その甘い理由を説明した。
 
 
 

履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の4

2025-02-03 10:56:01 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の4
 
 そうした船が、対岸に着くと私達は、隣村厚真村の知決辺へ通じて居る道を、パカポコパカポコと馬を駆けさせて二粁程の道を行った。
 
 「オイ、此処が野苺の有る所だぞ。」と言って、次郎は馬を止めた。
 
 馬を路傍の立木に、それは形式的(その頃の馬は、敢て繋がなくとも移動をしなかった)にではあったが手綱で繋いで、「オイ、野苺の有るのは此処だぞ。」と次郎は、私を道の左側へ誘った。
 
 其処は立木と言う物が全部伐採されて居た平坦地であったが、その地積が二反歩程の一面に野苺が蔓を伸ばして逼って居た。
 
 次郎と私は、その延びた蔓から蔓へと苺の実を探し求めて歩いたのだが、白い可憐な花をつけた蔓はあっても真赤な実は一つも見当たらなかった。
 
 「オイ次郎、苺は未だ早いのでは無いのか、実と言う物が一つも無いじゃないか。」と私が言えば、「ウン、少し早かったのかなあ、義章さん、お前にはすまないことをしてしまったが、勘弁しろよなあ、俺は只お前を馬に乗せて遊びたかったもんだから、苺の時期のことなんか考えて居なかったもんなあ。」と次郎は言ったが、私にはその次郎を憎む感情は微塵も無かった。
 
 そうした私は、「ウン、そんなこと俺何も気にして居ないぞ、只実がついて居ないと言っただけだ、気にするなよ次郎。」と私が言った時であった。彼が右手を振って「シッ、シッ」と私を制したので、「ウウン、次郎の奴、どうして俺を制したりなんかするのかな。」と不審に思った私は、彼の様子を凝視した。すると次郎は、何者かに忍び寄ると言った姿勢で、二、三歩私の立って居る右側の方へ歩き始めた。
 
 
 
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 その頃の愛奴の少年は、何時も桜の皮を鞘にした中身が十糎程の小刀を持って居た。そしてその小刀のことを彼等は「マキリ」と称して居た。
 
 次郎達が「マキリ」を持って居たのは、それを護身用と言うような大袈裟な意味のものでは無かった。彼等は、このマキリを使って色々な場面で実用に具して居た。例えば、川辺で遊ぶ時には川の岸辺に生えて居る野生の蕗や、三つ葉と言った野生の野菜を採取する時に、また山遊びの日には、榀の木がある所へ行くと、その皮をマキリで剥ぎ取って家への土産にして居たのであった。そして其の榀の皮は、細く適当に引裂いて縄をなうととても強靭な物が作られた。
 
 「シッ、シッ」と手を振って、私を制した次郎がそのマキリを引抜いて何者かに立向かった。私は彼のそうした不審な行動をじいっと見据えて居たのであったが、彼はマキリの刃部を下に向けて何ものかをじいっと見据えて居たようであった。
 
 それは一瞬の行動ではあったが、次郎がその何者かに脱兎のような勢いで飛びついて襲いかかった。
 
 次郎が何故そうした行動に出たのか、と言う不審から私は「オイ、治郎何をやって居るんだ。」と彼に声をかけた。
 
 と彼は、はずんだ声で「俺なぁ、今蝮捕ったんだ。」と言って、「見れや、これだ」と私にその取った蝮をぶら下げて私に見せた。
 
 私は北海道と言う寒い国にも蝮と言う猛毒を持った蛇が居ると言うことは聞き知って居たのだが、その日まで、ついぞ見たことの無い蝮であった。
 
 
 
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 「オイ、次郎危く無いのか、噛まれたらお前が死ぬのと違うか。」と、それが毒蛇であると言うことから起る一種の不安と恐怖心から、私は次郎に尋ねた。すると次郎は、「イヤ、何も心配すること無いんだよ、こうなったらこっちのものさ、見て居れ、俺が今皮を剝いて見せるから。」と言って、その蝮の頭の首の所を足で踏まえて、蝮が自然に口を開けて飛びつこうとする気魄の鋭い目を怒らせて、三角形の頭を左右に激しく振って居るのを、上下の顎に手をかけた次郎が、刃部を下に向けて居たマキリを、そうした蝮の口に噛ました。
 
 勿論蝮の口は自由を失った、その瞬間上下の顎にかけて居た手に力をいれて、さっと引裂くと、蝮の皮は綺麗に剝けて、薄桃色の身の部分と内臓が別々になった。
 
 その時、皮を剝かれた内臓の無い蝮が、まだその薄桃色の胴体をくねらして居たのには、私は驚いたものであった。
 
 「オイ義章さんよ、お前これを丸呑みにすれや、体にとても良いんだぞ。」と言って、次郎は引裂れた蝮の内臓の中から金時豆程の大きさがあって、半透明の袋に何か液体が這入って居る物を選び出したのを、私に差出した。そして彼はそれと略ぼ同じ大きさの肉塊ようの物を選び出して、それを丸呑みにした。
 
 「お前が呑んだのがなあ、蝮の胃なんだぞ、そして俺が呑んだのが蝮の肝よ。」と次郎は平気で言ったが、私は目を白黒させて漸く呑み込んだものであった。
 
 
 

履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の3

2025-02-01 14:47:53 | 履歴稿
 
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の3
 
 その日は、北海道の総鎮守札幌神社の本祭の日であって、朝夕の気温は若干冷えたが日中は、風薫る初夏の様相を呈した六月の十五日であった。
 
 十四日の朝礼に校長先生が、「明日は札幌神社のお祭だから学校休みだ。」と全校生に告げたので、私は「よし、明日は次郎と遊ぼう。」と、この日彼の家を訪れたのであったが、私の郷里の香川県では、丁度梅雨の季節であるので、終日霧雨がしとしとと降ってじめじめして居るのを、これ幸いと油虫が我が世の春とばかりに台所はもとより部屋と言う部屋の此処彼処を逼い廻るので、家の内外が共にうっとうしくて、幼ない私の神経をもいらいらさせる季節であった、併し北海道へ来てからこの季節を迎えるのは、この年が二度目であったのだが、去年も、そして今年も、晴、曇風、雨と言う気象の変化は、自然がもたらす通常的なものであって、嘗て私が郷里で味わった卯の花の咲くのを見て、梅雨や来たるの予感に嫌悪を感じて居た、と言うような感覚は全然無かった。
 
 この日の天候も、多少曇ってはこそ居たが、梅雨の季節のうっとうしさと言うものは、全然感ぜられなかったと言うばかりで無く、川岸の柳を葉鳴らす風には、初夏を匂わすものが多分にあった。
 
 
 
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 川は対岸の山裾を洗うように流れて居て、次郎と私が馬を乗りつけた川岸へ、逐次浅瀬から河原と言う状態であった。
 
 流れは四、五月頃の雪融け水が、怒濤の濁流となって岸を噛むと言うような水勢ではなかったが、流れの幅は依然として広く、岸の河原を殆んど呑んで居た。
 
 私達が川岸へ馬を乗りつけた時の川には、浅瀬から河原一面に松丸太(蝦夷松を六尺、九尺、十二尺と言った長さに切った物)が乗りあげて居て、その丸太を五、六十人の流送人夫が、長さ二米程の竹竿を柄にした鳶口を巧みに使って、「ヤンサデコラショ」とか「ドッコイショウ」と、その当面の作業状態によって異なる音頭と掛声で、深みへ流し込んで居た。
 
 「オイ、あの丸太はなぁ、鵡川まで流送をして其処から軽便鉄道で苫小牧の製紙工場へ送るんだぞ、それからなぁ、この川のずうっと川上に王子製紙の原料山があってよ、冬の間に造材をした丸太をよ網場(丸太を巧みに組んで川をせき止めた所)まで馬で集めて毎年五月頃になると、雪融けで増水する時期に網場を切って、流送するんだ。」と、次郎が説明をしたが、私も既にこの事は知って居た。
 
 併し、こんなに多勢の流送人夫が、賑かな音頭で作業をして居る所を見るのは、この時が初めてであった。
 
 
 
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 次郎と私が馬上から声を揃えて、「オーイ」と、対岸の山麓に在る渡守の小屋(渡船場は地方費で賄われて居たと思うが、渡守の小屋は葭葺きの家であって、その構造も次郎の家と同じ掘建小屋であった)に呼びかけると、その小屋からも山彦のように、「オーイ」と言う応答があって、白髪を肩まで総髪にした愛奴の渡守が出て来た。
 
 人馬はもとよりのこと、荷馬車をも渡すと言う扁平底の団平船が、川の流れを直線に横断をするために岸から岸へ施設をして在った太いワイヤロープに、その団平船の舳から細いワイヤロープで連結をさせて居る滑車が、ギイッ、ガアッと軋みながら私達二人が待って居た岸へ漕ぎ寄せて来た。
 
 「オイッ、俺達は馬からおりなきゃ駄目なんじゃ無いか。」と私が、次郎に呼びかけると、「なあに、良いんだよ。この儘で船に乗れるんだよ。」と言って次郎は、二人が乗った儘の馬を、馴れた手綱さばきでその団平船に乗せた。
 
 私達が乗ったその団平船には、渡守の老人の他に、流送人夫が一人乗って居た。そしてその流送人夫は竿で船を押す浅瀬では、先端に鳶口のある竹竿で協力をして居たが、やがて船が深みの流れに進むと、舳の右端に立って上流から続々と流れてくる松丸太を、手練の鳶口のついた竿で巧みに突き放して船の渡川の安全を期して居た。