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aya の寫眞日記

写真をメインにしております。3GB 2006/04/08

履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の2

2025-01-29 15:20:30 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の2
 
 その頃愛奴の人達が着て居た衣服は、壮年以下の者は我々和人と同じ服装をして居たのであったが、老人のそれは和人の人達が着て居た物よりも遥かに立派であったように思えた。と言うことは、その人達が着て居た衣服が、藍色の特殊な模様を織り込んだ布を、和人の言う「あっし」に仕立た物を着て居たからであった。
 
 婦人も五十年輩の人達の髪形は、男子のそれと同じように肩までの長髪であったが、婦人は紫色に染めた布で鉢巻をして居た。
 
 私は次郎の兄弟のことについては、詳かでは無いのであるが、彼の兄に八郎と言う、当時既に青年に近い人が居たことを覚えて居る。そしてその八郎と言う兄の他にも兄弟が居たようではあったが、私にはその人達の事は何も判って居ない。
 
 私の記憶に残って居るのは、始めて訪れた私を彼の両親が、昔ながらの服装でとても喜んで迎えてくれたことであった。
 
 「綾井さんのニシュパ(愛奴語であるが、旦那と言う意味)は未だ逢ったことが無いのだが、うちの次郎が皆からとても可愛がって貰って居るんだってなぁ。今日は俺のうちでもうんとご馳走をするから、次郎とゆっくり遊んで行ってくれや。」と彼の父は、とても嬉しそうに私の頭を撫でてくれた。
 
 その時次郎が横合から、「義章さん、お前馬に乗ったことあるか。」と突然私に呼びかけた。
 
 
 
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 「いや、俺はなぁ、馬には未だ一度も乗ったことが無いんだよ」と、私が答えると、「そうか、それなら今日は二人で馬に乗って遊ぶことにするか。」と、次郎が言ったのだが、次郎の家には厩舎らしい建物が見当らないので、私が「オイ、お前とこの馬は何処に居るんだ。」と不審に思って尋ねると、ニコッと笑った次郎が、「心配するな、俺について来い。」と言って次郎が、土間へ降りて表へ出たので、私はその後に続いた。
 
 次郎の家から更に五十米程行った所に、当時としては立派と言える構えをした柾葺の家の裏に在った厩舎に次郎は、私を連れて行った。
 
 「小石川のニシュパ、俺は次郎よ、役場のなぁ、綾井さんの子供がなぁ、今まで一度も馬に乗ったことが無いんだとよ。その子供がよ、今日俺の家さ遊びに来たんだよ、だからこれから一緒に乗って遊びたいんだ。農用の鹿毛を一寸貸してけれや。」と裏口から呼びかけると嘗ては、この辺の酋長であったと言う老人で小石川トノサムクと言う人が出て来て「そうか綾井さんのセカチ(愛奴語であって子供と言う意味)か、うちの鹿毛はおとなしい馬だけどなぁ、次郎、お前気をつけて行けよ、怪我をさすなよ。」と言いながら、馬の準備を整えてくれた。
 
 小石川老人が引き出して来た馬は、当時農用と一口に言って居たのだが、とても肥満体の馬であった。
 
 次郎は巧みな手練でたて髪を摑むと、いとも鮮かに馬上の人となったのだが、私には幾度試みても、馬の背には乗れなかった。
 
 そうした私を、傍で見て居た小石川老人が、見るに見かねて私を馬の背へ抱きあげてくれた。
 
 「次郎、お前はあまり馬を飛ばすなよ。それから綾井さんのセカチよ、お前はしっかり次郎に摑って居るんだぞ。」と私達二人に忠告をする小石川老人の声をあとに乗鞍の無い裸馬の背上の私達二人は、似湾沢に通ずる神社前からの道に出て鵡川川の渡船場へ、次郎が馬を進めた。
 
 
 
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 「次郎、お前何処へ行くつもりよ。」と言う私に、「似湾沢さ行って、イチゴ食ってくるべや。」といった次郎は、ポンと軽く馬腹を蹴った。
 
 馬は次郎の合図でパカポカと駆け出したが、馬に始めて乗った私は、馬の駆ける反動に、ポンポンポンと弾機仕掛の人形のように、馬の背で踊って今にも振落されそうなので、必死と次郎の腰にしがみついて居た。
 
 「オイ次郎、俺なんだか腰が落着かないので落ちそうな気がするんだが、大丈夫だろうか。」と言う私に「何を言って居るんだい。大丈夫だよ、俺もなあ始めはそうだったのだが、すぐ何とも無くなるよ。ビクビクしないで俺にしっかり摑まって居れよ。」と平気で言い放った彼は、「チッチッ」と口を鳴らしては、軽く馬腹を蹴って馬を追い続けた。
 
 「義章さん、それでは駄目だ、体全体の力を抜くんだ。そうして両足をだらりとするんだ。」
 
 「まだ駄目だ、もっと肩の力を抜けよ。」
 
 「足がまだ堅いぞ、俺のようにぶらん、ぶらんにすれよ。」と熱心に、適時に適切な注意を次郎がしてくれたので馬が、一粁程走った頃には、それまでポンポンと馬の背に尻が弾んで居た、私の馬上踊りは止んだ。
 
 「オイうまくなったなあ。もう大丈夫だぞ。馬に乗ることを覚えるのはなあ、裸馬から馴れるのが一番良いんだぜ、裸馬に乗れるようになったら鞍掛馬なんか屁の河童さ。」と次郎が言った時に私達は、渡船場に着いた。
 
 
 

履歴稿 北海道似湾編  古雑誌と次郎 7の1

2025-01-26 20:04:11 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 古雑誌と次郎 7の1
 
 私が、似湾村に移住をしてから、その頃までに親しくなった友人は、未だ五人程しか居なかったが、その中に私より学級が二学級遅れた四年生の中に、愛奴の少年で布施次郎と言う、とても親しい少年が居た。
 
 私達が北海道へ移住をした当時の制度では、愛奴の少年少女の入学年齢が、私達和人よりも一年遅れて居た。
 
 当時は、年齢の数え方が現在のそれとは違って生れた年を一年に数える制度であった、従って、八年目の春には皆入学をすることになって居た。
 
 併し、一月元旦から三月末日までに生まれた者は、早生れと称して七年目の春に入学をするようになって居た。従って、二月七日に生れた私は、七年目の春に入学をしたのだが、遅生れの次郎は和人よりも一年遅れると言う制度によって九年目に、入学をしたと言うことが、私よりも二学級遅らせて居たのであった。
 
 その次郎は、私によくこんなことを言って居た。
 
 「義章さん、お前は和人に生れて良かったなぁ、俺は愛奴だもんなぁ。いくら頑張っても和人にはなれないもんなぁ。」と、しょげて居た。併し彼は、ポチャポチャとした円顔の可愛い顔をした少年であって、当時濁音の発音が不明瞭であった愛奴族としては、立派にその発音の出来る少年であったので、方言の多い讃岐弁の私より遥かに聞き易い標準語であった。
 
 その当時の似湾村には、雑誌類を取扱って居る店が一軒も無かった。従って、生徒で雑誌を読んで居た者は、高松戸長の三男坊と私の二人きりであった。
 
 
 
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 その高松戸長の三男坊であった獅郎君とは、前にも書いたように同じ机で席を同じうして居たので、お互が話し合っては、彼の「少年倶楽部」と、私の「日本少年」を交換しあって読んだ。
 
 私の「日本少年」は、本社から直送、高松君の「少年倶楽部」は、当時札幌駅に勤務をして居た米治さんと言う長兄から送ってくるのであった。
 
 雑誌と言うものを全然知らない生徒達は、私と高松君が、授業の休み時間中に読んで居た雑誌には、これまた全然無関心であったが、次郎はとても読みたがって私達二人が、読んで居る傍に来ていつも覗き込んで居た。
 
 そうした次郎に或日、私が「次郎、お前雑誌欲しいか。」と言うと、彼は「ウン、俺も読みたいなぁ。」と言ったので、その翌日、古い雑誌を五冊、彼に与えるととても喜んだので、その後自分が読み終ったものを彼にやることにした。
 
 次郎は、私の家が下似湾の学校の傍に在った時には、一度も遊びに来なかったのだが、市街地の吏員住宅に移ってからは、時折り遊びに来るようになって居た。
 
 その日は私が薯蒔をした日曜日のことであったが、「もう帰って、晩ご飯の支度をしなければならないから、今日はこれ位にして、サア皆帰りましょう。」と母に促されて、私と弟の三人が家に帰ったのは、午后の四時頃であったが、その時私の帰りを次郎が表で待って居た。
 
 「次郎、お前いつ来たんよ。」と、私が呼びかけると「ウン、俺一時間位待ったわ。」と言って、次郎はニコッと笑ったが、私の肩から鍬を取って、裏の物置まで彼が持ってくれた。
 
 「オイ義章さん、畑はどの位作って居るのよ。」と次郎に言われて「ウン、二反歩位あるんだ。」と私は答えた。
 
 「そうかそんなにあるんか、それぢゃお前大変だなぁ。よし、そんなら俺これから毎日手伝ってやるから、畑をやる時学校で俺に話してくれや。」と彼は親切に言ってくれた。
 
 
 
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 そうした次郎は、その翌日から毎日のように私の畑仕事を手伝ってくれた。
 
 小出さんの畑も、一応種蒔が終った或日私は、始めて次郎の家に遊びに行ったのだが、次郎の家は郵便函の在る山岸さんの店の向って左の角を斜に曲って神社前から似湾沢への丁字路に抜けて居る細道を約五十米程行った右側に在って、同じ造りの葭葺の家が、四米程の間隔で五軒程が並んで居た中程の家で在った。
 
 家の構造は、四方を葭で囲った堀建造りであって、玄関を這入ると家の内部は、三尺程の土間から直接上がるようになって居る十畳敷程の部屋が一部屋しか無かった。そして玄関の這入口には三尺の板戸があったが、土間から部屋へは仕切りがして無かった。
 
 玄関を這入った正面に土間から直接土足で踏み込める、囲炉裏が在ってその囲炉裏で燃やす薪の煙に燻った天井の無い梁の全体が黒く光って居た。
 
 部屋には明り取りの窓が一つあったが、一、五米程の高い所に硝子の這入て居ない五十糎米平方程の物が、吹抜になって南側の中程に在るだけであった。
 
 家屋その物は、とても薄暗い家ではあったが、彼の家庭内の雰囲気は、とても明朗な明るい家であった。
 
 その当時愛奴の人達は、その年輩が五十歳以上と思われた男子は、肩までの長髪を伸して居て、鼻下から頬、そして顎に、長々と鬚を伸して居たものであった。
 
 また女の既婚者は、口唇の周辺と手首に一見毒々しいものに見える入墨をして居た。
 
 
 

履歴稿 北海道似湾編 私の弟と烏 6の6

2025-01-06 19:57:49 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
 
北海道似湾編 
 私の弟と烏 6の6
 
 当初私は、「弟の奴、何故あんなことをするのかな。」と不審に思って見詰めて居たのであったが、そうした私の目が其処に意外な光景を捕えたので、「ウム、そうだったのか。」と頷けたのであった、併しその光景があまりにも珍無類と言う滑稽なものであったので、私は思わず吹き出してしまった。
 
 その珍無類の光景と言うのは、「こん畜生」と弟に怒鳴られて居るのが、何んと二羽の烏では無かったか。
 
 私が、その根元に薯種を置いてある太い切株の上には、弟が背負って来たお握り弁当を包んだ風呂敷包が置いてあった。
 
 それが雌雄の烏であったかも知れないが、その風呂敷を二羽で喰えて、飛び去ろうとして居るのを弟が、柳の木で根元の大地を叩いては、怒鳴って居たのであった。
 
 
 
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 その頃の烏は、郷人に懐いて居た。何故そうした状態にあったかと言うことを今にして想えば、次の諸条件であったように想う。
 
 その当時の似湾村は、山と言う山がいづれを見ても、斧釿を知らない原始その儘の姿であった、そして平地にもそうした状態の森林がうっ蒼として所々に点在して居た時代であったから、川雑魚、木の実、虫類、小鳥の雛等を常食として居た烏は、その日その日の餌食に不自由をしなかったので、村の農作物を荒すと言うことが、至極稀であった。
 
 それはそうした実態がそうさせたものと思うが、私達少年が、烏を追っかけたり、その巣を襲って仔烏を捕えようとする行動を大人の人達は叱ったものであった。
 
 その日の弟が、直接烏を叩かないで足下の大地を叩いて怒鳴ったのもそうした郷人のありかたが、そうさせたと今の私は思って居るが、若しあの時の弟が、今一歩踏み込んで直接烏を叩いたならば、勿論烏は風呂敷包のお握り弁当を諦めて飛び去ったではあろうが、弟のような幼年期の子供が、よしんばそれが真剣なものであっても烏としては、一種の戯れでないかと思ったのではないかと、現在の私は想像をして居るのだが、弟の叩く柳の木が、切株の根元の大地に音をたてると、羽搏きはこそするが、烏は切株からは離れなかった。
 
 
 
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 二羽の烏が、切株から飛び立てなかった理由には、こうしたことがあったのでないかと現在の私は思って居る。それは二羽の烏が、風呂敷包を右と左から向い合って喰えて居たことであった。その結果として羽搏いても羽搏いてもお互いが引張合をすることになるので飛び上れなかったのだろうと言うことであるが、その時の光景は、弟が足下の大地を叩く、烏が切株の上でバタバタと羽搏く、弟がそうした烏をじっと見て居ると、烏が羽搏きを止めて風呂敷包を喰え直す、すると弟が、また足下の大地を叩く、と言う場面を繰返して居る弟と烏の握り飯争奪戦が、あまりにも滑稽であったので、「ハハハハハ」と私は腹を抱えて笑った。
 
 私の笑い声が、あまりにも大きかったので、それまで青豌豆の種蒔に専念して居た母が顔を上げて、弟と烏のそうした争いを見ると「シッ、シッ」と烏を追う口を鳴らしながら弟の傍へ、駆け寄って行った。
 
 それまで弟が、柳の木を振り廻して迫る、風呂敷包の争奪戦を繰返して居た烏は、子供の弟に大人の母が応援をすると言う、始めての経験に風呂敷包を諦めて仔烏が、待って居るであろう林の奥へ、「カア・カア」と啼きながら飛んで行った。
 



履歴稿 北海道似湾編 私の弟と烏 6の5

2025-01-06 19:26:53 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 6の5
 
 その時の弟と私の距離は、二十米程しか無かったのだが、周章た弟は、その途中で二、三度転倒をしたのだが彼は起きあがり、起きあがり、夢中になって駈け寄って来た。
 
 当時の似湾では、洋服を着て居る者と言えば、役場吏員の一部、教員・巡査・森林看守・医師と言った人達に限って居て、その他の者は凡てが和服に下駄履或は草鞋履と言った服装であった。
 
 従ってこの日の私達母子は当然和服姿であった。
 
 私と母は、高丈とも言ったし、また地下足袋とも言って居た物を履いて居たのだが、当時六歳の弟は下駄履の姿であった。
 
 弟は、最初に転倒した所で下駄を脱ぎ捨てて足袋裸足になって駈け寄って来たので、「義憲、裸足はいかん、危いから下駄を履いて来い。」と私が注意をするのを、彼は素直に「ウン」と頷いて、その場所へ駆けて行った。
 
 
 
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 私は、柳の木の馬に寄せる弟の関心を煽るのを目的に、下駄を履いて一心に駆け戻った彼を尻目に、「ヒヒン、ヒヒン」と嘶きを真似ながら、更に勢をつけて土塊を打砕いた儘になって居る、略正方形の一反歩に近い耕地を、或時は大きく、また或時は小さく、円を描いて巻乗の要領で駆け廻った。
 
 そうした私は、今は半ば泣声の弟が、「兄さんくれよ、馬をくれよ。」と喚きながら、幾度か転倒しながらも、必死になって追っかけて来た。
 
 そうした弟の喚き声に、豌豆を蒔く手を休めて腰を伸ばした母が、「義章、もうそんなにセカサないで、義憲にやりなさい。」と私を窘なめたので、潮時や良しと、「それ義憲」と弟を手招いて私は柳の木の馬から下りた。
 
 
 
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 そうした私は、「ハア、ハア、ハア」と息せき切って駆寄って来た弟にその柳の木の馬を手渡した。すると弟は「兄さん、有難う。」と軽く頭を下げたのだが、それまで嫌と言う程にセカされて居たのでいらだって居たものか、私の手からひったくるように捥ぎ取った、その柳の木の馬に早速打跨って堀返された畑に散らばって居た笹の根茎の中から鞭に手頃の物を一本拾うと、一鞭当てて「ヒヒン」と一声高々と嘶きを真似ると、大地を蹴って次弟は一目散に駆け出した。
 
 
 
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 それは、それから一時間程過ぎた時のことであったが、それまで「ヒヒン、ヒヒン」と喜こんで、駆け廻って居た弟が、「こらっ、こん畜生、この野郎。」と突然怒鳴り始めたので、そうした弟の怒号の声を聞いた私は、「義憲の奴、今度は何をやって遊んで居るのかな。」と薯蒔きの腰を伸して怒号する弟に目をやると、弟は馬齢薯の種を置いてある、一番大きい切株の側で、それまでは馬にして喜んで遊んで居た柳の木を振りかざして喚いて居たのであった。
 
 その時の私は、おかしなことをやる奴だなと思ったので、なおも弟の行動を見守って居ると、弟は振りかざした柳の木で足下の大地をバシッと叩いては、「こん畜生」と怒鳴って居るのであった。
 



履歴稿 北海道似湾編 私の弟とカラス 6の4

2024-12-30 14:43:10 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影 子
 
北海道似湾編
 私の弟とカラス 6の4
 
 弟は親子三人分のお握弁当と母が、その日蒔かんとする、青豌豆の種をグルグル巻にした風呂敷包を右肩から、左脇下に背負ってその右手には、空手籠を持って居た。
 
 「おお義憲、お前弁当持って来てくれたのか、重かっただろうが。」と頭を撫でてやると「ウン」と頷いて、とても得意そうであったのが、今に私の印象に残って居る。
 
 私の馬鈴薯蒔は、背負って来た叺の種薯を全部、鎌で二つに切って、それを弟が持って来た手籠に一ぱい入れては自分が、昨日作った畝筋に約三十糎程の間隔に一個づつ、ポトンポトンと落しては、両足で交互に土をかけて行くのであった。
 
 また母は、私が薯を蒔くために畝筋を切った、最後の筋から約五十糎程間隔をおいて、自分が蒔かんとする青豌豆の畝筋を数十本切って種を蒔くのであったが、弟は原始林に隣った開墾畑で独りぼっちにされたのがつまらなかったのか、私の側へ来てブツブツ呟きながら未だ種薯を落としていない畝筋を私に真似て、両足で埋めるので、「駄目だっ、義憲。」と私が叱っても、弟は「何を言って居るんだ、こんなこと俺にだって出来るぜ。」と言った。寧ろ誇らし気な態度になって益々馬力をかけるので、私は閉口した。
 
 
 
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 私が、あまりにも連続的に𠮟るので、セッセッと青豌豆の畝筋を切って居た母が、「義憲、邪魔をしたらいかんよ、こっちへお出で。」と手招きをすると弟は喜んで、早速母の方へ走って行ったので、私はホッとしたのだが、しばらくすると、「義則、駄目っ。」としきりに叱る母の声が聞こえて来るので、「義憲の奴、困った奴だが一体何をやって居るんだ。」と目を弟に注ぐと彼は、折角母が切った畝筋を私の傍でやったと同じようにまたまた両足で、得意そうに埋めて居た。
 
 ホントに困った奴だなぁ。」と私は舌打をしたのだが、その途端、私に素晴らしい名案が浮かんだ。
 
 その案名と言うのは、弟が私達母子から離れて独りで遊べる物を作ってやることであった。
 
 何を作ってやろうかなと思いながら四辺を見廻した私の目が、私達の畑の東端を流れている小沢の芽に、芽ぶくれて居る数本の柳の木を捕えた。
 
 「そうだ。」柳の木で、一つ馬を作ってやろうと思いついた私は、早速その根元の直径が二糎程ある手頃の柳の木を一本切りとった。
 
 その柳の木の長さは、全長二米程の物であって、切り口から1米程のところまでには枝が無かった。
 
 
 
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 私は、切り口の太い方を馬の頭部に見たてて、その柳の木に打跨った。そしてヒヒン、ヒヒンと馬の嘶きを真似ながら、畝筋未だ切って無い畑を、跳ねながら走り出した。
 
 その当時の似湾には、未だ自転車と言う物が一台も無かった時代であったから往来は、凡て徒歩と馬によって居たので、私達の住んで居る住宅前の道路には、終日乗馬を駈ける人が絶え無かった。
 
 弟は、そうした乗馬を駈ける姿に憧憬を抱いて居たものか手頃の棒切に打ち跨っては、チッ、チッ、チッと口を鳴らして騎乗者が、馬に発進を促す舌打ちを真似て、ヒヒン、ヒヒンと、これまた馬の嘶きを真似て、吏員住宅の前を駆け廻るのが、独り遊びをする時の弟が、最も得意とする行動であった。
 
 私はこうした弟の日常に着想して、母と私の畑仕事を妨げる弟を遠ざけるのには、乗馬の遊びをさせるのが最適と思ったので、柳の木の馬を作ったのであったが、この着想は見事に成功した。
 
 弟は、私の「ヒヒン」と真似た馬の嘶きを耳にするとその視線にそうした私を捕えて、「兄さんおくれよ、兄さんおくれよ」と喚きながら私の傍へ駈寄って来た。
 


履歴稿 北海道似湾編  私の弟と烏 6の3

2024-12-25 20:08:58 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 6の3
 
 私の母は、胃弱と言う持病があったので、いつも薬湯に親しんで居た人であったから、過激な労働は出来ない人であった。従って、住宅の付近にある家庭菜園を耕作するのが精一杯であったのだから、小出さんからの借地は、主として私が耕作をしなければならなかった。
 
 私の家では、借地の畑を小出さんの畑と呼んで居たが、私は学校から帰ると、早速その小出さんの畑へ鍬・鎌・鉈等の器具を持って第一日の火曜から土曜日までの五日間を、種を蒔くための整地に通った。
 
 私の整地作業第一日は、開墾をする時に伐採をした柴木や掘り起した木の根株、それに切り払った枝木を、人力ではとても掘り起せないので、其の儘に残してある巨木の根株を芯にして、その周囲に積重ねてあったものを焼きつくすことであった。
 
 芯になって燃やされる切株は、その直径が六、七十糎程あった物が五箇所に選ばれて居た。
 
 私は、枯草を狩集めて積累ねてある柴木や木の根の隙間へ風上の方から詰込んで、次々と五箇所を廻って火をつけた。
 
 
 
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 その日の風は微風ではあったが、柴木を始め木その物が乾燥しきって居たので、火は忽ち勢い良く燃え広がって真紅の炎が高々と五箇所の切株から揚がった。
 
 「よしっ、これならうまく燃えるぞ。」と、熾んに火の手を揚げる五箇所の火を次々と見廻った私は、その日の黄昏時まで笹の根を深く堀返してある新地の土塊を畑地の南端から、鍬を振るって砕き耕したのだが、その面積は、僅か二十坪程のものにしか過ぎなかった。
 
 私はその翌日も、学校から帰ると早速小出さんの畑に出かけたのであったが、昨日燃やした五箇所の火は既に燃えつきて居た、併し、柴木や木の根の類が未だ炭火のように赫赫として居た。そして芯にされた切株はその外側が黒く焦げてブスブスと燻って居た。
 
 私は昨日に引続いて、矢張黄昏時までの時間を懸命に土塊砕きをやったのであったが、昨日の経験が要領に馴れさせたので、その日は、約半反歩程の成果をあげることが出来た。
 
 明けて、木曜日の第三日目には、火は全く消えて、黒く燻んだ切株の周囲を柴木類の灰が、白く取り巻いて居た。
 
 
 
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 その日の土塊砕きは、二日間の熟練が能率をあげて、翌四日目には全部完了と言う素晴しい成績であった。
 
 五日目の土曜日には、昨日までに砕いた土を均して馬鈴薯を蒔く部分の畝筋を切った。
 
 ”私の弟と烏”それは、六日目の日曜日のことであったが、次弟の義憲がこの小出さんの畑で二羽の烏と、珍無類の滑稽を演じたことであった。
 
 その日の朝私が、叺に入れた半俵程の種馬鈴薯を背負って、鍬を持とうとした時に母が、「今日はお天気も良いし家にはお父さんが居るのだから、お母さんも手伝ってあげる。その鍬はお母さんが持って行くから置いて行きなさい。」と言ってくれたので、私はその鍬を残して途中では、三度ほど休んだが、三十分程で小出さんの畑に行き着いた。
 
 畑に行き着いた私が、畑の中央部に在った直径が一米程もある楢の巨木の切株に、種馬鈴薯の叺を卸してホッとした時に、「義章、重かったじゃろうなぁ。」と二丁の鍬を肩にした母が、弟を伴って畑に来着いた。
 
 

履歴稿 北海道似湾編 私の弟と烏 6の2

2024-12-25 19:33:07 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 6の2
 
 当時、似湾村としての一般的な食生活は、米と麦或は稲黍・粟・稗・馬鈴薯・南瓜等を混合したものが主食であって、馬鈴薯・生唐黍・南瓜の類は、その季節ともなれば塩煮にして、一食は必ず食したものであった。
 
 私の家もこの二種類混合の主食と、代用食の馬鈴薯・生唐黍・南瓜等の塩煮を食べて生活をした家庭であったが、住宅の周辺に割当られた家庭菜園の収穫だけでは補い得なかったので、他に二反歩の借地をすることになった。
 
 借地は、私達の住んで居た吏員住宅から道路(私は鵡川から生べつそして似湾へ移住をするまでも、それから以後も自分達が歩いたこの道を、本稿では今まで道路と書いて居るが、胆振の国の鵡川から十勝の国へ抜けて居る道であったから、或いは当時の国道と称するものであったやも知れんと思うので、爾後は此の道路を国道と書くことにする)をT字路から左へ曲って一粁程を行った所の左側に、その家の造作はあまり立派では無かったが、当時の似湾村としては、家構えの広い小出さんと言う人の土地であって、前年開墾したばかりの新地であった。
 
 
 
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 現在では、苫小牧の王子製紙山林部は冬期間に鵡川川の上流地域に在る、会社の所有林から造材をした原料丸太を、柳芽が告げる北海道の春の水に乗せて国鉄富内線の穂別駅までを流送搬出をして、其処から鉄道輸送をして居るのであるが、当時は、太平洋へ注ぐ川口の在る鵡川村の本村までを、流送することによって搬出をして、其処から専用線であった軽便鉄道によって苫小牧まで運んだものであった。
 
 従って、上流地域から川口までの要所要所に、流送の作業をする人夫の宿泊所が必要であった。
 
 併し、その流送搬出は、六十日程度の短期間であったので、その流送作業の過程に於て、終点の鵡川までの途中に於て似湾村が一泊をする地点であったのだが、数隊に分れたその流送人夫の人達が一日間隔で川を原木と共に下って来て似湾に一泊をするのであった。
 
 併し、そうした人達の人数が、時としては百人に近い人数となることもあるので、一般の旅館営業をして居る人達としては、そうした季節的な多人数を収容する設備は、とても出来なかったので、小出さんのような大きな構をした家を借りて居たようであった。
 
 
 
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 私の家で借りた畑は、その小出さんの家から更に北へ百米程行った所に幅が二米程の小沢があって、その小沢の土橋を渡ると左へ曲る小路があった。
 
 小沢の流れは、この小路に添って十米程行った所から左へ曲って居て、私達の借地の畑はその右側に在った。
 
 畑は昨年開墾したばかりの処女地であったので、その直径が五十糎程の物から八十糎程もある樹木の切株が、此処や彼処に十数本点在して居て、切り倒して枝を払った直径六十糎内外と言う桂の丸太が、其処此処に集積されてあった。
 
 私達の家が、下似湾から市街地の吏員住宅へ引越たので、兄は郵便局へ遠くなったのだが、私は学校の授業が終わった足をその儘郵便局へ立寄って、開函用の鍵と鞄を持って帰えることを許されたので、翌朝の八時に開函した郵便函の郵便物を局に引継いで登校をすれば良かったので、寧ろ都合が良くなった。
 
 併し、日曜日と祭日には、引継を了えた空鞄を持って帰らなければならなかったので、以前とは反対の行程ではあったが、市街地と下似湾間を、矢張り往復をしなければならなかった。
 
 またその頃は、勤務の馴れた兄が、一人で配達をして午后の五時頃には毎日帰って来て居たので、私の手伝はもう必要が無くなって居た。
 
 
 

履歴稿 北海道似湾編  私の弟と烏 6の1

2024-12-05 16:19:26 | 履歴稿
IMGR083-21
 
履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 私の弟と烏 6の1
 
 大正元年の秋に着工をした戸長役場の新庁舎と吏員住宅が落成したのは、私が尋常科の六年に進級をした大正二年の五月頃であったように覚えて居るのだが、それまで市街地の中程にあった寺の説教場を改造して仮の庁舎に当てて居た役場が、新庁舎へ移転をするのと同時に私達の家も木の香新しい吏員住宅に、移り住むことになった。
 
 新装になった戸長役場は、仮庁舎の時と同じように道路の西側にあって、それまで市街地の北端であった駅逓所から更に、百米程を北上した所に、約七、八十米の四方へ木柵と排水溝を巡らして道路側の排水溝から約十米程行った所が、新庁舎の玄関になって居た。
 
 その建築面積については詳で無いが、排水溝の架橋、そして門柱、木柵、玄関等の構造が、少年の私の目にはとても立派に見えた。
 
 
 
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 吏員住宅のうち、戸長の住宅は庁舎の北側に併設されて居た。
 
 私達の住む一般吏員の住宅は、北側の木柵と排水溝を超えて、各戸が同じ間数で四戸一連の一棟が北に延びて居て高橋、綾井、藤川、田中と言う順序に配分されたので、私達の家は、南端から二軒目であった。
 
 それが敷地と言うものであったか、用地と言うものであったか、と言うことは判って居ないが、相当広い面積であったので、住宅の表と裏には、可成りの空地が在って、その空地を吏員住宅の家族が、それぞれ耕作をして家庭菜園にして居た。
 
 一般吏員の住宅と道路との関係は、私の家の前から幅が一米程で直線に十米程行って道路と丁字路になって居る路が在った、そして一連になって居る住宅の前は、家庭菜園までに二米程の空地を残してお互いが往来をして居た。
 
 住宅の間取りは、一間の玄関を這入ると三尺の土間があって、其処から仕切の障子が無い板の間の茶の間とその奥が、一坪の台所であって、その右側に在る縦に一間、幅が三尺の土間から勝手口となって居た。
 
 
 
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 また座敷は、茶の間から左に這入ると左右に、六畳間が二部屋あって左側の部屋には、表側に面して一間の出窓があった。そうして、此の部屋を座敷と称して父の居室にして居た。
 
 右側の部屋には、窓も無ければ茶の間との出入も一枚の襖で仕切られて居た。
 
 住宅の裏側は、西側の山脈の山裾を流れて居る鵡川川の本流までが一望の平地であった、そして表側は道路から三十米程行った所を、東側の山脈が南へ走って居た。
 
 役場の木柵内にも釣瓶井戸が一つ在ったのだが、飲料不適なので、飲料水は役場の正門前に新築をして、市街地の中程の所から移転をして来た田辺良作さんと言う理髪店の主人が、裏の山裾に湧清水を利用して枠を入れた井戸から貰い水をして居た。
 
 この貰い水を汲んでくる役は私の担当であったから、十八立入りの石油空缶二箇に握把をつけた手製の容器に汲んでは、毎日三回天ビン棒で担いだ。
 
 
 

履歴稿 北海道似湾編  吹雪 10の10

2024-11-28 16:51:51 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の10
 
 そうだ、俺達は睡ったんだなと思うと、私はこの逓送の馬橇が人馬共に神々しくさえ思えた。
 
 そうした私は、嘗て秋の椎茸狩の日に「北海道では、吹雪で人が死ぬんだぞ。」と言った保君の言葉を、「うん、うん」と頷きながらも内心何を言うのだと聞き流して居た、その日のことを思い出して、保君、すまなかったなぁ。と言う感情が私の胸を締めつけた。
 
 橇の上は、先頭が馭者の逓送夫。その次に兄、そして私が最後部であった。
 
 馭者は、敢然と吹雪に立向って馬を追ったが、私達は、馭者が言うが儘に後向になって座って居た。
 
 中杵臼から湯の沢、湯の沢から峠と、烈風に荒ぶ吹雪の中をかいくぐって馬橇は、似湾へ、似湾へと、驀進に驀進を続けた。
 
 
 
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 村境の峠を超えても橇は吹雪の真向を突いて驀進を続けたが、輓馬と馭者が楯になるので、私達兄弟には吹雪は直接襲わなかったが、馬橇の両側から烈風に捲き揚げる新雪が、私達の目と言わず、口と言わず、全身に渦を巻いて乱舞するので、その苦痛は、徒歩の時よりも遙かに苦しいものがあったが、そのたて髪を、振り立て、振り立て、首の鈴輪の音も高らかに雪を蹴って、嘶きながら吹雪の平野を驀進する光景は、壮烈そのものであって、馬橇から降り落されまいと懸命にしがみついて居た私ではあったが、その血は沸いて肉は踊って居た。
 
 郵便局では、帰りの遅い私達を気づかって、局長さんも居残って居たが、私達の顔を見ると「オオ帰って来たか、大吹雪で酷い目に逢ったろう、さぁ引継は良いから早く帰りなさい。」と言ってくれたので、各所の郵便函から集めて来た郵便物の這入って居る鞄を閑一さんに渡して、早々に郵便局を出たのだが、家に帰った時刻は、午后の十一時を既に過ぎて居た。
 
 全身雪達磨になって玄関を這入った兄弟が、「只今」と茶の間の灯へ声をかけると、その帰りを待って居た母が、「おお、帰ったか、酷かっただろうにご苦労さんじゃったなあ。」と言って、おろおろとした声で玄関まで出迎えてくれたが、その時の母は泣いて居たのではないかと、私は今思って居る。
 
 


履歴稿 北海道似湾編  吹雪 10の9

2024-11-28 16:37:12 | 履歴稿
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履 歴 稿  紫 影子
 
北海道似湾編
 吹雪 10の9
 
 その時の私は、恰も無神経のような状態になって居たので、寒い、冷い、餓じい、と言った類の苦痛は、少しも感じなかったものであったが、執拗に襲って来る睡魔に、ウツラウツラして居たものであったから、兄と弁当の状景を只ぼんやりと傍観して居たものであった。
 
 勿論その時の私には、弁当を食べようと言った意思は全然無かった。
 
 それからどれ程の時が過ぎたのか、と言うことは判らなかったのだが、それまで私が忘れて居た、寒い、冷たい、餓じい、と言った諸々の感覚が蘇って仮睡の状態であった私の神経を呼び起した。
 
 と、それはその時であった。ヒヒン、ヒヒンと嘶きながら路上を駈ける馬の鈴の音が、チャリンチャリンと強弱長短の尺度を瞬秒の間合に変えて、荒れ狂う烈風と吹雪をついて或時は近く、また或時は遠く微かに、生べつの方向から聞えてきた。
 
 
 
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 私は、咄嗟にそれが似湾と鵡川の郵便局の間を往復して居る逓送の馬橇であると感じたので、「そうだ、あの音は屹度逓送の馬橇だ、そしたら俺達はそれに乗せて貰って帰ろう。」と思って傍で、仮睡の状態になって居る兄を激しく揺り起こした。
 
 私達は、急いで荒狂う吹雪の路傍に出た。
 
 ヒヒン、ブルンブルンと、吹雪に怒る馬の嘶と、チャリンチャリンと鳴る鈴の音にまじって、コツ、コツ、コツと馬橇の側面を叩いて鳴る梶棒の音も次第に近づいて、やがてその全体が、吹雪の中に黒く浮んで見えた時には、「嬉しい」と言う、言葉だけではとても言い表わせないものが、涙となって私の頰を流れた。
 
 「そうか、お前達は睡ったのか、フウン、併し危なかったぞ。吹雪で死ぬ人はなぁ、皆そう言うふうに睡った者がその儘凍れ死ぬんだぞ。」と私達を馬橇に乗せてから、一部始終を聞き出した逓送夫が、凍死をする者の原因を教えてくれた。
 
 ”睡った者が凍死をする”それまでの私は、生きるとか死ぬと言うことには、全然無関心であったのだが、この逓送夫の言葉を聞いて今更のように、慄然としたものであった。